幻滅

平島 公治

小説

23,939文字

昭和45年頃のお話。九州の田舎町の中学で、醜い男子生徒の隼人が美しい女教師の静江に恋をする。隼人は静江にラブレターを出すが、果たして恋は実るのか?そして静江には謎があり、意外な結末が・・・。

 

山野隼人は昭和30年11月、佐賀県のK市という海と山に囲まれた城下町で生まれた。父親は小さな印刷所を営んでおり生活はいつも苦しかった。その苦労が積もりに積もってか、母親は隼人が小学2年生の時に病死した。

隼人が吃り始めたのはその頃からである。小学生のうちはそれほど気にはならなかった隼人も、中学生になると授業中に教科書を読まされることが何よりも苦痛になった。

体が大きくて浅黒く唇が厚い隼人は恰好のいじめの対象であり、男子生徒からは「山猿」というあだ名をつけられ、休み時間などプロレスごっこの相手にされて殴られたり蹴られたりした。

女子生徒も野獣でも見るような眼で隼人を見て、誰一人声をかけることはなく、近寄ろうとはしなかった。

若い女の教師たちは、さすがに生徒とは違って隼人に対して嫌悪感を露骨にあらわすことはなかったが、隼人を見ると同情的な目で嘲笑うのであった。

当然ながら隼人の方も、女は敵であり、誰かを好きになることはなかった。すくなくとも校内では男性教師以外は、自分を拒絶するものと思い込んでいたので、誰にも心を開こうとはしなかったのである。

しかし美男であれ醜男であれ、男子は誰もが性欲を持て余す。隼人もその例外ではあり得ず、四六時中、脳裏に浮かぶのは敵である女であった。自分の部屋にいる時はすぐに自慰をしたくなり勉強が手につかないので、成績はいつも惨憺たるものだった。

当時の男子のおもな「おかず」はエロ本のヌード写真だったが、小遣いがある時は成人を装って日活ロマンポルノを観に行く者もいた。

隼人のような体型の者はちょっと工夫すれば入館することはたやすかったし、仮に疑われても、田舎の小さな映画館では見過ごしてくれることもあった。

しかし隼人の自慰の対象がエロ本やポルノ映画の中の女性になることはなかった。隼人がそれらを見るのは、自分の頭の中のスクリーンに身近な女を思い描く時に使う裸体を記憶するためである。

つまり、警察がモンタージュ写真を作る時に前もって保存しておいたいろんな顔のパーツを組み合わせるように、隼人も記憶して脳の中に貯蔵しておいたいろんな裸体像を、自慰の時に対象となる女の顔と組み合わせて使うのであった。

隼人は、日常生活で接触可能な女でなければ、その裸体を見ても興奮しなかった。勃起にはリアリティーが必要だったのだ。

そうなると隼人の自慰の対象は、学校で会う女たちということになる。その女たちは皮肉なことに、隼人にとっては自分を拒絶する憎悪の対象であった。

彼女たちの全裸姿を直接見ることは当然、不可能であり、修学旅行で浴場を覗いて自慢していた男子がいたが隼人にはそんな度胸はない。

普段、更衣時の教室を覗くことも無理があり、せいぜい夏に水着姿を垣間見るくらいだが、隼人は近寄ることも許されないので、望遠レンズを使うでもしなければこれも困難であった。

ところが隼人は、勉強はできなかったが想像力には恵まれていたので、実際に裸体を見ることができなくても、相手の顔さえ思い出せば、あとは前述のとおり記憶していた別人の裸体をくっつけて自由にポーズをとらせることができた。

だから自慰の時は、エロ本の写真を見るより、目を閉じて脳裏のスクリーンに集中する方が、ずっと強い刺激を得られた。

隼人を蔑みと嫌悪の目で見る女たちを自慰の対象とすることはレイプシーンを想像することを意味する。それが隼人の脳を興奮させる反面、心はどんどん荒んでゆくのだった。

 

 

季節は夏だった。2年生になっていた隼人は、一人の美しい女教師に目を奪われた。国語科担当の園 静江である。静江は当時、三十歳でまだ独身だった。

中肉中背で、白い瓜実顔に六四で分けたセミロングの黒髪がよく似合っており、肩のところで内側にワンカールした毛先が女らしさをいっそう引き立てた。

化粧はいつもナチュラルで、額にかかる前髪の陰から中細の眉が下がり気味に伸び、長い睫毛の二重瞼とくっきりとした目鼻があった。

服装は比較的地味であり、夏は白地のブラウスに青色系のタイトスカートというスタイルが多かった。

隼人は静江から授業を受けたことはなかったが、校内で見かけることはあったし、全校集会では必ず見ることができた。

クラスの生徒は男女を問わず、静江のことを可愛いとか綺麗だと言い、その声が話し相手のいない隼人の耳にはよく聞こえた。中には、当時としては稀だった美容整形を疑う者さえいた。

隼人が通う中学には二十代前半の女教師が二人もいたのだが、静江が赴任して来てからは急に影が薄くなった。生徒の人気は男子も女子も圧倒的に静江の方に傾いていたからだ。

しかし隼人は、どうせ静江も他の女教師たちと同じように自分を見て嘲笑うのだろうと思っていた。

それならそれで自慰対象が、しかも強力なフィギュアが一つ増えるのだからけっこうなことだと思う半面、隼人は、静江の美しい顔が自分を見ることによって一転して険しい表情に変わるのを見たくはなかった。

そうでなくても静江が教材や出席簿を抱えて廊下を歩く姿は、周囲の噂を意識してか他人を寄せ付けない冷たい雰囲気を漂わせていた。

そこにもってきて醜い自分が目を合わせたりしようものなら、嘲笑われるくらいでは済まないだろう。へたをすれば怒鳴りつけられるかも知れないと、隼人は恐れた。その恐れは静江に対してと言うよりも、自分の心がさらに深く傷つくことに対してであった。

隼人は、たとえ遠くではあっても静江を見つけしだい、顔は俯きかげんで歩くことにした。まるで高貴な人か、逆にやくざと遭遇した時のように、けっして目が合わないようにするにはとても気を遣わねばならなかった。

どうせ教師の前ではお辞儀をしなければならない。この姿勢なら最初から頭を下げた状態で進むのだから隼人にとっては好都合に思えた。

静江がこの中学に赴任したのは隼人が入学する前年である。東京の国立の女子大を卒業し、更にその大学院を経て、進学校で有名な都立高校で英語の教師をしていた。大学時代にはイギリス留学の経験もある。

そんな静江が、なぜこんな田舎の中学校に、県の教員採用試験を受け直し、担当科目を換えてまで赴任して来たのかが謎であり、町ではいろんな噂が飛び交っていた。

いちばん多かったのは不倫説で、妻子ある同僚と男女の関係になり、それがバレてしまい、教職を続けるには田舎の中学に逃げ込むしか道はなかったのではないかというのである。

但し、静江が日曜日に教会に出入りする姿を何度か見た人もいて、クリスチャンなら不倫などするはずはないとの声もあった。

静江はどうであれ、男の方が勝手に熱をあげることは大いに考えられた。現にこの小さな町では、通勤や買い物の時の静江を見て一目惚れする男が多かった。

特に独身者の中には静江に求婚の手紙を繰り返し送る男や、脅迫状まがいの手紙を送る女もいた。ひどい場合は、後をつけまわしたりする、今で言うストーカーのようなことをする者もいた。

静江が普段、あまり笑顔を見せないのはそういう事情だけではない。生徒からも卑猥な内容の手紙が送られてきたり、チンピラのような卒業生を連れて自宅を訪ねて来る者がいたからだ。

しかし静江に笑顔が少ないのは精神を病んでいるからではないかと疑う生徒や親たちも少なからずいた。それが次の保養説である。

都会の進学校で多忙のために精神病にかかり、養生を兼ねて田舎の中学教師に転じたのではないかというのである。

そして最後に、少数ではあったが工作員説もあった。当時は左翼学生や知識人による反戦運動が盛んであり、静江も学生時代から友人たちと共に平和教育のための朗読劇に取り組んでいた。

また、静江は授業中に教科書の内容から離れた話をすることがよくあり、特に戦前の教育を厳しく批判したので、それが生徒の父兄の耳に入っていた。

こうしたことから、町の一部の人々は静江が教職を利用して、子どもたちに共産主義思想を植え付けるために来たのではないかと噂したのである。

K市では8月に静江が所属している劇団が招かれ、学校や図書館などで公演し、夏休み中の子どもたちを前に、原爆詩や戦没学徒の遺言の読み聞かせが行われた。

隼人が初めて演者としての静江を見たのは、終戦記念日に学校の体育館で朗読劇が行われた時であった。この時は演劇部の生徒も飛び入りで参加していたが、隼人の視線は静江にだけ注がれていた。

静江は劇の最後に、ある特攻隊員の遺言を朗読したが、公演が終わったあとで司会の教頭に乞われて自身の話もした。それは教職員の間ではすでに知られていた内容であった。

自分の父親は若者を特攻に送り出す側の教官であったこと。隊員には君たちだけを死なせはしない、自分も必ず後に続くと約束したのに結局、出撃しないまま終戦を迎えたこと。戦後は、隊員たちを裏切ることになってしまった挫折感や罪悪感を抱えながらも外大卒の学歴が買われて商社に就職して家庭を持ったが、夜は悪夢にうなされ、時には叫んだり家族に乱暴までして呪われたような日々を過ごしたこと。そして静江の大学入学が決まった日の翌朝に自殺したこと。戦争は亡くなった人とその遺族だけではなく、生き残った人とその家族をも不幸にするものであり、人類最大の悪であるということなどを切々と訴えたのである。

隼人は静江の堂々たる姿に感動し母親のように頼もしく思った。そして心は益々いとおしく恋しい想いでいっぱいになり、胸が熱く締めつけられるように感じた。

「そげな芝居ば見せるとはな、お前らをアカにする入口ばい。学校も学校やな、アカに協力ばして。園先生、そん勢いだとこの先、何をするかわからんぞ。気をつけんとお前んごたるとは送られて奴隷にさるっぞ。日本には一生、帰ってこれんじゃろ」

その日の夜、食事の時に隼人は静江の朗読のことなどを話したが、父親はいつのまにか工作員説を信じ込んでおり、隼人の話はそれを補強しただけであった。

「おいが連れ去らるってね? そげなことあるやろか。もし、おいがおらんごとなったら父ちゃん、どげんすっと?」

「どげんもこげんも行方不明で終わりくさ。警察にはいちおう届けは出すが、朝鮮送りにされたら警察も手のうちようはなか。外交問題になるけんね」

「ほんにおそろしかね」

「そうばい。きれいか花には棘があると言うじゃろ。園先生な、可愛か顔して恐ろしか人ばい。本人も大学でオルグされて洗脳されたっちゃろ。スパイなら整形しとってん不思議はなかぞ」

「父ちゃん、オルグてなんね?」

「勧誘ばい」

「洗脳ってなんね?」

「スパイにすっことたい」

「園先生はスパイには見えんよ」

「ばかたれ。お前に見破られるようなスパイがおるもんか。ハハハ……」

この頃はまだ、隼人にとって静江は高嶺の花であり、自慰の対象になるような身近な女ではなくて、鑑賞すべき絵画の中の聖女のように思われた。

静江が隼人の想像の中で一人の生々しい女になるには、どうしても顔と顔、目と目を合わせなければならなかった。

そしてついにその時が訪れた。隼人が2年生になると、静江の授業を受けることになったのだ。

 

3

 

教室で隼人の席は後ろの方だったが、国語の授業中、目線は静江の顔から首筋、そして豊かな胸、丸みを帯びた尻、そして適度に肉付きのよいふくらはぎや腰まわりへと活発に動いた。無論、そんな時、隼人の股間はもっこりと膨らんでいた。
ふと気づくと隣の男子も鼻の穴を開いて、黒板に字を書いている静江の肢体を舐め廻すように眺めていることがあった。

隼人が目線を合わせてニヤリと笑うと、隣席の男子は不機嫌な顔をして舌打ちをしながら目を逸らし、休憩時間になると隼人を拳で激しくこづいたりした。

他の男子も静江がテストを返す時などに肘が上がると食い入るように半袖の隙間に注目した。言うまでもなく、静江の腋の下、あわよくば胸の方までおがませてもらおうという魂胆である。

特に前の席の男子は至近距離で覗き込むチャンスが多いので羨ましがられた。当時は永久脱毛技術など普及していなかったので、女性たちの多くは安全カミソリで剃る程度だった。それで夏に半袖の隙間から剃り残しが見られることがよくあった。

隼人のクラスでは不良生徒を中心に、静江やその他の女教師の腋毛が今日は何センチくらいだったという目撃談で大いに盛り上がっていた。

女子はそんな男子を「いやらしかあ~」と言いながら自分の腋の下を確認し合って苦笑いしていた。

隼人が静江とまともに目を合わせることになったのは、最初の授業中に起きた出来事であった。静江は隼人が吃りであるとは知らないので、授業中に前の席から順番に教科書を読ませていた。

隼人の番になったが、いつものようにかなり吃ってしまい、教室中にどっと笑い声が上がった。隼人はいつものことなので仕方がないと諦めて読み続けようとしたその時だった。

「なにがおかしい!」という高くてこしのある声が教室中に響いた。皆の目はいつもよりも厳しい表情で、黒板を背に立っている静江に釘付けになった。

やがて静江は教壇を降りて隼人の方に近づき、優しい声で「あわてないでいいから」と言った。すると隼人の後ろの席の女子が、「先生、山野君はいつも吃るとです」と言った。

静江は予想していたかのようにその女子に向かって小さく頷くと、周りを見ながら語気を強めてこう言った。

「君たちは、同じクラスの仲間が頑張っている時に笑うの? 心の中ででも応援してあげるのがほんとうでしょう? それを笑うなんて、それでも君たち血の通った人間ですか?」

教室は静江のこの一言で水を打ったようにシ~ンと静まりかえった。最初の授業で憧れの教師を怒らせてしまい、ショックで泣き出す女子もいた。

しかしそれはあくまで自分のための涙であって、隼人に対する罪意識で流されたものではなかった。その証拠に、お前のせいで叱られたではないかと言わんばかりの表情で隼人を睨みつける者がいた。

隼人はどうしていいものかわからず教科書を両手で持ったまま立ちつくしていたが、周りを見ると笑っている者はいなかった。

静江は隼人に着席するよう促しながら、「吃音は治せるから卒業まで一緒に頑張りましょう」と言った。

反射的に「はい」と答えた隼人は、静江とまともに目を合わせている自分に気づいた。しかも静江の顔にはふだん見せない微笑があった。

静江の、耳に心地良い高めの声も、近くで聴いたのはこの日が初めてであり、あのクールな感じからは意外であった。

そして何より、他の女教師や女子生徒とは正反対の、愛に満ちた表情が自分に向けられているという現実を隼人が受け容れるには少々時間はかかったが、それが夢でないことは自分の吃りによって自覚できた。

隼人にとって自分が吃る時ほど現実を感じることはなかったのである。それは吃りを笑う人間がいるからであり、その他者との関係である社会から逃れられない自分を思い知らされるからである。

朗読の続きはさっきの後ろの女子が引き継ぐことになった。隼人の耳にはその子の流暢な発音が甘美な音楽のように心地よく感じられたが、頭の中は静江の表情でいっぱいで、教科書の文字は目に入っていなかった。

それまで授業中に吃って笑われた時、皆を叱ったり、かばってくれた先生はいなかった。隼人にとっては静江が初めて自分を守ってくれた教師であった。そして何より、学校の中で自分を人間として見てくれた初めての人間であった。

その日、隼人は家に帰ってもずっと静江が見せた授業中の顔を思い浮かべていた。自分をかばってくれた時の厳しい表情、そしてそれとは対照的な優しい表情……、眩しいほどにあたたかな眼差しだった。隼人はその視線になつかしさを感じていた。

小学4年生の時である。春の遠足でのことだが、隼人は弁当を一緒に食べる相手がいなかったので昼食の時間に居場所がなくて草むらに入り、隠れるようにして、自分でご飯と缶詰の魚とを詰めてきた弁当を食べていた。

すると、隼人の名を呼んで探している担任の女の先生の声が聞こえた。隼人が返事をして立ち上がると、見つけた先生は安心した表情で、そんなところにいて蛇にかまれでもしたら大変だから、こっちにおいでと言った。

隼人が出てゆくと、その先生は嬉しそうに隼人の手を引いて自分の傍に座らせ、一緒に弁当を食べてくれた。現在の隼人にとって、あの時の女先生の母親のような目が、今日、自分を見つめた静江の目と重なるのだ。

 

 

季節は秋へと移り始めた。隼人の静江への想いは日増しに強くなり、頭の中は静江のことで一杯で勉強はますます滞り、まったく捗らなかった。

「なあ、おまえ、園ば好いとっちゃろうが。そん顔であげな美人ばどげんかできるち思うとっとか」
ある日、いつも隼人をいじめる不良生徒がそう言った時、隼人は顔から火が出るほどの羞恥をおぼえた。自分が静江を好きだということだけは誰にも秘密にしておきたかったのだ。

隼人は静江に恋文を書くことにした。但し、匿名である。素性を明かさずに思いのたけを書いたものを送りつけるのである。これで発散になれば、少しは勉強に身が入ると思ったのである。

静江の住所は教室での女子たちの会話を盗み聞きしてすでに知っていた。また女子たちが静江のことを「しいちゃん」と慣れ慣れしく呼んでいることも知った。それは女子生徒が静江から子ども時代の愛称を訊き出したからであった。

隼人は下校途中で、少し遠回りになるが海岸の方に行き、静江が住んでいるというアパートを何度か下見に行った。それは手紙を直接、部屋のドアの郵便受けに入れようかと思ったからだ。

しかし、誰かに目撃されてはまずいと思い郵送することにした。差出人が自分であることがバレたら、静江は自分を見放すに違いないし、ただでは済まないことはわかっていたが、それでも静江への思いは行動に移さずにはおれなかったのだ。

最初の投函には大いに勇気が要ったが、その後一週間経っても何ごともないことに気をよくして匿名の手紙を送り続けた。
その手紙は毎回、同じような内容だった。それはこんな具合だ。

「親愛なる静江先生。女子が先生をしいちゃんと呼んでいるので、僕もそう呼ばせて下さいね。しいちゃん、あなたの美しい顔が僕の脳裏に貼り付いて離れません。何をするにもあなたへの愛しさが邪魔をして、勉強も手につかないのです。このままでは高校受験にも支障をきたすのではないかとおそれています。

あゝ、しいちゃん、美しすぎるのは罪だともいいますが、僕もあなたの被害者の一人かもしれません。あなたのことが好きで好きでしかたがありません。あなたの顔、声、しぐさ、すべてがたまらなく素敵に思えるのです。

授業があろうとなかろうと、しいちゃんのことを想わない日は一日もありません。来る日も来る日もしいちゃんのことで頭がいっぱいで夜も眠れません。とても苦しいです。死にそうに苦しいです。どうすればこの苦しみから解き放たれるのか知りたいです。

部屋に独りでいると、しいちゃんの体が目の前に立ち現れてくるのです。あゝ、豊かにふくらんだ乳房よ、淡いピンク色の乳首よ、あなたの赤子になって吸いつきたい。そして乳を腹いっぱい飲みたいのです。」

このような手紙を数回送った後の、秋晴れのある日の昼休みのことである。隼人はいつものように誰もいない教室の窓からグランドで野球をしている連中を眺め、小声で実況アナウンスをしていた。独りで喋る時はなぜか吃らなかったし、標準語で言えた。

「『ピッチャー振りかぶって第一球を投げました。インコース高めに外れてワンボール。今の球は、ちょっとヒヤっとしましたね。』、『あ、そうですか』、『ええ。もう少し中に入ったらホームランコースでしたよ』、『さあ、第2球目を投げた。打ちました。三遊間を抜けてレフト前ヒット!』、『バッターは甘く入ったカーブを見逃さずうまく打ちましたね。ピッチャーにとっては長打にならなかっただけもよかったでしょう』」

ふと、隼人は背中に人の気配を感じた。振り向くと、静江が教室の入口のところに立っていた。感心したように小首をかしげて様子を伺っている顔には、いつものクールな感じとは違って、清らかな微笑みが浮かんでいた。

隼人が驚いた顔を見せたので静江は慌てて姿勢を整えて、「あっ、ごめん。邪魔したね。廊下を通っていたら声が聞こえたので、ちょっと足が止まったの。アナウンサーと解説者の一人二役? 上手ねえ」と言った。 隼人は緊張して何も言えず、ばつの悪い顔をして頭を掻いた。

「山野君、あなたにちょっと訊きたいことがあるんだけど、今、いい?」

静江の声はいつもの高めで澄んだ優しい感じだったが、表情には皆の前で見せる真剣さがあった。

「は、はい」

隼人は不思議な気持ちで返事をした。

「君の吃音のことなんだけど」

「はい」

「私の友だちが東京で言語療法士をしていてね、相談したら、君がその人のところに通えるなら治せるって言うんだけど、遠いから無理よね。だから、わたしがその人からアドバイスを受けてベストを尽くしたいと思うんだけど、どうかしら? 週に1回1時間くらいのペースでやってみない?」

「は、はい。お願いします」

静江と二人だけの時間を過ごすことができる……、隼人は吃りが治ることよりも、そのことが嬉しくて感激のあまり唇を痙攣させながら答えた。

自分のような誰からも好かれない無きに等しい人間のために、誰からも愛される素敵な静江先生がこんなに思ってくれているのだと思うと奇跡のようでもあった。

「先生、がんばります。先生は厳しかでしょうけど、おい、ついてゆきます」

隼人は思いのままを言葉にできた。

「山野君、それよそれ。自分の気持ちを素直に伝えようとすれば吃ったりしないでしょう。周りを意識するからいけないのよ。きっと普通に話せるようになるわ」

「はい」

「それに、厳しくなんかしないから心配しないで。私も言語療法士の真似なんて初めてで、やれるだけやるけど、どれだけ成果を出せるかわからないもの。じゃあ、場所とか時間はまた連絡するわね。とりあえず学校に許可を取っておきます。それともうひとつ」

静江は少し表情を強張らせて言うと、もう一度、後ろを振り返って無人であることを確認した。

「今日、ぜひ君に訊きたかったのは、こっちの方なんだけど…… 」

「な、なんですか」

「単刀直入に訊くね。もし違っていたらごめんなさい」
静江は、隼人の目を見ると小さく咳払いをした。そして今度は少し恥じらうような表情に変わり口を開いた。

「君、わたしに何回か手紙を送った?」

隼人は一瞬、激しい動悸をおぼえて沈黙した。その隼人の表情の変化を静江は見逃さなかった。

「どうした? 気分わるいの?」

静江は、心配そうに隼人の顔をのぞきこんで言った。

「いえ、大丈夫です」

隼人は手紙のことがバレたショックで顔面蒼白になったがなんとか気を取り直した。

「顔色、わるいみたいだけど……」

「ほんと、大丈夫です」

「それで、どうなの? おこらないから正直に答えて」

静江はたたみかけてきた。隼人は再び下を向いたまま沈黙したが、しばらくして覚悟を決めたように顔を上げた。

「送りました。先生、なぜ、おいが出したってわかったとですか?」

すると静江は意外にも満面の笑みを浮かべて、「直感ってやつかな」と言った。

「感でわかるとですか?」

まさかバレるとは思っていなかった隼人は、驚いた表情で問い返した。

「君の、あの作文を読んでいなかったらわからなかったでしょうね。手紙を繰り返し読んでいるうちに書き方が似てるなと思ったの」

「おいの作文って……?」

「去年、君の読書感想文が全国コンクールで入賞したでしょ。「『金閣寺』を読んで」だったわね。それを読んだのよ」

「へえ、先生があれをですか? でもあの時の国語の先生は手塚先生でした」

「自分が受け持つクラスでなくても同じ学校の生徒だもの。コンクールで入賞した作文くらい、国語の教師なら当然、目を通すわ」

「そ、そ、それでわかったとですか」

「まあね」

「す、すんません、先生ばなめとった。まさかバレるとは思わんで、あげな手紙ば出して、ほんなごつ恥ずかしかです。もう出さんので堪忍してください」

隼人は静江に嫌われてしまうことが怖くて必死に謝った。

「いいの、気にしないで。おこってるわけじゃないから。他の生徒の手紙よりも誠意を感じられたし文章もうまかったわ」

隼人は地獄から天国へと急に移されたような不思議な思いに包まれた。静江は続けて言った、

「それに、あの感想文を読んだ時のことを思い出したの。入賞するだけのことはあると思ったわ」

「先生が。ほんとうですか」

「ええ。君が『金閣寺』の主人公と自分とを重ねたところが評価のポイントになったのでしょう。吃音という同じ重荷を抱えているからこそ、主人公の心理を深く理解することができたのね? もっとも作者の意図は別のところにあったとは思うけど」

隼人は、自分が三島由紀夫の小説『金閣寺』に関心を持った唯一の理由が主人公溝口のモデルである林養賢の吃音にあることを静江が見抜いていたことに驚き、恥ずかしさを感じた。

この時の静江の表情は、隼人にとってまさに母親のように見えた。そしてそんな静江の想いが隼人にはたまらなく嬉しかった。

「そうなんですか。おいの他にも先生に手紙ば出すもんがいるとですね」

「それも卑猥なことを書いてくるんでいつもちょっと読んで破り棄てるけど、君からの手紙はピンときたので棄てずにおいているわ。ところで君、私の赤ちゃんになりたいって本当なの?お乳を飲みたいとか……」

静江は最後、笑いをこらえるようにして言った。

「え? は、はい」

言われてみると隼人は、自分もけっこうエロいことを書いていたなと思って照れ笑いしながら返事をした。

「あっ、もうこんな時間。それじゃまた」

静江は時計を見てそう言うと、急ぎ足で教室を出て行った。どうせ、その顔でよく言うよ、とでも言いたいんだろう……と隼人は思いながら、去って行く静江の後ろ姿を見つめていた。

 

 

隼人は週に1回、職員室の静江の席に行き、隣の教員の椅子を貸してもらって吃音を治す訓練を受けた。二人の努力の甲斐あって、徐々に効果があらわれて隼人の吃りは目立たなくなっていった。

隼人にとっては毎週、待ちどおしい日であり、できればもっと増やしてほしかったが、静江がテニス部と演劇部の顧問を掛け持ちして多忙であることを知っていたので、なかなか言い出せずにいた。

そして隼人は三年生になり、高校入試が間近に迫ってきた。隼人の静江に対する欲望は日増しに強くなり、若い女教師や女性生徒などをはるかに凌ぐ勢いに達していた。

それは静江と個人的に接する機会が増えたので、その分、自慰の対象としてリアルに感じられるようになったからだ。

「一度でいいから、先生の部屋に入りたかとです。そして、先生が朗読された特攻隊の人の遺言ば、もう一度、聞きたかとです。おいのリクエストに応えてくれんですか」

ある日、訓練を終わったあとで隼人は静江にそう言った。これは隼人が計画したものだった。静江の部屋に入ることができれば、抱きつくチャンスもあるかもしれないとみたのだ。

「私の部屋に? 男子の訪問は一切お断りしてるんだけど、どうしようかな……」

「だいじょうぶです。なんもせんし、1回こっきりにしますけん。お願いします、先生」

「1回で済めばいいけどね……」

隼人は静江を安心させるために、ここでもう一押し、言うべきことを言わなければならないと思った。

そして今こそ、静江がほめてくれた自分の作文能力が試されるのだと思った。すると、うまいセリフが浮かんできた。

「先生、おいば信用してくれんですか。ほんと、なんも心配はいらんです。特攻隊の人の遺言ばもう1度、先生の朗読で聞きたかって言うたでしょ。おいが先生と話しをしたかことは戦争のことです。先生は、太平洋戦争の戦没者が戦後の平和のために犠牲になったのだと言われたですよね」

「ええ。たしかにそう言ったわ」

それは国語の授業の中で隼人たちが聞かされたことだった。静江の学生時代からの持論は、日本がアメリカと戦争をして負けることによって日米安保条約を結ぶことになって戦争をせずにすんでいるのだから、結果的に日本の戦没者はそのための犠牲になったと言えるのだという。

特に終戦の決め手になった原爆投下で亡くなった人々は、日本の戦後の平和の礎だというのだ。このような静江の考え方は、英国留学によって得た、日本はアングロサクソンとの協調によってこそ平和を守れるとの信念に根ざしていた。

静江はけっして戦争肯定論者ではなく、あくまでも反戦主義者ではあったが、日本は昭和に入ってどの道、ソ連かアメリカと戦争をせざるを得ない運命だったのであり、しかも情勢はどちらと戦っても勝つより負ける可能性の方が大きかったのだから、どうせなら相手が社会主義国よりは自由主義国の方が日本の将来にとってはよかったというのである。結果論といえばそれまでだが、現実主義だとも言える。

当時の隼人にはそこまで理解できるわけではなく、ただ、静江は平和を愛し、自分たちに熱心に教えてくれる優しい教師だと単純に信じていた。だから、自分も平和に関心があると思わせれば、静江の心をつかめると確信したのだ。

但し隼人は、太平洋戦争に関する知識が乏しいので、へたに歴史上の出来事などをしゃべって藪蛇にならないよう注意する必要があった。

そこで、ある時静江が、「戦争は国家間での争いだけではない。自国の中でも戦争といわれることはある」と言ったのを思い出し、これを使おうと考えた。

「先生、戦後の日本は、武器で殺し合う戦争はなかですが、受験戦争という名の戦争はあります。日本が平和になるためには、こん受験戦争という戦争もなくさないけんとではなかですか?」

すると静江は少し驚いたような表情で、すぐに感心したように微笑みながら、「そのとおりよ、山野君。よく言ったね、えらいよ。試験の点数はよくても現実の歴史を知らないし関心もない若者が増えてゆかないように、私は平和教育を地道にやってゆかなければならないと思ってるの」と言った。

「先生、もっと先生のお考えを聞かせて下さい。一度だけでいいのでお部屋に行ってはいけませんか? お願いします」

隼人にしてみれば、日米安保条約も平和教育もどうでもいいことであって、すべては静江の部屋に入るための一世一代の大芝居といったところだったが、これが真面目な性格の静江には効を奏した。

「わかった。発話訓練の一環ということで一度だけ許可します」

「ありがとうございます」

隼人は、いつもよりも深々と頭を下げて礼を言った。

「それじゃあ、先生、今度の月曜日、勤労感謝の日に行ってもいいですか?」

「その日もテニス部の練習があるけど、夕方なら時間をとれるわ」

静江は中学と高校で硬式テニスをやっていたのだが、まさか赴任して早々、顧問をやらされるとは、しかも前述のように、演劇部との掛け持ちになるとは、思いもよらぬことだった。

「わかりました。じゃあ、3時すぎにうかがいます」

隼人は張り切って返事した。心の中で、しめた!これでしいちゃんをものにできるかもしれないと呟いていた。校門を出ると、静江と二人っきりで部屋の中にいる自分を想像しながら夢見心地で道を歩いて行った。例のごとく、いつしか股間がもっこり膨らんでいた。

 

 

月曜日になり、隼人は胸を躍らせながら自転車で静江が住むアパートに向かった。昨夜は興奮して一睡もできなかったので、少しふらついた。午後3時まで待ち遠しかったが、静江の抵抗を抑えるための道具を準備し、計画を練って時間を潰した。

目的地のアパートは隼人の家と学校との中間にあり、静江はいつも学校まで徒歩で通っている。静江を囲んで生徒がぞろぞろと歩く姿が町の人の目には興味深く映るのだ。

「あかね荘」と書いた表札を掲げた古い木造の建物に着くと、隼人は隅の方に自転車を停めて階段を昇った。ぎしぎしという音は静江の耳にも届くだろうと思いながら、男子生徒では初めて静江の部屋に入るのかと思うと動悸がしたが、それは心地よい息苦しさであった。

部屋のドアをノックするまでもなく、静江が部屋の外に出て待っていた。

「よく来たね。さあ、入って」

そう言って静江は笑顔で隼人を部屋の中に迎え入れた。隼人が目にしたのは、ダイニングキッチン付きの質素な八畳一間である。特段、若い女性の部屋という感じはしない。

中央に卓袱台があり、壁側には新聞や演劇雑誌などが山積みの机と椅子がある。反対側には本棚と箪笥が並んでいて、棚の上には小さな観葉植物の入った鉢が置いてあった。押し入れを見て隼人は一瞬、静江の体臭が沁み込んでいるであろう、ふっくらとした布団の感触を想像した。

「これでも整頓したつもりなんだけど狭いでしょう。そこに座って」

静江は座布団を出しながら隼人に声をかけると、背中を向けてお茶菓子の用意をしている。

「こ、ここに男子が来たことあるとですか? 」

「あるよ。中には入ってないけど」

「ク、ク、クラスのもんですか」

「そうよ」

「入れとらんとでしょう?」

「入れてないわ。男子でこの部屋に入るのは君が最初で最後よ」

「女子は入っとるとですか?」

「ええ。でも最近は遠慮してもらってる」

「そうですか」

「うん」

男子では自分だけが静江の部屋に入ることができたということを確認して、隼人は久しく味わっていなかった充足感を得た。

「ところで山野君。私の悪い噂を聞いているでしょう? 君はどう思ってるの? 正直に言ってごらん」

静江は大きな丸い缶に入ったビスケットと紅茶を入れたカップを二つ卓袱台の上に置いて、隼人と向い合わせに座るとそう言った。

「おいは、東京でなんかあって、こ、こん町に逃げて来られたのかなと思ってます」

「ふ~ん、そうなの。逃げるって何から?」

静江は、わざととぼけたような顔で言った。

「け、けいさつです。スパイなら公安ですよね」

「ハハハハ、何言ってんの、君」

けたたましく笑い出した静江だったが、表情はどこか怒っていた。

「おやじが先生は朝鮮のスパイだと言うとです。そしたら、せ、せいけいばしとるかもしれんと……」

「まあ、君のお父さんにかかったら私もさんざんね」

静江は空笑いしながら、紅茶を一口飲んだ。その時、静江の左手の中指にはめられている指輪が目に止まった隼人は、あらためて静江が左ききであることを思い出した。そして男がいるのかなと心配になった。学校では静江が指輪をしている姿を見たことがなかったからだ。

「そしたら先生、おいも訊いてよかですか」

「なに?」

「先生は、こ、こいびと、いるとでしょ?」

「いないわ。気になる?」

「はい。誰か好いとる男がおるとでしょ?」

「特にいないけど」

「そん指輪は?」

「ああ、これ? これはおまじないよ」

「おまじないって?」

「いいじゃない、そんなこと」

「やっぱりおるとですね、好いとる男が。相手はまさか、学校のに、にんげんですか? もしかして数学の香椎ですか?」

「いえ、学校関係者ではないわ。それに恋人ではなく私の方が勝手に好きなだけ」

「先生が好きな人って誰ですか? く、くやしか、町の人ですか?」

「さあ、誰かしらね。秘密にしておくわ。それより君、戦争と平和の話をしたくて来たんでしょ。始めましょうか?」

静江は珍しく眉間に皺を寄せてそう言った。

「はい。でも、もっと先生のことを知りたかです」

「やっぱりそうなの。君がここに来た目的はそっちなのね。私をどうかするつもり?」

「お見通しでしたか」

隼人は観念して言った。

「私をどうしたいの。正直に言ってごらん」

「先生のことが好きです。あ、あまえたかとです」

「甘えたい、いいわよ」

意外にも静江は、隼人の方に体を向け、抱くように両手をあげてそう言った。

「よかとですか?」

「ええ。甘えるのはね。時間がもったいないから、やるならお早くどうぞ」

静江はさらに隼人に近づいたので、隼人は静江の肩に手をかけ、顔を近づけてキスをしようとした。

「山野君、それは甘えるのとは違うでしょう。君がキスをする相手は私ではないわ」

静江が隼人の胸を押して離れたので、隼人は右手を静江の横腹にかけて強引に引き寄せた。

「なんばいよっとね、先生。おいがな、あ、あまえる言うたとは、こうすることばい!」

隼人は静江の上に覆いかぶさり、抵抗する静江の両手を強引に持ち挙げて組ませ、このまま動かないようにと叫ぶと、上着のポケットから手錠を出して、静江の両手にかけた。

「ちょっと、なに、これ?」

静江は悲鳴をあげるように問うた。

「見ての通り、手錠です」

「どこで手に入れたの?」

「ホンモノの手錠じゃなかですよ。お、おもちゃの手錠はデパートに売っとるとです」

隼人はもう一方のポケットからガムテープと小さなナイフを取り出し、テープを静江の口に巻き、ナイフを静江の首元に当てると、これ以上、抵抗しないようにと言った。

「しいちゃんはもうおいのもんばい。は、はじめて見た時からずっと好きやったとです。先生がおいに冷たくしたら、もっと痛めつけて犯すとに。先生が優しくしてくれたからあんまり攻められんばい」

隼人はそう言いながらも荒々しく静江の服のボタンを外しブラジャーを剥ぎ取ると、あらわれ出た豊かな乳房をわしづかみして奇声をあげ、むさぼるように乳首や腋の下を舐めまわした。

その隼人の動きに呼応して静江の甘い声が、淡いピンク色の唇の隙間からテープ越しにもれてくる。

隼人はもっと声が聴きたくてテープを剥がし、さらに乳をもみながら、今度は乳首を吸ったり軽く噛んだりしつつ愛撫を続けてみた。

すると「あ~ん、あ~ん」と清らかなソプラノが響き渡った。静江の美声を聴いてますます興奮した隼人はよだれを垂らしながら激しい息づかいでズボンを脱ぎ、硬く勃起して肉棒と化した大きなペニスを取り出した。これを目のあたりにした静江の声が驚愕のうめき声に変わった。

隼人は素早く静江のスカートをめくり上げて、汚く荒れた両手で一気にパンティーをおろすと、今度は股間の黒い花園に顔を埋め、首を左右に軽く振りながら奥へ奥へと舌を入れて蛇のように這いまわらせた。

クリトリスというものさえ知らない隼人は、ただ欲望のおもむくまま無我夢中に長い舌でところかまわず舐めまわすだけである。それがかえって快感なのか、再び静江の甘い声がさっきよりも一段と高鳴った。近所に聞こえてはまずいので、すぐにまたテープを口に貼った。そのかわり、もう静江の抵抗は無いとみて手錠を外してあげた。

そして隼人は、すでに液が流れ出している巨根を静江の下半身にあて、「やっと、しいちゃんをしとめたぞ!」と、獣のように勝利の雄叫びをあげたのである。

 

 

どれくらい経っただろうか、いろんなことを試みていつしか射精の快感で眠りこんでいた隼人は、静江のうめき声で目が覚めた。起き上がり、静江の口に巻いたテープをゆっくりとはがした。

「君がこんなことをするなんてショックだわ。幻滅した」

静江が涙目でそう言うのを隼人は正視せず、なんとでも言えと思いながら男根を撫でた。こうなったら欲望のおもむくままに、さらにやりたいだけやるしかない……、あとはどうなろうと知らない……、隼人はそう自分に言い聞かた。

「今度は先生が、ちゃんとおいにしてくれんと」

隼人は童貞で、女の体のことは無知だった。だから自分の勃起したペニスを静江の膣の中に入れようとするのだが、どうしても入れることができなかったのだ。

「なに言ってるの。サックもしないでそんなことをしたら、私が妊娠するかもしれないのよ。そうしたら、君、責任とれるの?」

「そげなことはしらん。おいのチンポコば、先生のオ、オ、オマンコに入れられんとじゃけん、どうもならん。なんで先生はおいのチンポコをば握って自分のオ、オマンコに入れてくれんとですか?」

「そんなことできないわよ。私だってしたことないんだから。処女なのよ私」

「ワハハハ、しいちゃんのウソつき! なんが処女ね、そ、そん顔で。さっき聞いたとですよ、先生のもだえる声ば。あ~ん、あ~んってたまらんかったあ。あん声は処女の声じゃなかよ。とにかく色っぽか。じゃけん、おいは先生ば独り占めしたかと」

「なに言ってんの、童貞のくせに。声で処女かどうかなんてわかるの? 感じたら誰でもあんな声が出るのよ」

「うは。や、やっぱ、感じとったとですね?」

「もうすこしで、いきそうだったわよ」

「えっ? い、い、いきそうってどこに?」

「わらないならいいわ。ほら、エッチなことばかり言ってるから、せっかくよくなったのにまた吃ってる。ところで、いくと言えば、君、高校はどこにいくの?」

静江はひとつ咳払いして、照れながら問い返した。そして隼人が油断した隙を見て下着を着けた。

「なんね、こ、こげん時に。志望は東高です」

「自信は?」

「今のままでは難しかです。市内の普通科は無理かもしれん」

「普通科しかだめなの?」

「商業や工業は不良が多かでしょ。いじめもひどかですよ」

「それならなおさら勉強に身を入れなきゃね」

隼人は静江を抱き寄せた。

「よしなさい」

静江は隼人の手を握って、自分の体を離しながら言った。

「なんね、先生、おいのもんでしょうが……。うん?いつのまにかパンツばはいとる。先生、おいは勉強しとってもそん顔が目の前に現れるとです。も、もう、どげんもこげんもならん。進学は無理ばい。お、おいが社会に出て中卒で恥かくとは先生のせいばい」

「君の、その問題を手っ取り早く解決しようと思ったら、私が君に幻滅したように、君も私に幻滅するしかないと思うの」

「幻滅ってなんばですか?」

「だから私によ」

「先生に? なん? どげんしてですか?」

「どげんって言われても……。とにかく受験勉強のためには、君は、私のことなんか忘れなきゃ。もう二回もやったんだから気がすんだでしょ。それに私の周りにはぶっそうな人間もいるから、私と親しくなるとろくなことはないわ。君を危険な目にあわせたくはないの」

静江はそう言いながら、隼人が飲み干したカップに再び紅茶を入れた。

「まあ、ちょっとこれ飲んで落ち着きなさい」

「先生、二回やったって何ですか、皮肉ですか。チンポコばオマンコに入れてもらえず、しかたなかから、先生のケツの穴にぶっこんで射精しただけのこってすたい。浣腸よ、浣腸。おかげで先生も便所に駆け込んですっきりされたっちゃなかね。おいは、ウンコば出しよる先生も見たかった。こん綺麗か顔でウンコばするところば。ああ、先生のこと忘れるなんて無理です。おいがこの世でいちばん先生の美しさば知っとるとじゃけん。いつも先生の美しか顔が目の前に現れてくるとです。起きとる間は四六時中、先生が恋しゅうて恋しゅうてたまらんとです。寝とっても先生の夢ば見るほどです」

隼人は性交には至らなかったがある種の達成感に酔っていた。そのせいか、ここは流暢に喋れた。

「ちょっと落ち着きなさいってば、山野君。君の目の前に現れる美しい女の人の顔というのはね、それは私の顔ではないの。君の想像力によってつくられた幻よ。だから美しいのよ」

「先生の顔ではなかって?」

「そうよ。実物を見たらきっと思ったほどじゃないってわかるわ。ほら、『金閣寺』の中にもそういう場面があるでしょう。主人公の彼が最初に金閣寺を目の前にした時、それまで想像していたほどは美しいと思えなかった。彼は、現実の金閣ではなく、自分が想像した金閣の幻を美しいと思っていたのよね。もう一つ、生け花の師匠の女性、あの人のことを彼はずっと好きだったのに、いざ、会ってみると女を感じなかったでしょう。これも幻だから、現実の前では滅び去ったの。君も現実の私を見なきゃダメよ」

「現実の私って、先生の顔はこの顔でしょう。美しかこの顔のほかにどこに先生の顔がある言うとですか?」

「せっかくほめてもらっているのに残念だけど、お化粧を落として素顔を見せるわね。ちょっと待ってて」

静江は洗面所に行き、しばらくして戻ってきた。化粧と言っても静江はいつもナチュラルである。隼人がおもむろに顔を上げて静江の顔を見ると、確かにいつもと少し感じが違う。素朴な感じがするのだ。

静江は隼人の前に立って、 「どう? 実物はそんなに綺麗じゃないでしょう?」と言った。部屋はうす暗くはなっていたが、静江の顔は首筋にある微かな点のようなほくろまで、はっきり見えた。しかし隼人にとって、静江の美しさには一点の曇りもなかった。

「うんにゃ、うんにゃ、やっぱり先生は綺麗かです。しいちゃんは可愛か」

隼人はすかさずにそう答えることができた。それは隼人が本心から、そう思ったからである。

「そう思ってもらえるのはありがたいけど、山野君、君はもうここに来てはいけないわ」

「先生はおいを見棄てるとですか。こげん好いとっとに」

「見棄てるなんてとんでもない」

「それならおいと、今度はセックスばしてくれんですか?先生となんどでもセックスばしたかとです」

隼人は叫ぶように言った。

「いや、それはダメ。山野君、落ち着きなさい。君や私の性欲なんて、あの戦争で地獄を味わいながら死んでいった人たちのことを思えば、なんの問題にもならないわ。クズみたいなものよ。私たちは戦没者の尊い犠牲の上に生かしてもらってるの。だから私たちは何より日本を平和にするために尽力することを考えながら働いてゆかなきゃならないのよ。そのために今は必死に勉強しなさい。苦しい時は飢えとマラリアに苦しみながら祖国の土を踏むことだけを希望にして歩き続けた兵士のことを思いなさい。彼らが味わった地獄の苦しみに比べたら、私たちが経験する苦しみなんて苦しみのうちに入らない。カスみたいなもんでしょう」

「はい、先生。苦しい時は戦争で地獄を経験した方々のことを思います」

「そうです、感謝をもって思いなさいよ。彼らの苦しみは私たち、戦後を生きる者たちの命の代償なんだからね。そして山野君、町の教会の神父さんは私の姉の旦那さんなの。義理の兄ってこと。私は姉さんに悪いとは思いながらずっと好きだった。彼が神父なんかになるなんて夢にも思わなかった。だから姉さんが死んだ後、こうして追っかけてきたの。地元の高校には空きがなかったから中学にしたの。それも担当教科を得意の英語ではなく、請われた国語に変えてまで……。でも神父さんは結婚を禁じられてるでしょう。私はクリスチャンでもないのに日曜日に教会に行って、ミサが終わって信者さんが帰るまで隅っこでずっと待っているの。そして司祭館で一緒に食事をしてから、彼をベッドに誘うの。私だって生身の女だもの。30の独身だもの。君が女を欲しいと思うように私も男の人の体が欲しい時もあるわ。でも彼は入れてはくれない。だからさっき言ったとおり私はまだ処女なの。彼、口の中にも入れてくれないのよ。からだじゅう愛撫だけして、私、かえって火をつけられるだけで、消火は自分でしないといけないからきついのだけど、好きだからやめられないわ」

隼人にしか見せない、今の静江の表情はまた一段と美しかった。恐いほどに美しかった。

「そげんこと聞いたら、おいは、なおさら先生ば欲しくなるです。でも、先生がこげな町に来た理由がわかってうれしか。好いとる男が神父さんだったなんておもしろかね」

「彼はごく普通のハンサムなサラリーマンだったのに、どうして聖職者になっちゃったのか、私には皆目見当もつかないの。いつか彼の腕の中ではてる日が来ればいいなと思ってはいるけどね。でも私のそんな恋心なんかクズにすぎないの。君は知ってるでしょう、あの戦争で犠牲になった約230万の英霊たちを。彼らを含む約310万人の日本人戦没者が私たちに託した尊い思いを……」

「はい。でも、今のおいには正直そげんこつ、どげんでんよかとです。300万が400万でも関係なか。おいはただ先生ば、先生ば欲しかとです。死ぬほど、欲しかとです。こげん醜かおいにやさしくしてくれた先生には悪かばってん、それはおいの正直な気持ちです」

「山野君、君は醜くなんかない。醜いのは、自分の幸せだけを考えて他人を押しのけて生きている人間の心よ。アメリカと軍事同盟を結んだのはよかったけど、問題は経済よ。自由主義はいいけど、アメリカのてこ入れで急激に発達した資本主義が日本人をおかしくしているの。アメリカナイズという名の退廃。個人主義という名に隠れた利己主義。戦争で私たち日本人が失ったものは道徳であり、何より仲間を思いやる熱い心なの」

ここで隼人は、いちばん疑問に思っていたことを静江に訊くことにした。

「先生。先生はどうして結婚せんとですか。いくらでもよか相手はおるだろうに」

「私は結婚なんかする資格はないのよ。人並みの幸せなんか求める資格はないの。だって人を騙して死に追いやった罪人の娘だもの。その亡くなった若者たちのことを思えば、どうして私が幸せになることが許される? 彼らは人並みの幸せを味わうことなく死んでいったのよ。彼らを地獄に突き落としておきながら、のうのうと生き延びた人間の娘に家庭を持つなんて許されるわけがない。私にできることは、日本国がもう二度と同じ過ちを犯さないように、生涯、次の世代に平和の尊さを伝える活動をやって償ってゆくことなの」

「そ、そしたら先生はほんとに結婚せんとね。誰のものにもならんとね。そ、それならおいは諦めもつきます」

「山野君。君は私のことをお母さんのようだって言ってくれたよね。中学生の子を持つ母親を演じるにはまだ若いけど、君のその気持ちは嬉しかったよ。正直、私は君のことが可愛いもん。体は大きいけど私の前で顔を赤らめる君が、君のその目が、可愛くて可愛くてたまらないもん。君がお母さんにどんなに愛されたのか、近くにいるとよく感じるわ。母性が君の全身を包んでいるのよ。お母さん、可愛いひとり息子の君を残してさぞ、おつらかったでしょう。私がそのお母さんの代わりになれたらって夢想したこともあったのよ。でもどっちにしても君のお父さんに拒まれたわね。それに君自身に対しても、私を襲ったんだから、もう信頼することはできない。ましてや、一緒に生きてゆくことなんかできない。それより君だけに打ち明けておきたいことがあるの。実は私、朗読劇の後で話をした時、言わなかったことがあるの。自殺したのは私の父親だけではなく母親もなの。父が自殺して間もなく母も後を追ったの。昔は夫の後を追うのが妻の美徳だったのかも知れないけど、もうそんなことは通用しない時代なのに母は古い人間だったのね。姉と私の娘二人を残して死ぬなんて」

「そげんだったとですか。そいばなんでおいに……」

「私たち家族は呪われていた。姉は結婚して間もなく不慮の事故で亡くなった。まだ子どもがいなかっただけでも不幸中の幸いだったわ。生き残った私自身、呪われてるの。父に裏切られて死んでいった特攻隊の人たちにね。だからそんな私を好きにならないほうが君のためにはいいってことを言いたかったの。私はいずれ、誰かに刺されて死ぬのでしょう。彼氏が私を好きになってふられたから許せない、殺してやるという内容の脅迫状が時々来るからね。いつも覚悟はしてるわ」

「なんね、先生ばねろうとる女がおるとですか。そげな女がこの町にいるとですね。先生がそんなことにならんように、おいが命がけで守りたか。でももうすぐ卒業です。おいは市内の高校には入れんから佐賀まで通います。先生とはもうすぐお別れなんですね。先生は、しいちゃんは、神父さんが守ってくれるとでしょ。先生はおいが先生に幻滅するって言ったけど、今日、おいの中で滅びたのはおいが性欲で見てきた先生です。おいが勝手に想像した先生の幻が滅びたとです。そしておいの心に永遠に生きてゆくとは、誰からも人間扱いされんかったおいを一人の人間として扱ってくれた実物のしいちゃん、園 静江というホンモノの教師です。仰げば尊し。先生はおいの中で永遠に聖女として生きてゆくんだ! 誰にも邪魔されん。静江先生本人からも邪魔されん。だから、おいが先生ば襲ったなんて……、襲ったなんて言わんでくれんですか。入れきらんかったとは正直くやしかです。でも先生にしてみたら未遂に終わったとです。おいは先生ば犯せんかったとです。先生が入れ方ば教えてくれんかったからおいは童貞です。先生のせいで、先生のせいで一生、いや永遠に童貞ばい」

隼人は幼い子どものように泣きじゃくりながら言った。

「わかった、わかったよ、山野君。今日のことは忘れるわ。本当なら生徒とは言え、道具まで用意して計画的な犯罪だから、本人が繰り返さないためにも被害届を出すところだけど、ホンモノの教師とまで言ってもらえたことだし、誰に対しても、もう、こんなことやらないと誓うのなら、君から襲われたなんて言わないわ。強姦未遂だなんてね」

静江はわざと最後、声を高めにして笑いながら言った。

「誓います。もう、やりません」

「うん、わかった。君が卒業するまでは、君と二人だけで会うことはもうないと思うけど、私はいつもお母さんのような気持ちで君のことを見ているからね。がんばって」

「はい」

静江の部屋の窓から海が見えた。その窓を開けて潮風に髪をなびかせながら静江は立った。水平線に沈もうとしている夕日が鱗雲を赤く染め、群青の海面は厳かに照り映えている。隼人は、遠くを見つめる静江の横顔の美しさに圧倒された。やがて静江は目を閉じてひとつ深呼吸すると、隼人のリクエストに答えるべく、舞台でいつもするのと同じように、実在した特攻隊員の遺言を朗誦した。
「大石清伍長遺言。
なつかしい、しいちゃん!お別れの時がきました。兄ちゃんはいよいよ出撃します。この手紙が届く頃は、沖縄の海に散っています。思いがけない父、母の死で、幼いしいちゃんを一人のこしていくのは、とてもかなしいのですが、ゆるして下さい。兄ちゃんのかたみとしてしいちゃんの名であずけていたゆうびん通帳とハンコ、これはしいちゃんが女学校に上がるときにつかつて下さい。時計と軍刀も送ります。これも木下のおじさんにたのんで、売ってお金にかえなさい。兄ちゃんのかたみなどより、これからのしいちゃんの人生のほうが大じなのです。もうプロペラがまわっています。さあ、出撃です。では兄ちゃんはゆきます。泣くなよしいちゃん。がんばれ!」

両親を失った兄と妹、その兄である大石伍長が、出撃を前にして幼い妹に遺したメッセージである。その素朴な言葉の中に戦争の残酷さと平和への祈りが読み取れる。同じ「しいちゃん」と呼ばれた静江が特に愛誦した遺言である。

隼人は静江の横に立ち、全身に震えがくるような魂の声を聴いていた。すると頭上に零戦の軽快なエンジン音が聞こえ、大きく旋回して、操縦席に白い鉢巻をしたパイロットの顔が見えた気がした。

隼人は思わず「大石さ~ん!」と叫びながら夕日が沈みかけた水平線に向かって手を振り、こみあげてくる涙が風の中で吹き飛ばされるにまかせていた。

2日後、隼人は学校で、作家の三島由紀夫が陸上自衛隊の市ヶ谷駐屯地に突入し、バルコニーで演説の後、東部方面総監室で割腹自殺を遂げたことを知った。そして翌日の国語の授業で静江が以下の三島の言葉を感慨深く語るのを聞いた。

「私はこれからの日本に対して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。」

三島の死の5日後、月末は月曜日だった。静江はその日、顧問をしている演劇部の練習が終わった午後7時すぎ、いつものように徒歩で帰路についた。

天気予報は晴れのち曇りだったが、途中で小雨が降ってきた。いつもなら曇りの予報でも折りたたみ傘をバッグに入れて来たのだが、たまたま今日は会議の資料などが加わってバッグが満杯になったので傘は省いた。静江はしかたなく軽く走り出した。

走ることはテニス部の練習につきあっているので慣れている。30代に入ったとは言え、静江の体はまだ若かった。

ようやくアパートより1キロほど手前の公園についた時、雨が急に強くなり、静江は公園のトイレで雨宿りをしようと入り口の軒下に駆け込んだ。

その時、傘をさした人物が道路から公園に入り、静江の方に早足で近づいて来る。顔は傘に隠れて見えないが、若い女であることは傘の柄や、服装から察せられた。

トイレに入るのだろうと、静江は邪魔にならないようにバッグを下に置いて、少し脇に寄った。いよいよ女は静江のすぐ前まで来て傘をおろし、背中から軒下に入って傘をたたんだ。

「園先生ですよね?」

若い女は、静江に横顔を向けたままで言った。

「はい、城内中学の園ですが……」

「……」

女は無言のまま傘をたてかけると、半回転するように静江の前に立ち、服の下から刃物を取り出して鞘を払った。

「手紙ば送った者です」

小声でそう言うと女は、刃渡り10センチほどの果物ナイフを静江の方に向けた。

静江はバッグを盾にすべく持ち上げようとしたが風圧を感じるほど女が接近してきた。間に合わないとみて逃げようとしたが前方を阻まれているので、トイレに入るしか道はない。

中から鍵をしめればなんとか凌げるかもしれないと思ったが、そこまでたどりつく前に女が追いついた。次の瞬間、うっといううめき声とともに、洗面台にしがみつくようにして静江がひざから崩れ落ちた。

腰のあたりにナイフが刺さり、傷口から鮮血が噴き出して足元に流れ出している。

静江は気力を振り絞って洗面台につかまりながら立ち上がると、ゆっくりと女の方に振り向いた。

女は、痛みに耐えながらも乱れのない静江の美しい顔を見て圧倒され、自分の両手を見て悲鳴をあげた。そして逃げ去ろうとした時、女の背後から静江が声をかけた。

「このまま逃げるの? 私、死なないかもしれないわよ。私が憎いんでしょう。殺したいならとどめを刺しなさい。ほら、ここ」

静江は右手で自分の心臓のあたりを指さした。女は両手を前に差し出したまま、目を見開いて荒い息をしていたが、やがて意を決したようにナイフを抜き取ると、奇声をあげて静江に抱きつくように胸を刺した。

静江の上半身が後ろに反り返り、次にその反動で前方の、女の足元に倒れ込んだ。うつ伏せの静江の体の下から見る見るうちに血の海が広がってゆく。

女はその様を見て泣きわめきながらナイフを投げ捨て、傘も置いたまま激しい雨の視界の中に消えて行った。(終)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年3月13日公開

© 2019 平島 公治

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