G棟  一、お姉

佐野夜子

小説

1,699文字

G棟では女たちが共同で生活している。なぜ「わたし」はそこにいるのか。分からないまま、「わたし」は様々な個性ある住人と、日々をともに過ごしている。ひと夏の間に出会った女たち、そして「わたし」の見た光景を描く。

 その女はG棟の皆から「お姉」と呼ばれていた。本名だかどうだか分からないが、自分のことを「百々」だと名乗っていた。

 腰まである長い黒髪の先を両指でつまみ、胸の上へ垂らしてみせる。黒髪には艶がなく、枯れた細い枝のようにところどころ屈折している。彼女は髪と同じく、長く細い肢体をゆらり、ゆらりと左右に揺らしながら、大きな鏡に近づいていく。
 そこに映る己の全身をのぞき込み、視線を少し下に下ろす。
 そして、つぶやく。

 「ねえ、このロングスカート素敵じゃない?」

 白く煙るホールに、お姉の声が低く響いた。
 
 ホールはおもにソファに座って煙草をふかす場所だった。大勢が、といってもせいぜい3、4人の女が集まり、日がな一日煙草をふかしている。その中にお姉がいた。お姉はいつも他の住人と一緒に、茶色く古びた合皮のソファに腰かけていた。ホールの壁には大きな全身鏡がとりつけられており、煙草に飽きると彼女はその前に立つのだった。長い黒髪の先を両指で撫でつけながら、自慢のスカートを揺らしながら。
 お姉はこの建物の住人にしてはめずらしく、いつもスカートをはいていた。それも決まって床に擦るかと思われるほどのロングスカートだ。それは一枚だけでなく幾枚もあり、そのどれにも一面の柄、ペイズリー柄だったり、大きな花柄だったり、アジアンな紋様だったりが描かれていた。
 彼女は毎日、もしかしたら毎時間かもしれなかったが、気分に合わせてそれらのスカートをはきかえた。違うものを身に着けては皆のいるホールに出てくる。そうして鏡に向かい、やはりこうつぶやくのだった。

「このロングスカート、素敵じゃない?」

誰に尋ねているでもなかった。ホールにいるほかの人間は一度でも返事をしたことがなかったし、ただ一人でつぶやき、一人で深く納得している様子だった。

季節は六月で、夏の入り口だった。わたしは二十二回目の誕生日を迎えていた。  

お姉はあの頃いったい何歳だったのだろうか。彼女はガリガリに瘦せていて、全身が骨ばっていた。頬もこけて目も落ちくぼんでいたから、見た目では四十も半ばに差し掛かっていたが、もしかするともう少し若かったのかもしれない。

ホールのソファには今日も4人の女が座っている。一様に煙草を片手に黙している。ソファの横の壁には、小学校の教室にあるような真面目な盤面の時計と、常にまわっている換気扇が並んで配置されていた。秒針が無音で時間を刻む中、換気扇の羽根がブーンとうなる音だけが響いていた。
突然、誰かがつぶやく。
「やっぱり煙草はウマいな」
お姉が続ける。
「最高だよ」
うなる換気扇に向かって、女たちが吐き出した白い煙がもやもやと、ないようでいてあるような形を描きながら吸い込まれていく。
「あんたも吸う?」
ふいに、女のうちの一人が、その場を横切ろうとしたわたしに声をかけた。わたしは少し驚きそちらを振り向く。女の手には小さな水色の箱が握られていて、そこから一本の煙草が覗いていた。一瞬戸惑ったのち、わたしは小さな声で、
「やめとくわ」
それだけ言ってホールを後にした。わたしは喫煙家ではなかったし、また吸う気もなかったから。女たちの誰一人として、それ以上こちらを留めることはない。時間だけが白い煙のように、ゆうるり、ゆうるりと、換気扇の羽根の中に消えていく。静かに、ゆっくりと、しかし確実に。
 時計、煙、まわる羽根。
 わたしは、その場所に時間の流れることを、かろうじて知る。
 
 お姉と一度だけ脱衣場で横に並んだことがある。
 二十歳そこらのわたしの体は、お姉とは真逆で、肉に包まれ丸みを帯びたものだった。当時のわたしには、そんな過剰な肉付きの体は醜くおもわれ、好きではなかった。わたしは風呂から出るとササと洋服に着替えた。その時横で着替えていたお姉が、わたしのほうに目をやりこう言った。
「素敵なバストね」
それでわたしは咄嗟に、
「素敵なウエストね」
そう返して、脱衣場を出たのだった。

お姉と言葉を交わしたのはその一回だけだ。

いつだったか、わたしがホールのソファを横切ろうとした時のことだ。煙草をふかしながらお姉が小さな声でこうつぶやくのを聞いた。

「ボインちゃん」

それきりだった。
 

2023年6月13日公開

© 2023 佐野夜子

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