ベージュのコートを着た男

浅谷童夏

小説

5,977文字

これまで合評会の公募にブラックジョーク的なもの、純愛ものを書きましたが、今度はホラーを一つ書いてみました。電車の中でトラブルになった相手に尾行される話です。

ベージュのコートを着た男

拝島行き準急の中は、まばらに立つ人がいる程度の混み具合だった。

僕は吊り革を右手で握って立っていた。燻んだ色をしたモルタル壁のアパート、大小様々の四角い看板、赤く明滅する踏切、電柱と電柱の間を繋ぐ黒い電線。夕暮れのフィルターがかかった晩秋の薄暗い景色が、窓の外を流れてゆく。

僕の左隣には少しくたびれたシャツに地味なネクタイを締め、ベージュのコートを着た、背の高い男が立っていた。無表情で、中空をぼんやり眺めているような、弛緩した表情をしていた。

高校時代の担任だったN先生に少し似てるな、と思った。生真面目で温厚で、しかし時々皮肉混じりの冗談をぼそりと呟く先生だった。

高田馬場から二つ三つ駅を過ぎたあたりだったろうか、ガタンと小さく電車が揺れ、ぼんやりしていた僕はよろめいて、隣の男の足を踏んでしまった。

僕は心もち男の方に身体を向けて、すいません、と小声で謝り、小さく頭を下げた。
男は全く無反応だった。黙って前を向いて立っている。

僕の声は呟きに近かったと思うし、頭の下げ方も曖昧だったかもしれない。だから向こうも、こちらの謝罪に気がつかなかったのだろう、と思った。

僕は横目で男の顔を改めて見た。あばたが多く眉が薄い。もう一度きちんと謝ろうかとも思ったが、何となくタイミングを逸してしまった。先程は弛緩した無表情に見えたが、よく見ると男は無表情というより、感情を遮断し、他人との関わりを拒否しているかのように思えた。それで何だか気後れしたせいもある。

しばらくして、そう、三十秒くらい経過してから、不意に左足に鈍い痛みを感じた。

隣の男の革靴が、僕のスニーカーを踏んだのだった。それも体重をかけてゆっくりと。別に電車が揺れた訳でもない。明らかにわざとだ。さっき僕に踏まれた仕返しということなのだろう。

何するんだよ、と僕は背の高い男を見上げながら、小声で、しかし今度ははっきりと口に出して男に抗議した。男は黙って前を向いたままだった。

男は痩せてはいるが僕よりも十センチほどは背が高い。いざ喧嘩になったら、こいつは自分が勝つと考えているのではないか。何故そう感じたのかというと、僕を完全に無視しながらも、その男は口元に微かな笑みを浮かべていたからだ。

僕は男を睨みつけた。えも言われぬ気味悪さを感じたが、それを怒りが上回った。

たかが足を踏まれただけではないか、それに、そもそも最初に自分が相手を踏んだのが悪いんだろ、という内心の理性の声を、男の顔に張り付いている薄笑いがかき消した。男は、口を引き結んだまま口角を微妙に上げていた。

挑発してやがるのかこいつ、と思った。

相手よりも僕は若い。本気で殴り合うような喧嘩などこれまでしたことはないが、中学生時代クラスの腕相撲で敵なしだった腕力には多少の自信がない訳でもなかった。それに、当時の僕は、職場の人間関係のトラブルに追い詰められて、気分がささくれ立っていた。

――わざとやってんじゃねぇよ。

僕は男に向かってそう言った。

男は相変わらずあばた顔に薄笑いを浮かべたまま黙っていた。

鷺ノ宮で電車がとまった。僕の降車駅だ。隣の男が降りる気配はない。

僕はその時、本当にどうかしていたと思う。

もし男の手が伸びてきて僕の襟首を掴んだら…そうなったらその手を振り解いて降りるまでだ。相手が離さなかったら?その時は相手の手を捻ってでも振り解けばいい。それでも離さなければ相手ごとホームに引きずり出してやろう。その後は…なるようにしかならないだろう。でも周囲の誰かが騒ぎを止めに介入してくれるのではないか。

停まった電車の中で、瞬時にそんな計算を巡らしてから、僕はそれまでの人生で、決して取ったことのない類の、そしてこれからもそんなことは絶対にしないであろう行動をした。

降りぎわ、僕は、足を伸ばして、体重をかけて男の革靴を強く踏み返したのだった。

相手の手は伸びて来なかった。

男の脇をすり抜け、僕はそのまま電車を降りてホームに立った。男は吊り革に掴まったまま動かなかった。そして、相変わらずの薄笑い顔で、窓の外に視線を向けていた。

僕は気持ちの悪い安堵感に包まれながら階段に向かってホームを歩いた。やられたらやりかえせ、だバーカ、と内心で嘯きながら。と同時に、何という大人気ないことをしてんだよ、という自己嫌悪が湧き上がってきた。足踏んで、踏み返されて、更に踏み返すなんて、小学生のガキかよ、と。しかしそこには確かに、ざまあみろ、勝った、という子供じみた高揚感が混ざってもいた。

発車のチャイムが鳴り、ドアが閉まり、電車は動きはじめた。モーターが唸り、低く重いリズムを刻みながら、電車はホームを出ていった。

改札階への階段を上りながら、僕は何気なく後ろを振り返った。そして一瞬足がすくんだ。
ベージュのコートの、あの男がホームをゆっくり階段の方に歩いて来ていた。彼が僕の方を見ているかどうかは,少し距離があったのでよくわからなかった。

僕は動揺を悟られないように、歩調を変えずに階段を上りきり、改札を抜け、左右に分かれる通路を左に曲がった。それとなく改札の方を見ると、男が階段の上に姿を現したところだった。
階段を降り駅を出た。踏切のある賑やかな商店街とは反対側の、住宅街に通じる南口を出て、左に行って五分ほどのところに、僕の住んでいるアパートがある。小川に沿っている小径は人通りも少なく、道沿いには駐輪場と不動産屋以外、これといって何もない。その川べりの道に出たところで、階段の上を見上げた。

ベージュのコートが階段の上に見えた。

男に後をつけられていると確信した。

駐輪場の横を過ぎてから僕は歩調を速めた。走り出したいのを我慢して早歩きで川べりの道を歩き、橋を過ぎて左に曲がる手前で、出来るだけさりげなく後ろを見た。男との距離はほとんど変わっていなかった。男もまた、僕に合わせて歩調を速めていることが明らかだった、

左折すると、立ち並ぶ住宅に視界を遮られて川べりの道からはこちらは見えなくなる。

僕は小走りになった。二番目の辻を右折してからは速度を上げて走った。後ろはもう見なかった。手押し車を押している老婦人とすれ違った。彼女が訝し気に僕を一瞥した。右に曲がり、角を二つ折れ、狭い路地を抜けて、再び川べりの道に出た。

男はいなかった。

歩いてきた同じ道を今度は駅の方へと戻る。犬を散歩させている坊主頭の少年を早足で追い抜き、橋のところまで来たところで、我慢出来なくなりもう一度後ろを振り返った。

やはり、男はいなかった。

鷺ノ宮の住宅街の錯綜する路地を、僕の姿を探して彷徨しているベージュのコート姿が目に浮かんだ。

あの男は頭がおかしかったのだろうか。

自分のアパートに帰る気には到底なれなかった。男をまいたと思われる地点から、僕のアパートまでは百メートルも離れていない。万一戻ってきた男と鉢合わせなどしたら、いや、男がもし路地の交差点のところで待ち伏せでもしていたら。

僕は駅の階段の入り口まで戻った。階段を上って、そのまま反対側の階段を下りて、踏切を越えて続く商店街に抜けるつもりだった。

電車の中で男に向かって凄んでみせたときの威勢も、男の足を踏み返して電車を降りた後の高揚感も、すっかりどこかに消し飛んでいた。ほおら、やっぱり碌な目にあわなかっただろ?自分の柄でもないことをしたからだよ、意気地なしのくせに。もう一人の僕が自分を嘲笑していた。怯えている自分がどうにも惨めで腹立たしかった。

階段を上りかけたその時、僕の視界の片隅に、川べりの道をこちらに向かって歩いてくるベージュのコート姿が見えた。男との距離は三十メートルも無かった。自分の心臓の鼓動がはっきりと聞こえた。いつの間に僕の姿を見つけて距離を縮めてきたのか、全く分からなかった。犬連れの少年の坊主頭が、ずっと後ろに小さく見える。川沿いの道にでる直前のところで男が僕を見つけて、そこからあの少年を追い越して来たのだとしたら、相当本気でダッシュして走らないと無理だろう。だが男はあくまで歩いているようにしか見えなかったし、息を荒げている様子もなかった。

彼の顔を見る勇気はもはや僕には無かった。彼はまだ、あの薄笑いを浮かべているのだろうか。さっき電車の中で間近に目にしたその薄笑いの中に、何故か憐憫が混ざっているように一瞬感じたのを思い出した。彼は内心で、僕に向かってこう呟いていたのではないか。

これから自分がどういう目に遭うのか知りもせずに、と。

そもそもあれは人なのだろうか。ひょっとしたら人外、鬼なのではないか。

僕は階段を二段飛ばしで上り、改札を右手に見ながら通路を人を避けて突っ切り、反対側の北口の出口に駆け降りた。

男は下り階段を降り始めた頃合いだろう。男はきっと執念深く何処までも追ってくる。逃げ切れる気がしなかった。

その時、通りを挟んだ駅前の交番が目に入った。

ドアを開けて中に入り、振り返ってドアを閉めながら、外を見た。交番の中は無人だった。 しかし僕はもうそこに居るしかなかった。

陽も落ちて周囲はすっかり暗くなっていた。

階段を降りたところ、闇を切り取る光の中に背の高い男の姿が影になって浮き上がっていた。彼はしばらくの間、こちらをじっと見つめ、それからゆっくりと踵を返して階段を上り始めた。

 

* * * * * * * * * * * *

 

僕が僕がベージュのコートの男に会ったのは、一回きり。その時が最初で最後である。

だが、男の顔を目にしたのはそうではない。

いや、断言はできないのだから、そうではないかもしれない、と書く方が正確だろう。

その日、テレビの画面で、僕は一人の男の顔写真に釘付けになった。

それはあの教団の、地下鉄毒ガステロ事件関連ニュースだった。

揮発性の猛毒ガスの袋を一人で複数受け持ち、最多の死者を出したHという男、コートの男は彼にとてもよく似ていた。一目でそう思った。画面の中の彼も、感じは少し違うが、ぼんやりと笑っているように見えた。

いやまさか。他人の空似だろう。

報道されている情報によると、彼の自宅の住所は小平市だったらしい。だから彼が西武新宿線に乗っていてもおかしくはない。ただその頃、彼は教団中では上位の幹部だったはずだし、出家していたのだから、自宅に戻ることが果たしてあったのか。それに公安調査庁のマークは受けていなかったのだろうか。コートの男に会ったのは、まだ教団がテロ事件を起こすだいぶ前だし、そのあたりもよく分からない。

連日、事件の報道がなされ、警察もマスコミも事件に関わった人物を徹底的に調べ上げた。

Iという別の実行犯によれば、Hのことは「事件の実行犯の中で最も人間的で優しい人なので、他の人が嫌がることを引き受けた」と評されている。他の実行犯も「みんなが嫌がる仕事を引き受ける人間」と口を揃えたそうだ。真面目で、教団内の子供の世話を進んで行う人物でもあったらしい。

もし、あのベージュのコートを着た男が、もし本当にHなのだとして、僕が最初に彼の足を踏んでしまった時、きちんと頭を下げて、はっきりとした声で謝罪していさえすれば、彼は穏やかに頷いて、それで後は何事も無く片付いていたのだろうか。
だがあの頃、全てが上手くいかなくて疲弊し切っていた僕はそうしなかった。出来なかった。

コートの男から後を付けられた日から数ヶ月後、僕は会社に辞表を出した。

地下鉄毒ガステロ事件が発生したのは僕が会社を退職した直後だった。

僕が通勤で使っていたのは千代田線。事件の起きた午前八時、僕は毎朝、まさにその現場となった霞ヶ関駅で降りていた。事件の起こるほんの数週間前まで。

もし会社を辞めないでいたら、僕はあそこであの時間、彼と再び顔を合わせていたかもしれない。

あの薄笑いを浮かべた顔を、僕は一生忘れることはないだろう。

Hは逮捕され、二十二年後年の夏に死刑を執行された。

正直なところ、ベージュのコートを着た男がHであったとは、僕は考えていない。それはあくまで可能性だの、仮定だのという前置きをしたうえでの話だ。

でも、もし万が一、いや万万が一、Hだったとしたら。

西武線の中での自分の行為がもたらした結果に、僕はもっときちんと向き合うべきではないのか。

僕は彼にあの時きちんと謝罪できなかった、のではなく、それどころか実際には、はじめから謝罪など全くしなかったのではなかったか。

社会の中で揉まれて、気がつくと老境の入り口に立った今でこそ、随分ましになっているとは思うが、以前の僕はとにかく人様に頭を下げて頼み事をしたり、謝罪することが下手だった。口下手で、小心者のくせに意固地な性格ゆえに、周囲と衝突することも多かった。サラリーマン生活に行き詰まっていたのも、そういう性格が災いした面もあったと思う。

僕は自分に都合よく記憶を改竄してはいないか。自信がない。男に足を踏み返されてからのことはいまだに映像のように鮮明に覚えている。しかしその直前の、男の足を踏んだ直後の記憶、肝心の部分が、そこだけ何故か朧なのだ。

あの時の彼もまた、追い詰められていたのかもしれない。

彼は教団の中で、人が嫌がる汚れ仕事を自ら進んでこなしながら、澱のような鬱屈を溜め込んでいたのではないか。その鬱屈は、彼の中で底知れぬ怒りへと転化していったのではないか。

感情を遮断した無表情を割って、外にこぼれ出た怒り。それが、あの無言の薄笑いだったのではないか。そして、僕の振る舞いが、彼に一つの決断をなさしめた筈はないと、どうして言い切れる。

僕は、怒りをくすぶらせていた彼の心に、取り返しのつかない一撃を加えたのではないか。

地下鉄の車内に持ち込んだ猛毒入りの袋を、一人の男が傘で突き刺した。その結果、居合わせた不運な乗客九人が死んだ。
その男の背中を押したのは、僕ではなかったのか。

おいおい、大丈夫か、と僕は自分に語りかける。変な男とトラブルになって後をつけられた。そしてその変な奴が、たまたまHに似ていた。ただそれだけのことではないか。

あれからもう三十年近くたっている。

その後だって、何とか世間並にはうまくやってきたじゃないか。隘路を踏み外しそうになったことも何度かあったけれど、持ちこたえた。三回転職して、結婚して家族を持ち、二人の子供を育て上げた。妻とも色々ありはしたが、まあ、今では落ち着いて平穏にやっている。運に恵まれたということもあるだろうが、僕にしてみれば上出来ではないか。

それなのに、一体何に怯え続けているんだ。

そうだな、と自分で答える。全く馬鹿げてる。

しかし。

果たして僕は本当に逃げ切れたのか。

振り返ると、すぐ背後に彼が立っている。ベージュのコートに身を包み、薄笑いを浮かべたその目が、昏く僕を見下ろしている。

2024年12月8日公開

© 2024 浅谷童夏

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