「あまり寝すぎると夜に眠れなくなりますよ」
おかしな話だと思った。
朝も、昼も、夜も、起きた覚えなどない。
「今日でここへ来て二週間目ですね」
「出たいときはベルを鳴らして下さい」
そう言って、声の持ち主は、ドン、という鈍く重い音とともにその場から居なくなった。いまだぼんやりと眠りの中にいるような意識で、両目を開きそこにうつる景色を眺めてみる。
白一面の真ん中に、四角く漏れる、まぶしい光。
どうやらわたしの身体は仰向けになっていて、ベッドの上に居るらしかった。白い布団が胸元まで掛かっている。体の両側にはサイドレールらしきものが囲んでいて、そのレールに沿って、赤く丸い突起のついた小さな呼び出しベルが、コードを引いて垂らされていた。
わたしは仰向けになったまま、その白い天井をぼんやりと眺めていた。頭の中がひどく靄がかっているので、何を感じたらいいのか分からない。その分厚く、重い空気を取り払おうと、少しのあいだ目を閉じて眉間に意識を集中してみる。わたしは何かを思い出そうとする。微かに、靄の合間から漏れ出る映像をみた。聞こえる音がある。そうだ、あのときもやはり天井は白かった。
父と母が心配そうな顔つきでわたしをのぞき込んでいる。
父が言った。
「佐保、大丈夫かい」
母が続ける。
「しんどかったね、可哀そうに。」
母がその手のひらでわたしの前髪をかきあげ、ゆっくりと頭を撫でつける。
わたしは咄嗟に「大丈夫」と呟き、そこに続く言葉を探してみるが思いつけず、黙ったままでいた。
「何も心配することはない、心配せず、ゆっくり休みなさい」
そう言って二人は扉の外へと出て行った。
扉の閉まる音が聞こえて、わたしは少し安堵し目を閉じたが、しばらくすると舌の上にじんわりと苦く酸っぱい味が広がってきたような気がして、その味を唾液とともに、無理やり喉の奥に押し込めた。
この部屋はあのときの場所ではない。あのときはベッドなどなくて、ただただ白い部屋に一枚のぺたんこのマットレスが敷いてあるだけだった。あのとき、わたしがこのG棟、洛奥精神病院の敷地に足を踏み入れたとき。
ゆっくりと探るように身体をおこしてみる。腕に肩に腰に、ひとつずつ力を込めていく。慣れない他人の身体になってしまったようで、とても重い。ようやく起き上がって周りを眺めると、そこはベッドがあるだけの、やはり何もない部屋だった。くらり、と微かに眩暈を感じる。わたしはそれ以上部屋の様子を観察するでもなく、ただそこに座って時間の流れるにまかせた。おそらくわたしの口は半開きであったし、二つの目はうつろに宙を漂っていただろう。意志持たぬ顔であったに違いない。どれくらいの時間そうしていたのかわからない。
―ナニモナイナ。
わたしはふいに、手元のベルをみた。そしてほとんど勢いでそのベルを右手に握りしめ、親指で赤い突起を押した。しばらくの無音の後、遠くから近付いてくる足音が聞こえた。足音は部屋の前で止まり、ギィ、と重い音で扉が開いた。
「どうされましたか」
白い衣服を着たおかっぱ頭の女が、その扉の隙間から顔を覗かせる。看護師だった。
「外へ出たいのですが」
自分の声が思うより低く、掠れているのがわかる。
「どうぞ、こちらです」
看護師はそう言うと扉をさらに大きく押し開けた。
扉の外には部屋よりも薄暗い廊下が続いていた。わたしはその廊下をぎこちない足取りで歩いていく。久しぶりの歩行なのだ、足元がまるで雲の上を歩くようにふわふわとして現実味がない。脳みそは宙に浮かんでいて、意識して引き留めておかないとどこか遠くに飛んで行ってしまいそうだ。―久しぶりの歩行なのだろうか、頭の中で同じような言葉を呟いてみるが、それすら確かにはわからないでいる。
曖昧な歩行を続けていると、廊下はいつの間にか終わって、広めの空間に突き当たった。そこにはソファが置かれており、何人かの女が座って煙草をふかしていた。その横では、二人の女が立って会話を交わしていた。
「じゃあわたしは、チョコ最中をお願いします!」
短髪の若い女が大きな声でそう言うと、これまた白い衣服の女、別の看護師がメモらしきものにペンを走らせ、サッとその場を立ち去った。
チョコ最中を頼んだ女が、ニコニコ笑いながら、スキップするような軽い足取りでわたしの前を通り過ぎる。その瞬間、たしかな重量がわたしに体当たりしたように感じた。同時に、それまで地面から少し浮かんでいた両足が、ストンと着地したように思えて、わたしは思い立ちその女に向かって声を発した。
「ねえ…!」
女は立ち止まり、きょとんとした表情でこちらを振り向いた。
勢いでその女の動きを止めたのだ、次の言葉が出てこない。少しの沈黙を経て、わたしはこう続けた。
「…一緒に何かして遊ばない?」
周りを見渡すと、ソファテーブルの上で、煙草を片手にした女たちが今しがたトランプゲームを始めていた。
「いいよ!」
女から何の躊躇もないといった速度で返事が返ってきた。彼女は好奇心が止まらないといった様子で、身振り手振りを交えながら、興奮気味にこう続けた。
「わたしトモコっていうの、トモちゃんって呼んでね!」
「あなたは?」
わたしは自分の名前を答えた。
「佐保です」
「じゃあ佐保ちゃんだね!ええと、佐保ちゃんは将棋できますか?」
トモちゃんのテンポにのせられて、わたしも少し早口になり、将棋はできないけれど囲碁ならできると伝えた。彼女は、すごいすごいと手を叩いてひとしきり驚いてみせた後、それならばわたしが将棋の先生になるので、佐保ちゃんは囲碁の先生になってそれぞれ教えあうのはどうだろうと提案した。わたしは断る理由もなく、さっそく囲碁を教えることになった。
隅にあった丸テーブルを寄せてきて、その上にトモちゃんがどこからともなく持ってきた碁盤と碁石を準備する。わたし達はパイプ椅子に向かい合わせに腰かけた。
わたしは白の碁石を中指と人差し指に挟んで、碁盤にパチンという固い音をたてのせてみせた。トモちゃんも慣れない手つきで黒の碁石を指に挟み、じりりと石をきしませながら碁盤に押し付ける。佐保ちゃんみたいにかっこいい音がでないねえ、と言って繰り返し石を置いていく。何度目かにパチンと音をたてると、彼女は満面の笑みで喜び、二、三度その音を鳴らして遊んでいたが、突然大きな声でキーンコーンカーンコーン!とベルのメロディを響かせた。
「楽しかったね!今日の授業はこれまでです!」
そうして、わたしが想像したよりも少し早くに囲碁の教室は終了し、二人はその場を解散した。
トモちゃんはこの建物の中でひと際元気のいい女の子だった。
わたしより二つ上の二十四歳で、気さくな性格からいろんな住人と親しかった。彼女は毎朝七時前になると建物中を駆け回って、それぞれの部屋の扉を勢いよく開け、皆を起こして回るのが日課であった。
「エミちゃんー!ワカバー!起きて、朝だよ、ラジオ体操の時間だよ!」
「佐保ちゃん!おはよう、ラジオ体操が始まるよー!」
七時ちょうど、建物中にスピーカーからラジオ体操の音声が流れてくる。それはまぶしい太陽の朝にも、どんよりと曇った天気の日にも、ザアザアうるさい雨の降る日にも変わらず流れるのだった。わたしは眠い目を眠いままに半分閉じながら、音楽に合わせて体をだるく動かす。隣りではトモちゃんが号令をかけながらきびきびと大きく動いている。
「佐保ちゃん、今日はわたしが将棋の先生になるね!」
ごく自然な流れで、二回目の教室は始まった。二人は丸テーブルの両側につき、トモちゃんがやはりどこからともなく持ってきた将棋の盤をひろげる。盤の両端に決まった駒を置いていくのだが、どうやら必要な駒が足りないらしい。わたしが、駒が足りないのならできないねえと言い終わるよりも早く、トモちゃんは席を立ち、碁石を持ち出してきてそれを駒の間に置き始めた。
「うん、これで代わりにしよう!」
盤の上では将棋の駒と囲碁の白黒の碁石が交じり合い、見たことのない様相のゲームである。少しの間、その盤を見つめていたトモちゃんが、よし、今日の授業はここまで、続きは次回です!と告げた。
あくる日も、七時を目前にトモちゃんの声が建物中を駆け巡る。
「みんな、起きて!朝だよ、ラジオ体操だよ!」
毎日六時五十五分になると、耳の奥でトモちゃんの声が響いてくる。
「佐保ちゃん、おはよう!朝だよ、朝が来たよ!」
布団の中に全身がもったりと埋もれるようなまどろみの中で、朝を知らせる音だけが繰り返されている。アサダヨアサガキタヨと、そう、朝は毎日来るのだ。おそらくは明日も。
わたしの知らない間に、時間は過ぎ去り、朝が巡ってくる。そのことに気づくよりもはやく、太陽は東から昇り、西へと沈んでいく。朝は昼に、昼は夕に、そして夕は夜になり、一日はまたたく間にふたたびの朝を迎える。そうやって時間は矢のように、風のように素早く流れゆく、時間、のみならずトモちゃんの駆け回る声も、ラジオ体操の音声も、碁石も駒も、なにもかも一切が飛びゆき彼方へと消え去ってしまう。
ここはまるで嵐の中の無音だ。
わたしは吹きすさぶ雨風の中の一点の目玉にいる。
ある午後だった。トモちゃんがあっけらかんとした口調でわたしに告げた。
「わたし、ここを出ます」
ガラス越しに、元気よく両手を振るトモちゃんがみえる。またね、またねと笑いながら遠ざかっていく。
角を曲がり、振り上げた右手を最後に、彼女の姿はみえなくなった。
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