パン工場の読書家

大川縁

803文字

高井戸のパン工場で仕事をしていた時、職場の人が私小説を貸してくれたのですが、それが私の人生の転機になりました。そのきっかけとなった人のことを書いた詩です。

私は一時期、高井戸にあるパン工場で働いていたことがある。

とにかく金が必要だったので、手っ取り早く賃金が振り込まれる派遣会社に登録して

すぐに採用になった。

 

仕事は単純作業で、フロアに用意されたレーンに番重が並べられ、

そこに決められた個数の菓子パンを入れていくだけだった。

番重は各店舗に対応していて、その店舗が注文した個数がデジタル表示板に映され、

数さえ間違えなければいいのだが、

もし気付かないで店舗の番重に入れる数を間違えたりすると、

もう一度レーンを巡って、どこが違っているのか探さなければいけないので非常に面倒になる。

なかなか誤差の原因を見つけ出せず、

無限回廊をさ迷うことになってしまった者を何度か見かけたこともあった。

 

現場には様々な人が集まっていて、その中に福岡出身の読書家がいた。

彼は口数そのものが多いわけではないが、小説、映画の話になるとたちまち饒舌になり、

私がこれまで興味を持たなかった分野の小説家や映画監督のことを次々教えてくれた。

 

中でも車谷長吉の「金輪際」は、私の人生に多大な影響を及ぼすほどのものになった。

読書家から単行本を借りて読んだ時は、

「難解なこと書くなあ」ぐらいのことしか感想をもたなかったが、

その後仕事を転々としていた時期に、ある時ふとまた読みたくなって文庫版を手に入れた。

布団に寝そべって枕元で頁を開いてみると、

明らかに以前とは違う感触が伝わってくるのがわかった。

連なる一文字一文字が痛いほど染み渡り、焼き付けられ、書いてある内容というよりも

気付けばその言葉の魅力にとりつかれてしまっていた。

 

私はパン工場の仕事を辞める時、

挨拶しようと、休憩所で休んでいた読書家に声をかけた。

どんな風に話しかけたのか曖昧で思い出せないのだが、

読書家が「がんばれよ、文学青年!」

と快いエールを送ってくれたことだけが、今でも印象深く残っている。

 

2016年10月24日公開

© 2016 大川縁

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