『世界創ったの、ジョナトンだよ』

合評会2020年03月応募作品

井上 央

小説

3,739文字

2018年初頭に頭角を現したリュカ・エンデベレ監督の『ストーブより聞こえづらい』
『ディーニュ』という雑誌出版社に勤めている青年ウィサムのもとに、従姉であるクレンの訃報が届く。
物語は語り手のウィサムが、クレンとの断片的な思い出を追懐する形で進められていく。
タイトルは、青年ウィサムがネット上でとある動画を観た後に、流産の悲嘆に明け暮れる従姉に向かって放った台詞。

二月の暮れ――確か28日だ。近くの医療センターから家へと帰ってきた時の姉の表情を、僕はまだはっきりと覚えている。

いつもの姉ならば、玄関に足を踏み入れるが早いか「ちょこー」と甲高い声で愛犬の名を呼び、それから屈み込んで、手のひらサイズほどしかないトイプードルの頭をめちゃくちゃに撫で回したはずだった。小ぶりのハンドバッグを食卓に並んだ椅子の上に置き、冷蔵庫から炭酸水を取り出して飲んだり、愛犬にちょっとしたおやつを与えてやったりもしていたはずだった。

しかしこの日、昼頃に帰宅した姉は、控えめな仕種や些細な衣擦れ以外には何も連れず、居間の敷居を越えるとすぐに、こたつの中に両足を差し入れ、心此処に在らずといった状態で電源の点いてないテレビを見つめていた。赤みがかった目元、少しむくんで見える頬、深さを増したように思える人中の溝。そうした変化を僕が認め終わらないうちに、姉に付き添っていた母が「ただいま」と、姉の肩越しに言う。上手く装えていたとは、とても言い難い。僕はすぐに、二人が病室か車の中かどこかで、ひとしきり涙を流し合ったのだろうと察した。そうやって、僕に見せることになるような弱さの目方を、少しでも減らそうとして。

 

『自然流産の発生頻度は15%程度である』

 

これはウィキペディアからの引用だが、これに近いことを僕は『ストーブより聞こえづらい』というフランス映画の語り手、ウィサムから聴いたのだ。彼の従姉クレンも流産に見舞われる。しかし彼女の場合、更に救いようのないことに、罪悪感と自責の念とのせめぎ合いに懊悩した挙句、自ら命を落とすのである。

彼女は死の直前に言う。

「私の殺した子が、まだお腹の中にいる」

切実な言葉である。しかし、この15%という統計的でしかない淡白な数字の並びによって、僕もウィサムも、流産を大した悲劇とも思わず、従って共感にも及ばず、無感覚となってしまったに違いない。悲劇的な出来事に突き当たる確率が高くなればそれだけ、当人の要する慰めは反比例して少なくなる。

ただ彼らが一方で(ナルシシズムが鼻につくだろうという懸念の為、そして、そうであるからと言ってただ捨て置くことの出来ない奇妙な一致を記すにあたって、ここで一度『僕』を『彼ら』という代名詞の内に捻じ込ませて欲しい)、無感覚ではいられなかったことを示すに十分な証拠を残しているのも事実だ。姉の妊娠初期である今から一か月程前、『僕』と言いたがる彼が、無印良品の無罫ノートに習慣的につけている日記に、彼はこう綴っている。

 

『衝動的になって書く。と言うのも僕の性向上、姉が妊娠したことから続く、口には出せない様なネガティブな展開のことばかりを僕は考えてしまうからだ。陳腐だが、例えばそれは、スターウォーズのパドメがそうだった様に、出産時のトラブルによって姉が帰らぬ人となるだとか、とある日に思いがけない事故に遭って流産してしまうだとか、そういったことだ。怖くて堪らない。妊娠期にある女性は例外なしに、危険な社会から距離を置き、家で安全に、それでいて当人の心身に差し障りない程度の自由さを与え、保護しておくべきだ。新型肺炎の蔓延りつつある昨今ではなおさら』

 

次いでウィサムはと言うと、従姉の流産を聞いた後に、コンコルド広場の噴水の傍で一人突っ立って泣いている少女を見かけ、声をかける。少女は『パトリス・パトリース』という愛らしい名前で呼んでいる人形を失くしてしまったらしい。そこでウィサムは、偶然にも『パトリス』の特徴に思い当たる所があって言ったのか、それとも運否天賦に身を委ねるつもりで優しい嘘を吐いたのか、その詳しい描写はないが、とにかく耳を傾けている内に、少女にこう言う。

『パトリスなら、あっちに入って行くの見えたよ』

そう言って彼は、近くのおもちゃ屋に面する通りを指差す。それから二人は、供にそのおもちゃ屋へと入り、人形の並んだ棚の前で立ち止まる。

『どこかに、いるはずなんだけど』ウィサムが言う。

『似てるけど、ちがう』啜り泣きの尾を引かせながら、少女は答える。

だがウィサムは次に驚きの声を上げ、人形の一つを手に取ると『やっぱりそうだ。ほら、パトリス、ここだったんだ』と、少女に嬉しそうに語りかける。

少女は首を横に振って否定を示す。ただ少女の不安気な表情に、どこか好奇の色とやらが滲んで見えなくもない。ウィサムはしゃがみ込み、少女の前に人形を差し出して言う。

『新しい服が欲しかったんだな、きっと。だから見た目が少し違って見えるんだ』

少女は人形をまじまじと、どっちつかずの眼差しで見つめる。

『パトリスのお洋服のお金、払ってくるから……いい?』と、ウィサムは少女からパトリスを丁重に預かり、支払いを済ませると、少女にパトリスを返す。そしてこう告げる。

『パトリスにさ、黙ってお洋服を買いに行かないでって言っとかなきゃ。でもまぁ、パトリスもパトリスだ。どんな服にするか、まず友達に相談してみなきゃ』

少女は友人を、その両脇に手を差し入れて抱え、丸く大きな目で眺める。それから途端に友人を抱き締めると、幸福そうな笑みを広げる。少女の目に映るのは、少しはぐれていた間に着替えを済ませたパトリスだ。

 

真には無感覚であり得ない人間の矜持。つまるところ彼らは、自分の無感覚さ故に、その誤った自意識故に、被害者に対して寄せ合うことの出来るような肩を持ちあわていないということを知っているという点で、若しくはそうした経験から、世に流布している『理解』などという行為などは、絶縁体同士を擦り合わせて静電気を発生させようと試みるに等しいと感じ、そうして余計に特定の人間に対しては無感覚であろうとする点で共通しているのかも知れない。そんな自惚れた思い込みがあった訳で、僕は姉に対してよりも、ウィサムに共感を寄せるのが自然であった。

ただ、僕とウィサムにも決定的な違いがある。それは、全てが終わりかけた頃になって、相手に何らかの言葉をかけたか、かけなかったかというところだ。

映画の終盤、ウィサムはネット上のとある流行りの動画を友人に見せられる。ひとりの男の子がカメラに向かって『黄色くて、持っているもの、なんだ?』といったなぞなぞを出すというものだ。『なに?』と聞き返す大人の声に対し、男の子は『ジョナトン』と自信ありげに答えを発表する。一見、訳が分からないが、どうやら『黄色い(jaune)』と『持つ(attend)』の二つの仏単語を、人の名前のように上手く掛け合わせた『ジョナトン(jonathan)』が、なぞなぞの答えであるらしい。しかし何らかの感銘を受けたのか、これを観た数日後にクレンのもとを訪れたウィサムは、唐突にこう告げる。

 

『世界創ったの、ジョナトンだよ』

まるで自分にも言い聞かせるような調子で、彼は続ける。

『こんなにうるさくて、静かで、汚くて綺麗な世界を拵えたのは、ジョナトンさんなんだよ。この人は多分、隣町かどこかに住んでて、それで、暖房代かなんかを節約するために、室内でも何枚も重ね着してる。風呂場で踝の汚れを落とすことを、唯一の楽しみにしててさ』

 

さて、ウィサムが『ジョナトン』の動画から、何を感じたのかはもちろん知る由もない。他者どころか自身に対しても果たし切れることの決してない理解とやらに感じる無力感を、どう拭い去って、こういった言葉を投げかけたのかは分からない。ただ、彼のこうした言動が、僕の頭にある考えを掠めさせ、言葉遊びに他ならない『無感覚』の箍を外させたことは明らかだった。要するに、ジョナトンさんに全てを託したいと、僕にも思わせのだ。この話が図らずも、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーのライオン(フランス映画の場合、ヨーロッパライオンとでも言った方が適切だろう)の威を借りた体裁になってしまったという些事から、悲劇や喜劇が世の中で絶え間なく生じているという事実に至るまで。更には、姉と僕と隔てているこのどうしようもない無力感をも、僕としてはジョナトンさんのせいに、若しくはジョナトンさんのおかげとしたいのだ。願わくば、いつか僕の問いかけに『ジョナトン』と答えてくれるような、そんな姉と絶縁体なりに肩を寄せ合って。

 

そして幸いなるかな、いや不幸いなるかな、僕はこの話を締め括るのにうってつけな、あるいは蛇足としても秀逸なものとなるだろう、極めて短く、個人的で些細な一場面を持ち合わせている。それを、このうだつが上がらない語りの最後に、積み上げた画集の上に『檸檬』を置くように記してやれば、若しくはクレンが残した遺書のように添えてやれば、はたまた酷暑を避ける為の打ち水のように撒いてやれば、ほっと胸を撫で下ろす観衆の仕種を瞼の裏に浮かばせたり、ほんの少しの余韻と静謐を匂わせるスタッフロールが流れたりすることをいくらか期待しつつ、幕を下ろすことができるかも知れない。

 

『「なぁ」と僕は声をかける。そのかすれた声も、喉の詰まりを解消する為の咳払いも、今や透明の内に根拠を置いている。「なんか、欲しいものとかある?」』

2020年3月15日公開

© 2020 井上 央

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"『世界創ったの、ジョナトンだよ』"へのコメント 7

  • 投稿者 | 2020-03-27 22:57

    ネットで検索してもヒットしないことから、オマージュするフランス映画は作者自身による架空のものなのかなと思いました。もしそうであれば、自ら考えた映画を自らオマージュするという革新的な試みをされているなあと思いました。「僕」とウィサムとの決定的な違いは、相手に言葉をかけたかどうかよりも、姉が生きているか死んでいるかではないかなあと思いました。

  • 投稿者 | 2020-03-28 00:01

    取り上げたテーマは現代に沿っており、とても良いかと思いましたが、文章が知的すぎる感があると共に、なぜか空回りしている感じも得ました。
    それと、これはあえてかも知れませんが、読みづらいです。特に句読点が必要のないところに多く点在しているのが原因かと思われます。
    「僕もウィサムも……当人の要する慰めは反比例して少なくなる」この一文は共感できます。
    最後の段落。この小説の満を持した一文だと思いますが、例えが多すぎて焦点がぼやけています。因みに『檸檬』は果物の『檸檬』ですか? それとも梶井基次郎の文庫本ですか?

  • 投稿者 | 2020-03-28 12:07

    個人的にすごく好きな作品でした。「フランス映画」をテーマに架空のフランス映画(もし架空でなくて現実にある映画だったら大変お恥ずかしいのですが)を作中で取り上げる方法、なるほどその手があったかと思いました。
    見当違いの可能性もあるのですが、もしかしてリュカ・エンデベレ監督はゴダール(本名Hans Lucas)、従姉のクレンはアンナ・カリーナ(本名Hanne Karen、流産経験あり)へのオマージュなのかなと思いました。
    リュカ・エンデベレ監督の『ストーブより聞こえづらい』見てみたいです。

  • 投稿者 | 2020-03-29 00:08

    フランス映画には疎いのですが、内省的なモノローグが多く、長いセリフと共に心象風景のような映像が流れて行く、そんなイメージがあります。流産した姉が病院から帰宅した、それだけのストーリーで、「僕」(途中で彼になっていますがこれの意図が分かりませんでした)の内面に多くのシーンが生まれるところ、フランス映画のお題に相応しい作品です。意味がよく分からない箇所もありましたが、それも含めてフランス映画ということで。

    「パトリス・パトリース」のお人形のお話が、「絶縁体」同士としての絶望感とリンクしているようなしていないような微妙な感じが好きです。何よりも「救い」「共感」などは得べからざるものと分かっていながらも言葉をかけずにはいられない愛情というか優しさに心を打たれました。

  • 投稿者 | 2020-03-29 10:51

    主人公の語りの中でも作中劇の中でも子どもの父親への言及がないことから、私の下世話な週刊誌的マインドはまっさきに近親相姦を疑った。だとすれば、姉の妊娠に対する思いをつらつら日記に綴ったりするのも納得がいく。三人称代名詞や架空の映画という第三者に仮託して、自分の行為の結果を自分の事として捉えようとしないこの語り手はなんと無責任な男だろうか!

    フランス語で attend(attendre)は「待つ」だと思う(「持つ」はavoir)。漢字が似ているのでどこかで読んだ時に取り違えたのでは?

  • 編集者 | 2020-03-29 14:32

    なぜこんなに映画の描写と僕の映画に対する考察が大半で語られているのかと不思議だったのですが、コメントを見ると架空の映画だったのですね(違ったのなら申し訳ありません)。全てに他人行儀な主人公に作者自身も嫌悪感を抱いているのではないか、と感じました。カタルシスを得るには主人公がひどい目に合うのが一番です。

  • 編集者 | 2020-03-29 20:29

    考察と共に進んでいく映画、という難しい構成の作品だったが、これが架空のフランス映画を題材にしているとすると、(他の作品にも多かれ少なかれあるだろうが)作者にとっての「フランス映画(っぽさ)」とは何か、という興味も沸いてくる。
    世界創ったの、ジョナトンなのか。知らなかったぜ。ありがとう。

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