破滅派作品
永滝ほと
いつにもまして雨が長かった。たいていは数時間も振り続けばやむか、そうでなくても極小雨にはなる。けれどこんどの雨はもう二日目だった。
きっとやむだろうと意気込んで傘をおいてきたせいで、駅へ取り残された。駅舎からちっていく人々はさもとうぜんのように傘を携帯していた。雨粒と霧雨にかすんだ景色を大小の傘がいろどり、とおくの山は黒い陰になっているからいっそうに傘がありありとさされているように見えた。
北口から高架橋へうつり、雨晒しからはんぶん逃れている煉瓦造りの花壇端に腰をすえ、長い長い母の迎えを待つことにした。
わたしの家は駅から十分ていど歩けば着く。車ならその半分くらいだろうか。それならわざわざ高架橋下へ移動する必要もないように思うが、母の準備はナマケモノのように遅い。そして母の運転はカメのように遅い。だから迎えの到着時間が読めないのである。
時間がおしい若者にとって上の世代のよゆうのある振る舞いには理解しがたいものがある。その逆も言えるのだろうが、若者のほうがより効率的で合理的であると切に思う。言わばタイムパフォーマンスだろうか。それはタイパと略称される。タイパを重視すればラジオよりテレビ、テレビよりインターネットを重宝するのは必然であり、げんにそのなかでも需要はスマートフォンがもっとも多い。そして今もそれを使用し、倍速にしながらインターネット番組をながし見て母の迎えを待っているのだ。
父は曽祖父の代から続く小料理屋を継いでからすっかりわたしの前に姿を見せなくなった。わたしの睡眠中に帰宅し出勤している。祖母はときおり父の手伝いへ行き、あまった食材を持って帰ってきてはこれみよがしに見せてくる。そうして祖母は日暮れ前から台所に立ち、母を寄せ付けないようにひとり夕餉の支度をはじめるのである。もうとっくにひと品ふた品できているころであろうか。器用に魚を三枚におろし、手際よく野菜を切り、長年でつちかった目分量の比率は完璧で、音で香で食事を楽しみにさせる。むろん、じっさいに味もおいしい。
気が付けば料理系の動画をながめてしまっていた。腹がなり、口の中がさわがしくなる。家のほうを見ても、車がむかってきているようすはない。母のにぶさに腹が立った。
父や祖母へ、今見ているようなお手軽を売りにしている、みばえばかりにこだわっている料理系の動画を見せたならば、いったいどう難癖をつけてくるのだろうか。今では東京や京都の観光地では外国人向けに節操のない和食料理が提供されていると聞く。
ただ食事をとれるのがなによりだと信じているので、この空腹をてっとり早く満たすのならばウニだろうがイクラだろうが和牛の炙りだろうがべつに不満ではない。よけいに腹が減り、母に腹が立った。
どれくらいスマートフォンをながめていたのだろう。スマートフォンをにぎる手も心なしか疲れている。高架橋の下は鬱蒼としているうえ、雨によりじめじめと湿気をためこんでいっそうに暗い。そこへとつじょ薄い灯りが横切った。それはすぐに車の明かりだと分かった。雨日と言っても大雨。それにかき消されるように車はロータリーへ止まっていたので、ほとんど大きな塊が先に置いてあるようにしか見えない。その薄黒い重々しい塊は見覚えのあるうちの車であった。母は車をおり、傘をもうひとつ持ってこちらへ近付いてきた。視界をしきりに縦に落ちる無限の雨粒のなかにだんだんと母の姿があらわになった。すっかり腹の減りなんかも忘れていたのではないだろうか。
帰路へ乗ると、母がみょうに落ち着いた声で、
「風邪ひくといけないからね、先にお風呂へ入りなさいね」と、言った。
とくべつ雨に濡れているわけでもないのに、やけに愛情深い。もしかすれば遅れを取り戻そうという類いであろうか。
「ご飯は?」
あいかわらずスマートフォンとにらめっこを続けながら尋ねた。
「もう少しで完成するそうよ、ああそうだ、ちょっとスーパーへ寄るからね」
「なんで、お腹減って死にそうなんだけど」
「お婆ちゃんに買い出しを頼まれたのよ」
「あっそ」
母の顔など見る気も起きなかった。ただスマートフォンの画面を上に上にめくるしかなかった。雨が車へぶつかるとかわいた音がはねるようになって車内にまで届く。車のエンジン音は雨音にとけてしまって、私の鼓音が飛び出そうなくらいに早まっているのが明らかになった。それに合わせて私のスマートフォン上を飛び回る指も颯爽となる。ページをめくり、動画を倍速にし、分からない言葉や知りたいことができればまたページをめくって質問をなげる。今の時代は手間をかけることなくすぐになにもかもを手にすることができるというのに、どうしてこの空腹はすぐに埋められないのだろうか。
車はよっぽど遅いのか、スーパーへ折れるまでに何台もにぬかれた。ぬいていった車はみなタイヤから水を豪快に噴射させて母の窓を叩いた。それでもなに食わない顔のまま母は運転を続けていた。
「じゃあ少し待っててね」
母はそう言うと、ひとりスーパーへ姿を消した。
(わたしも行く)
そう言いかけてよしたのは、どういった感情が故であろうか。
母の背中がおぼろになってから、眠りに落ちていたことに気付いたのは母の扉を開ける音でであった。
「おまたせ、レジが混んでてさ、さっちゃんの好きなパンがあるから食べていいからね」
車は慎重に発進され、すべての雨にあたるくらいのスピードで再度帰路に乗った。
なにも言わず、後部座席の袋をあさるとメロンパンがひとつ見つかった。これはさきのスーパーに併設されたパン屋のもので、私の小さい時からの好物であった。車が大きめの水溜りをむかえ少し揺れた。その包まれたパンからほのかな温かさが伝わってくる。パンを手に取ると、その下にカットエリンギの袋が入っているのが見えた。なにか見てはいけないものを見たような気がしたが、それはたしかにそこへあった。
「エリンギ?お婆ちゃんに頼まれたのって」
「そう、カットなんだけどね」
母はほほえんで前を見つめたまま、
「お婆ちゃんだってたまにはね」と、なぜか母のほうが照れ臭そう。
「まあたまにはね」
母に見られないようにほほえみ返し、メロンパンをそっともどした。母の運転が次の微睡をさそおうとしているところであった。
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