四月に引っ越してきて以来、海岸の散歩が文子の習慣になった。土曜日の朝、音楽を聴きながら二時間ほど砂浜を歩く。白い砂の模様や海の表情、常に形を変えていく雲にはいつも新鮮な発見があった。海辺の町にあるマンションを買って本当によかったと実感できるひとときだった。
散歩から帰る途中、本を載せたワゴンを表に出している古めかしい二階建ての家の前をいつも通る。学術書や小説が並べられ、本の合間には豚の貯金箱が鎮座している。添えられたメモには「一冊百円。小銭のない方は呼び鈴を鳴らしてください」とある。この日、文子は小銭を持ちあわせていないわけではなかったが、どんな人が本の無人販売をしているのか知りたくなって門柱についたブザーを押した。
玄関に出てきたのは七十代くらいの女性だった。猫背ではあるものの、しっかりとした足取りだ。頭の白髪を一房だけ紫色に染めている。
「ねえさん、よかったら上がって。庭でスイカ採れたから今から切るところさ」人懐っこい笑みを浮かべて、おばあさんは言った。
家に入って最初に文子が目にしたのは、壁一面を埋め尽くす本棚だった。どの棚にも本がぎっちり詰まっている。淀んだ空気はドライフラワーの香りがした。
「ラヴェンダーですか?」
「そう、古い本って独特の匂いがするからね。ラヴェンダーは虫除けにもいいらしいし」
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