門前町に鐘が鳴る

柿人不知

小説

12,856文字

突然の病に倒れた妻は、日に日に弱っていく。悔悟すれども甲斐のない妻を救ったのは、宗教だった。二人が住むことを選んだ門前町に、優しい鐘と説法が響き渡る。

序章

秋の夕暮れ、静けさを貫いて、鐘は鳴る。

また一つ、さらに一つと鳴り響く。

静かな門前町に木霊して、ゆらりと廻って去っていく。

紅葉は夕焼けと相まって見事なまでの赤色で、人々の心を暖める。

鐘の音色が風の如く通り過ぎ、道の脇にあるモミジの木から一枚の葉をもぎ取った。

その葉はひらりと舞い落ちて、先に落ちた葉の上に折り重なった。

家の窓から、魚を焼く煙が立ち昇り、香ばしい匂いが人々の足を急がせる。

スギの木のてっぺんに烏が一匹留まっていて、カァと一つ鳴き、また何処かに向かって飛んでいく。

夕焼けの中を烏は飛んで、黒い瞳は真赤に燃え、黒い体は深紅に染まる。

大きく広げた翼は空気を切って、大きく空で輪を描き、最後の鐘を響かせたそのお寺の方へ飛んでいった。

私はその烏が何処に飛んでいったのかを見届けると、家路を急いだ。

最近妻の調子が悪くて、心配せざるにはおれなかった。

寝込む事が多くなり、日に日に衰弱していっているような気さえする。

それでも堅実に家事をしようとする妻を私はできる限り支えていた。

妻はしっかり者であった、私がどこかに自分の物を置いてしまい、それをどこに置いておいたか分からなくなっても、「ここですよ」と言って決められた場所から澄ました顔で出してきた。

私が「ありがとう」と言って受け取ると、得意顔で「どういたしまして」と言って微笑むのであった。

暗くなりつつあり、人気の少ない小道を私は抜けていく。

家の灯火や、電灯が、次々に点灯されていき、小道に光があふれる。

少しだけ斜面になった小道を私は力強く上って行った。

私は家の前に着くと、ポストから新聞を取り出し、脇に挟んで、ポケットに手をやり、財布の中に入れた鍵を取り出した。

鍵穴の中に差込み、ひねった。

ガチャっという音がして、私は玄関のドアを開いた。

「ただいま」

私はドアを閉めながら奥にいる妻に話しかけた。

「おかえりなさい」

奥のドアの向こうから妻の返事が返ってきた。

私には子供がいなかったので、妻とずっと二人で過ごしてきた。

しかし、幸せだった。

いつも二人でやってきて、喧嘩もせずに今までやってきた。

お互いがお互いを支えあい、結婚してから16年目に妻は倒れた。

あれは寒い冬の日、外は雪が降っていた。

いつものように会社から戻り、「ただいま」と声をかけたが、妻の返事は無かった。

私は不思議に思ったが、妻が何処かに出かけているのかと思い、あまり気にはしなかった。

私はコートを玄関の傍の上着掛けに掛けて、家の中に入った。

家の中は薄暗くて寒く、いつもの様子とはかけ離れていた。

吐息は白く、床はひんやりと冷たくなっている。

妻はいつも私の帰る時間には家に居た、私が帰ると夕食は出来ていて、

玄関の蛍光灯はいつも点いていた。

しかし、その日は違った。

私は玄関を真っ直ぐに行って、リビングに通じるドアを開いた。

カーテンは開いたままで、暗くなった夜の街を窓は映している。

しんしんと雪が降り、少し積もっているようにも見える。

薄暗い部屋の電気を私は点け、台所に入って驚いた。

妻は台所の床で倒れていた。私は妻に駆け寄り、意識を確認した。

白い肌は少し青く染まり、冷たい汗が首筋を流れている。

死人の様に垂れた手は私が来るとピクっと動き、生きている事を私に認識させた。

少しだけ開いた彼女のうつろな眼から黒い瞳が私を見ている。

そして弱弱しく息をする妻に私は彼女の最後を見たような気がした。

私は、家の電話に駆け寄り、救急車を呼んだ。

私は冷たくなった妻の体を温めて、温いお茶を彼女の紫色の唇の間に滑りこまし、

必死になって励ました。

「頑張れ、死ぬな、生きろ」と。

静かな街に救急車の音が響き渡り、私の家の前で止まった。

私は家の鍵を開け、玄関のドアをめいいっぱいに開けた。

外の凍えるような冷気が家の中に入ってきた。

まるで鋭い針で指先を刺したかのような錯覚さえ覚える冷気に私は身震いした。

救急隊を家に招きいれ、妻を台車の上に乗せ、そのまま救急車に乗って病院に急いだ。

そんな私の介護のお陰もあり、妻はなんとか一命を取り留めた。

しかし、もともと細かった体は前よりも一層細くなり、そのせいか生気も落ちた、そのような気がした。

それからというもの私は出来る限り妻に尽くし、何とか体力をつけてもらおうと、美味しい物をたべさせ、休日の日には一緒に散歩をするようになった。

それまでは多かった残業も、無理をして早く帰るように勤めた。

妻が倒れていたらと思うと気が気ではなかったのだ。

私はネクタイを緩ませながら暖かな廊下を抜けていった。

リビングに通じるドアは湿気で白くガラスが濁っている。

私はドアを開け、ネクタイを外し、リビングの中に入った。

「今日は大丈夫だった?」

私は、小さなお椀で味見をしている妻に話しかけた。

「うん、平気」

妻は微笑しながら答えた。

リビングの中はいいにおいが立ち込めて、優しい暖かさが私の身を包んだ。

テーブルの上にはもうお箸が並べられており、ガスストーブが赤々と燃えている。

私はそのテーブルに新聞を置くと、リビングの横の寝室に入り、私はほっと胸を撫で下ろし、ハンガーにスーツをかけた。

私は服を着替え、台所に向かった。

私は、しゃもじを水で濡らすと、炊飯器の蓋を開けた。

白い蒸気が立ち上り、私はそこにご飯を見出すと、しゃもじをすっと差し伸べた。

私は茶碗にご飯をよそってテーブルの上に持って行った。

昔の私ならば、新聞を読んで妻のされるままにしていたであろう。

イスに座り、足を組み、少し体を楽にして、新聞を開き、ただ妻がテーブルに夕食を持ってくるのをひたすら待っていた。

妻は綺麗に並べられたお刺身を持ってきてそこにそろえた。

「このお刺身おいしそうだね」

私は、その透き通るように白い鯛を見つめて妻に言った。

「安かったから、買ってきたのよ。新鮮そうでしょ?」

私はまた台所に行って、お椀に豚汁をよそっている。

「うん、何処で買ってきたの?」

私は包丁で茹でた菜っ葉を切りそろえている妻に向かって言った。

「後藤さんの所、あそこの魚はいつも美味しいから」

私はテーブルにお椀を置きながら包丁を持つ妻の手を見た。

その手は細く、白かった。

「お昼、ちゃんと食べた?」

妻は菜っ葉を皿によそい、擂ってあったゴマをその上にかけた。

「うん、大丈夫だってば」

妻はそう言うと人懐っこく私に微笑んだ、私はその笑顔に安心した。

「そうか、ならよかった」

そう言って私は席についた。

妻はテーブルに深い緑色の菜っ葉を持って来ると腰掛けた。

その菜っ葉にゴマの黄色い色合いが鮮やかだ。

「いただきます」

私と妻は手を合わせた。向かいに座った妻は、昔は本当に元気な妻だった。

私よりも活動的で、大学を卒業してからはずっと中学校で教えていた。

夜遅くまで、授業の準備をし、私より遅く寝ても、私より早く起きている事が何度もあった。

私もそんな時は心配し、「大丈夫か?昨日遅くまでしてたんじゃないのか?」と声を掛けると、決まって「うん、でも平気」

と言って、また朝ごはんを作りだした。

そんな時は私も率先して、妻を手助けするのだった。

そして、休みになると、私と旅行の打ち合わせをするのが常だった。

しかし、そんな妻も、倒れてからは旅行に行く事はなかった。

「ねぇ、あなた」

おもむろに妻は呟いた。

「ん?」

私は新聞に目を通しながらご飯を口にやる所だった。

「あのね、近藤さんに誘われたんだけど…。

今度の日曜日に、竜刻寺で説法があるんですって良かったら夫婦揃ってどうですかって」

竜刻寺といえば、家から近いあの鐘を鳴らしているあのお寺の事である。

「宗九和尚っていう人の説法が面白いらしいの」

妻はお刺身を箸でつまみ、山葵で濁ったその醤油につけた。

私は少し、新聞を読むフリをしながら考えた。

「いいんじゃないかな、面白そうだし」

私は笑顔で答えた。あのお寺だと散歩にも丁度いいし、散歩のついでに説法まで聞けてお得じゃないか。

しかし、私は今まで説法というのを聞いた事がなかった。

それに私は神など信じた事など一度も無かった。

そんな私が説法等聴きに行って良いものだろうか……

「そうね、行ってみましょう」

妻は笑顔で答えた。

その笑顔に私の不安も少しずつ和らいでいった。

第一の説法

日曜日、澄み渡る青空に太陽が輝く。大きな青い空は宇宙のカーテン。

そのカーテンの下で、街は穏やかに時を刻んでいる。

休日のせいなのか、時間のたつ遅さに驚く事が何度もあった。

都会の騒々しさから解放された門前町と会社でのギャップはいつまでも

私の頭に張り付いて取れないのだった。

街の店のシャッターは大半が降りており、行きかう人も少なく、ただ、時折子供の遊ぶ声が少しして、また消えていった。

私は朝から少しいつもと違う緊張感に身を包まれていた。

宗教というものをあまり信用してこなかった私はどうしても受け入れがたい何かが宗教にはあった。

それは神がいるかいないかの次元の話ではなくて、どうも説明出来ない何かなのだ。

それが自分でもあまり良く分からないからこうして少し朝から憂鬱になっているのであった。

そんな私を後目に妻は寝室で服を選んでいる。

「説法ってどんな服を着ていけばいいのかしら。喪服じゃないわよね」

妻はそう言ってフフっと笑った。

私もその通りで、どんな服を着ていけばいいのか検討もつかなかった。

だから、地味な服、出来る限り目立たない様な服を私は選んだ。

「どんな服でも構わないと思うよ」

私は妻を心配させない為に自分でも分からない事を彼女に言った。

「そうね、こんな服はどうかしら?」

そう言って彼女は一つの服を私に見せた、それは水色の服でその優しい色が

眼を癒すようなそんな服だった。

「いいと思うよ、おしゃれでいいじゃないか」

私は彼女の服を見ながらそう答えた。

「じゃあ、これにするわ」

そう言って妻は、寝室の鏡に向かってその水色の服と自分とを合わせた。

次に妻は白いスカートを取り出し、服とそのスカートを自分と一緒に鏡に映した。

少しの間、右に少し体をやったり左にやったりしながら考え込んで、

ようやく決めたのか。その服とスカートを一旦置いて、私に背を向け、ゆっくりと上着を持ち上げ脱いでいく。

前で交差させた手が上に上がっていく度に、彼女の透ける様な透明な肌が露わになっていった。

しかし、露わになればなるほど、私は彼女を見続ける事にためらいをもった。

彼女のウエストは不健康に細く、背骨は露骨に彼女の肌に浮き上がっていた。

肋骨は天使の羽の様に彼女の肌に透けて見え、青い血管が川の様に背中を流れている。

その姿はあまりにも残酷だった。

私の見えない所で病は彼女を蝕んでいたのである。

私はひどく落ち込んだ、そして溢れてくる悲しみにひたすら耐えていた。

彼女がズボンを脱ぐと、白くて、痩せた足が現れた。

まるで老人のようなその体を私はとても見ていられなかった。

そんな中でも、白い肌だけはツヤを保ち、彼女は純白に包まれていた。

私は病に対しての自分の無能さを恥じ、彼女自身の運命の不幸に嘆いた。

しかし、私はそれを表に出す事は無かった。

ただ、心の中は深い絶望に苛まされていたのだった。

彼女の美しさに若かりし私は惚れた。

大学時代に同じ講座を取っており、窓際で真剣に講義を聞く彼女を

私は後ろの席から眺めていた。

彼女の凛とした横顔を見るたびに私の胸はひどくうずいた。

長く伸びた眉毛の下のひたむきな瞳、うるんだピンクの唇は、私の心をくすぐった。

長く、しなやかな髪は太陽の光を反射させ、輝いていた。

彼女の姿を大学で見かけると私はひどく興奮しているのが自分でも分かった。

妻は服を着替えると、時計を見た。そして「そろそろ行きましょうよ」と言って私を誘った。

「ああ、分かった」

私も腰をあげ、彼女と共に家を出た。

強い日差しが私たちを射す、家の前のプランターに植えてあるミントの根は

すっくと土の中から顔を出し、その日光を体いっぱいに受けている。

豊かな緑を深々と湛えるそのミントにいつも妻は如雨露で水をやっていた。

妻は病気をしてから、園芸に打ち込むようになった。

それまでは忙しかったせいか、テーブルに花を添えるくらいしかしなかった妻が、

ベランダにプランターを置いて、色々な花や野菜を育てていた。

トマト、キューリ、薔薇に百合。

様々な植物が絶えず、いつでも芽を出し、綺麗な花を咲かしていた。

妻は、あたかもそれを、自分の息子や娘のようにかわいがり、収穫できると私に見せて自慢していた。

私も何が出来るのか楽しみで、その妻の高尚な趣味を影ながら見守っていた。

私と妻は連れ立って歩いた。

小道のコンクリートに靴が奏でる音楽は協奏曲で、私と妻のコツコツという音が静かに響いた。

妻は歩くのが遅くなった。

昔、テニスでならした妻の面影はそこにはなかった。

ただゆっくりと妻は一歩一歩を噛み締めながら歩いている。

彼女と連れ立って歩いていると私は普段気づかなかった物に

よく気づくようになった事が分かった。

たぶんゆっくり歩いているせいで、物事をじっくり見る事が出来るようになったのだろう。

雲の動き、小鳥のしぐさ、昆虫の存在。普段では見ない様な物までじっくり眺めると新たな発見があった。

妻が歩くのが遅くなった時、私は彼女の発見に脅かされる時が何度もあった。

しかし、今ではそれがなぜだかはっきりと分かる。

彼女のお陰で、新しい物事の見方を私は見出したのだった。

涼しい風が、私と妻を撫でて、また旅立った。

妻の髪が少しなびいて、またいつもの髪のスタイルに落ち着いた。

その風が、道に落ちたカエデの葉を一枚上空に吹き上げた。

上昇気流に乗ってあっという間に家の塀よりも高く上がった。

安定しないで空中でふらふらしていたかと思うと、ぐんと向こうの方まで飛んで行き、その行方を追う事は難しくなった。

またどこかに落ちて、また風に吹かれ、風と共に旅を続けるのだろう。

私たちが、この門前町に落ち着いた理由は、私と妻の勤務先が近かったという事と門前町という伝統と、その景観に惹かれたからである。

いや、それだけではない、この街には何故か心を癒す効果があった。

もしかしたら、私たちが都会のマンション暮らしに疲れていたのかもしれない。

駅までは少し遠かったけれども、私たちはこの街に住む事に決めた。

竜刻寺は、広くて鎌倉から続く伝統的な寺だった。

そして、夕刻になると決まって鐘を打ち鳴らした。

私は、その竜刻寺の階段を一段、一段、上がっていった。

幅があり、何段もある正面の石段は、所々に緑のコケが生えていて、

その合間を縫って、蟻が歩いていた。

蟻はどんどん歩いていき、階段と階段の隙間の中に入っていった。

ふいに「いい所ね」と

妻は横にいる私に静かに言った。

「ああ、本当にいい所だ」

私は前を見てそう言った。

階段を上がった所には、大きな杉の大木があり、その影が私たちを覆っている。

天に向かって真っ直ぐにその杉の木は立っていて、その幹には多くの枝がふさふさと

葉を茂らせている。

私の何倍、何十倍もあるその杉の大木は威圧感があり、私を圧倒させた。

「凄く大きな木ね」

妻は、その木を見上げながら言った。

「そうだね、あそこを見てごらん」

私は妻に杉の木のある枝に向かって指を射した、妻は私の指の射す方へ視線を追いかけていった。

そこには、黒く、むくっと腹が出、オレンジ色の嘴をした鳥が、綺麗な声で鳴いていた。

「あら、変わった鳥ねぇ」

そう言って妻は、しばらくその鳥の囀りに耳を傾けていた。

甲高い声、ソプラノ歌手の様に、甘く、魅惑的に心を惹きつける。

まるで、私達の事を呼んでいるかのように。

杉の木の下、幹の太さに驚かされる。

いつから生きているのかさえ覚えていないようなその老樹。

重たい体を支えながら、それでもまだ上に上にと、伸びていく。

何処まで伸びれば気が済むのだろうか、それさえも忘れたのだろうか。

ゆるりと階段の上から門前町を見下ろし、じっと構えている。

昔からずっと、皆を見守り、見守られてきた神木。

「何回見ても、飽きないわね」

妻は、その神木の向こうのお堂を眺めて言った。

神木からお堂までは少し距離があり、お堂まで木の葉ひとつ落ちていない。

「やっぱり凄いよ、うちもこんなのにすればよかったな」

私はそう言って笑った。

「今からでも、そうしましょうか」

妻は、私の顔を見、微笑を浮かべ言った。

「宝くじでも当てないと駄目だろうな」

私は、振り返った妻の優しい笑顔に視線をやりながら答えた。

妻は、微笑むととても可愛らしかった。

暖かくて、柔らかなその笑顔は清らかで、とても洗練されていた。

「宝くじ当てても、こういうものはお金だけで立つようなものじゃないのよ」

そう言って妻は微笑みながら、お堂の方へ向かっていった。

私も、彼女の背中について行った。

歩くと、地面に足型が出来るくらい柔らかな土は気持ちがよく、

私の靴の裏から新鮮な感情が湧き上がってくる。

それは自分に自然が憑依したと言うべきか自分が憑依したと言うべきかは

よく分からないが、とても体が自然体になっていた。

竜刻寺の境内は、自然が豊富でよく手入れがされており、

緑にあふれ、新鮮な空気が漂っている。まじりっけのない、無機質な空気。

その空気が揺れると紅葉で綺麗な木々がなびき、ざわめいた。

みずみずしい草木はざわついてもカサカサというような音は立てない、

ただ、ざわざわと重たく命の響きを轟かしている。

妻は、賽銭箱の前で立ち止まると、財布の中から小銭を取り出し、

幾枚かを手に取ると、一部を私の方に差し出した。

私はそれを受け取ると、それを軽く握り締め、賽銭箱にそっと差し入れた。

お金はチャりンチャリンと音をたて、細い隙間に向かって転がりだした。

そして、スーッと縦になって一直線に暗闇に向かって進んでいって、

やがて見えなくなり、最後にチャリンと音がした。

妻も財布をなおし、賽銭箱にお金をコトンと入れた。私は、鈴を鳴らすと、静かに手を合わした。

目をつぶると、周りの静けさが際立ってき、精神が研ぎ澄まされてくる。

黒い暗闇に溢れ、もう何も見る事は出来ない。

静けさの中で、時折鳥の鳴き声がして、また無音状態に戻っていく。

暗黒の空間内で、考える事も出来ず、ただ深い深い無の極地へ……。

もしかしたら死ぬとはこういう事なのかもしれない、と私はふと考え、目を開けた。

木造の仏像が少し遠くに置かれており、私の方を見て、微笑んでいるのか、悲しんでいるのかよく分からない顔をしている。

「あのーすいません」

ふと後ろから急に声がして、私と妻は振り向いた。

そこには黒い僧衣を着、頭を丸めた若いお坊さんが立っていた。

顔は引き締まっており、少し痩せ気味の様な気もする。

「はい」

私は、唐突に声を掛けられ驚きながら答えた。

「もしかして、説法を聴きに来られた方でしょうか?」

お坊さんは丁寧に、そして柔らかな口調で言った。

私はその謙虚さに窮屈さを感じると共に、お寺独特の緊張感に包まれた。

しかし、それらは何故か不快に感じないのだから不思議である。

いつもとは何か違う特殊な雰囲気。

「はい、そうです」私は少しうなずき、答えた。

「それでは、こちらへどうぞ」

と言って、そのお坊さんは一礼し、踵を返して歩いて行った。

私と妻はその後に従ってついていった。

お堂から左手に周り、すこし行った所にある玄関にそのお坊さんは連れて行った。

「どうぞ」と言って、そのお坊さんは扉の開いた玄関の前で一礼し、私たちを先にゆずった。

「失礼します」そう言い、私達は、そのお坊さんに一礼し、玄関の中に入った。

玄関で私達は、靴を脱ぎ、横にある、靴だなの中に入れた。

靴だなの中には既に多くの靴が入っている。

時計を見ると、説法が始まるまで十五分となっていた。

「奥の方に進んで頂いて、引き戸が開いている部屋がございますので、その部屋でお待ち下さい」

そう言うとそのお坊さんは、外へ行ってしまった。

私は「分かりました、ありがとうございます」と言おうと思っていたのに

そのお坊さんがどこかに行ってしまわれたので、その言葉を飲み込む事しか

出来ず、歯がゆい思いがした。

「奥ですって、行ってみましょうよ」

そう言って妻は興味深そうに廊下を眺めた。

「そうだな」私は呟くように言うと妻と共に、廊下へ出た。

木の匂いがプンと漂い、靴下を通して、滑らかな木の肌触りが伝わってくる。

薄茶色の木々は渋い色合いを所々に出していて、年輪が鮮やかに廊下を彩っている。

その自然が織り成す抽象絵画の上を私達は歩いていった。

少し行くと、右手側の引き戸が開いている部屋があった。

「あなた、ここかしら?」

妻は、部屋の中に少し体を入れ、中を覘いた。

「どれどれ」

私もつられて部屋の中を見ると、広い部屋の中に五十人くらいの人が集まっている。

大広間には紫色の座布団が綺麗に整列して置かれていて、それが畳の床を覆っている。

座布団の上に歳を召した方々が、ちょこんと座り、めいめいが思い思いの時間を過ごしている。

大きな窓の外には綺麗に整った日本庭園が見える。

白くて、人工的に模様が付けられた砂利、その中に立派な石が構えている。

砂利は波模様の縞がつけてあり、川や海の様に見える。

その海や川がまるで息づいているかのように目の中に飛び込んでくる。

石の根元には、深緑色のコケが生い茂っており、島の様に砂利の所とは区別されてあり、

海に浮かぶ孤島、川の中の三角州のようで、風景の中に見事に調和がとれている。

波が渦巻いている。その波が島に打ち寄せ水しぶきをあげる。

その石は、何年も何年も侵食されて特異な形を呈している。

しかし、それは少しも怯む事無く、そこにずっと存在している。

何万年も繰り返し続けられて来た自然の摂理。

それを象徴するかの様に存在する空間がそこにはあった。

後ろの塀の向こうには松だけではなく、梅の木なども植えてあり、小さな蕾をつけている。

そして、その向こうには紅葉が赤く山を染めている。

松や梅は、きちんと剪定してあり、一つ一つ形は違うけれども素晴らしい曲線を描いている。

一つ一つが大きな盆栽であり、それぞれが一級品の芸術。

それが全体を通して一つの絵となっていて、空間の芸術をかもしだす。

「綺麗ね」

妻は、部屋の中に入ると、一面に広がる庭を見渡した。

「しかし、凄いな」

私は感嘆のため息と共に、圧倒的なその美しさに魅了された。

梅の花が咲き、その梅の枝に止まったウグイスが鳴いたらどんなに素晴らしい事であろうか。

これほどの美などあるものであろうか。

「私も、もっとがんばらなくちゃ」

妻は嬉しそうに私の顔を見て笑った。

私はその妻の顔を見て、ここに来てよかったなと実感した。

妻が刺激を受けて、何かに精を出すのは健康にもいいだろうし、

何よりも生きる元気をもらったような妻を見るのは私にとって何よりもの至福であった。

妻と私は後ろの方の座布団に座った。

「あ、近藤さんだわ。ちょっと挨拶してきます」

そう言って妻は、少し前の方に座っている近藤さんの方へ迂回して挨拶をしに行った。

妻は近藤さんの所まで行くと少し話しをしていた。

すると、近藤さんがこちらの方を向かれたので、私はお辞儀をした。

近藤さんも私に気づいたらしく、わざわざ体をこっちに向けてお辞儀をなさったので

私はひどく恐縮してしまった。

しばらくすると、年老いた思慮深そうな一人の僧侶が現れて、

その瞬間会場もしんと静まり返った。

そして、最初の説法が始まったのだった。

私は、田舎の農家の一人息子として生まれました。

母は几帳面で、優しく、かえってその優しさが甘さをもたらす事がありました。

父は勤勉でしたが、貧しく、地主から借りた畑を耕して生活をどうにか維持していたといった所でしょうか。

家は、貧相な藁葺き屋根で、冬になると寒くていつも震えておりました。

私が幼稚園に通っていた時の事。

母の火の不始末により、家が燃えてしまったのです。

母は、それより自分の責任を感じて、発狂してしまいました。

それほど、神経質な人だったのです。

当時借りていた藁葺き屋根の家の地主に、父は問い詰められました。

「どうやったら、この家を元通りにするんだ?」と。

父は何も言えず、ただ黙ってわずかな貯金を地主に手渡すしかありませんでした。

それから、苦労の日々でした。

父は、親戚や友人からお金を借りて、なんとか家の借金を返済したのですが、

残ったのは莫大な借金。

住む家も失くし、信用まで失った我が家は、畑まで地主に取り押さえられてしまいました。

仕方が無く、一家で橋の下にて、生活する事になったのです。

ある日の事、父は思いつめて、こうなったら心中するしかないと言って、

橋から川に飛び降りようとした所、一人の僧侶が現れて、父に思いとどまるように説得してくださったのです。

それから、私と母は、この竜刻寺に引き取られたのです。

しかし、それも束の間、発狂していた母はある病院へと連れて行かれていくことになったのです。

私だけが、この龍刻寺に取り残されてしまったのです。

私は、毎晩の様に泣いておりました。

そんな時に、一人の若い住職の方に慰めてもらったのです。

その方は私を助けてくださった方でもあり、根がとても優しい方でもありました。

この龍刻寺には、その当時は、住職一人だけが住んでおられました。

だから、母がいなくなった時から、住職の存在が父の代わりとして眼に映るようになったのです。

父は、それからどうなったのかは知りません。

何処かで乞食をしていると聞いたり、もうのたれ死んでしまったと聞いた事もありました。

どっちにしても、悲しい事には変わりありません。

しかし、住職はそんな私に励ましの言葉を下さったり、

お菓子をくれたりして可愛がってくださったのです。

「あの方苦労されたのね」

妻は、帰り際にそう言った。

「そんな風には見えなかったけどな」

私は、妻に本心を打ち明けた。

「そうね。人間には表には出さない苦労というものが誰にもあるのかもしれないわね」

そう言って、妻は空を見上げた。

太陽が西に傾きかけていた。

第二の説法

一ヶ月が経った。

妻の体は、だんだん病のせいで、衰えてきたようだった。

私は、そんな妻が心配でならなかった。

毎週のように、病院に通い、点滴を受ける妻に、寂しさと悲しさを感じた。

それでも、妻は説法に行きたいと願い出た。

私は、あんまり無理をしない方が良いと思い、引きとどめたのだが、言う事を聞かなかった。

「運動した方が、体に良いのよ」

そう言って妻は微笑むのだった。

しかし、その笑顔も作り笑いのように私には思えた。

体がしっかりしていない自分を励ますかのような笑顔に、私はもはや癒されなかった。

しかし、妻が無理してでも行きたいと思うならば、私も付いていかなくてはならない。

妻が倒れた時は、私が救急の介護をしなくてはならないからだ。

説法に向かう時、偶然近藤さんと一緒になった。

近藤さんは、妻の職場の同僚だった人で勤勉さで知られる人だった。

知り合った時は、妻が倒れる前の頃、中学校の教員として働いていた頃の事だ。

いつものように学校へ向かっていた妻は、突然転任を命じられた。

それは、その当時のマンションの自宅からは遠かった田舎の学校だった。

妻は、それを嫌がっていたが、運命なのかそれを受け入れなければならなかった。

その田舎の学校で、英語を教えていたのが近藤さんだったのだ。

妻に、近藤さんは色々と学校の事を親切にも教えてくれた。

それから、夫婦して近藤さんと親しくなったのだった。

その当時から、近藤さんは、無宗教であった。

特定の宗教を信じたりとかは無かった。

そこが、私たちを安心させもした。

歩きながら近藤さんは、私たちにこう言った。

「無理に来なくても良いのよ」

「いえ、大丈夫ですから。話の方も興味がありますし」

妻は、そう言って近藤さんに答えた。

「そう、ならよかったわ」

近藤さんは、安堵のため息をついて龍刻寺の境内へと入っていった。

私と妻は彼女の後をついていき、そして庭園が見える部屋へと入っていった。

そして、静かに説法が始まるのを待っていた。

しばらくすると、例の年老いた僧侶が入ってきて説法が始まった。

有難い事に住職様は、幼い私を学校にまで行かして下さいました。

私は、貧乏で、父のお陰で借金のかたがついてなかったせいでよくいじめにあいました。

「借金」とあだ名にされたり、机に「金返せ」などと書かれたりする事も度々でした。

ですから、私はあまり学校には行きたくなかったのです。

住職も、その事を承知してくれていて、「行きたくなければ、行かなくても良い」

とおっしゃってくださいました。

私は、学校を辞める事に決心しました。

と、同時に僧侶の道に入る事にしたのです。

それからは、厳しい日の連続でした。

朝早くから起きて、朝食を作ったり、掃除しなければなりませんでした。

それでも、私にとっては学校に行くよりそういった修行の方が楽しく思えたのです。

読経には、最初はついてはいけませんでしたが、

後々になると、慣れてきました。

ある日のこと、私が、庭で仕事をしていました。

すると、一羽の鳥が飛んできて、梢に止まりました。

私が眺めていると、その鳥は境内に巣を作っているようでした。

その事を、住職に話すと、とても喜んでくださいました。

そんな単調な日々の中にも喜びをかみ締めながら生きてきたのです。

説法を聞きに行った次の日、妻は倒れました。

病院に入院する事となったのです。

私は、有給休暇を取って、毎日のように妻を見舞いに行きました。

病床で、寝そべっている妻は、それでも説法を聞きたいと私に願いました。

でも、それは医者が許しませんでした。

ですから私は、妻の為にボイスレコーダーを買ってきました。

それで説法を録音しようと思ったのです。

第三の説法

私は、説法を録音して良いのか分かりませんでしたから、

その説法をなさっている方に聞いてみようと思いました。

お寺のチャイムを鳴らすと、都合の良い事に住職様が出ていらっしゃいました。

「すいません、妻が入院して来る事が出来ず。

説法を録音させて、妻に聞かせてあげたいのですが…」と、私は住職様に言いました。

「結構ですよ」そう言って住職はにこやかに微笑みました。

これで心置きなく録音出来ると思うと私は胸が躍りました。

その日の説法は、早めに始まりました。

私は、僧侶になりました。

とはいっても、宗教を押し付けようとは思いません。

宗教は、人のより良い生き方を示すものだと思っております。

若い頃に僧侶となった私は、最初は僧侶になることを困惑していました。

しかし、これも何かの運命だと思い、僧侶となる事にしたのです。

私が、青年になった時でした。

ある時、境内に一人の女性が立っておられました。

どなたかと尋ねますと、住職様のお孫さんだというのです。

私は、その壮麗な美貌に引き込まれました。

2008年4月6日公開

© 2008 柿人不知

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