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2015年7月下旬の早稲田大学、大隈ガーデンハウス。
ガヤガヤと学生たちの声で賑わっている中で、カレーを食べている3人の女子学生がひときわ目立っている。食べること以外に3人で特に何かをするというわけでもなく、いつもこうやってなんとなくつるんでいるのだ。
小太りでメガネをかけた剽軽な諸岡詩織。詩織とは対照的に美人でスタイルもよいがおとなしい越川美奈。ボーイッシュで長身でショートヘアの佐藤亜美。3人とも二年生で教育学部国語国文学科に属している。
最初、詩織と美奈が共に国語科教員を志望しているというその一点だけで親しくなった。そこに就職のことはまだ考えていない楽天的な亜美が加わったのだが、きっかけは自分が所属しているバンドのコンサートに美奈を誘い、美奈のために作ったという歌を披露したことだった。亜美は所謂バイセクシャルである。
3人でいると美奈だけは声をかけてくる男子学生がいるのだが、美奈は応じることはなかった。飲み会への勧誘も断ってきた。今、美奈の関心の多くは教師になることに向けられている。
「美奈、やっぱ、ここのカレーは安くて美味しくて最高よね」
詩織がいつもの大げさな抑揚で言った。
「あたしは時にはパスタもいいかなって思ったけど、今日のところはお付き合いってことで……」
ふてくされた表情で亜美が言った。
「パスタじゃ、おなか、たまんないのよね。なんなら佐藤さんだけ3階で食べればよかったのに」
「また、詩織ったらそんなこと言って。3人で一緒に食べるからおいしいんじゃない」
美奈が呆れた顔でたしなめる。
「諸岡さんにはカレーより丼ぶりの方が似合うよね」
亜美はそう言うと薄笑いを浮かべて詩織を見た。
「なんですって!」
詩織が鼻息荒く立ち上がった。
「二人ともやめてよ。いつも言ってるとおり、わたしは二人だけの食事はしないから」
半泣きの美奈。その時、バッグの中で携帯電話が鳴った。
「ちょっとごめん」
電話に出る美奈。
「どうした? えっ! もっと大きな声で……うん、パパが……なに? パパが……うそでしょ? どうして……」
みるみるうちに表情が蒼ざめて、その場に倒れてしまった美奈。その右手から滑り出た電話の先から「もしもし、お姉ちゃん!」と繰り返し呼ぶ声が聞こえてくる。高校生の妹の香奈からだった。
「どうした!」
慌てて亜美が美奈を抱き起こそうとした。そこに、近くの席にいた北村邦夫という文学部哲学コースの4年生が来て、亜美と一緒に美奈を抱き起こして椅子に座らせた。その間、詩織は美奈の手から携帯電話を取って耳に当てた。
「代わりました。私、美奈さんの友人の諸岡といいます。……あ、はい、妹さん。……はい、ちょっと待ってね。美奈、大丈夫?」
「父さんが、父さんが、さっき、死んだって……首を吊ったって……」
そう言って亜美の腕の中に顔を埋めて泣き叫ぶ美奈。
「もしもし、美奈は今、出られそうにないから私が伝言するわね。どうぞ」
詩織も自分を落ち着かせるように片手を胸元に当てながらゆっくりと言った。周囲には異変に気づいた学生たちが何事かと集まって来ている。
電話が終わると亜美と北村は崩れ落ちそうな美奈を左右から抱き上げるようにして歩き出した。亜美は中高でソフトボール選手だったこともあり力が強い。
むしろひ弱な感じの北村の方が亜美に「しっかり抱えて!」とどやされながらハイ、ハイと従っているあり様だ。
北村がクルマで来ていたので駐車場で3人も乗り込み、美奈が住む高田馬場の学生マンションへと向かった。
詩織と亜美は北村を知っていた。なぜなら北村は美奈に交際を申し込んだことがあり、その時、美奈から相談を受けたので、どんな人なのか顔を見ていたからだ。
亜美も詩織も、北村は性格が暗そうだし哲学コースなんて他と比べれば就職はよくないし将来のためにもならないから交際はやめるべきだと、この点では一致した答えだった。美奈は二人の意見を参考にして今は男性との交際は考えていないからと断ったのだが、北村はあきらめきれないのか偶然なのか、学食では時々、三人の近くにいることがあった。
倒れた美奈に怪我はなかったが、その夜は大事を取って、詩織と亜美が美奈の部屋に泊まって世話をした。そして次の日の朝、美奈は二人に送られて羽田空港から郷里の福岡行きの便に乗った。
翌日の朝、美奈の実家。
亡くなった父・武二の姉の武子が昨日から来ており、美奈の母親の節子と妹の香奈の前で詫びるように座っていた。話し合いで葬儀は身内だけですることになった。
節子は美奈が帰り着く前に、倒れ込むように床に就いていた。長い間、抑え込んできた心身の疲労が夫の死によって噴出したのである。
美奈も香奈も父の会社の経営が厳しい状態にあることは、中学生の時から感じてはいた。ただ、節子が自分たちに心配をかけまいとして会社の話題にふれないようにしていることがわかっていたので、美奈たちもそんな母を気遣って詳しく知ろうとはしなかった。
しかし、いくら経営が厳しいとは言え、父親が経費を削減するために材料の一部を偽るような違法行為に手を染め、しかもそのために死亡事故が発生するとは、娘たちは思いもしなかった。
12人の従業員に給料とわずかな退職金を支払って残るのは多額の借金だけである。香奈は今日は終業式なので学校には行かなくてもいいと言ったが、美奈はその必要はないと香奈を送り出し、その間に武子と話をした。
「おばさん、私、決めたの。大学やめて働くわ。だってこのままじゃ私たち一家は破滅だもん。私たちは犯罪者の遺族という目で見られながら生きてゆかなければならない。昔で言えば日陰者よね。でも、香奈だけはどうしても進学させてあげたいの。小学生の時からのアナウンサーになる夢をこんなことであきらめさせたくはないから。母さんも同じ気持ちだと思う」
「ええ、そうね。でも、美奈が責任を背負うことはないわ。法律上は美奈に返済の義務はないはずよ。会社の問題だもの。もっとも節子さんは経営に携わっているから責任は免れないでしょうけど武二の保険も少しはおりるだろうし、いざとなれば自己破産という手もある。それにしても武二が節子さんを道連れにしなかったのがせめてもの救いだわ」
「パパのせいで亡くなった人がいるんだし、被害者への償いより自分たちの責任逃れを考えるなんて間違いよ。それにママひとりに責任を押し付けるなんて、そんなことできるわけがない」
「でも節子さんは、美奈の夢もあきらめてほしくはない、なんとか大学は続けてほしいって、そう思っているはずよ。きっとなにかいい方法があるはず。、ねえ美奈、あきらめちゃだめよ」
「いいのよ、おばさん、私のことは……。どうせ、夢と言ったって教員になることなんだから。教える仕事なら大学を出なくなってやれるわ」
「そんなこと言って、あとで後悔しない?」
「後悔している暇なんかないわ。これから裁判があるし、どっちにしても私たち、借金取りに追われる身になるんだから」
「ほんと、武二がばかなことをしたせいで、娘たちの人生を狂わせてしまって。姉としてこの償いは残りの人生をすべてかけて、やらせてもらうからね」
急に涙ぐむ武子。美奈がハンカチを握りしめた武子の手を握り、首を横に振った。
「私たちはおばさんに償いなんか求めたりしないわ。だってパパは私たちの実の親だし、私たちはパパが大好きだから、パパのせいで人生をおかしくされたなんて思わないもの」
「美奈、ごめん。ごめんね……」
美奈の手に額をつけて泣き崩れる武子。
「泣かないで、武子おばさん。大学なんか何歳になってもやり直せるわ。早稲田も社会人になってから入学する人がいるのよ」
「そうなの。でも就職のためには新卒でないとダメでしょう。せっかく頑張って早稲田に入ったのに、おしいわねえ」
「しょうがない、これも運命よ。それより、おばさん、ひとつだけお願いがあるの」
「なに?」
「学生生活の最後に旅行させてほしいの」
「もちろん、いいわよ。海外旅行の費用くらいは私ひとりでも何とかなるわ」
「行先は日本よ。それも同じ九州の大分県の佐伯というところ」
「な~んだ、あらたまって旅行に行きたいなんて言うから、私、てっきり遠くかと思ったら、すぐ近くじゃない。どうせ大分県なら別府とか湯布院で温泉に入ってのんびりすればいいのに、なんで佐伯なんかに行くの?」
「私、高校生の時から国木田独歩の作品を愛読していて、大学に早稲田を選んだ理由の一つが独歩の後輩になれるからなの。佐伯は独歩が教師生活を送った場所で、私も教員志望ということもあって、一度、佐伯に行ってみたいと思ってた。独歩が教師をしたのは佐伯が初めてではないけど、佐伯での教師生活は彼の文学活動に大きな影響を与えたの」
「なるほど。そういうことなの。それにしても、よくそんな有名人が佐伯みたいな田舎に行ったわね」
「最初は、独歩も気がすすまなかったみたいだけど、お金に困っていて、背に腹はかえられないって感じで赴任したら、意外と佐伯の環境が気に入って、後には佐伯を絶賛するようになるんだから面白いわ」
「へえ、そうだったの。それにしても宿はけちっちゃダメよ。あっちは料理はどうなのかしら。たしか、お寿司なんかいいんじゃない。お金のことは私にまかせて。行く前にちょっと声をかけてね」
「ありがとう、武子おばさん。旅行の費用は貯金の残りから使わせてもらうわ。来週、テストが終わったら夏休みになるから、そしたら友達を誘って行ってくる」
「わかった。お友達との良い思い出になるよう祈っているわ」
「それで大学のことは母さんにも香奈にもまだ話さない方がいいと思うの」
「だいじょうぶ。あたしからは何も言わない」
昼前に香奈が帰ってきたので一緒に買い物に行き、武子と節子のために昼食を作った。香奈が中学生の時によく二人で作って両親を喜ばせた海鮮炒飯とロールキャベツである。節子は食欲が無いと言ったがせっかくだからと少し口にした。
その夜、越川家では粛々と通夜が営まれた。武子の息子たち、美奈や香奈からすれば従兄弟が二人、加わったが、節子の兄弟姉妹やその子どもたちは、連絡をしたのに誰ひとり来なかった。
外は梅雨の終わりを告げるかのように、いつしか激しい雨が降り出していた。
2
大隈ガーデンハウスの3階。今日は3人ともパスタを食べている。詩織と亜美の様子がいつもと違う。
「今日はあたしに合わせてくれてありがとう。ねえ、佐藤さんって言うのもなんか堅苦しいから、これから亜美さんって言ってもいいかな」
詩織が照れながら亜美に話かけた。
「亜美さんかあ……、いっそのこと、亜美って呼び捨てにしてくれないかなあ」
「え~、いいの? それなら、あたしも詩織って呼び捨てにしてくれる?」
「うん。それはべつにいいけど」
亜美も照れくさそうに言った。
「どうしたの、二人とも。急に親しくなったみたい」
美奈がフォークを持った手を止めて、二人を不思議そうに眺めている。
「だって3人でいる時、美奈だけが呼び捨てっていうのもなんかへんな感じじゃない?」
詩織が口の中でパスタを噛みながら言った。
「そうね。たしかにへんだったわ。それにしても、すぐに口げんかを始めるあなたたちが急にそんなふうになるなんて驚きだわ。ねえ、お互いに呼び捨てで言ってみてよ」
「あらたまって言われるとなんか、照れるんだよね」
亜美が苦笑いしながら鼻をかいた。そして一呼吸入れてから、詩織に面と向かって、「詩織」と言うと、両手で顔を覆って、「ああ恥ずかしい。まるで告白する時みたい」と言った。
美奈も笑って、「わたしには平気で美奈って言ってるくせに」と言った。そして詩織の方を見て、「はい、次、詩織の番よ」と催促した。
「ちょっと待って。あたしもちょっと緊張しちゃう」
水を飲んで口の中のものを飲み込むと、亜美の顔を見てニヤリとし、ひとつ咳払いした、その勢いで「亜美」と言った。直後に亜美も詩織も吹き出して、大声でゲラゲラと笑い出した。
美奈は周りを見ながら、「へんに思われるからやめなさいよ」と困り顔で言う。
「私たち、やっとトライアングルになれたんだね?」
美奈が一つ息を吐いてそう言った。そして二人の手を握り、笑顔で二人の目を交互に見た。
「トライアングルかあ。じゃあ今までは何だったのかな?」
亜美が言う。
「くの字、くの字、ハハハ」
詩織がおどける。
「皮肉なものよね。こんな時に3人が一つになれるなんて。もう少し早く、こんな時が来ればよかったのに」
「なによ、それ。これからも一緒でしょ、あたしたち」
急に寂しそうな表情を見せた美奈を見て不安になる詩織と亜美。美奈は実家から帰ってから3日経っており、二人に会うのは今日が初めてだが、報告のようなことはまだ言っておらず、二人も美奈を気遣って自分の方からは何も訊かないでいた。もちろん電話もしていない。しかし今、美奈の方から打ち明ける時が来た。
「どうしたの美奈? まさか大学やめるなんて言わないよね?」
予想していたかのように亜美が美奈の顔を覗き込むように言った。
「……」
唇をかみしめて二人の目を見る美奈。
「え~! ウソ。そうなの、美奈? どうして?」
詩織が泣きそうな顔で、美奈の腕をつかんだ。
「今まで黙っててごめん。父が借金残して自殺したことまでは知ってるわね。その借金の額がハンパじゃないのよ。その上、賠償もしなきゃならない。ニュース見たでしょ、人ひとり死んでるの。とにかく私が働かないと返済どころか一家3人食べてゆけない。卒業してから就職するなんて余裕はない。退学は家族と話し合った結果なの」
「お母さんも妹さんも引き留めたでしょ。なんとかならないのって言ったでしょ?」
急くように詩織が言った。
「言わないよ。そんなこと言ったところで借金地獄なんだから、どうしようもないもん」
「学費と美奈一人の生活だけなら、バイトと奨学金でなんとかできるよ。家の方もお母さんがパートでもして、妹さんもバイトしてもらえば凌げるかもよ。あたしたちも出来る限りの協力はするし……」
いつもは冷静な亜美も今日は興奮気味だ。
「ありがとう。でも、そんな甘い話ではないのよ。パパのせいで人が死んだんだから。退学はもう決めたことだし、私も就職するほうが気分的にラクだし……」
「そんな、ひどいわ。一緒に卒業旅行に行けると思ってたのに。うぇ~ん……」
周囲の人目をはばからず涙き叫ぶ詩織。
「その旅行なんだけど。二人に頼みがあるの。卒業旅行ならぬ退学旅行につきあってくれない?」
「退学旅行!」
詩織と亜美が同時に叫んだ。
「ちょっと! 声が大きいよ」
慌てて止める美奈。
「それはいいけど、行き先は決まってるの?」
興味深そうに亜美が訊いた。
「ごめん。それも決めさせてもらった。最後の私のわがままをきいてください」
「もちろんよ、主役は美奈なんだから。で、どこ?」
詩織が身を乗り出すように訊いた。
「大分県の佐伯市。二人とも、私が国木田独歩の文学を好きなことは知ってるでしょ。それでね、独歩ゆかりの地で私が唯一、行けてなかったのが佐伯なの。私は独歩関係では東京の次に重要な場所だと思ってるんだ」
「どこでもついて行くけど、大分ってちょっとびっくり。だって美奈の家がある福岡と同じ九州でしょう。今までも行こうと思えば行けたんじゃない?」
不思議そうに言う亜美。
「そうなの。高校時代も、佐伯には近いからいつでも行けるくらいに思ってたら、いつのまにか3年間が過ぎちゃった。独歩の家があった山口県の柳井市には2回も行ったのに」
「そんなものよ。遠くて近きは恋の道、近くて遠きは田舎の道って言うじゃない」
詩織がへんに納得したように頷きながら言った。
「なにそれ。そんなことわざあったっけ。遠くて近いのは男女の仲って言うんじゃない?」
茶々を入れる亜美。
「バカねえ。男女の仲とも言うけど、恋の道とも言うのよ」
「ちょっと、バカってなによ!」
「バカだからバカって言ったまで」
「バカって馬と鹿って書くのよね。あたしが馬鹿なら、あんたは豚じゃない!」
「ちょっと、なによそれ、あんたね……」
「ちょっと、二人ともやめてよ。どうして私が佐伯に行かなかった理由ごときでけんかしなきゃならないの? せっかく仲良しになったのに、また戻っちゃったの?」
美奈が呆れたように二人を見廻す。
ふくれっつらで互いに顔をそむける詩織と亜美。
「曖昧なことで誤魔化したあんたも悪いよ、美奈」
亜美がすかさず言う。
「なに、私が悪いって言うの?」
大きな目をさらに大きく見開いて美奈が言った。
「いや、悪いなんて言ってないの。ただね、美奈が、独歩にゆかりのある土地の中では2番目に重要な場所だと思っていた佐伯に今まで一度も行かなかったのは何故か? 遠いっていうならわかるけど、美奈が住んでいた福岡から近いんだから、そこらへんをわかるように説明してもらわないと、なんか気持ち悪いのよね」
今度は詩織が言った。
「へえ~、私はべつに気持ち悪くないけど、まあ、いいわ。簡単な話よ。私、子どもの頃から、おいしいものは最後にとっておくタイプなの。遠足のお弁当でいえば卵焼き……みたいな。これって、わかりやすい喩えでしょう?」
白けた表情で首をかしげる詩織と亜美。
「あのちょっと、いいでしょうか?」
近くに座っていた北村がチャンスとみて話しかけてきた。
「は、はい、なんでしょうか?」
驚いて美奈が言った。
「あの、ぼくも旅行に同行させてもらえませんか? いや、へんなことを考えてはいないんです。ただ、越川さんがやめてしまうなら、ぼくも寂しいんです。だからぜひ、ぼくも越川さんの中退旅行……じゃなかった退学旅行に参加させてください、お願いします!」
深々と頭を下げる北村。
「急にそんなことお願いされても……、ねえ」
詩織と亜美に同意を求める美奈。
「へんなこと考えてないって、女子三人に男子一人って、けっこうへんだと思うけど」
亜美が笑いながら言った。
「それより北村さん、あなた、私たちの話を聞いてたんですか? ……っていうか聞こえましたか?」
美奈が訝るように言った。
「はい。お友達のお二人の声が大きいので、左耳に意識を集中していればなんとか聞こえました」
「ふわ~、なんとかって、盗み聴きじゃない。ストーカー予備軍って感じ。あなた、美奈に告白して断られたのに、しつこいね~」
詩織が呆れ顔で言った。
「北村さん、美奈のこと好きという気持ちはあたしにもわかる。片想いはつらいよね。でも、人間、あきらめも肝心でしょ。一緒に旅行すればなんとかなるんじゃないか、みたいな考えはちょっと甘くない?」
今度は亜美が同情するように言った。
「もういい、二人ともやめて。すみません北村さん、突然のことでびっくりしたので、言葉がうまく出ませんでした。この前はいろいろとお世話になりました。でも旅行は私たち三人の思い出のためにやることですから……」
美奈が北村の前で申し訳なさそうに言った。
「はあ、そこをですね、僕も入れてもらって4人の思い出ってわけにはいきませんか。いやね、僕は美奈さんをストーキングしていたわけではないんです。美奈さんだけを見てたんじゃない。たしかに交際を申し込んだ時までは美奈さんだけを見ていました。でも断わられたあの時から、じつはあなたがた三人の姿を見てたんです」
「えっ? なにそれ。あんた、あたしたちもまとめてものにしようなんてとんでもないことを考えてたの?」
詩織が苛立つように言った。
「いや、そういういやらしい意味で聞いてもらっては困るんです。ぼくはね、君たち三人の関係性に興味があるんです。表面的に見れば、今にもばらけてしまいそうな危い関係の中で維持されているというのは実に魅力的です。ぼくはそれに惹かれているんです」
淡々と語る北村。
「意味わかんない」
亜美がつぶやいた。
「もう少し、わかりやすく言ってもらえませんか?」
美奈が言った。
「要するに、僕はあなたがたが羨ましいのです。僕にはあなたがたのような仲間がいませんからね。御覧のとおり、キャンパスではいつも孤独です。ただ、仲間で動いている人がみな羨ましいわけではない。むしろいつもベタベタしている連中をみると、よく息が詰まらんものだなあ、と思うのです。そしてそういうベタベタの関係は近いうちに亀裂が入ることを予見できるのです。そこへもってきて、あなたがたの場合は程々の距離感がある。だから危いようでいて、じつは長持ちする絶妙な関係なのだと思ったのです」
「つまり、この二人が時々けんかみたいになるのも、三人の関係を続ける上では必ずしもマイナスではないってことですか?」
「そうだと思います。倦怠感防止という観点ではプラスの面もあると思うんです。もちろん、そのけんかの程度にもよりますが、真ん中に美奈さんがいて、その軸がぶれない限り、ベタベタの三角形よりもきっと強力ですよ」
「やじろべえみたいな感じかな。お話はなんとなくわかる気がします」
美奈がちょっと感心したように言った。
「でも、あたしと亜美とを一緒くたにしてもらっては困るわ。あっちは性的な愛情。こっちは純粋な友情。同じく美奈を好きだと言っても、質が違うのよ、質が……」
詩織は不満な顔で言った。
「なにが質が違うよ。あんたはセクシャルマイノリティーを差別している」
亜美が気色ばんで立ち上がった。
「言っておくけど、美奈はヘテロよ。いくらあなたが美奈のことを好きでも恋人のようにはなれないわ。あなたは自分と同じ指向の人を探すべきよ」
「余計なお世話。なに言ってんの、恋愛とは縁がないくせに」
「また始まった。あんたたちのけんかには、もううんざり。そんなの旅先でやられたらたまんないわ。三人で行くのは断念して私一人で行かないといけないのかなあ」
美奈はわざと試すように言った。
「とかなんとか言って、ほんとうは北村さんと二人だけで行きたいんでしょ?」
逆に詩織が切り返す。
「詩織ったら、なに言ってるの。北村さん、また友人が無礼を言ってすみません」
「いいえ、ぼくはまったく気にしません。それより美奈さん、せっかく退学旅行をやるって決めたんだから、やっぱりあなたがた三人一緒でないと意味がありませんよ。ぼくも混ぜてくれたら、きっと丸くおさまって楽しい旅ができると思いますよ」
「と言われますと?」
美奈が不思議そうに訊き返した。
「いや、お二人が言い合いになったらぼくが仲裁に入るという意味です」
「そうですか。北村さんがこの二人の仲裁を……ですか? じゃあ、今の場合はどうしたらよかったのでしょう?」
途中で意外であることに気づいて声のトーンを変えて言う美奈。
「今の場合ですか。諸岡さんと佐藤さんは、それぞれの美奈さんへの気持ちを尊重し合えばいいんです。尊重するという肯定形が難しいのなら、干渉しないという否定形でもいい、同じことです。諸岡さんは佐藤さんの美奈さんに対する気持ちに干渉しなければいいし、佐藤さんは諸岡さんの美奈さんに対する気持ちに干渉しなければいいのです。これが男女の三角関係だとそうはいきません。でも幸いにお二人の場合、美奈さんに対するそれぞれの愛し方が違うので、うまくやろうと思えばできるんですよ」
「そうよ、今は詩織が干渉したのが悪い」
亜美が詩織を指さして言った。
「なによ、人を指さして。だって無駄なことは無駄って教えてあげる方が親切でしょう?」
「いや、それは余計なことです。片思いだって恋愛です。文学も片思いを扱った作品が多いでしょう。僕は武者小路なんかけっこう共感するんです。片思いにもそれなりの味わいがある。ただ片思いが悲劇につながりやすいのは、たいてい拒まれるからです」
「でも両想いにならなければ意味ないでしょ? それに自分が好きでもない男からつきまとわれるのは気持ち悪いもん、拒むのは当然でしょ?」
詩織が返した。
「そこですよ、僕があなたがたの関係に関心を持ったのは……。亜美さんの美奈さんに対する関係は、失礼な言い方かも知れないけど拒まれない片思いなんだ。なぜ拒まれないかと言えば、美奈さんにとって同性であり恋愛の対象ではないからでしょう。つまり美奈さんは亜美さんを友達として好きなんだ。お互いの愛し方は違うけど、好きだという思いに違いはない。だから関係が成立しているわけです」
「だから……?」
「だから僕も、同性とは思えないでしょうけど異性と思わないでもらえれば、美奈さんから拒まれないかたちで片思いを続けてゆけるというわけです」
「でもできれば両想いになりたいんでしょう?」
亜美が興味深い表情で言った。
「ええ。最初はそうでした。でも気持ちが変わったんです。僕は亜美さんとも友達になりたい。詩織さんともそうです。あなたがた三人を見ていて、僕もこうして学食であなたがたと会話ができるような、そんな仲間になりたくなったのです。だから、美奈さんに対しては片思いのままでいいんです。亜美さんと同じく、拒まれない片思いでいられたら、それで僕の学生生活も楽しくなるんです」
ここで妙な沈黙が訪れた。気まずくなったのか詩織が気を取り直すように、口を開いた。
「ハハハ、やっぱり亜美は片思いなんだ。永遠に実らぬ恋か……」
「詩織にはロマンってものがないのよ。それでよく国語の先生になるなんて言うわね」
亜美が言い返した。そしてちょっと見直したような顔で北村を見た。
「北村さんの気持ちはわかるんだけど、現時点でよ、恋人でも友達でもない男が、いきなり女3人と旅行するっていうのはさすがに無理があるでしょ。そこはどう考えてるの?」
「そうそう、異性と思わないでって言ってもねえ、やっぱ男には違いないわけで、今はそういう理性的なことを言っててもさ、欲求って急に高まるじゃない。その時が問題なのよ。隙あらばチューみたいな……ハハハ」
詩織も冗談交じりで、以前より北村に対して同情的な感じになっている。
「危険を感じるのでしたら、旅行の間、僕は離れたところにいます。食事にせよ、なんにせよ、皆さんの邪魔にならないように遠くにいますから」
「なんか遠隔監視されるみたい」
わざと意地悪そうに亜美が言った。
「それってさ、さっきの盗み聴きもそうだけど、ストーカーっぽくない?」
詩織も笑いながら言った。
「ストーカーなんて言わないでくださいよ。そんなよこしまな気持ちはいっさいありません。ただ皆さんを見守るって感じです。わかりやすい例を挙げれば、風車の弥七みたいな感じです」
「キャハハハ、弥七って、水戸黄門に出てくるおじさんでしょ? こりゃあいい……」
急に亜美が腹を抱えて笑い出した。あまりに可笑しいらしく笑い顔がひきつっている。
「あ、そうです、そうです。誰かが危なくなると、どこからともなく風車のついた棒手裏剣が飛んでくるってやつ」
「私たちが誰かに襲われそうになったら、あんたさんもそんなふうにしてくれるっていうわけ?」
詩織も両手を口の前に揃えて笑いながら問い返した。
「いや、そういうことではないですが、要は、弥七のようにつかず離れず、程よい距離をとりながらついて来るってことです」
「ハハハ、弥七だなんて何気に言っちゃって、北村さん面白すぎ! ハハハ……」
ウケ続け笑い続けている亜美。
「北村さんって面白い人なんですね。でもそんなに私たちに気を遣わなくても大丈夫です。どうしても男性には遠慮してほしいみたいな時はこちらから言いますので、ふつうに行動してください」
美奈が言った。
「それじゃ、決まりですね! ぼくも旅行に参加していいんですね?」
「はい。北村さんが私たちのことをよく理解してくれていることがわかったので、仲間に入りたいっていうのは大歓迎です。ねえ、そうよね?」
嬉しそうに美奈が二人の方を見た。
「なんか、美奈、急に人が変わった感じ。北村さんのこと好きになっちゃったら許さないぞ」
亜美が笑顔で怒るという不思議な表情を見せた。
「どうせなら、男をあと二人入れて合コン旅行にしても面白いのに……」
詩織も冗談っぽく言った。
「詩織! 私の学生最後の記念すべき旅行を淫行旅行にするつもり?」
美奈が叱るように言った。
「ねえ、北村さん、ちょっと国木田独歩に感じが似てない?」
また詩織が妙なことを言い出した。
「そうですかあ。言われたことはないけど」
「写真で見た感じでは、痩せてて陰気で神経質そうな感じは、たしかに似てるわ」
亜美が言った。
「ひどいなあ。こう見えても僕、号泣県議の野々村君にちょっと似てるって言われるんですよ」
そう言って北村は両手を両耳の前に付けて美奈の方を見た。
「キャハハハ……」
美奈が堰を切ったように笑い出したので、皆も声を合わせて笑った。
3
結局、四人がそろって夏休みになったのは8月に入ってからだった。まず大分空港まで飛行機で行って、そこから佐伯までは直行バスで移動した。
予約しておいたJR佐伯駅近くのホテルに着いたのは夕方近くだった。部屋は全員がシングルである。この旅のメインスポットである国木田独歩館に行くのは明日ということにして、夕食は近所のファミレスに四人で行った。
ホテルに帰ってから美奈の部屋に詩織と亜美が来て飲み会を始めた。美奈は酔うと饒舌になるたちであり、この日は明日の予備知識として独歩についての講演をすると言い出し、亜美に北村を呼びに行かせた。
「いいんですか? ぼくもお邪魔して……」
しばらくして亜美が北村を連れて美奈の部屋に戻って来た。
「初めから遠慮してたんじゃ、おもしろくないじゃない。北村さん、いける口なんでしょう? 今夜はぱーっといきましょう、ぱーっと」
ご機嫌の美奈はそう言うと北村を自分の隣に座らせてグラスを渡して、高級品だと嘯きながらワインをなみなみと注いだ。人が変わったような美奈を見て、笑いながらも驚いている北村。
「北村さん、こんな美奈を見るの初めてでしょう? どうです感想は? 幻滅しちゃったかな?」
亜美が言った。
「いえ、幻滅なんてそんなことはないですが、美奈さんがこんなにお酒が好きだというのは知りませんでした」
「美奈ったら、退学旅行だからって、こんなになるまで、やけ酒飲まなくていいのに……」
詩織がぼやいた。
「誰もやけ酒なんか飲んでませんよ。なに言ってんのよ詩織は……」
「だって、いつもの詩織とは全然ちがうじゃない! 北村さんもびっくりしてるよ」
「酔ってんだから、いつもとちがうのは当然でしょ。詩織こそしっかりしてよ、頭は大丈夫? さて、さてさて、皆さん、この旅行の主役は私、早稲田大学を自主退学する奇特な人はこの私なんですから、これから私の話に耳を傾けてください。傾聴ですよ、傾聴、いいですね。明日、国木田独歩館に行く前の予備知識として僭越ながらこの私が、これからしばらく皆さんのお耳を拝借します。詩織も亜美もいい? 北村さんもいいわね? いいならハイと返事してよ、元気よくハイ!と……」
呂律の回りがあまり良くない美奈の口上に三人とも少々呆れ顔で聞きながらも同時に「はい!」と返事してあげた。
「国木田独歩の略歴はネットですぐに検索できるので各自、頭に入れといてもらうとして、これから話すのは佐伯時代に限ります。それでは『独歩が歩いた道』というテーマで私の最終講義をやらせてもらいます」
三人が「待ってました」などとはやし立てながら拍手する。美奈はよろよろと立ち上がり、また座り込んで、天井を見ながら語り始めた。まるでそこに貼ってある原稿を読むかのように……。
「独歩は暇があると散策しました。距離的には遠足と言うほうがいい場合が多かったと思います。実際、独歩は佐伯という土地で、弟の収二を連れて、山登りを含め実によく歩きまわっています。履物は編み上げ靴だったそうですがブーツのような感じではなかったようです。でも、その行程を考えると驚くべき健脚です。ただし、長距離を歩いたり登山で無理して寝込んで学校を休むこともあったそうです。もともと胸が弱く最終的には肺結核で亡くなるので佐伯時代からもうその予兆はあったわけです。でも一方では散歩によって体を鍛えた面ももちろんありました。今回、その足跡をすべて辿るというわけにはいきませんが、実際に独歩が自然探索として歩いた何十分かの一でも体験できればと思っています。まあ、皆さん、靴とかの準備もないようなので城山登りくらいになると思いますが楽しみにしておいてくださいね。全日程3日の最終日に予定しています。今日は1日目ですから明後日ですよ。とにかく佐伯での10か月ほどの短い期間が、のちの独歩の作家人生に重要な意味を持つことが多くの研究者によって指摘されています。私も独歩の37年の短い生涯の中で最も興味があるのが、この佐伯時代なのです。独歩が佐伯に行くことになったおもな理由は、早い話、お金に困っていたからです。今の私となんか似てますね。あれ、ここは笑うところよ。……ということで、お話は独歩が佐伯に赴任する1ヶ月ほど前から始まります」
そう言うと美奈は、缶ビールの残りをぐっと飲みほした。
4
明治26年8月、東京・京橋の民友社。
(美奈のN)書生風の紋付姿の痩せた若者が、当時の著名人、民友社の設立者である徳富蘇峰の前で頭を下げています。その若者こそ、のちに国木田独歩の名で作家として親しまれることになる国木田哲夫、当時22歳です。
「徳富さん、お願いします。どこか就職口を世話してください」
「君が人に頭を下げて頼み事をするとはよくよくのことだね。まあ、座り給え。御実家が大変なんだって? 君の窮状を知ったから、今日、こうして来てもらったのだ」
(美奈のN)その年の2月、哲夫は自由党の機関誌を出版する自由社に入社し3円の月給を得たがすぐに退社していました。
「以前からわかっていたことでしたが、父が定年で免職になったのです。弟の収二はまだ中学科の生徒です。このままだと私たち兄弟は共倒れです。植村先生や先輩の中桐さんにも斡旋依頼をしてはいますが、なかなか好ましい返答は頂けません。もはや徳富さんに頼る以外にないのです」
「中桐確太郎君といえば、君には福島民報社の話もあったのだったな。あれはもういいのかね?」
「ええ。いったんは断りましたが、最悪の場合は考え直さなければならないと思っています。ただ、その前に徳富さんの方でなんとかお願いできないかと思ったのです」
「うむ。一度、世話をして断られた相手には二度、三度というわけにはいくまい。それでだ、……いつまで立っておる、そこに掛けなさい。実は教師の口がひとつある。君が自由社からもらっていた給料よりは何倍もいいぞ。と言っても大分県だが贅沢は言えまい。それに教師なら君も経験があるだろう。よければ紹介してもいいが……」
「教師ですか……、小学校ならちょっとやったことはありますが……」
「中学校としか聞いておらん」
「担当の科目は何ですか?」
「英語だったと思うが、わしはくわしいことは知らん。この話は矢野文雄氏からの依頼なので、直接、訊いてみたまえ」
「矢野文雄……、『経国美談』を書いた矢野龍渓ですよね?」
「そう、その龍渓さんだ。わしは『報知異聞』の書き手という印象が強い。なにせあれは論争になって、わしも巻き込まれてえらい目にあったからね。今は宮内庁で式部職を務めておられる。郷里の佐伯の学校に教師を一人欲しいのだが誰か適当な人物はいないかとのことじゃった」
(美奈のN)後日、哲夫は蘇峰の紹介状を携えて千駄ヶ谷の矢野邸に行きました。龍渓は哲夫が思ったほど威張った人ではなく、無駄を嫌うと見えて挨拶も早々、すぐに本題に入りました。
「学校というのは鶴谷学館というのだが、ここに館長からの手紙がある。くわしいことはこれに書いてある」
〔龍渓は封筒ごと哲夫に渡す。中の紙を出して開いて読む哲夫。〕
「あれ、担当科目が英語だけでなく数学も書いてあります」
「君は専門学校では英語科だったんだね」
「はい。英語政治科におりましたが、数学は専門ではありません」
「じゃあ、無理かね?」
「い、いや、いいえ、中学なら、独学すればなんとかなるかとは思います」
「うむ、なんとかしてもらいたい。鶴谷学館は今は正規の学校ではなく私塾のようなものだが、教育水準は中等だ。2科目受け持ってもらって、平均すると1日4時間になる。他に教師は2人しかいない。坂本という人が館長職に就いてはいるが……ああ、君の下宿はこの坂本氏の家の二階になる……それで実質的には君が教頭の任を負うことになると思う。生徒は30名ほどで甲乙の2級に分かれ、大半の生徒は社会人と聞いておる。従って基本は夜学だから帰りは遅くなるが、その分、給金も25円と破格だ。御家族は?」
「はい、収二という7つ下の弟がおります。生徒の一人に加えて頂きたいと思います」
「うむ、それはいいでしょう。赴任の日時その他についてはまた連絡します。では、今日はそういうことで、よろしく」
「はい」
(美奈のN)哲夫は、事務的に要領よく話を進める龍渓の役人らしい対応に感心しつつも、いよいよ本格的に教師となる自分を思うとなにかしら空々しい思いをしました。本心は、できることなら大分の田舎などには行かず、この東京でなんとか身を立てたいのでした。そのことを龍渓との面談によってあぶりだされたとも言えます。しかし今さら言ってみても仕方のないことであり、弟と暮らしてゆくためだと割り切って行くしかないと自分に言い聞かせるのでありました。翌日、哲夫は蘇峰のところへ報告しに行きました。蘇峰の送別の辞は、「他人と衝突する勿れ、人を凌ぐ勿れ」というもので、哲夫の性格を知悉した蘇峰ならでは適切な忠告でした。しかし哲夫は、後にこの忠言を地でゆくような事件を起こしてしまうのです。その夜、哲夫は福島民報社の仕事を紹介してくれた中桐確太郎に手紙を書きました。「時に小生愈々大分に参る事に決定致し候。遂に大兄の芳志を空しうしたる罪は最早別に申しわけ仕らず候。ただ幾重にも大兄の御高許を乞ふのみに候。云々」・・・独歩の佐伯行きは、明治26年9月21日の夜と決まりました。その日中、哲夫は、自分が洗礼を受けた麹町一番町教会の牧師館で開かれた送別会に出ました。
〔部屋には立錐の余地がないほど多くの信徒が集まっており、大きなテーブルの中心に牧師の植村正久が座り、その横に哲夫が座っている。長椅子に入れず床に座った者にも等しく茶菓が配られている〕
「先生にも職の斡旋をお願いして参りましたが、結局、こういうことになりました。僕に田舎教師を経験させるのも神の御心なのでしょうか。すべてはお金の問題なのですが……」
「金に余裕があれば、田舎教師の話など断ったかね?」
「当然です。僕の志はあくまでこの東京で身を立てることです」
「身を立てるというが、何をしたいのか?」
「はい、牧師でないことは確かです」
「ハハハ、これは植村先生も一本取られましたな」
〔髭面の長老が言った〕
「国木田さんは文士におなりになるのでしょう?」
〔一人の婦人が言った。〕
「文士とは決めていませんが、なにか書く仕事が向いていると思うのです。記者でもいいのですが……」
「国木田さんはいつか集会でお話された時、日本国を背負って立つかのような壮大な夢を語っておられましたわね」
〔別の婦人が言った。〕
「そうでしたっけ? でもあまり気にしないでください。僕はその時々によって若干の変化があるのです。ただし思想の変節とかではありません。大勢には影響ない程度の変化です」
「そうはおっしゃっても変化は変化でしょう? 真面目に聞いていて損したわ。私はてっきり、この人は将来、博士か大臣になるかもしれないと思って、じつは、結婚のお申込みがあればお受けしようと、今日か明日かと密かにお待ち申し上げていたのです」
〔哲夫より年上で青年会の会長を務める肥えた女性が大声でこう言ったので一同、大爆笑。哲夫だけが白けた表情。〕
「それは失礼しました。博士とか大臣にはなれないとしても、ものを考えたり書いたりして日本の歴史に名を残せる人間になりたいという大志を抱いていることは事実です」
〔堅物の哲夫には、ここでユーモアの返礼を入れる技はない。〕
「その大志を実現する手段としてはだ、大分あたりの田舎教師では不足があるというわけかね?」
「そうです。先生だけはわかって下さるのですね。僕が大分のような田舎に行くのは当座の生計のために過ぎません。契約は夏休み込みの1年です。早く東京に帰って来て、本来の自分の道を進みたいと思います」
「本来の道か。しかし国木田君、その君の思いが、神の摂理の中でどうなるかが問題だよ。佐伯でいい人とめぐり会えるかもしれないよ」
「いい人ってお嫁さんになる人ってことですか?」
〔さっきの肥えた婦人が言う。〕
「ま、そういうことも含めてだよ」
「学校の方は女性の先生もおられるのでしょう?」
〔長老の一人が言う。〕
「あいにく、教師は全員男だし、生徒もすべて男子だそうです。」
「なんですか、それは。普通の学校なんですか?」
「いいえ、まだ正式な学校ではありません。いずれは教師も生徒も増えて女子が入るようになるかも知れませんが、そうなる前に廃校になるかもしれません」
「ま、そう暗い話ばかりでは送別会にはなりません。我々、教会の仲間としては、国木田君の前途を祝して送り出したいではありませんか、ね? 皆さん」
〔いつも元気の良い神学生が言う。〕
「そうだよ。人間がいくらなにかを計画したって、この世の造り主の計画には逆らえないのだからね。人間の出会いなどそうしたもんだろう。傳道之書の3章11節に『神の爲したまふところは皆その時に適ひて美麗しかり。神はまた人の心に永遠をおもふの思念を賦けたまへり。然ば人は神のなしたまふ作爲を始より終まで知明むることを得ざるなり 』とあるとおりだ。存外、君が今、軽んじている田舎教師の職が、君の人生の中で大きな意味を持つかも知れないよ」
「そうならないことを祈りたいと思います」
「いや、そうなることを祈ろうじゃないか。その方が人生は面白いよ」
〔そう言って植村牧師は一同に黙祷を促し、いつもの訥弁で祈りの言葉を語り始めた。〕
「父なる神よ、我らの愛する兄弟である国木田哲夫君が志を新たに九州の佐伯へと旅立とうとしております。どうかその道行をお守り下さい。そして佐伯での教師としての働きがあなたの御心の内に嘉せられ、兄弟の将来に意味あるものとなして下さい。この一言の祈りを尊き主イエス・キリストの御名によりお献げ致します。アーメン」
〔そこに集まっていた大勢の老若男女の信徒たちが牧師の「アーメン」に合わせて大きな声で「アーメン」と言った。〕
(美奈のN)哲夫と収二は、その夜の9時50分発の汽車で新橋から九州へと向かいました。途中、彦根の友人宅に寄り、大阪から汽船に乗り、柳井の実家に寄って宇品と三津浜を経由して佐伯の葛港に着いたのは9月30日の正午のことです。
5
(美奈のN)昼間だというのに、佐伯では、国木田兄弟を出迎えてくれる人はありませんでした。それでも兄弟は気を落とさず、真っ直ぐに旅館に向かいました。午後、すこし経つと、哲夫の職場である鶴谷学館の経営主任をしている中根という人物が訪ねて来ました。ちょっとした打ち合わせをした後、兄弟はさっそく散歩に出かけます。
〔陽光に水面が煌めく番匠川のゆったりとした流れを見ながら兄弟は橋の上に佇んでいる〕
「ほら、見てごらん収二、ご老人が独りで南の方へ舟を漕いでゆくよ」
「ほんとだ。なにかあてでもあるんだろうか。それとも死に場所でも探しているんだろうか。なんだか心細いなあ。今の僕のようだ」
「失敬だな。それに、お前がそんなことを言ってどうする。兄さんの方がよほど心細いよ。でも生きてゆくためだ、弱気なことを言ってたらろくなことはないからなあ。実はあのご老人は商売人で、舟には金の延べ棒か札束がどっさり積んであって、これから取引して益々金儲けをするために、ああして舟を進めていると思って見れば面白いよ」
「だとしたら賊の格好の獲物だね」
「あっ、そりゃあそうだ」
〔腹を抱えて笑いながら、夕陽が沈みはじめた山並みに目を移す二人。〕
(美奈のN)翌日の10月1日は鶴谷学館の生徒が訪ねて来ました。日中は甲級、夜は乙級でした。甲級の生徒は4人来ましたが、その内の一人で山名という生徒は後に独歩と改名した哲夫の印象を次のように書き残しています。「吾々が初対面の独歩を見て最も驚いたのはその風采がひどく貧弱に見えたことだった。木綿の紋付をぞんざいに着、よれた袴をつけ、ぶっきら棒な物言いをする色目の悪い青年に対した時、教師というよりも書生くずれと云った感じがして、これが後任教師なのかと少々失望した。しばらく話すうちに独歩は吾々にカーライルを読みなさいとしきりに云う。その時カーライルの何であるかを知らなかった吾々は、新教師は余程カーライルというものの崇拝家なんだろうと思った。」・・・哲夫は「風采がひどく貧弱に見えた」そうです。なんとなく当時の哲夫の風貌がイメージできますね。さて、その日の夜には乙級の生徒も訪ねて来ました。
〔数人の少年が宿の部屋で哲夫を囲んで座っている。収二もそこにいる。哲夫が口を開く。〕
「僕が佐伯に来たのはただ教師になるためではない。僕も君たちと共に勉強し、修養するつもりで来たのだ。」
〔哲夫の言葉を聞いて感心したように互いの顔を見て頷き合う生徒たち。その連中を見てニヤリと笑う収二。〕
「さて、僕はこれから弟と行くところがあるので、これで失敬するよ」
「では吾々も帰ります。学館でお会いする時を楽しみにしています。収二君もそれまで」
岡崎という生徒が言う。
「うん、また会いましょう」
「開講は4日だ。それじゃ」
〔階段を降りて宿から出てゆく生徒たち〕
「兄さん、また散歩ですか?」
「ああ。今日は城山にでも登ってみよう。ひとつ佐伯の町を眺めてみようじゃないか」
〔ニコリと頷く収二〕
「服装はこのままでよいでしょう」
「まあ、いいだろう。と言うか、それしか持たないだろう」
「ハハハハ」
〔互いに見合って笑い声を上げる兄弟。張りきった表情で二人、宿を出て行く。〕
(翌日の2日は、初めて館長の坂本永年氏と会い、下宿する部屋のことなどを話し、その後、哲夫は坂本氏と共に学館に行って幹事の人たちと学課の相談を行なっています。しかし坂本邸の二階で収二と下宿生活を始めるのは1か月ほど先のことで、まだ旅館に住んでいます。その1か月の間に大変な出来事が起きるのですが、それはまたあとで。とにかく職場の方は、いよいよ、教師の第一日目である10月4日が来ました。)
〔その日は20数名の生徒が出席。現代の学校とは違い、道徳心が活きていた当時は生徒は整然と新教師の挨拶を待っていた。教室に入ってくる哲夫。当番の生徒が起立と礼の掛け声を言う。ところが着席した生徒たちは皆、眼前に立つ、黒の木綿紋付に袴姿の痩せて貧相な青年を見ながら複雑な表情を浮かべている。〕
「私が国木田です。矢野龍渓先生や徳富蘇峰先生の推薦でこの学校に来ました。担当する科目は英語と数学です。よろしくお願いします。ところで皆さん、私は皆さんの師となるためにここに来たのではありません。私は皆さんと共に勉学をするために佐伯に修養に来たのです」
〔ここで俄かに生徒たちがざわつき、隣の席の者と顔を合わせて首をかしげる者もいる〕
「それでは授業と教科書についてお知らせします。まず英語ですが、午後3時半から『ナショナル読本二の巻』を読みます。4時半からは……」
「ちょ、ちょっと待ってくれんですか? なんて言われたですか、ナンシュウ……?」
「ナンシュウではなく、ナショナルです。ナンシュウは西郷さんだな」
「ワハハハハ」
〔クラス一の剽軽者である尾間明が皆の爆笑を誘った〕
「4時半からは1時間、リーディングと古典講読をします。夜の部は8時半から1時間、代数学をします。本はチャーレイ・スミスのもの、それと上野晴先生の代数学……」
「ああ、赤代数ですね」
〔今度はクラス一の秀才、飯沼源治が言った。表紙が赤いので通称「赤代数」と言うのだ〕
「ほう、君はすでに心得があるようですね。さて、9時半からはこれも1時間、スイントンの万国史とヘスチング伝を読むことにします。予定は以上ですが、なにか質問があれば、後で言って来てください。今日は残りの時間で、英語と数学、それぞれの勉学に必要な心得を話しておきたいと思います。まず英語についてですが、単語は毎日10個は憶えること。今日10個を憶えても昨日憶えた10個の内の5個を忘れたらダメです。どんどん累積させる努力が肝要です。そのためには山羊になることです。更紙に書いては食い、書いては食うのです。食ったからには吐き出してはダメだ。三度の飯を一度くらい抜いたところで死にはしない。抜いた分だけ単語を書いた紙を食いなさい」
「いよいよ俺たちは山羊になるのか。単語を書いた紙を食ってめ~、め~、言うと国木田先生が、よろしい、よろしいと言ってくれるのですね」
〔これまた剽軽なような高橋平吉が言うとまた一同、どっと笑った。〕
「君、うまいことを言いますね。でもちょっと無理がある。『~してもよろしい』のmay の発音は『メイ』であって『メー』ではない。ちなみに5月のmay も同じスペルで同じく『メイ』だから『メーデー』というのは間違いだ」
「ま、ま、まあ、今日は初顔合わせだからそう硬いことはおっしゃらず、今日は先生も大いに笑いましょう、笑いましょう……」
〔高橋がまたドッと皆の笑いを誘う。特に「初顔合わせ」というのが大ウケだ。しかし哲夫はニコリともせず真面目な顔で一同を見回している〕
「文法については、とにかく重要構文を暗誦することです。そして……」
(美奈のN)こんな感じで初日の授業は終わりました。しかしまだ、他の教師との面会が残っているのです。
〔職員室……と言えるほどの空間ではなく、教師の数が少ないこともあって控え室のようなものであった。館長と二人の教師が歓談している。そこへ哲夫が授業を終えて戻って来た。〕
「ああ、国木田先生、ご苦労様でした。生徒たちはどうでしたか?」
〔坂本が鷹揚な笑みを湛えながら言う〕
「聞いてはいましたが、甲級は僕と同じくらいか上の年代がいるので少し驚きました。」
「そんなことで驚いていたのでは、ここの教頭は務まりませんぞ」
坂本とは対照的な神経質そうで底ごもった声がした。
「国木田先生、こちらが漢学を担当しておられる中島罷一郎先生です」
〔と坂本がそう言うと哲夫はその声の主を見て、無言でお辞儀をした。見るからに高齢で禿げあがった頭と長い口髭、さらに紋付羽織袴が威厳を醸し出している中島は、哲夫の書生のような風体を呆れたように眺めながら、腰かけたまま軽く頷いて見せた。〕
「そしてこちらは物理と化学を担当しておられる石田豊城先生です。小学校の校長も兼任しておられます」
〔石田は背広姿で英国紳士風である。〕
「石田です。今は運動会やら修学旅行やらの準備で忙しくしています。そんなことでここには時々しか来ませんが、ま、ひとつよろしくお願いします。ちなみに、生徒の中にも飯沼君と言って、小学校の教員をしている者がおります。ここはちょっと変わった学校ですよ。お互い、気楽にやりましょう、ハハハハ」
〔少し声が高めの明朗な感じで好人物の印象を受ける哲夫。〕
「国木田先生の机はこちらです。先生もお座りになって一服してください。今、茶を入れます。これね、生徒が差し入れてくれた饅頭です。佐伯は菓子の評判もいいんですよ」
〔哲夫が座ると、館長が茶と饅頭を運んでくる。〕
「いつものことだが、館長に給仕のような真似をさせては申し訳ない。女事務員の一人も雇えないものか中根に言ってはいるのだが、正式に公立学校として認可されるまでは予算がつかないからだ、などと言う。そのくせ、新任の教師に破格の待遇というのはどうも筋が通らん。国木田君の給料の10分の1でも充てれば事務員の一人や二人、雇えるのではないかね?」
「まあ、中島先生、そういった話は今日は……」
坂本が気まずい顔で言う。
「そうですか。館長がそうおっしゃるならやめましょう。それより国木田君、ここの生徒は、特に甲級の生徒たちは勉学意欲が高いのはいいが、いろいろと要求も多いので十分覚悟しておいたほうがいいですぞ。わしも最初の頃はいろいろと難癖をつけられましてな、講義はもっとわかるように喋れだの本はもっと安いのを使えだのと無理難題を言うので辟易したものです。ワハハハ……」
〔中島が突如、豪快に笑い出した。この人も笑うのか、と哲夫は思ったが、べつだん面白いことでもないのに、いったん自分で言って自分で笑い出すと両耳を覆いたくなるほどの大声で、しかも長いことに呆然とした表情で中島をみる哲夫。その哲夫の顔を見て、ひとつ咳払いして元の表情に戻る中島。〕
「さあて、生徒らも帰ったようなので、そろそろ我々も撤収といきますか?」
〔教室の様子を見てきた館長が言う。それぞれ椅子から立ち上がり、帰宅支度を始める3教師。〕
(美奈のN)こんなふうにして哲夫の教師初日は終わりを告げたのです。
6
美奈たち4人は、翌朝、ホテルで朝食を済ませると予定通り、ぷらぷらと歩いて城下東町にある国木田独歩館へと向かった。駅前から若者の足で20分ほどの行程である。
佐伯市の観光スポットの中心は「歴史と文学の道」であり、昔あった城の櫓門や、独歩と関係が深い矢野龍渓の生家跡、藩医の今泉元甫が、飲料水に事欠いていた庶民のために私財を投じて掘った井戸や、武家屋敷があった通りの跡や茶室などがあり、その中心にあるのが独歩館である。
国木田独歩館は、明治26年10月から翌年6月末まで国木田兄弟が下宿していた坂本永年邸を観光用に改築した建物である。兄弟の部屋は二階であり、そこからは兄弟も登った元越山(もとごえざん)が一望された。
木の門から石畳を歩いて玄関に向かう4人。先頭の美奈が、入館料4人分800円を受け付けの女性に支払った。
中に入ると狭いこともあって、4人は自然に2人ずつに分かれた。美奈と北村は二階の部屋へ、詩織と亜美は1階で展示物を見て廻る。
美奈と北村が二階の部屋に上がると、窓際の隅に小さな木製の机が置かれているのが目に止まった。早速、美奈が前に座り、手で撫でながら眺めている。
北村も美奈の横に座り、美奈の真似をして机の表面を手で撫でてみる。この机で独歩が授業の準備などをしていたのかと思うと二人の胸に感動がひしひしと伝わってきた。
「木の机っていいわね。なんか生きているようで……」
美奈がふと、つぶやいた。
「そうだね。きっと独歩はこの机と会話することもあったんだろうね。慣れない教師生活の中で、その時々の独歩の苦悩や喜びがこの机に刻み込められているようだ」
「まあ、この机が実際に独歩が使ったものとは思えないけど、でもそう思って見ると、おっしゃるとおりね」
美奈は北村の横顔を見ながら、その純朴な人柄に心がときめいていることを感じていた。そして続けて言った。
「今の北村さんのフレーズと似た文章をどっかで読んだことがあるわ。そう、そう、40年くらい前の高校の国語の教科書。たしか辻邦夫さんのエッセイだったと思うけど……」
「そうなんだ。でも今、僕が言ったのはパクリではないよ、僕の自然な心情の吐露って言うか……」
「ごめん、ごめん、そんなつもりで言ったんじゃないのよ。とても素敵な言葉だったから小説か何かにあるような気がしただけなの。気を悪くしたならごめんなさい、許してね。それはそうと、独歩はこの佐伯で誰かに恋をしたと思う?」
「さあ、どうなのかな。そんな出会いがあったのかな。10か月しかいなかったんだよね。仮に好きな女性ができたとしても結ばれない恋だったんだろうな……」
「いちおう佐伯時代に恋愛の相手になった可能性がある女性は、私の見たところ3人いるんだけど、その後、結ばれた人はいないのね。結ばれない恋か……、なんか他人事ではないわね」
「えっ?」
「いえ、なんでもない。ねえ、外の景色、きれいよ、とっても」
「ほんとだ、佐伯ってきれいなところだね。来てよかった。美奈さんもとてもきれいだ」
北村は美奈を見つめてそう言った。窓辺に寄り添う二人。美奈が恥じらうように手を差し出すと、北村はその手をしっかりと握りしめた。 (前編 終わり)
※この小説は実話を基にしたフィクションです。
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