哲学とは、人類がどのように過ごすのが一番好都合であるのかを問いかける学問であるが、
この世界を、普遍的な概念で持って真理を探究する学問でもあると思う。
前者について言及すると、まず宇宙は人類が主体ではないし、
むしろ人類が他の生物にとっては害虫であるという点である。
弱肉強食の頂点に立った人類は、その英知を学問へと投じた。
しかし、その研究とは裏腹に、人類にとって不都合な事ばかりが現れるようになった。
例えば、地球温暖化や、弱さのニヒリズムの出現。
あらゆる問題が、湯水のように噴出してきたのだ。
それを解決するべく、実存主義が誕生し、その思想も科学の限界により、
破綻する事を余儀なくされた。
後者について言及すると、哲学とはこの世界の見方であり、
我々の存在の意義を問いかけるものである。
僕が思うに、宇宙は地球が無くても困りはしないし、ましてや人間がいなくても困る事は無いだろう。
かえって、人間がいなくなるほうが、地球にとっては有益なのかもしれない。
その人類の中で一番の害虫は、何であるのか?
と、問い詰めれば、僕は老人であると答えるだろう。
彼らは、何の生産性も無く、かえって、他の生態系を壊す本物の害虫であるといえるだろう。
そのくせ悠々と余生を楽しんでいる。
本当に、たちが悪い。
出来る事ならば、老人ホームまるごと発破してしまいたい。
しかし、そんな技術は僕には持ち合わせていない。
その事実が、僕にとっては歯がゆかった。
その人類に僕は、宇宙に代わって復讐をしようと思う。
この地球という星を、壊滅的にしたのは人類なのだから。
その人類の中で、一番貧弱で、一番愚かなものは、老人とだと僕は述べた。
まず、彼らを殲滅させなければならない。
その為にも、ナイフが必要だった。それも殺傷力のあるものである。
僕は、ナイフを買いに街へと出かけた。
街へ出ると、人々がゴキブリのようにたむろしている。
何の為に生きるのかも分からない奴らが人生論をしゃべっている。
どのように生きるのかなんて一番たちが悪い。
どのように死ぬのかが一番問題なのである。
ナイフ専門店に着くと、そこで一つのナイフを手に入れた。
その光沢は、僕を魅了した。
鏡のように光り輝く、その凶器で僕は人を殺めるのだ。
そう思うと心の底から、痺れるくらいの歓喜が湧き上がるのを感じた。
しかし、一つだけ僕の頭の中に疑問が湧きあがった。
誰を、どのように始末するのかが問題なのである。
どうせならこの世界で、一番弱者を虐げているものにしよう。
それは、人材派遣の会社の社長である。
弱者は基本的に生命力が無く、生命を宿す能力も無いのであるから、
強者から僕は、殺していく事に決めた。
その為にも、人材派遣の会社に勤めなければならない。
幸運な事に、人材派遣の仕事はありふれていた。
僕は、インターネットで老人の経営している人材派遣業を調べ上げ、
その中でも一番大手の所へと足を向けた。
「すいません、登録したいのですが……」
受付嬢は、親切にも僕をあれこれと世話してくれた。
そのお陰で、その日のうちに登録は終わった。
仕事を始めてから、なかなか社長に会う事は困難だった。
いや、会う事など出来なかった。
僕の見当違いだったのだ。
仕方が無く、僕は直接社長の自宅へと押しかける事にした。
社長は、豪邸に一家と幸福そうに過ごしていた。
それは、全て搾取した結果なのである。
僕は、正義の刃を、その一家へと下す事に決めた。
真の美徳とは、人類の悪しき忌まわしい行為を妨げるものであるならば、
僕の行為は美徳となる筈である。
僕は、チャイムを押した。
すると、「どなた様でしょうか?」と問いかけられた。
「お父様の知人です」
僕は口からでまかせを言った。
美徳の為には、手段として悪徳も必要なのである。
「そうですか、しばらくお待ちください」
そう言って、初老のお婆さんが一人僕の前に現れた。
そして、不用心にも、玄関の門を開けた。
「どうぞ」
そう言って、身分も確認せずにその老婆は僕を家へと案内した。
「おじゃまします」
僕は、慎ましくそして礼儀正しくする事をつとめた。
それが目的の達成への一番の作業なのである。
玄関をくぐると、中は広々としていて、高級品で埋まっていた。
「こちらへ」
そう言って老婆は僕を応接間へと通した。
そして、何処かへと消えていった。
しばらくすると、一人の老人が現れた。
「君は誰だね?」不機嫌そうにその老人は言った。
「あなたの会社で働いているものです」
僕はそう言って握手を求めた。
しかし、相手は握手を拒否した。
「君、何の用があって、ここに来たのかね?」
そう言って老人は僕の前に腰掛けた。
それは毛皮で作られた値段が高そうな椅子だった。
「話がちょっとありまして」
僕は、ためらいがちにそういった。
「何の話かな、私には時間が無くてね。手短にお願いするよ」
そう言って老人は煙草に火をつけた。
「宇宙にとって一番の害とはなんでしょうか?」
僕は、老人に問いかけた。
老人は困惑した顔で、
「君の言っている意味が分からんね」
そう言って煙草をふかした。
「それは、あなたです」
僕は、老人を指差してそう言った。
「ふざけるのもいい加減にしたまえ、私が何をしたというのだね。
こうして、人を雇用し、生活を支えているのだよ」
そう言って老人は声高に笑った。
「いいや、それは違う。搾取しているんだ弱者から」
僕は、声を張り上げてそう言った。
「失礼な事を言うな、搾取などしとらん。彼らの生活を支えているんだ」
顔を真っ赤にして社長は怒った。
「いいや、現にこの住宅がその証拠じゃないか」
僕は、老人に怯まずに言った。
「これは先代からの財産だ、私一人で作り上げた財産ではない」
断言するように、老人はそう言った。
「じゃあ、先代の代から搾取していたのか」
そう言って僕は笑った。その笑いがいけなかった。
老人の本当の怒りを買ってしまった。
「それ以上言うと許さんぞ」
そう言って老人は立ち去ろうとした。
その時だった。
僕はナイフを取り出して、老人を一突きに刺した。
老人は悲鳴を上げて倒れた。
ナイフからは真赤な血が滴っている。
その悲鳴を聞きつけて、さっきの老婆もやってきて、
僕の姿と老人の姿とを見ると卒倒して倒れた。
その上から乗っかるようにして、僕は老婆の首を掻っ切った。
僕は、そうすると悠々とその家から出て行った。
空は青く澄んでいて、僕の心はその色に染まるように晴れやかだった。
その日の夕刊には、事件の事が一面に出ていた。
僕は、それに快楽を覚えた。
これで全国の強者が震え上がるのだ。
そう思うと笑いが絶え間なく漣のように押し寄せてきた。
僕は、穏やかな微笑を浮かべながら家へと帰った。
僕は、妹と二人で生活していた。
妹とは昔から仲が良かった。
父は昔から、ずっと転勤で家を離れていて、
お互いに助け合わなければ、生きていけなかったせいもあるだろう。
いつも二人で行動していて、近所の人によくうらやましがられた。
母は、妹を産むときに死んでしまった。
その傷跡を妹は抱えながら生きていた。
妹は、刺殺事件に戦慄しているようだった。
僕は、そんな彼女に「正義が下ったのさ」とそう言った。
妹は「そんな事はないわ、殺人は一番の悪徳よ」
そう言って僕の発言を否定した。
「いいや違うさ。真の美徳は悪徳の犠牲の上に成り立つのさ」
そう言って、夕刊を僕は覗いた。
「人材派遣業の社長夫妻、刺殺される」
そういった見出しが躍っていた。
「いいえ、美徳は、悪徳などとは染まらないわ」
そう言って妹はコーヒーを僕に入れてくれた。
「違うね、世界はそんなに単純じゃない。悪徳と美徳とは表裏一体なのさ。
つまり、互いに独立した関係なんてありえない。」
僕は、コーヒーを飲みながらそう言った。
「いいえ、神様は美徳を行いなさいとそうおっしゃったわ。」
妹は、必死に僕を説得しようとした。
「君はまだ、神なんて信じているんだね。
この世に神など存在しないし、ましてや美徳なんてものは、何の役にも立たないのさ」
僕は、コーヒーを飲み干してそう言った。
「神は、存在するわ。私たちが生きているのも神様のお陰よ」
そう言って妹は、僕の飲み干したコーヒーを片付けながらそう言った。
「いいや、この世界の全ては現象さ。生きる事も死ぬ事も。
この殺人事件だって、一つの現象に過ぎない。
生きているものは、全て川が海に向かって流れるように全ては死へ向かって流れているのさ」
そう言って僕は立ち上がった。
「何処かへ行くの?」
妹は、そう僕に尋ねた。
「嗚呼、ちょっとね」
僕は、そう言うと家を後にした。
そして僕は小川へと向かった。
小川に着くと、僕はナイフを出して、指紋をふき取ると、そのナイフを小川へと向かって投げ入れた。
それは、証拠が永遠に無くなった様に僕には思えた。
それから僕は大学へと向かった。
大学でも事件の事で持ちきりだった。
ある者は、彼を悪人であるけれども立派な行為をやったと言い、
ある者は彼は完全悪とまで言い切っていた。
僕は、哲学の授業を聞きに講堂へと入った。
既に授業は始まっており、教授が一心不乱にしゃべっていた。
これからの事は、それらの詳細なメモである。
今回の事件について私の思うには、犯人は正義感の強い人間であるか、
被害者に強い、嫌悪感を持っていた人間であるだろう。
何故なら、人材派遣とは、合法的に人間を売買し、輸入輸出業に近い物質的な商業である。
唯物論的展開は、既に究極的な面まで達し、
全ての現象は、ドーパミン等の物質の作用によって引き起こされるとまで言われておる。
つまり、観念論は死んだに等しいのである。
全ての感情は現象で現されるが故に、唯物論は新たな展開を見せている。
しかし、人間は観念で動く動物である。
犯人もある観念によって、行動を起こしたのだろう。
それが何であるのかは未だの所は分かってはいない。
しかし、いつかは分かる時が来るだろう。
その時の犯人の観念とはどのような物であるのかが私には想像がつかないが、
それがはっきりした時、犯人の精神的構造も判明されるに違いない。
犯人の起こした行為はれっきとした、違法行為である。
法とは、無秩序なこの世界を、少しでも秩序立てようとする生命の試みなのである。
それを破ったものには、厳重に処罰されなければならない。
今回の事件が、そのままになれば人間の営みは崩れたものと言えるだろう。
授業が終わると、学校を後にした。
そして、事件の現場へと足を向けた。
どうなっているのかと思うと、いてもたってもいられなかった。
事件現場は、警察官が捜査を行っていた。
野次馬が、わんさと群がっている。
そのある一人の捜査官に僕は話しかけた。
「犯人は特定出来たのでしょうか?」
捜査官は、僕の方を振り向いて
「いいえ、まだです」と、澄ました顔でそう言った。
「そうですか、早く見つかると良いですね」
そう言って僕は現場から足早に去っていった。
家に帰ると、僕は妹と足がつかないうちに遠くへと逃亡する事に決めた。
「おい、家を出る準備をしろ」
そう言って僕は妹に荷物をまとめるように促した。
「え! 今すぐに?」
妹は、驚いたようだった。
「そうだ。早く出るぞ」
そう言って、僕は荷物をバッグの中に押し込んだ。
「ちょっと待ってよ、近所にお世話になったお礼も申し上げたいし……」
妹は戸惑っているようだった。
「うるさい、そんなのは後でも出来るだろ」
そう言って僕はバッグに荷物を積み込むと、玄関に置いた。
「ちょっと待ってよ、何処に行くって言うの?」
妹は、困惑しながらも荷物をまとめている。
「母の実家さ」
そう呟くように僕は言った。
「何をしに、出かけるっていうの?」
妹は、文句を言いながらも準備が出来たようだった。
「分からない」
僕は、ぶっきらぼうにそう答えた。
「分からないのに、出かけるの?」
妹は憤りを隠せないようだった。
「嗚呼そうさ、今から母の実家にでもでかけようかと思う」
僕は、考え込みながらそう言った。
「地方じゃないの! とんでもないわ、私はここに残るわ」
そう言って、妹は自分の部屋へと向かっていった。
「待てよ、ここに一人で住むっていうのか?
冗談じゃない、そんな事は俺は許さないぞ」
そう言って、僕は妹の部屋へと入っていった。
「嫌よ、嫌よ。私はここに残るわ」
そう言って、妹はベッドで泣きじゃくった。
「ダメだ、ここに残っても金は置いていかない」
その一言で、妹は黙り込んだ。
「どうしても、駄目っていうの?」
妹は潤んだ瞳で僕に問いかけた。
「嗚呼、都合が出来たからな」
そう言って、僕は妹の部屋を後にした。
そして、お茶を一服し、「出かけるぞ」と妹にそう言った。
妹は仕方がなしに、僕に付いてきて、バッグを手に取ると家を出た。
家を出ると、タクシーをひろい、駅まで行くと、切符を買って実家へと僕らは飛び出した。
妹は訳も分からず、不平不満を僕に四六時中投げつけた。
「何故、あんな田舎なんかにでかけるの?」
ずっと僕に、そんな言葉を投げかけてくる。
「実家の方が過ごしやすいからさ」
そう言って僕は黙り込むのだった。
駅から出ると、そこには田園風景が広がっていた。
太陽の射し込む光線が、鋭くて、僕達の目を細めさせた。
僕はタクシーを拾うと、あるホテルに行くように命じた。
タクシーは、そのまま田園の中をかけていき、小高い丘の上にある小さな旅館に僕達を誘った。
タクシーを降りると、チェックインを済ませ、部屋へと入って荷物を置いた。
「もう、こんな所に来るなんて」
妹はまだ愚痴っていた。
「良い所じゃないか、眺めも綺麗だぞ。宇宙の神秘を感じられるだろ?」
そう言って僕は外を眺めた。
外はゆっくりとした時間が流れており、小高い丘からは村や畑が見渡せた。
「何処が? ただのありきたりの風景じゃない」
そう言って、妹は梅昆布茶をすすった。
それは旅館に用意されてあったものらしい。
「それは違うな、近世に入って人類は無造作に建物を建てた。
それは勝手な人類のエゴイズムであったんだ」
僕は風景を見渡しながらそう答えた。
「いいえ、それは人類にとっては不可欠だったのよ。
確かに他の動物を虐げた結果になったかもしれないわ。
でも、人類の営みは豊かになってきているのは事実だわ」
そう言って、一口お茶を妹はすすった。
「いいや、それは違うね。生活は豊かになったかもしれないが、
その副作用として地球温暖化や複合汚染などの諸問題が、
山積みのようにあるのさ。営みはその犠牲のもとで成り立っているんだ」
僕は、椅子に腰掛けながら風景に見入っていた。
それは、古代から続く人類と自然との共生としての風景だった。
それは僕に癒しを与えてくれた。
「でも、その問題を解決しようと試みが始まっているでしょう。
それでも、お兄ちゃんは人類には豊かさは必要ないと言い切れるの?」
妹は、僕の方を見て問いかけた。
「嗚呼、そうさ。人間に豊かさなど必要が無い。
科学には限界があるし、最低限の事でも暮らしていける生命力が人間にはある。
そして、他の生物と共生していく事こそが、人類のあるべき姿なのだよ」
僕はそう言って、一息ついた。
「嘘だわ、神様は人類に科学という武器を与えてくださったのよ。
それを利用し、新たな諸問題を乗り越えていく事こそが、
人類の使命だわ。お兄ちゃんの考え方は人類を虐げる事になるわ」
妹はお茶を飲み干してそう言った。
「そうだよ。僕の考え方は、人類に問題を突きつけることになるだろう。
豊かさを剥ぎ取られた人類は、なす術も無く呆然と立ち尽くす事しか出来ないだろう。
それでも、自然いや宇宙と共生出来る事に気付く素晴らしい人類が生まれてくるに違いない。
僕はそれを楽しみにしている」
そう言うと、僕は微笑んだ。
「お兄ちゃんの考え方は偏っているわ。
確かに自然を破壊しているのは、人類かもしれないわ。
でも人類だって宇宙の一部よ。現に今だって見事に共生されているじゃない。
確かに問題はあるかもしれないわ。でもそれは時間が癒してくれるに違いないわ」
そう言って妹は湯飲みを片付けた。
「君の考えは、ひどく甘いな。恐竜が滅んだのも現象の一部だ。
隕石が落ちてきて、それが恐竜の世界を崩壊させたのだ。
それが宇宙の思し召しであるならば、いたし方のない事さ。
それが恐竜でなくて人類であったとしても、同様のことが言えるだろう」
僕は、そう言うと明日の事を考えた。
このホテルのすぐそばに実家はあった。
しかし、急にお邪魔するのも失礼だろうと僕は考え、ホテルに一泊する事にしたのだった。
実家には、祖父が一人で住んでいた。
祖母は、とっくの昔に死んでしまった。
それから祖父が、実家の切り盛りを行っていた。
時折、家で取れた野菜を僕達のところに送ってくれて親切な祖父で、
僕達を本当に可愛がってくれた。
その祖父には、祖母の葬式以来会っていなかった。
僕は、老人のいる所は好きじゃないし、虫唾が走る。
しかしこれは仕方のない事である。
身内を殺すのには忍びない。
老人という害虫は、身内の中にも感染されていたのだ。
これから十数年と生き続けるのかと思うと、嫌悪感が湧き上がってくる。
僕は、その実家を乗っ取ろうと画策していた。
しかし、良いアイデアは今のところ浮かんでは来なかった。
次の日、僕達は実家へと向かった。
実家は、山村にあって、タクシーでも三十分以上かかる所にあった。
実家に着くと、僕達はチャイムを鳴らした。
しばらくすると、驚いた顔で祖父が現れた。
「どうしたんだい、急に」
そう言って僕達を祖父は迎え入れた。
「ちょっと帰ろうかと思いまして」
そう言って、僕はお茶を濁した。
事件の真犯人だとは、口が裂けても言えないだろう。
「そうか、じゃ、あがってくれや」
そう言って祖父は、僕らの荷物を持って実家へと入った。
僕は、殺気を覚えた。
また社長の様に殺っちまおうか。
その方が話が早い。
しかし、相手は身内だぞ。
僕の心の中で、思いが錯綜する。
結局、頃合を見ることに僕はした。
「お邪魔します」
そう言って僕達は実家へと入った。
木の温もりが、僕を満たしてくれる。
それは暖かくて、優しかった。
祖父は、荷物を玄関に置くと、応接間へと僕達を通した。
「久しぶりじゃの」
そう言ってお茶を僕達にすすめた。
「いただきます」
一口、飲むと香ばしい香りが口の中を包み込む。
「粗茶やけどな」
祖父はそう言って笑った。
僕は、そんな祖父に出て行ってもらいたかった。
この家を二人で過ごせれば、どんなに素晴らしい事だろう。
そう思うと胸が締め付けられるくらいの喜びで満ち溢れた。
「粗茶でも、結構です。しばらくの間お世話になっていてよろしいでしょうか?」
僕は、祖父に単刀直入に問いだした。
「結構だよ。いつまででもいておくれ」
そう言って祖父はにこやかに微笑むのであった。
その晩の事である。
また妹は僕に問いだした。
「何時までここにいるっていうの?」
僕達に用意された部屋で僕に面と向かい合って彼女は言った。
「当分の間か、一生か」
僕は考え込みながらそう言った。
「こんな所嫌よ、父さんの実家があるじゃない」
そう言って妹は、僕にまくし立てた。
妹にとっては、父さんの実家の方が、都会に近くて便利らしかった。
だから、わざわざ遠いこんな所に来るよりも、父さんの実家の所にいた方が好都合の様だった。
僕は、窓を開けて夜空を眺めた。
「ごらん、綺麗だろ」
星空は空一面に広がっており、星のきらめきで輝いていた。
なんて世界は広いんだろう。
こんなに果てしない宇宙に僕達は住んでいる。
その宇宙を破壊したのは僕達だ。
この宇宙を支配しようと企てたのだ。
しかし、宇宙は屈しなかった。
新たな問題を我々に提供し、様々な諸問題を提起したのだった。
「本当、綺麗。でもこれと話とは別よ」
そう言って妹は、窓から外を眺めると、敷かれている布団の上に座って僕にそう言った。
「父さんの実家は嫌だ」
ぶっきらぼうに僕は言った。
なんせ祖父と祖母の老人が二人もいるのだ。
心労がいくつ出来るのかわからない。
それに比べれば、ここの方が田舎ではるかに過ごしやすい環境だ。
「何で?」
そう言って妹は、首を傾げた。
「こっちの方が住みやすいからさ。ただそれだけ」
僕はそういうと窓を閉めた。
流入してきた風が止んだ。
「分かった。もうお兄ちゃんの言う事なんか聞かない」
そうふてくされて、妹は布団へと入っていった。
「何とでも言うがいい、そのうちわかってくれるさ」
そう言うと、僕も布団へと潜り込んだ。
次の日、祖父は僕だけを呼び出した。
そして、どうして急にこの家に来る事になったのかを問い詰めた。
僕は「都会に嫌気がさしまして……」とそう答えた。
しかし、祖父は納得してくれなかった。
「お前は、昔から根性が無かった。もう少し二人で支えあいながらも、
やっていけなかったのかい? いや、きてくれた事は嬉しいよ。
しかし、そろそろ自立する年齢じゃないか」
祖父は、少ししかめっ面をしながらそう言った。
「今まで、自立してやってきてたのに、ちょっとぐらい休憩してもいいじゃないか」
そう僕は興奮気味に言った。
祖父は「でも、父の仕送りで生活しているようなもんじゃないか」と、手厳しい意見を僕に発した。
「確かに、父に依存している事は否めません。けれど、僕達なりに苦労はしているんです」
そう僕は力説した。
「そうかい、でもここには長くはいられないよ」
そう言って祖父は怒っような表情でそう言った。
祖父の言いたい事は分かっていた。
要するに、僕に自立してもらいたかったのだ。
それを鬼にしてまでも僕に力説しているのだ。
僕だって自立出来るなら自立したかった。
でも、正義の為に事件を起こし、ここへ来る事になったのだ。
祖父の言っている事はちっぽけな事だ。
僕の考えている世界とは、まるで違う。
僕は宇宙を基準にして物事を考えているのに対して、
祖父は、身の回りの事しか考えてはいないのだ。
「君も学校があるだろう」
祖父は、困惑と怒りとが交じり合った様な複雑な表情をしてそう言った。
「ええ、休学するつもりです」
僕は、ぶっきらぼうに答えた。
祖父はあからさまに怒り出した。
「休学なんて、許さんぞ」
そう言って、祖父は顔を赤らめた。
その時点で僕は、何を言っても無駄だという事を悟った。
これ以上言っても、祖父の反感を買うだけで、何も良い事などあるわけが無い。
僕は席を立つと部屋へと戻った。
祖父の「話はまだ終わっていないぞ」という言葉を背中にしょって。
部屋に入ると、妹は暇そうにぼっとしていた。
「怒られたよ」
そう言って妹に話しかけた。
「何で?」
妹は僕の方を見てそう言った。
「学校に行けってさ」
そう言って僕は、壁にもたれかかるようにして座り込んだ。
「そりゃ、そうじゃない当然よ」
妹は祖父の言葉を援護した。
「僕だって、学校には行きたいさ。でもここの方が居心地が良いんだから」
僕はそう妹に言った。
「こんな所が? 前の家の方がよっぽど良かったわ。
ぼろかったけど……」と、妹は僕の瞳を見つめながら言った。
「前の家よりよっぽど良いさ。自然も豊かだし。穏やかだろ」
僕は、その妹の瞳を見つめながらそう言った。
その瞳は内陸の湖の様に澄んでいた。
「そんな事無いわ、近いうちに帰りましょうよ」
そう言って妹は僕の傍へ擦り寄ってきた。
「もしかしたらな」
そう言って、僕は妹を残して外へと出た。
外に出ると眩しいくらいの太陽の洗礼があった。
畑や田んぼの所々に住居が立っている。
どうせ、老人という名の害虫が住んでいるのだろう。
全員まとめてアウシュビッツにでも送還してやりたい気持ちになった。
そしてこの一帯を自分の物に出来たならどんなに素晴らしい事だろう。
そう出来たなら木を植えて、森を育むのに……。
僕の中に叶わない願望が芽生えた。
都会の生活には無かった、自然のゆとりがここにはあった。
漣のように押し寄せてくる風、それによって音を立てて揺れる木々。
全てが僕の理想の姿だった。
しばらく歩くと、湖があった。
そこで一匹の魚が跳ねて波紋を残して去っていった。
僕は、その辺に座ると、じっと自然の織り成す言葉に耳を傾けていた。
それは、僕の行為を正当化してくれた。
人間によって虐げられた動物達の叫び声は、僕の耳に優しさと温もりをくれた。
宇宙は僕を支援してくれている。
そう考えるだけで、何よりも強くなれたような気がした。
僕は宇宙に代わって正義を下しているんだ。
下等な生物を殺害しなければならない。
老人などは死んでいく存在なのだから、さっさと死ねば良いのである。
わざわざ長寿を全うする事も無い。
資源の無駄である。
その資源を使って、生態系を正常に維持する事が出来るなら、
喜んで、僕は人を殺めるだろう。
そう考えると僕は、家路へと向かった。
その晩の夕食は、気まずいものだった。
祖父は「明日、ここを出て行くように」と僕達に告げた。
僕は反発して「嫌だ」と言った。
「これは命令だ」祖父は厳しい口調でそう言った。
「命令なんて誰の権限で言っているんだ」
僕はそう言って祖父をにらみつけた。
「お前達の祖父としての権限であり、尚且つこの家の家主として言っているんだ」
祖父は目を尖らしてそう言った。
「僕は、この家に残る」
僕は、箸を置いた。
「許さん。これはお前達の事を思っていっているんだ」
妹は、展開が読めないらしく恐々とした目で戦況を窺っていた。
「そんな事は分かってるよ。でもここにいなくちゃ僕達はいけないんだ」
僕は、声を張り上げてそう言った。
「その理由は何だ?」
祖父は、僕に問いかけた。
僕は、返答に困ってしまった。
人を殺めたなんて知ったら、自首を勧める事は分かっている。
そんな事は口が裂けても言えないだろう。
「その理由は何だと聞いているんだ?」
祖父は、ドンとテーブルを叩いて叫ぶようにそう言った。
「アパートを、追い出されたからです」
僕は、とっさに嘘をついた。
妹は、驚いて僕の顔を見た。
「何故だ?」
少し、穏やかになって祖父はまた問いただした。
「家賃を払っていなかったからです」
僕は、嘘に嘘を重ねた。
「それで、ここに来たのかね?」
祖父は、落ち着きを取り戻したかのようにそう言った。
「はい、そうです」
僕は再度箸を取ってご飯を食べ始めた。
そして冷静さを装った。
「少しの間だけなら良い、また他のアパートを探すんだな。
アパートの未納分は俺が立て替えといてやる」
そう言ってそれきり祖父はしゃべらなかった。
その日の晩、布団で寝ていたはずの妹が口を開いた。
「アパートを追い出されたって本当?」
暗闇の中で、妹の声だけが木霊するように響いた。
「嘘さ」
僕は、本当の事を述べた。
「じゃあ、何で嘘をついたの?」
妹は不思議そうに尋ねた。
「諸事情があってね」
そう言うと、僕は黙り込んだ。
妹もそれを察知してか、何も言う事は無かった。
深夜になって僕は起き出して、祖父の寝ている部屋へと潜り込んだ。
僕は、昼に作っておいた布きれで、祖父の口を縛って猿ぐつわにした。
とっさの出来事で、祖父は混乱しているようだった。
祖父はしばらくの間暴れていたが、年のせいか僕の体力には勝てず、結局手も足も縛られてしまった。
そしてまたしんと穏やかになった。
僕は、祖父を抱えるようにして家を出た。
そして昼に祖父から盗んでおいた車の鍵を出すと、ドアを開け、
後部座席に祖父を転がしておくと、静かに家から離れていった。
しばらくすると、山のふもとに着いた。
そこの人気の全く無い草むらに車を置くと、僕はまた祖父を抱えて山を分け入って行った。
足元が頼りなく、祖父は重かったのでその作業は重労働だった。
僕は来た道を見失わないように命じるしをつけながら歩いていった。
かなり進んだ所で、僕は汗を拭うと、祖父を山林の中に残して帰っていった。
祖父は、何かを口ごもりながらしゃべっていたがもう、何を言っているのかも分からなかった。
僕は、一仕事を終えて、晴れやかな気分になりながら帰っていった。
これで害虫がまた一匹処理された。
そう考えただけで嬉しさがこみ上げてくる。
僕は夜空を見上げた。
それはとてもとても綺麗で、僕を祝福してくれているようだった。
満月が橙色に輝いていた。そんな夜だった。
僕は、目印を頼りに帰っていった。
草木が折れてポキポキと音を立てた。
そして、車の所までやってくると、鍵を出して家路へと静かに帰っていった。
家へと帰ると、妹がおきだして来た。
「何処に行ってたの? こんな遅くに……」
心配そうに妹は僕を見つめた。
「ちょっとね。散歩しに……」
僕は、妹を無視して部屋へと入っていった。
「非常識じゃない、こんな時間に散歩するなんて」
そう言って妹は僕の後をついて行った。
次の日、朝早くから妹が大声を出して僕を起こした。
「大変、おじいちゃんがいないのよ」
妹は、血相を変えて僕の布団を剥ぎ取った。
「どっかに行ったんだろ、心配すんなよ」
そう言って、僕は布団を力ずくで取り戻した。
「それどころじゃないわよ、もう三時間も帰ってこないんだから」
叫ぶように妹は僕にそう言った。
「分かった分かった、昨日言ってたけど、じいちゃんは旅行に行くんだって」
僕はまた嘘をついた。
真の善とは偽善の上によってのみ成立するのである。
ヘーゲルが弁証法を考案したように、二つの相反する感情は、
一つの存在があってこそ、もう一つの感情が存在する事を証明できるのである。
「本当? それだったらいいんだけど」
そう言って、妹は部屋から出て行った。
僕は、寝床から出ると窓から外を眺めた。
外は小雨がしとしとと降っている。
この雨の中で、孫に放置される気分はどんなものなんだろうか。
憎らしい感情と、寂しい感情が入り混じったものなのだろうか。
僕は、残してきた祖母の事を少し考えてから、部屋を出た。
「おじいちゃんは、僕が嫌いらしい……」
呟くように僕は妹に言った。
「そんな事無いわよ、昔よく可愛がってくれたじゃないの」
そう言って妹はキッチンで朝ごはんを作っている。
「昔はね」
そう言うとテーブルの上の牛乳を飲んだ。
「いいえ、おじいちゃんはおにいちゃんの事を想って、言ってくれたのよ」
妹は少し声を張り上げてそう言った。
「分かってるよ、そんな事ぐらい。でも、昨日の事は言い過ぎだろ」
僕は妹が運んできたトーストを手にとって口へと運んだ。
「いいすぎじゃないわ、だって本当に学校に通わなきゃいけないじゃないの」
そう言って妹は、僕の真正面の席へと座った。
「学校なんてどうでもいいさ」
僕はなげやりに言った。
「私は行きたいわ」
妹は、それは願望を込めた一言だった。
「だって、ここには友達もいないし、何もする事が無いじゃない」
妹は、言葉を付け足した。
「家事をすれば良い」
僕はぶっきらぼうにそう言った。
正直、妹の話なんてどうでも良かった。
僕が、存在し、そして生きているという事実それだけで素晴らしかった。
その実感も無しに生きている人間が、この世界にはごまんといる。
死にたくないから生きているような奴らがこの世界の大半なのだ。
そいつらを全て抹殺したい。
朝から憂鬱な気持ちが僕を包み込んだ。
「家事なら大丈夫、前の家でもやってたし……。でも学校には行きたいわ」
妹は、自信ありげにそう言った。
「じゃ、転校すればいいじゃないか。僕は、畑を耕すし」
僕は、妹の意見にしぶしぶ承知した。
その日から、妹との二人暮しが始まった。
妹は朝から学校へと向かい、夕方になると家事をした。
僕は、本を読んだり、祖父の畑を耕したり、農作業に精を出した。
大学なんかに行かなくても勉強は出来た。
読書は僕にとって最高の教師だったからだ。
ある日の事だった。
僕が食料品を買い込んでいる時、妹が同年代の男性と歩いていた。
多分、同級生なのだろう。
その日、気になったから妹に聞きだしてみた。
「今日、誰と歩いていたんだ?」
僕は、妹の顔を伺いながら聞いてみた。
「同級生の人、とっても良い人なのよ」
そう自慢げに彼女は言った。
「善良な人ほど危ないものはない」
僕はそう言って妹に忠告をした。
「いいえ、善良な人は心から優しさが湧き上がってくるのよ」
妹は夢見がちにそう言った。
「違うね、偽善者ほど善人を装うものなのだ」
僕はそう言って妹を諭した。
「偽善者なんてひどいわ。彼は天使のように素晴らしい方なのよ。
私が学校で彼の筆箱にもどしちゃった時、彼は気にしなくても良いよと言ってくれて、
もどしてしまった事実を、みんなに隠してくれたの。
それに、私が筆箱を洗うって言ったのに、彼は、自分で洗ってくれたのよ」
彼女は、そう僕に語りかけた。
「それが一番、怪しいんだよ。大体、君の同級生の人の親は、どんな職業についているんだい?」
僕は、妹にそう言った。
「地主さんよ、人に土地を貸して商売してるの」
彼女は、純真そうな声でそう言った。
「地主! 一番いやらしい商売じゃないか!」
僕は、思わず声を張り上げた。
「そんな事無いわ、まっとうな商売じゃないの」
思わず妹も反論した。
「馬鹿な! 人々から搾取して生きているんだ。本当に偉い人は搾取に耐えている人たちなんだ」
僕は、自分の想いを分からせたかった。
「地主さんだって、努力して地主になったんだわ。お兄ちゃんの考え方は偏りすぎているわ」
そう言って、妹はそっぽを向いた。
「地主は努力して地主になったんじゃない。
誰だって努力して地主になれたら努力しているだろ。それが分からないのか?」
僕は、水を一杯飲んだ。喉が渇いて仕方なかったからだ。
「確かに努力して地主さんになれない可愛そうな人たちもいるわ。
でも、今の時代、公平になったほうなのよ」
妹は、僕の方に振り向いてそう言った。
「確かに、公平にはなったかもしれない。でも、真の公平なんかはありえない」
僕は、そういうと、部屋へと帰っていった。
祖父がいなくなってから、僕達の部屋は別々になった。
元の家の状態へと戻ったのだった。
僕は、布団の上に寝転がると、公平について考えた。
マルクスは、搾取をなくす為に共産主義を立ち上げた。
しかし結果は失敗に終わった。
それは真の平等ではなかったからだ。
しかし自由主義も平等だとは思えなかった。
生まれついた環境は自分で選ぶ事など出来ないし、遺伝的要素も持ちえるからだ。
自分には、真の公平など存在しないように思われた。
不平等は存在するが、平等は存在しえないのである。
いや、平等は存在し難いといった方が良いだろう。
それが、妹には分からないらしい。
そう考えると唇を噛んだ。
次の日、朝から農作業をしていると、地主の息子が妹を迎えに来た。
清々しい汗を流しているのが、冷や汗に変わった。
「おはようございます」
そう言って地主の息子は僕に、声をかけた。
僕も無視するつもりはないから「おはようございます」と上辺だけは、
友好的に彼に接した。
「行ってきます」
そう言って、妹は彼と一緒に出て行った。
それは、あたかも付き合っている男女の様に僕には思えた。
僕は、妹が取られたと思うと歯がゆかった。
それに地主の息子だと思うと虫唾が走った。
この世界の強者が増えすぎた為に、生態系が壊れたのだ。
それも強者は害悪な事をしてもうけている。
つまり、問題の根底は強者の方にあるのだ。
僕は、そいつらを真っ先に殺さなければならない。
その日の事、妹が泣きながら帰ってきた。
どうしたのかと聞くと、地主から交際を拒否されて、
二人はもう会ってはいけないらしい。
「こんな事ってあるかしら」
そう言って僕の方を潤んだ瞳で妹は言った。
眼からは、大粒の涙が流れている。
それは、あたかも小雨のようだった。
「ほら、言った通りだろ」
僕は、同情しながらそう言った。
「うん、おにいちゃんの言う通りだったわ。この世界にシンデレラなんて存在しないのよ」
そう言ってまた妹は泣き崩れたのだった。
「シンデレラは存在するさ。ただ運が悪かっただけだよ」
妹にそう言って慰めた。
「私の人生なんて、たかが知れているわ」
妹は泣きべそをかきながらそう言った。
「そんな事無いさ、一人ぐらいに会えなくなっても、そんな事は人生において、重要な事じゃない」
僕は、ようやく立ち上がった妹に向かってそう言った。
「お兄ちゃんには、関係ないけど。私としては大問題なの」
そう言って彼女は自分の部屋へと向かっていった。
僕は、慰めてあげられなかった自分の無力さを認識し、
それと同時に、地主に復讐を誓った。
その日の夜だった。
妹が寝静まった頃、一人僕は部屋を出た。
三日月が村を薄明るく照らしている。
僕は、また静かに家を出ると、地主の家へと急いだ。
地主の家へと着くと、チャイムを押した。
しばらくすると、夫人らしき人が現れて、どなたですか?とたずねた。
妹の同級生の兄ですと答えると、今は同級生は不在です。
といってとりあわなかった。
仕方が無く、その日は家へと帰った。
しかし、僕の復讐心と残念な感情は燃え滾るように熱くなっていったのだった。
帰ると、一人で酒を飲んだ。
僕はめったな事では酒は飲まない。
しかし、その日は飲まなければやってられなかった。
不甲斐ない、惨めな自分を慰めてくれるのは、その酒だった。
次の日、地主の事務所へと僕は足を向けた。
そこでなら、地主と直接話が出来るかもしれない。
そんな一抹の期待を込めての行動だった。
地主の事務所に着くと、ドアを開けた。
「すいません、家を借りたいのですが……」
僕がそう言うと、事務のお姉さんが現れて、色々な物件を紹介してくれた。
僕の計画はまたもや失敗したのだった。
僕は、地主を直接拉致する事に決めた。
地主の家の近くの林の中に身を潜めて、じっと家の中を窺っていた。
すると、窓から初老の小父さんが現れるのを見た。
それは、地域の住民から聞いた地主の顔と瓜二つだった。
しかし、地主は外へと出かける事がまずなかった。
あったとしても付き添いの人間がついていた。
僕は、その計画を断念するより仕方が無かった。
妹は、地主の息子と会ってはいけないと言われた日から、学校へは行かなくなった。
僕は、そんな妹が心配だった。
「お兄ちゃんが言った通り、学校なんて行かなくてもいいわよね」
そう言って、にこやかな笑顔で妹は言うのだった。
「お前は、義務教育だから行かなきゃいけない」
僕は、自分の言っている事の矛盾に納得できずにいた。
本当は、学校なんてどうでも良かったが、妹には学問を身に着けてもらいたかった。
妹は、本をあまり読まず、テレビばかり見ていたので余計に心配だった。
学の無いものは結局、この世界で踊らされるのだ。
僕は、その事実を知っていた。
妹も、その一員になるんじゃないかと思うと気が気ではなかった。
妹は、朝から晩まで家事をして過ごしていた。
二人で家にいると、安心感が泉のように湧き上がってくる。
僕は、収穫できた野菜を妹に見せると、それを妹は素直に喜んでくれた。
それは、平和な生活だった。
穏やかで、毎日が平常なそんな日々だった。
お金の事は心配しなくても良かった。
父が、送金してくれるから、それでなんとか用は足せた。
しかし、そんな平穏な日々も長くは続かなかった。
ある日の事、僕は警察官に話しかけられた。
「ちょっと署まで、ご同行願えますか」
神妙な顔つきで警官は僕に言った。
僕は心臓が鼓動を打つのが自分でも分かった。
「はい、仕方ないですね」
僕は、農作業用の器具を地面に置くと、警官の方へと向かっていった。
警官は、車で迎えに来ており、僕はそれに乗るより仕方が無かった。
僕が車に乗ると、妹も同じ車に乗っていた。
「お兄ちゃん」
心配そうに僕に妹は話しかけた。
「心配するな、大丈夫だって」
僕は、妹をなだめるようにそう言った。
「暑くないですか?」
僕は、運転している警察官に話しかけられた。
「暑いです、農作業していたので、特に暑いですね」
僕は、冷静さを装った。
「暑くなると、事件も多くなってきてね、署も大変なんですよ」
そう言って警察官は苦笑した。
「そうなんですか。それは大変ですね」
僕は話を会わせることにしておいた。
「特に猟奇的な事件が多くてね、嫌になってきますよ。」
僕は、一瞬ドキっとした。
妹は、僕の顔を心配そうに眺めている。
そうこうしている内に、署へと着いた。
「降りてください」
そう言って僕達兄弟を降りるように促した。
言われるとおりに僕達は、車から降りた。
「こっちへきてください」
そう言って壮観な建物の内部へと僕らを案内し、
そこで二人を離れさせた。
僕は、一人の警官の後をついていき、ある部屋へと案内されて、その部屋へと入った。
そこには質素な椅子とテーブルがあるだけで、他には何も無かった。
「そこに座って待っていてください」
そう言ってその警官は、立ち去っていった。
どのくらい経っただろうか、しばらくすると同じ警官が現れて、
僕の正面に座ると話を切り出した。
「率直に言いますと、あなたの祖父がミイラ化した遺体で発見されました」
僕は、驚いたふりをした。
でも、いずれは発見されると思っていたからあまり心の中では動揺が無かった。
「手足を縛られており、何者かによる犯行と思われます」
警察官は淡々と続けた。
「そんな、ひどい」
僕は心にもない事を口走った。
「そうですね、残忍な犯行です。悪魔の仕業としか思えません」
警官は僕を睨みつけるような目でそう言った。
「悪魔以上の仕業ですよ。こんな事をするなんて許せません。」
僕は、嘘泣きをしながらそう言った。
心の中では、死んで丁度良かったと思っていた。
「同情します、犯行から三ヶ月くらい経っていましたが、その頃に何か変化はありましたか?」
警官は、僕の様子を窺っていた様だった。
「特にありませんでした」
僕は、もう偽善者だった。
本当の善人になるためのそれは手段でしかなかった。
「あなた達兄弟が来る事以外はね」
そう警官は付け足した。
僕は、妹の事が気になった。
変な事をしゃべっていないだろうか?
そう考えると、そっちの方が気になってきた。
「そうです。祖父はとても歓迎してくれました」
これは真実だった。
「それは知っています。
近所の住民から孫がやって来た事を、喜んでいるという趣旨の話を聞きましたから」
警察官は、メモを見ながらそう言った。
「そうですか。それは良かったです」
僕は、涙を拭いながらそう言った。
「祖父に何かトラブルはありませんでしたか?
例えば近隣住民とのいざこざとか」
警官は、なおも僕に疑惑の眼を向けていた。
「ありませんでしたね、僕もはっきりした事はわからないですけれども」
僕は、被害者を装っていた。
「事件当日の晩の事を教えてください」
警官はメモを取り出すと、僕の言った内容を書き込もうとした。
「特に何もありませんでした」
僕は、嗚咽を交えながらそう言った。
「本当ですか? そうとは思えませんね。
こんな一大事件が起こっているんですよ」
そう言って警察官は不信感を露にした。
「でも、本当なんです」
僕は、警察官の方を見ながら言った。
「今日の所は結構です。お帰り下さい。家までお送りします」
そう言って警官は僕に後をついてくる様に指示した。
外に出ると、泣きながら妹が僕の胸に飛び込んできた。
妹は泣きじゃくって、その涙が僕の肩を濡らした。
家に帰ると、僕は寝室で一眠りをした。
精神的にさすがに疲れていた。
眠りから起きると、妹の所へと向かった。
妹はまだ泣いていた。
「もう、泣きやんだら。お兄ちゃんがいるじゃないか」
そう言って、僕は妹を励ました。
「お兄ちゃんの嘘つき、何が旅行に行ったのよ!」
鋭い眼で、妹は僕を睨んだ。
「本当だってば、昨晩言ってたんだって」
僕は、妹に必死の弁解を行った。
「嘘よ嘘よ。みんな嘘なんだから。
あの日、おじいちゃんが殺された日、お兄ちゃんは何処に行ってたのよ」
妹は、そう言って僕の弁解を否定した。
「あれは、畑を見に行ってたんだ。次の日雨が降るって天気予報で言ってたから」
僕は、何が真実で何が嘘なのか自分でも良く分からなくなってきた。
こうして世界も形成されているのだろう。
嘘と真実によって描かれた絵画は、どの様な文様を描き出すのだろうか。
「本当は、お兄ちゃんが殺したんじゃないの?
あの晩喧嘩してたじゃないの」
そう言って殺気だった眼で妹は僕を見た。
「違うよ。喧嘩じゃなくて僕に忠告してくれてたんだよ。おじいちゃんは。
僕がおじいちゃんを殺る理由なんて無いじゃないか」
僕はそう言って最後の力説をした。
「本当ね? 約束できる?」
妹は、まだ不信感を露にしている。
「うん、約束するよ」
僕は、頷いて出来るだけ善人を装った。
「分かったわ、信用するから」
そういうと、妹は僕の傍を通り抜けてキッチンに向かった。
多分、家事でもするのだろう。
その次の新聞にはもう、「老人、餓死させられ殺害される」という記事が一面に載っていた。
妹と僕は、ようやく事の重大さに気付いたのだった。
その日から、大忙しだった。
通夜、葬儀には大勢の参列者が参列した。
その数日間、ひさしぶりに父に会うことが出来た。
「よぅ、久しぶり、元気だったか?」と、軽いノリで父は話しかけてきた。
「会いたかったよ、父さん」
僕は、柄にも無い事を口走った。
本当は父さんなんてどうでも良かった。
妹と二人きりの生活の方が、暮らしやすかったし、慣れていた。
「そう言ってくれれば嬉しいな、生活の方はどうだ? 荒れていないか?」
父さんは、何かと僕に気を使ってくれているようだった。
しかし、そんな心配は無用だった。
「大丈夫だよ、妹がいるし」
妹は、既に父との面会を済ませていたらしい。
「それなら良かった。学校の方はどうだ?」
父は祖父と同じようなことを聞く。
「嗚呼、順調だよ」
僕は、家族にも嘘をつく。
それは目的達成の為の手段でしかない。
大きな野望を成し遂げるには、小さな姑息な手段も止む終えないのである。
「単位はちゃんと取ってるんだろうな」
父は、よほど学校の事が心配らしい。
「大丈夫だよ」
僕は、学校に休学届けをまだ出していない事に気がついた。
いずれ、出さなければならないだろうとそう考えた。
「分かった。しかし、父さんがこんな風に死ぬなんて思いもよらなかったな」
父は、学校の件は納得してくれたようだった。
これで真実を知れば激怒して怒るだろう。
「僕もだよ。おじいちゃんは人に恨まれるような人間じゃなかったから」
僕は不可思議な顔をしている父に向かってそう言った。
「うん、一刻も早く犯人を知りたい気分で今は一杯だよ」
少し、怒ったような表情をして父はそう言った。
「あまりにも犯行が残忍すぎる」と、父は付け加えた。
「確かに、もっと簡単におじいちゃんを殺す手段があったはずだよ」
そう言って僕は、被害者面をした。
「嗚呼、そうなんだ。よっぽど犯人は父さんに恨みを持っていたらしい」
父さんは、まだ事件に関心を持っていたようだが、
やがて「葬式の最中にこんな話をするのも、嫌だな。
久しぶりなんだからゆっくりやろう」と気分を切り替えたようだった。
僕は、葬式という行事が一番好きだった。
人間という害虫が一匹処理されたと思うと胸が躍った。
僕の願望としては、そこら中で葬式があれば良いのに……。
その為には、病原菌による集団感染などが一番良い。
あれは病原菌つまり生物の人類に対する反抗なのである。
しかし、現状は圧倒的に人類の方が有利だ。
そこが一番僕の残念な所であった。
父さんは、葬式が終わると、慌しく帰っていった。
僕は父さんなんてどうでも良かった。
唯の資金援助者としてしか見ていなかった。
父さんとは、幼い頃に過ごしただけで余り思い出も残っていなかった。
だから、僕にとっては他人も同然だった。
葬式の間中、妹はずっと泣いていた。
妹は純真過ぎるのだ。
もっと人間は姑息に生きなければならない。
そんな動物なのである。
葬式の参列者の誰もが、僕の犯行だなんて思いもしなかったろう。
善良なる親戚一同には、誰の犯行かなんて検討もつかなかったろうし、
こんな方法で殺されるなんて思いもしなかっただろう。
それからしばらくして、葬式や諸行事もすっきりした頃から、何か吹っ切れたように妹はまた学校へと行き始めた。
僕は、「無理しない方が良い」と警告しておいたのに、
その警告も聞かずに彼女は学校へと通った。
僕はまた農作業へと没頭した。
種から食物へと変化する過程が僕には楽しかった。
それは僕の空虚な気持ちを埋めてくれた。
まるで化学変化を楽しむ実験者のように、僕は農作業へと関心を向けたのだった。
雨の日には、本を読んで時間を潰した。
まさに晴耕雨読の日々だった。
ある日、妹が浮かれた気分で帰ってきた。
「お兄ちゃん聞いて、地主の息子との交際が許されたの」
そう言って妹は微笑んだ。
「良かったな」
僕は愛想笑いをした。
「良かったでしょ、地主の息子が地主に直接かけあったんだって」
妹は、嬉しくてしょうがない様子だった。
「また、あの人と話が出来るんだわ」
夢見がちに妹はそう言った。
「じゃあ、今日はお祝いだ」
そう言って、僕は買い物へと出かけた。
しかし本当の気分は陰鬱だった。
地主の息子だなんて一番の嫌悪の対象である。
そして一度は殺めようと思った人物の子供である。
そんな人物の息子を信用など出来るものなのだろうか。
買い物をすると、その日はパーティーをした。
その時、僕は道化師だった。
外見では祝っているつもりだったが、
本心では燃え滾るような嫉妬や疑惑で一杯だったのだ。
次の日、また警察が僕を呼びにきた。
そして、また事情聴取が始まったのだ。
「君の祖父が殺された日、君は何処にいた?」
警察は完全に僕を疑っていた。
「畑に行っていました」
僕は、妹に言った事と同じ事を言った。
「嘘をつくな、君は山林に向かって走っていったんじゃないのかね?」
僕は、心臓の鼓動が高ぶるのを感じた。
「いいえ、近くの畑に向かって走っていたんです」
僕は、警察の意見を否定した。
「一台の車が山林の方へ向かうのが目撃されている」
そこまで言って、警官は一息ついた。
「それは君の車じゃないのかね?」
あからさまに警官は僕を犯人扱いしていた。
僕には、翌日の雨の為にタイヤ痕が消えるという、一つの自信があった。
だから、警察もあと一歩の所で証拠が出ない筈だ。
「絶対に、違うと思います」
僕は確信を持って答えた。
「じゃあ、君は畑で何をやっていたのかな?」
警察官は鋭い目で僕を睨みつけた。
「翌日の雨に備えて、畑の見回りをしていました」
僕は、すっとぼけた表情でそう言った。
「あんな小雨に対応して、畑の巡回なんてすると思うのかね?
馬鹿な、君は山林に行って車を駐車したんだ」
警官は確信を持って言った。
「何故、そんな事が分かるんですか?」
僕は、警官に質問した。
「山林の麓にある草むらに、タイヤで分け入った跡があった。
それは君の乗っている軽トラックの幅と一致するんだよ」
僕は、警察に関心をした。
でも、僕には警察に勝つ確信があった。
「軽トラックなんて誰でも乗ってますよ」
そう言って、僕は「もういいでしょう。僕を帰らしてください」
と椅子から立ち上がりながらそう言った。
「しょうがない、君とは長い付き合いになりそうだな」
そう言って警官は家へと僕を運んだ。
家に着くと、妹は心配そうに僕の帰りを待っていた。
「どうだった?」
神妙そうな顔つきで妹はそう言った。
「大丈夫だよ」
僕は平気な顔を装って妹に言った。
「私まで明日、事情聴取される事になったわ。
何回やれば、気が済むのよ」
そう不平そうに妹は言った。
「いらない事を言うなよ。僕が犯人と間違われるからな」
僕は、恐い顔をして妹に言った。
「言わないわよ。私はありのままを答えるだけよ」
そう言って、澄ました顔で妹は言った。
「その真実がいけないんだ。
真実はいつでも不幸をもたらす元凶さ」
僕は、そう言って妹の意見をはねのけた。
「いいえ、この世界は真実によって照らされているんだわ。
嘘なんて悪魔的なものよ」
妹は軽蔑するかの表情で僕を見た。
「嘘が悪魔的なものだって、
じゃあ君は、この世界のほぼ全てが仮説に基づいている事を知らないな」
僕は妹に真理を突きつけるようにそう言った。
「仮説だって、実証されれば仮説じゃなくなるはずだわ。
神様がこの世界をお作りになり、そして自然法則までもお作りになったのよ」
妹は自分を納得させるようにそう言った。
「確かに、誰がこの世界を作ったのかは分からない。
しかし、現象が全てである事は確かだ。
現象が結果を生み、その結果がまた原因を作るのさ。
つまりこの世界は連鎖反応的に作られているんだよ」
僕は確たる自信を持って妹にそう言った。
「いいえ、違うわ。全ては神様の思し召しよ。
私たちが生きている事だって何か意味がある筈だわ」
妹は、僕に向かってそう言った。
「この世界に意味など無い。
全ては宇宙の真理によって支えられているのだ。
僕達もその歯車の一部に過ぎないのだよ」
僕は妹の意見を真っ向から否定した。
「神様の私たちは申し子なのよ。現象だって神様が作り出したものだわ。
だって、不思議じゃない。私たち地球だけが、生命が育まれることが。
奇跡的としか思えないわ」
そう言って眼を妹は輝かした。
「地球だけじゃないかもしれないぜ。
本当は、宇宙が莫大にでかくて、他にも沢山生命が育まれているのかもしれない。
それでも、その現象を奇跡的とでも言うのかい?」
僕は妹にそう尋ねた。
「そうよ。生きていること事態が奇跡的よ。
今、一瞬呼吸をしている事、それが素晴らしい事だって分からないの?
神以外にこんなに完璧な生物、人類を作り出せる訳無いわ」
妹は、僕にそう言った。
「人類は欠陥品だ。そうじゃなければ、こんなに問題が出てくる筈が無い。
殺伐、餓死、自殺、全部がそうだ。欠陥がもたらした物だ。
人間は理性を欠いた動物に過ぎないのだよ」
僕は妹に、諭すようにそう言った。
「人間に理性はあるわ。現にみんな平和を求めようとしているじゃない。
平和を求めようとしていないのは、無心論者よ。
彼らは利益の為になら、なんでもするからだわ」
そう言って妹はキッチンの方へと向かった。
「利益の為じゃない。世界の為にしているんだ。
神なんていない、いたら僕はとんでもない罰を受ける筈だ。
神なんて概念はとっくの昔に死んだんだよ!」
僕は、妹の方へ詰め寄った。
その時だった。
家のチャイムが鳴った。
僕が家のドアを開けると、警察官が立っていた。
「社長夫妻、刺殺の容疑で逮捕する」
そう言って警察は、手錠を取り出した。
「待ってくださいよ、僕が何をしたって言うんです」
僕が言い訳する間にも、手に慣れた手つきで警官は手錠をかけた。
そして、僕を車に乗せると、颯爽と走り出したのだった。
警察署に着くと、僕は尋問にかけられた。
「このナイフに見覚えは無いか?」
そのナイフは、僕が社長夫妻を刺殺したナイフだった。
「ありません。見たこともありませんよ」
僕は、しらばっくれた。
「嘘をつくな。このナイフは河川敷で子供が拾ったのを、親が見つけ、警察に届けたんだ」
警察は、自信満々にそう言った。
「そのナイフが僕のってどうやって分かるんですか」
僕は、内心まずいと思っていた。
「それはな、ナイフ専門店の店長が君らしき人物がナイフを買ったのを目撃したからだ」
僕は、最後の抵抗を試みた。
「それが僕じゃなかったらどうなんです?」
僕は体が震えるのを感じた。
「君だからこそ逮捕したんだよ。監視カメラに君が映っていたんだよ」
そう言って警官は、勝ち誇ったようにそう断言した。
僕は、もう観念していた。
いずれ、逮捕されることは分かっていた。
「分かりました」
一言、僕は呟いて拘置所へと連れ出されたのだった。
それからしばらくたったある日のこと、刑務官が僕の独房の中を覗き込み、
「おい、面会人だぞ」と、険しい声で言った。
「そうですか」
僕は呟く様にそう言って刑務官の後を付いていった。
面会所に着くと、妹が物悲しげな顔で待っていた。
それは困惑の色も混じっているようにも見えた。
「何故、来たんだ」
僕は妹に冷たく言った。
「会いたかったから、ただそれだけ。それとお祖父ちゃんを殺した訳を知りたかったの」
僕は、彼女に対面する椅子に座らされた。
「訳なんて無いさ。唯、邪魔者を消したかっただけ」
僕はそう言って冷笑した。
「お兄ちゃんは、悪魔だわ。きっと何かに取り付かれているのよ」
妹は、叫ぶようにしてそう言って、
「もういいわ、もう会いになんてこないから」
そう冷たく僕に、告げた。
「別にいいさ。もう僕はきっとここから出る事もないだろう。
君がどうなろうと知ったことではない」
そう言って、僕は、看守に部屋へ戻すように告げた。
部屋から出て行くとき、妹は地主の息子と結婚する事を僕に告げた。
それからの妹の事は知らない。
僕を訪ねてくる人もいなかった。
僕は、若いので更正の余地があるとして、無期懲役が言い渡された。
僕は老いることへの恐怖から、ある日、舌を噛んで死んだのだった。
サムライ ゲスト | 2008-07-19 21:09
コメントするのが辛いです。痛みを伴う改革をした人は、もっとも痛みを感じずにいられる立場の人。まずそいつから殺しましょう。破滅は万歳。
柿人不知 ゲスト | 2008-07-26 12:43
コメント有難うございます。
返事が遅れて申し訳ありません。
この作品は、秋葉原の通り魔事件より以前に書いたものですが、
一致する所が多く、大いに驚いております。
誰の中にも「加藤智大」がいるのかもしれません。