破滅派作品
永滝ほと
火口周辺警報が発表され阿蘇山の火口見学が中止になった。広島からはるばるやってきていた稲田は落胆したようすで茶をすすった。
「しっかり情報を調べてからこいよ。」
そう言うと、稲田はすこし顔をあげた。彼は今回の阿蘇山火口見学をずっとまえから楽しみにしていたのである。
「このお茶おいしいね。」
「熊本は茶の名産地だからな。」
ほのかに稲田の口から白い息がはかれた。
「で、どうするんだ。休みはまだまだあるんだろう。まさか阿蘇がだめだったからって広島にすぐ帰るわけじゃないよな。」
「わかんない。今はなにも考えていないね。」
半分ほど飲むと、稲田が窓の外を見つめながら言った。そこにうつる彼のうつろな目をむかしからなんども見たことがあった。わたしはその目が嫌いだった。だからつい口をすべらせてしまった。
「お前におもしろいことを教えてやるよ。」
稲田は顔だけをこちらにむけた。彼に聞こえるか聞こえないかくらいの声でわたしは言った。
「天草四郎の埋蔵金についてだよ。」
天草四郎は肥後の生まれで島原の乱の一揆軍首謀者のひとりである。名を益田時貞と言う。当時幕府によるキリシタン弾圧が厳しくなったころ、キリシタンであった益田は農民や浪人を引きつれ一揆を起こすのだが、幕府軍に鎮圧されてしまう。そのさい、軍資金の一部を天草島に隠したという言い伝えがある。その財宝は一揆軍の再興のために隠されたとされ、現在価格は数十億にのぼると言われている。
稲田はわたしの話をすべて聞いてから、
「いいね。それで検討はついているの?」と、表情を変えた。
「まあな、じゃなきゃお前にこんな話しない。」
稲田にさきまでの陰はなかった。それも陽を浴びたように燦爛とした表情になろうとしている。とても端正な顔付きの彼が見えそうであった。
「だからそう肩を落とすなよ。阿蘇に取り憑かれているわけでもあるまいし、熊本にきた理由にでもしたらいいだろ。」
「いいや、ぼくは阿蘇山に魅せられているのはたしかだよ。君が昔に言っていたんだ。あそこからの景色を見れば僕の苦悩なんかちっぽけに思えるだろうって。だから僕はあそこに行かなきゃならない気がするんだよ。もし駄目だったら僕はなにをするか分からない。」
喫茶の窓には阿蘇山の薄い頭頂がうつっていた。長くて厚い雲の塊が覆いかぶさっている頭頂は目をこらしてもはっきりは見えない。すぐまた稲田の表情が曇りはじめた。
「その埋蔵金なんだけど、俺はある人から教えてもらったんだけど、たしかな情報なんだよ。お前も一緒に探してくれないか。」
わたしは話題を変えるのに精一杯であった。稲田は外を見たままである。彼の遠くを見るような目やなにを考えているのか分からないところには慣れているつもりだ。そういう部分が彼の魅力なのかもしれないが、彼から染みでる死欲のような空気は周りの者をも飲みこむ力があるのもたしかである。
「……。」
「なんだよ、そんなにか?阿蘇になにがあるって言うんだよ。なあいいだろう。一緒に埋蔵金を探してくれよ。もちろん山分けにするつもりーー」
「君は登ったことがあるからいいね…。」
わたしの言い終わるまえに稲田がかぶせた。わたしは必死に次の言葉を探した。こういう時、なにを言っても稲田の気が変わらないのは心得ている。しかし、こういう時、彼を救ってあげることができるのはわたしだけであるという自負がある。
山にはみるみるうちに曇天が積もっていた。山の天気は変わりやすい。むこうにはまだ陽が差しこんでいるというのに、山はしずかに曇ってしまった。
稲田は茶を飲みほしてから名残惜しそうに湯呑の底を覗きこんだり、湯呑を傾けたりしている。渡航費だけで貯めた金のほとんどが消えたらしい。彼はむかしから本当に金がないやつだった。学生を終えても定職につかず、連日を飲み歩いて暮らしていたし、いろいろな人を頼って寝床を転々としていた。そもそも金に執着のあるやつではなかったから、彼から阿蘇山のために金を貯めていると聞いた時はひどく驚いたものだった。だから彼がそれほど埋蔵金に関心を示さないのも分かっていたことだった。今の彼には阿蘇山からの景色だけが必要なのである。
「そういえば、あの子とはうまくやってるの?」
稲田が突然口を開いた。こういったなんでもない会話を彼がするはずがない。きっとなにかしらの意味があるのだ。
「ああ、それなりにな。」
「結婚は?」
「まだ分からないけど、相手がしたがってるからな。」
「へえ、子供はほしいの?」
「俺はほしいかな…。」
このあたりにまで雨雲が伸びてきて、さきまで陽に侵されていた町は輝きを失い、すっかり陰のなかに追いやられてしまった。とっくに山の姿は見えなくなっている。
「仕事は順調なんでしょ?」
「まあな。お前のほうは、最近どうなんだよ。」
「え?なにもないよ…。」
少し間をあけて稲田は言った。この言葉はこういう時の彼の口癖であった。
「うん、僕はなにもないね。」
稲田が笑った。喫茶の窓に極小粒の雨が引っついた。雨粒は数を増やし、数えられないくらいになると、風に吹かれてなん滴かだけが窓に張りついたままになった。町は青暗くなり、晴れ渡り大海のように見えていた青空が嘘のように雨雲に移り変わった。雨は勢いのままそこらをぬらした。喫茶の敷地にある植え込みは軒からのしずくに打たれて、道路の側溝にそのまま吸いこまれそうに首を垂らしている。
店内が少し騒がしくなった。皆が店外の雨に気付きはじめたところであった。心なしか、店内の空調が効きすぎている気がした。湯呑の茶はすっかり冷めてしまった。稲田は物憂げに降りしきる雨を見続けていた。
「どうする?のるか?埋蔵金…。」
店内は暗さをともない、客のひと組ふた組があわてて会計を済ませて帰っていった。窓は真黒となり、そこに稲田の目が反射している。私はよくない予感がした。
「……。」
「阿蘇はまたいつか登ればいいだろ。」
私の語気が強まった。稲田は驚いたようすでこちらを見、
「…うん、それじゃあそのまたいつかっていつなの。」と、弱々しい目で答えた。それは見ていられないくらいの目であった。
「もう無理なんじゃないかな、僕にはなにもないし。もう疲れたんだよ。」
伏目になった稲田の目を認めることができなくなった時、さきの予感が確信に変わった。店内は静かになっていた。
「お前、このままだと死ぬぞ。」
稲田の肩がぴくりと動いた。かと思えば、顔をふせたまま口元を緩ませたのが分かった。
「…僕もそう思う。」
「そうだろ、だから俺と一緒にこいって。このままお前ひとりでいたらたぶん死にたくなる。今は俺でも、誰でもいいから誰かと一緒にいるべきなんだよ。気分転換にもなるし、とにかく、俺と天草四郎の埋蔵金を探しにいくぞ。」
大の大人がするには馬鹿げているとは思ったが、こうでもしなければ彼を暗闇から連れだすことは不可能に思われた。強引すぎる誘いに彼がのるかどうかではない。彼をどう説得するかである。ふと、こういう稲田への強引な誘いを学生時代にもなんどかしたことがあるのを思い出した。
気付けば湯呑をつよく握りしめていた。わたしは徐々に自身が苛立っているのだと分かった。それは稲田の考えが理解できないからなのか、彼のことで自身がむきになってしまっていることに納得がいかないからか、なぜかは分からないがこういう時に感情がたかぶってしまうのである。
稲田は優しいやつである。人の痛みが分かるのだ。元気な時は突飛なことをするし、興味深い話もたくさんしてくれる。かしこくていつもいろいろなことを考えている。そしてなにより繊細である。故に考えすぎて落ちてしまう時がある。そんな彼の周りにはいつも人が集まるというのに、彼は孤独になりたがっていた。
「なあ、なにもないってなんなんだよ…。」
雨が弱まっていた。
「お前が死んだら悲しむ人がいるぞ。騙されたと思って俺についてこい。あれだぞ、かなり有力な情報を得たんだよ。」
わたしは優しく言葉をかけたつもりであったが、どこかに稲田を追いつめてしまうものがなかったかどうかを急いで振り返った。もしかすると、彼を死に追いこんでいるのは紛れもないわたしなのではないかという恐怖心さえ覚えた。孤独を好むのは、彼がそうするしかないからであって、彼みずから望んでいることではないのかもしれない。そうなれば、わたしが稲田を死から遠ざけようとする行為そのものが死に近づけているということである。
わたしは試すことにした。今まで強引に彼を引っ張りだしてきたが、今回は彼のなかでもわけが違うようであるから、はじめて彼を肯定することにした。
「…分かった。べつにお前が死にたがっているのを止めることはしないよ。もうお前の好きなように生きたらいい、お前の人生だしな。なにもないんだろ。死んだらなにかを得れるかもしれないじゃないか。そう考えればお前を否定している俺が間違っていることになるな。」
そう言っている途中で目の奥が熱くなるのを感じた。込みあげる嗚咽と言葉が震えるのを必死でおさえた。どうしても今目のまえにいる彼を殺してしまう気がして、自身でも分からないくらい頭のなかが真白になりながらしゃべった。
稲田はない茶をすすった。私は手持ち無沙汰となり、腿の上でつよく拳を握りしめた。稲田は突然立ちあがり、
「たばこ吸いに行く?」と、軽く言った。実に呆気ない言葉だった。あっさりとポケットを探っている彼を見て、
「いや、いい…。」と、返すほかなかったわたしは、まだ彼を肯定しきれていなかった。
「…雨は大丈夫なのか。」
窓を見ると、雨はとっくに通りすぎているようだった。草木が雨粒を溢しながらこちらを見つめている。スズメが庭を横切った。
いぜん阿蘇山は姿をくらませて、そのすべてを見せてはくれないが、山の裏の東方に目をこらせば見えてくるのは、陽光の陰である。阿蘇山が全貌をあらわにするまですぐと言ったところであった。
「そっか、じゃあ待ってて。」
稲田はそう言い残して外へむかった。
対面に稲田のいた跡と言えば、空になった湯呑だけである。しかし、わたしには彼の温度や香を感じとることができる。
背側で扉の開閉を知らせる鈴の音が鳴った。外気が足もとにまで忍びいった。思っていたよりも外の空気は乾いているらしかった。もう一度、山を見あげると、さきよりもさらに薄雲となり、陽の在処が色を変えはじめていた。
これまで天草四郎の埋蔵金が見つかったという報告はない。もちろん地元のものしか知らないような有力な情報もすでに調べつくされている。わたしの知っていたそれは、天草島内にある池に隠されたというものだが、昨年とっくに調査が済んでいた。その池からはなにも見つからなかったそうだ。
残りの茶を飲みほした。底に溜まっていた苦味が冷たく口に残る。外はどうやら明かりを取りもどしはじめていた。
背側で再度鈴が音を揺らした。だが稲田の気配はなかった。わたしは特に意味もなく湯呑に口をつけてから、会計を済ませに席を立った。きっと稲田は埋蔵金探しにくるはずだという確信を持ったのは、とうとう阿蘇山の姿を認めたからである。わたしは彼を長く知っている。
金を支払いながら、彼にどう埋蔵金の嘘を突き通そうかと考えを巡らせていた。よくないことをしている自覚はない。彼が生きのびてくれるのならばなんどだって嘘をつくつもりだ。その嘘が楽しく暮らせるためであるならば、彼の口癖も心の奥底にしずんだまま忘れ去られるだろう。けれどやはり、適当な場所を捜索して埋蔵金が見つからなければ、彼はなにもないと笑うのだろう。その輝くような綺麗な彼の笑顔を想像しただけで明日からが楽しみになった。
頬を緩ませ店をでた。鈴が乾いて音をあげた。
ここらはまだ薄暗かったが、さきとうって変わって東の空に陽が差しこんでいた。その一筋の光は嘘のように阿蘇山の頂にむかって落ちている。霧が中腹辺りにまとわり、森の緑と空の青とに混ざって太陽に煌めいて、幻想的な阿蘇山はそこにあった。わたしは柄にもなく駆け足で稲田のもとにむかった。喫煙所でひとり煙草を燻らせながら、ちょうど稲田も渡り空に突きでた阿蘇山の頂を見つめているところであった。
大猫 投稿者 | 2026-09-19 22:59
阿蘇山を背景とした心境小説、といった趣。
天草四郎の埋蔵金も稲田を動かすための狂言回し的役どころで、別のものでも構わないわけですが、阿蘇山の火口見学がダメになったら、天草四郎埋蔵金を探すってアイディアを出す語り手の心根が愛おしく感じました。
稲田と言う人は、佇まいが静かで、容姿端麗で、男同士でもなんとかして悲しませたくない、笑顔が見たいと思わせるような人柄なんでしょうね。たまにそんな人いますね。
強い希死念慮が阿蘇山の陽光を浴びた雄大な姿で和らぐと良いのですが。大自然の美は力があって、その力をもらって埋蔵金探しに出かけられると良いのですが。
浅谷童夏 投稿者 | 2026-09-20 01:53
死に魅入られている友人を生の側に引き戻す。そのためだったらなりふり構っていられないわたし。その一方で友人を死へと追いやっているのは他ならない自分ではないかという想い。梅崎春生の「幻化」をちょっとだけ思い起こしました。
曾根崎十三 投稿者 | 2026-09-20 13:14
こ、こういう人いる!! 稲田みたいな人いる! リアルでした。この面倒くさい性格が良い。悪い奴ではないし、むしろ良い奴なんだけど、駄目な奴ではあって、不意に消えてしまいそうな、でも、ちゃんとここにいる。今回の自分の作品との親和性を勝手に感じたりしています。
私も阿蘇山見たくなりました。