満月の夜に海に近づいちゃならん。チンジュ婆は口酸っぱくカザミに言い聞かせた。海底人が人の子をさらうからの。なんで? と尋ねるカザミにチンジュ婆が答えるのはそれだけで、海底人が何者で何の為にそんなことをするのか教えてくれなかった。きっと幼いカザミを怖がらせる虚言だったのだろう、長い黒髪とともに外見麗しく成長したカザミはそう考えている。
「本当に鯨がいたの?」
「なに、疑ってるわけ? タスクのくせに生意気」
カザミは十五を迎えた最初の満月の夜に幼馴染のタスクをそそのかして、自転車の荷台に横座りしている。二人は月の光に照らされて翡翠色に輝く波が寄せる砂浜に向かった。
「カザミ、太った?」
「あ? レディに向かって何言ってんだ!」カザミは右手で思いっきりタスクの寝癖がついた旋毛をはたいた。
「痛っ!」タスクが両肩をすくめ自転車がふらふら蛇行した。
「ちゃんと前見て運転しろ」カザミはもう一度頭をはたいた。少し冷たい夜風になびいて額にかかる前髪を掻き上げ満月の下で凪ぐ海を眺める。カザミには、ふとそれが星が煌めく夜空に比べ黒く深く遠くおちこむ果てのない洞穴が広がる様に見えた。海岸を覆うコンクリート壁の脇に自転車を停めて階段を下り、消波ブロックの合間を抜けて木片に混じり散乱する発泡スチロールやペットボトルやビニール袋を避けてようやく浜の砂を踏みしめられた。カザミは赤いスニーカーと白い靴下を脱ぎ「持ってて」とタスクの胸元に押し付け、ジーンズの裾を捲り上げ裸足で砂浜を駆けた。波がざさんと砂を濡らす。右足の親指をちょんと濡らしカザミは「冷た」と一人で笑い、両足を海に浸けてざぶざぶと駆けた。
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