なんども何度も人だかりと鏡の前を行き来する。ふと感じる事がある。鏡の前で髪を整えようとしている自分に「この時間はなんだろう。この青春はなんだろう。これを続けた先に何があるのだろう。何もないんじゃないか。」「まさか永遠に続けていくわけはない。こんな空費するようなことを続けるような人間ではないはずだ。」しかしどうだろう、今までさすがにここまでには一念発起しているだろうから今は大丈夫と過ごしていた結果のいま、何も俺はしていない、何も変わっていない。ただ自分の価値を鏡の前と人だかりを往復することで確かめているだけなのだ、昔から何も変わっていないのだ。週末に自分の価値を確認しに行く。それを何年も続けている。それ以外はほとんど人との交流をしていないと言っていい。これはなんだろう。このぬるりとした安心感と漠然としたこれじゃない感、不安としてすら認識できないこれじゃない感。どこからか人が通らない道に迷い込んで、いや、というより地下に潜り込んだというのだろうか。周りに人たち、同級生たちが見える、歩いている、不覚ではないにしろ心が通じ合っている、”会話”をしている。俺はそれを見ているだけなのだ。迷い込んでいるのではない。透明なトンネルの中をただ歩いて、周りの人を見ているだけなのだ。いつからかこうなった。人との交流ができなくなった。会話ができなくなった。恐ろしくなった。透明なトンネルが周りにできてしまった。いくら勉強に身を投じたと言っても、中学の頃は受験が終わり卒業するまで人との交流ができていた。会話をしていた。人に話しかけ、意思を通じ合うことに苦を感じなかった。生活の中に、日常の中に、毎日の中にあって当然のものだった。それがいつからか消えてしまった。恐ろしいものに変わってしまった。中学校、3年生。勉強ができるようになっていた。それまで虐げられていた反動だろうか、周りの人間が格下に見えた。偉そうにしているが、こんな問題を解けないだろう、こんな世界が教科書を遥か離れた先に広がっているなど露ほども知らないだろうと得意になっていた。学校では優等生、おすまし、気取り、冷静沈着、開成高校の田村さんをイメージするとわかりやすいが、とにかくそういう人として振る舞った、なりきっていた。今にして思えば、馬鹿にさせる隙を作らないようにしていた側面もあっただろう。その後も普通の人に思われたい、馬鹿にされたくない、普通に扱われたい、尊重されたい、さらに進んでチヤホヤされたいと思っていたことは確かである。自分の性質にはないキャラを演じる、成りきるという点では、中学以前にも同じ事があった。小学校5年生、まっしーたちのようなイケてる風になりたかった。5年生のクラスは地味な人が多かったから自分が先頭に立ってチヤホヤされるだろうと振る舞った。これは失敗に終わった。なんでお前に言われないといけないんだ?なんでお前が?俺は周りの人が無条件に尊敬したり、したがったり、憧れたりする存在ではなかったのだ。小学校6年生、デスノートのL。どうしようもなく憧れた。かっこよかった。映画を見るたびに体が震えた。なんども見返した。その頃から遊ぶ友達も変わった。今までのグループからまっしーたちのグループと遊ぶようになった。クラスでは太一とつるむようになった。それまでのグループで馬鹿にされたり、軽んじられたりしていたからそれを見返したかったのだろうか、格が違うと示したかったのだろうか。肩で風を切って歩く気持ちだった。サッカーの練習の日、水曜日だったろうか。まっしーたちのグループと遊んでから、こまっちゃん、やまと一緒に時間ギリギリにグラウンドに行った。この優越感も当時から今まで折に触れて思い出すものの一つである。教室ではLになりきった。セリフを真似した。クラスの靴をごちゃ混ぜにして混乱させたつもりになっていた。自分が解決すると手を挙げた。頭が良くなった気がした。少なくとも頭がいいと思われていると満足した。自分がかっこいいと思う誰かのポーズを借りた。自分が良いと思うグループの腕章を借りた。そこにはいつも自分はお前らとは違うんだという優越感があった。今思えばその優越感も、誰かの借り物によって感じたものである以上、何か自分とは違うという不安から自発的に、またはやってはならないこととお叱りを受けて強制的にやめなければならなかった。中学生になった。1年生、増子の笑い方に魅力を感じたのはなんだったのだろう。あの高笑い、それを聞いた時の周りの女子数人の反応。「やばい」「きもい」みんな眉をひそめていた。しかし本当に嫌な気持ちだけだっただろうか。どこか笑いはなかったか?少なくとも常軌を逸脱したものに対する笑いがどこかにあったと思う。俺はそれに加えてどこか尊敬を感じた。逸脱していることへの尊敬を感じた。俺もやばいと思われたい。逸脱していると思われたい。眉をひそめながらも起こる笑いを浴びたい。そう思ったのかもしれないと今は思う。間もなく俺も同じ高笑いをするようになった。クラスのみんなは眉をひそめた。部活の同級生は軽蔑の目をした。しかしどの場合も笑があった。逸脱したものへの笑いがあった。高笑いをした時、さらに先を進んで奇声を発したり、人の目につくいたずらをした時、俺はいつも愉快だった。あいつは逸脱しているという周りからの視線を噛み締めた。おそらく本当に周りの人は俺のことを逸脱していると思っていたとは思うが、俺が頭の中で噛み締めた周りからの「あいつは逸脱している」という視線は俺が頭の中で勝手に想像して作り上げていたものである部分もかなりある。自分が良いと思ったことを今度は自分が周りの人にして見せて、自分が同じだけの熱い視線を受けているという現実とも空想とも取れない想像に酔いしれていたのだろう。もはや周りがどう思うかは関係なかったのかもしれない。ただ自分が良いと思うことをした、そして同じだけ良いと思われているのだと一人満足した。こうしてみると、俺は昔から、自分がいいと思うもの、より進んでいうと尊敬するもの、憧れるもの、もっと詳しくそしてもっと汚らしくいえば、優越感を感じられそうなもの、そう、この自分が優越感を感じられそうなもののポーズなり腕章なり言動なりを借りることによって一人優越感を周りに対して感じ、一人満足していたのだ。もちろん、俺が優越感を感じるように、周りの人も多少はすごいなかっこいいなと思うことはあっただろう。同じように、自分がかっこいいな、すごいなと感じるように、多少はかっこいい、すごいと感じていただろう。そういう多少の、もしくは大勢いる中の少数が示す劣等感、尊敬が実際あり、自分を満足させていたことも確かである。思い出せばさらにあった。小学校3年生の時である。名探偵コナン、黒づくめの男たちに憧れた。どうしようもなくかっこよかった。彼らは万能のように思われた。なんでも知っているように思われた。また誰からも恐れられていた。自分が彼らに対して抱く熱心な尊敬、これを自分も受けたかったのだろう。「呪いの手紙」というのを3年生のクラスで配ったことがある。これを受け取った人が自分が初めてアニメの中でそれを見た時と同じように、面白い、またどこか意味深な怖さがあるところを感じるだろうという優越感か何かが胸の奥を高鳴らせた。胸を焼いたとも言える。あの優越感を感じたり、面白いと思われたり、逸脱していると思われていると大勢の前で一人噛み締めている時の胸を焼く感覚、あれが欲しくて自分は何か自分とは違うというものを借りているのだろう。ずうっとそうだ。小学校の昔の頃からずうっと。
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