パリの蠅たち

二十四のひとり(第15話)

合評会2017年08月応募作品、合評会優勝作品

藤城孝輔

小説

6,074文字

作品集『二十四のひとり』収録作。合評会2017年08月(テーマ「パリでテロがあった」)応募作。

イマとのディープキスはさっきキムチと一緒に喉の奥に流し込んだクスクスの味がした。ボタンを外してシャツを脱がし、彼の体を両腕で抱き寄せる。細身だがよく日に焼けていて、触ると筋肉が硬い。首筋の左側には皮膚が裂けたような大きな赤黒い古傷がある。僕が「十九区」と呼んでいる傷あとだ。

「ボディビル大会に出場するわけでもないのに、どうしていつも鍛えてるの?」と僕が彼の肩をさすりながら訊くと、イマは「昔、兵役に行ってたころからの習慣だから」とだけ答えた。軍隊では筋肉を見せあう機会も多いから兵士のあいだで競争意識のようなものが芽生えるのだろうかと僕は思った。じっさい、イマは暇な時間を見つけてはせっせと懸垂や腕立て伏せをしている。僕はただそれを遠巻きに見るだけで、一緒にやったことはない。

イマの本名はパク・ヒマン。しかし、勤め先のインチキ日本料理店でも行きつけのタバコ屋でも彼は「イマ」としか呼ばれない。フランス語ではアーシュを発音しないからだ。つい「肥満」を連想してしまうから僕も彼をイマと呼ぶ。引き締まった体を持つ彼を「肥満」呼ばわりするのはなんだか申し訳ない気がした。フランス語っぽく彼の名前からHを落として発音はするものの、二人で話すときの言葉はフランス語ではなく最初からずっと英語だった。イマは日本語を話せないし、僕は韓国語を話せない。彼に言わせると、僕のフランス語は瀕死のバッグズ・バニーがわめいているようにしか聞こえないらしい。まがりなりにも仏文学専攻の院生に対してよくもそんなことが言えたものだ。

金のない僕たちは予定のない日には部屋にこもって昼すぎまで裸で睦みあった。イマの浅黒い肌に舌を這わせ、体のあちこちに刻まれた傷あとを一つずつ愛撫する。全部で二十ある古傷の点検が終わったあとは、イマに下半身を弄ばれながら大学院の課題であるルイ・アラゴンやベンヤミンの都市論に目を通した。入り組んだセンテンスを頭の中で解きほぐしながら、彼が受け止めてくれると信じて白い欲望を放つ。イマは顔じゅうを汚しても、アナルへの挿入だけはするのもされるのも嫌がった。

互いの体に飽いたら街の中をどこまでも一緒に歩いた。歩くのはメトロに乗る金を節約するためでもあったが、浮浪者の小便のにおいが充満する駅の構内が我慢ならなかったからだ。僕たちは路地や公園に建つ銅像の写真を撮り、人名のついた通りのプレートを確かめ、セーヌ河にかかる三十七本の橋を一本一本歩いて渡った。人混みの中に溶け込んだ僕たちに目を留める人間はほとんどいない。それぞれの地区の土地柄と歩く時間帯に気をつけてさえいれば、いたずらな暴力に出くわす心配もなかった。

右岸とシテ島を結ぶサン=ミシェル橋の上から川面を眺めていたら、バトー・ムーシュと呼ばれる遊覧船に乗ったアジア人観光客の一団が僕たちに向かって無邪気に手を振った。

「韓国語では蠅のことをパリっていうんだ」と不意にイマが言った。彼の視線はバトー・ムーシュの展望席を埋め尽くす黒い頭の群れに注がれている。船はゆっくりと僕たちの足もとを通り過ぎていった。

脈絡のない発言にどう返事すればいいかわからずにいた僕に構わず、彼はうわごとを言うように言葉を続けた。

「ここは蠅の街だ。世界各地から蠅が飛んできて金を吐き出していく。経済を回しているのも蠅だし、出生率を維持しているのも蠅、古ぼけた都に活気を与えているのも蠅だ。なのに昔からここに住んでる白い連中は感謝するどころか、隙あらば蠅を駆除しようと機会をうかがっていやがる」

橋の周りを飛びまわる無数の蠅たちが殺虫剤の白い煙に巻かれてパラパラと川面に落ちていく幻が目の前に立ちあがった。そうだ、この橋だ。あいつらがアルジェリア人を溺れさせたのはこの橋だ。一九六一年のあの夜、植民地の独立を訴えて武器を持たずにデモ行進をしていた群衆に警官隊は銃弾を浴びせかけ、倒れた者を生きたまま河に放り込んだ。翌朝には引き上げられた黒い屍が累々と岸に並び、泣き叫ぶ遺族の声がノートルダム大聖堂の鐘の音をかき消した。

2017年8月1日公開

作品集『二十四のひとり』第15話 (全24話)

二十四のひとり

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© 2017 藤城孝輔

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"パリの蠅たち"へのコメント 12

  • 投稿者 | 2017-08-08 07:56

    ディープキスがキムチとクスクスの味というのは、個人的に最悪の風味だなと思った。印象的だった。
    最後まで読めて、不快感もなかったので、この作品は面白かったのだろう。

  • ゲスト | 2017-08-08 22:25

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    • ゲスト | 2017-08-20 10:27

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  • 投稿者 | 2017-08-14 22:06

    メタファーがうまいですね。ただ最後はよくわかりませんでした

  • 投稿者 | 2017-08-16 21:01

    抱き合った男たちを夢に見そうです。
    よくまとまってる感じはするんですけど、“パリ”と“テロ”のキーワードを考えながら読むと、ちょっと違う気がしました。
    今回のテーマが“蠅”だったらよかったのかもしれませんね。

  • ゲスト | 2017-08-19 17:47

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  • 編集者 | 2017-08-19 22:43

    主人公とイマの関係は、アルジェに関する出来事やパリへの思い入れに大きな差はあるが、最後まで破綻なく自然に関係が終わる。ルームシェアの雰囲気って案外こんなものなんだろうか。
    この作品では前半で反植民地運動に対する白色テロ、後半で少しだけイスラム過激主義のテロと言う二つのテロが出てくる。後者はちょっと触れられるだけだが、前者にはイマの思い入れあるセリフが語られる。テロは一つだけではないし、蠅は一匹だけでもないのがしっかり分かる。

    これは勝手な想像だが、イマはもう死んでいて、霧はお迎えなのかもしれない。

  • ゲスト | 2017-08-20 14:25

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  • 投稿者 | 2017-08-23 01:41

    マイノリティの大変さや冷めという逞しさ、複雑さを感じました。

    最後、考え深い主人公がなぜ「沙紀」と付き合って結婚したのかは腑に落ちなかった。それまでが緻密で繊細だっただけに、ギャップでした。

  • 投稿者 | 2017-08-24 14:12

    ワンワードを切り口に話を広げていくアプローチは、このサイズの作品としてはクリティカルでよい。マイノリティを扱うという題材も作者らしさを感じられる(と同時に「またか」と思う面もなくはない)。文章の丁寧さ、巧みさについては今さら言わずもがな。いつもにくらべるとあまり着想に閃きを感じられなかったが、これもこちらが慣れてしまっただけかもしれない。

  • 編集長 | 2017-08-24 18:39

    パリが蝿だというフックは物語の冒頭としてはなかなかいけている。アーバンBLとして楽しめた。てっきりイマがテロリストになる過程をスリリングに描いていくのかと思ったが、象徴的なラストでややがっかり。毒ガスをばらまいたのかな?

  • 投稿者 | 2017-08-24 21:04

    草間弥生が書いた題名は違うけれど「男娼」を扱った作品を思い出しました。
    パリが華やかではなくイスラム系の人々や複雑な問題を抱えている町であると思い出しました。

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