乳ノ木様

大川縁

1,008文字

板橋区にある赤塚諏訪神社のこぶ欅を心の支えにした詩です。ほぼ実話をもとにしていますので、所々でちょっと生々しいですね。

一日労働に身を捧げると、身体は痺れるように疲れるが、

意識だけははっきりとしている。

日雇いの賃金は、その日をしのぐには事足りるかもしれない。

しかし先の見えない労働の日々は、

ただ同じ工程を繰り返すことが重要で、

常に機械を維持するための作業が求められる。

 

高島平の工場から抜け出して、首都高速5号線高架下で信号を渡った。

高島大門の急坂を自転車で一気にのぼると、

膝はもうほとんど動かないほどくたびれてしまっていた。

その日の賃金で、酒と肴を買うぐらいのことしか考えられなくなっていることが、

どうしようもなく恐ろしかった。

やりたいことがあるはずなのに、それができないという現状を変えるには、

多少の無理が必要なのだろう。

このままでは、惰性にまかせるまま年老いることに

怯え続けなければならない。

 

明日にでも終わらせるのだ。人はいくらでも変われる。

深夜の人通りのない新大宮バイパスで、毎日のように自分を奮い立たせていた。

 

すると、ある所で立て札が目についた。

それはバイパスに分断された神社の敷地で、

金網越しに大きな欅がそびえ立っていた。

 

立て札には「赤塚諏訪神社のこぶ欅」と書かれ、

たしかに欅の根元には立派なこぶがあった。

このこぶを乳房にたとえて、別名「乳ノ木様」と呼ばれているようで、

母親の乳の出がよくなるよう祈願する民間信仰が

赤塚地域にあったという。

謂れもそうだが、欅そのものに不思議と惹かれるものがあった。

この日常から脱するための、変化をもたらす

大切な何かが、この木にはあるように思えた。

 

それから私は、工場への行く前に必ず乳ノ木様に挨拶をし、

帰りも一目見てから帰るようにした。

鬱屈としていた気は次第に軽くなり、次の仕事を探し始めていた。

冬の冷たい風に打たれながら、

枝をしならせる乳ノ木様を心の拠り所に、

私は自分が何をしたかったのかを、

ようやく冷静に考えられるようになっていた。

 

もしかすると私は、現状を変えることばかりに目を向けすぎて、

考えが凝り固まってしまっていたのかもしれない。

とても単純なことが、とても難しく

すぐ目の前のものが、どんどん遠ざかっていく。

わかっていたようで、実は何ひとつ理解していなかった。

 

人の心の、危うさを

乳ノ木様によって知らされる。

2016年10月14日公開

© 2016 大川縁

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