薔薇よ。薔薇よ。薔薇よ。

罧原堤

16,851文字

孤高の詩人は魂の熱情の赴くがままに、この現世を流離っていた。毎日のように 池に入水しては、自分の体を清めていた。しかし、下界に叩き落されてしまう。 おりしもその下界はちょうど、旧約聖書の時代で、詩人はオアシスを求めて旅を 続けた。さらに男は白鳥の棲む湖を目指す。それからいろいろあって、詩人は自 分の正体を明らかにしてしまう。ウスバカゲロウだと。

1  私より美しいものはこの世に存在していない

陰惨なパーティーだった。薄汚い蠅たちの毎度お決まりの馬鹿騒ぎ。着飾っているつもりの、高慢な豚女。猿のような男たち。西洋と東洋の血が半分ずつ流れている私、神秘的な顔立ち、流麗な挙措動作、どれをとっても私一人だけが、この場の空気にそぐわない高貴さを持ち合わせていた。どうやら私は皆の期待をいっしんに集めているらしい。女らは欲情に狂ったまなざしで私の影を追う。男らは私の知故になろうと微笑を浮かべて私の蜃気楼に会釈する。

「ジャン」永遠にうだつのあがらない中小企業の役員が私に気安く語りかける。もちろん私は、こんな俗物を相手にするほど心は汚れていない。私の心、それはむろん、水晶のように透き通り、そして輝きに満ちている。

「どうだい? 絵は順調かい? こんど個展を開くそうだね。私の会社から金を出そうかい? どうだね?」

私は醜い者から目をそらし、紅がかったワインをグラスに注ぎ、舌で転がし、味わう。この男の喉元を私は、ナイフでえぐってみたくなった。

「どうでしょう? あなたの血で絵を描かせてもらえませんか? きっと素晴らしい痴呆の哀れさが描けると思うのですが」

男は何も理解することなく、微笑み続けている。

「それは、今度考えておきましょう」

私は冷笑し、「そうですか、それは残念です。あなたの腐りきった血で一度、屍にむらがる蠅でも描いてたいと思ったのですがね」

彼ごとき矮小な人間の返事を待つ私ではない。薔薇の香りを残し、颯爽と私はこの醜き集会をあとにする。私のねぐらへと。

私は酔狂なことに、私の化身の儚げさにふさわしくないことだが、悪趣味なことに耽溺することがある。アトリエにモナリザの複写を4枚ほど飾っているが、どれも数日前に描いたもので、それぞれ、情欲、苦痛、憎悪、嫉みの感情をその顔に顕して、私のみなもとでたゆたわせている。どれもこれも裸婦で、私は剣を鞘から抜くと、一枚一枚、幾回も幾回も飽きるまで切り刻んでゆく。やがて、私のドレスが赤く染まる。それまで、私は色を塗り重ねては、剣をふるい、私の美貌に狂気じみた翳りがうつり始めるまで、この遊びに我を忘れてしまう。疲労した私の魂は鏡台に写る私の美貌に目を奪われ、俗悪なこの世界から離れた精神の高みに運ばれ、安らぎ、また、腐敗した日常に戻ってゆく。なぜ? なぜ私だけが美しいのだろうか? なぜ私以外の者は醜いのだろうか? そうだ、私という美の象徴を際立たせるため、他の人間たちはあんなにも腐りきっているのだろう。醜いものは許せない私だのに、彼らを見ると一種の哀れみさを覚える。蛆虫としてうまれ私を羨望し、あるいは嫉み、馬鹿げた悦楽に浸りきりで日々を過ごしている彼らを、私は愛しているのかも知れない。その愚かさを。

私には赤いドレスがよく似合う。

 

2  うつしみに寄せる手記

 

希望に満ちた眼差しで突き進む彼らに、私は毒薬を進呈する。それが彼らへのご挨拶だ。私の愛の賜物、死の美学を掻っ攫いきては、彼らの薄汚さを神々の冷水をもって洗浄してやらなければ、醜いものが生まれてきた原罪を癒してやることなどできないのだ。醜いものはこの世に存在してはならない。私がこの世界にいる限りは。私は枯葉に擬態した蛾だ。私の美しさを見抜けるものはあまりいないだろう。薄汚れて、ドブ臭い魂に成り果てた者たちの眼には私の姿も薄気味悪く映るに違いない。どうやら私は美の極致にまで至りすぎたのかも知れない。だが、なにゆえ、下界にとどまっていなければならないのだろうか? 私のように転生の才能を下嗣された選ばれし麒麟児にはこの世界の道徳を踏みにじる権利と、義務があるのだから。そうだ。私はまだ19歳の、未成熟な詩人に過ぎない。大らかな気懇に促され、私は美を謳うだけの一介の詩人、それだけだ。私はこの世に美を見出そうとして果たさなかった。絶望に打ちひしがれた私は、鏡の中に美を見出したのだった。美とは私だったのだ。私が美を謳わんと欲すれば私自身を謳わなければならない。だが、私はこの私が生き、悩み、光を発するみなもとである私と同等なものを見出し、そこに苦悩する私と同調するなにごとかを探し、憩いたいのだ。私ばかりが美しく、私ばかりが絶対的命令を下せる預言者であっては、生きていることに何の張り合いもなかった。虚しい思いだった。幾年も、私はこのジレンマと戦い続けるしかなかった。だけれども私にいつか、私の美に感化されてゆくものが眼にとまった。それは太陽だった。太陽は私の美を白日のもとに照らさんと燦々と、燃えるがごとく、私の頭上高くにあった。私は安堵した。私の存在も無駄ではなかったのだと。

そして、私にはまた…… 探求しつづけても、得られぬ至福の歓喜への羨望の飢えから逃れんがための逃避癖があった。だが、そんなことにさえ私の研ぎ澄まされた感性は天上の愉楽にも等しい激情を私の身体に及ぼしさえする。赤い仮面で端整な顔を覆い隠すと、私は生まれたままの姿で、夜の街角を徘徊するのだ。路地、私はそこで全身全霊を込めた入魂の一筆を見事な筆さばきで描き続ける。路地の壁は瞬く間に、末世の、そう、赤裸々な人間の情念で浮かび上がるのだ。

 

3  清らかな私は、常に清潔でいなければならない

 

雑然としたアトリエから螺旋階段を下りていくと、蓮の葉でヴェールを敷かれた純日本的な池がある。私は毎日、胡蝶蘭を投げ入れては、その池で水浴びをし、私の麗しい身体を清めることにしていた。私は服を脱ぎ去り、ピンクのブリーフを鼻先にもっていき、その香科に酔いしれると、頭から池の中に入水する。私はその瞬間、この妖気に包まれた池と一体化し、何千何億年も前からこの池を棲家にしていたような感覚に溺れ、池にすむものどもらとの性交が始まる。異性物とのセックスは、私をファンタジーの躍動感で皮膚の表面まで潤し、私のとろけんばかりの容姿において、唯一地味な耳朶さえも、桃色に染まり、蛙との交わりにおいて、私の喜びを危険なまでに顕そうと躍起になるのだ。

私は雌カエルの穴に挿入し、腰を躍らせ、また、雄カエルのイチモツによって、肛門を激しく突かれてはため息をつく。官能的な3Pにより私の粘液という粘液が溢れ、狂ってしまいそうな夕べに、美少年の陰茎を無我夢中でフェラチオしているようなアブノーマルな悦びに私は我を忘れてしまう。

「ああ、挿れてくれ、挿れてくれ、お願いだ、挿れてくれ」私は逝きたい、逝きたいのだ。もはやそのことのみしか思考できなくなってしまって、湧き出る精液を掬いとり、アナルに塗りこまんとして、太くて、長いペニスが自由に出入りできるように、魔術をかけるのだった。

「どうしてあなたはそんなに挿れらてたいの?」

雌カエルが私にそう問いかける。

「私は、自分でなくなりたいのだ。私は、私は、変になりたいのだ」

「それは私も同じよ。私は今はこんな醜いカエルの姿ですが、本当はこの世界で一番の美貌をもつお姫さまなのです。王子様のキッスで本来の姿に戻れます。どうか私を元の姿にもどして、お嫁に貰ってくれませんか?」

私は漲る腕で彼女の首を引き寄せ、ねじり込むように舌を入れ、淫らな音を立て、吸い、舐めあう。そして私は彼女の唇を噛み千切り、頭部を噛み千切り、心臓を噛み千切り、手足を食い千切り、彼女を殺してしまう。なぜなら、私より美しいものがこの世に存在してはならないからだ。

 

4  追放されし私は、さながらヘドバとダビデか

 

たましいが夢の世界に遊んでいたおり、いつものように抜け道をとおり抜けある晩餐会で飲食していた。すると一人の牧神が、見咎めて、

「一体なんだおまえは?」

「詩人です」

「寝ぼけたことをいうな。人間のしかも凡人ではないか」

「まあそうかも。でも、だから心臓ばくばくして、脳みそすかすかになるまで睡眠不足でやっと詩を綴ってるんです。えらいでしょ」

「うるさい! おまえのようなものをわしと同じ席に座らせられようか!」

直後、もんどうむようで、叩き落された。大きなハエたたきかなんかで。

「魔人よ、魔人よ、魔人さん。これであなたも曲がりなりにも堕天使ですから、自分の力で立派な詩を書いて這い上がってごらんなさい。うんとたくさんできがよいものを書いて」

真上から女人にそんな言葉を投げかけられながら。それから我がままに、あるがままに振舞った。とるものもとりあえずペンシルを握り締めせかせかと溢れる言葉をノートに記しだしたりして。

 

5  オアシスに辿り着かねば、清潔ではいられない

 

岩かげに男が寝ていた。ここをねぐらとしているのだろう。貧しい装いをしている。どんな奴かと、うす暗がりの中、目をこらした。まだヒゲも生えそろっていない若い男だ。ややたれ目の。声をかけてみる。反応なし。よく熟睡していた。だらしなく伸ばした腕の先に靴を転がして。──禍々しい者ではなさそうだった。それにここはそこはかとなくいい雰囲気。ただならぬこともなさそうで。そう感じた。直感で。今夜はここで夜をしのごう。男は相変わらず寝入っていたが、そっとしておいた。荷を降ろし、ただ隣りに座らせてもらうだけのこと。椅子などないが。じかに地面に。大胆かつ不適に。そう、それが俺を俺たらしめているすべて。静寂。冷えこんできた。しっとりと、雨も降ってきていて、雨滴で閉ざされてゆくその入り口まぎわにそっと手を伸ばしてみる。届かないことを承知で。ただ戯れに。明滅を繰り返す夜空。雷鳴がとどろいていて。──いかずちのような激しさでこの日の出来事を若者は後年、こう語ったものだ。

「いつものように俺は寝てたんだ、そしたら誰か入ってきやがった。ものすごい足音でだ。馬の群れが通り過ぎてゆくような。見知らぬ男だった。俺は目をつむって寝たふりをしていたんだが、それからは夢を見ていたのか現実におきたことなのか今もってわかりはしねえ、うす目をあけてみるとそいつが青白い顔して目をひん剥いて、踊ってやがった。俺は恐ろしくてなあ、生きた心地がしなかったよ。食われちまうと思ったんだ! そいつは俺が逃げようとすると、ふりむいて……、──やあ、おはよう。目ざめは?」と、悪魔のような微笑を浮かべて。

皮袋から一口、水をあおり飲むと、平静を装って、

「……悪くはないが、女に起こされたかったな。どうせなら」

「ブスでもか?」

あわてて、咳き込み、

「いやまああんたで良かったよ……」

天候はずいぶんましになってきていた。じきにやむだろう。あたりが照らされだし、緑の草がところどころ、そこらじゅうに跳ねている。あれだけ踏み散らかしたのにもかかわらずに。土はまだぬかるんでいるがすぐ固まるだろう。私の足跡はもう消えていた。だが、まだのし上ろうとする火種は心に残っている。メラメラと、野心が。火の粉で目がしょぼしょぼするほど。人間性もわずかばかり。ためらう恥じらいも。空気みたいなものだが。──そよ風が、入り込んだ……

「新しい情報はあるか?」

「ソドムとゴモラが滅んだ。神の怒りにふれて」

「そうか……」

その街角でも、人々は今までの人生に恥じ入っていた。その堕落した人生に。こいつのようにぽつりぽつり逃げ出すやからも多くなっていた。

「独り者か? 恋人は?」

「今はひとりだ。俺は女を愛せなくなったんだ。肉欲はあるが……、ふんだんに……」

「自己処理精神が旺盛なんだな。いろんな問題をそりゃ抱えてるんだろうがわき目もふらずに、せっせと、悶々、黙々と」

ものといたげな目で、

「……つぎつぎと、なにかをなしとげる?」

「いや、出してしまうということさ」

不思議そうに、

「何を」

「欲求不満という名の体液さ!」

朝陽がのぼり夜明けが終わった。朝だ。旅立たねばならない。私は探し出すあなたがどこをさ迷っていようとも。歩いて寝るだけの日がつづいても。男は先にたって歩いていった。まるで目的地があるような足取りで。私はそのあとに続いた。

「どこに行くんだ?」

「まっすぐ。ただ見つめてるだけさ、前を」すぐ、言い直した、「風を、その吹きっぷりを」

それから照れくさそうに、

「女がわんさかといる、オアシスにでもたどり着ければいいんだけどな」

「そうだな。綺麗な水、澄んだ水なんて、飲んでねえな、そういやここんとこずっと」

廃墟から煙が立ち上っていた。上へ上へとゆらゆらと。

「あの街も神の怒りにふれたわけだ」

「ええ、俺たちの生活は荒みきっているんです、それほどまでに」

「ほんとうに神の仕業なのか」

男は怪訝そうに、

「ほかにこれほどまでのことをできる者がいますか? 第一、罰せる権限を持つものは神をおいてほかにいやしませんよ」

「悪い奴だな。その神ってのは」それから小声で、「……とくに牧神が」

男は批難するように私を見た。私の唇を。侮蔑するように、ながながと。

「俺の人格を疑うのか?」

「いいえ」──男は静かに言った。男は東から来たという。まるで激流だったという、彼の人生が。そう大洪水の流れに逆らって小船が進むごとくに。

「いろんな奴と出会いましたよ。いろんな奴がいた。誰とも信頼関係なんか築きやしなかったけど。まあ、だから俺は別にどんな考えを持った人だろうとたいして驚きゃしないんです。ただ、急場をやり過ごすには協力したほうがいいってだけで。互いにとって」

「どこまで?」

「深入りしないまで。あまり情が移るとそいつの不幸まで背負いかねませんからね。そんなのはごめんだ。ほどほどってところまでだな。未練があっても」

「悲しい過去があるみたいだな。その口ぶりだと」

「……ええ、こんなことを言う女がいたんだ。さっきあんたは神をそしったが、その神が滅ぼした街へ行きたいんだって。……なぜって? そんなことは知らないよ。俺の腕をとってさ誘うんだ。うるんだ目して。ねえ、あなたも行くでしょって。確信に満ちた目をしていいやがったよ。私もあなたの行くところにはどこにでもついてゆくって、さ。あなたの行くところなら私、どこだっていくわって。だから私のいくところにもあなたについてきて欲しいってよ。俺も行きたくはあったんだ。だけど、そんなこと言ったってよ、そんなとこにゃ、何もない、不幸しかない、頼るものもいない。なにより希望がないじゃないか」

「彼女はおまえを頼りにしていたんじゃないのか? ほおっていくこたないだろ」

「俺を? 俺じゃその女を幸せにできないからな。俺みたいな放浪者じゃ。無理な話さ。俺は自分の道を一人で進むしかないのさ。……彼女はほかの奴をすぐ見つけるさ。俺以外の誰かを。替りなんていくらでもいるだろうよ」

「まあ、どこに行こうが、何をしようが、おまえの勝手ではあるが。それはいつの話なんだ?」

「10日ばかり前かな」

「それをまるで大昔のことのようにいいやがって」

「いやまだ生々しく目にやきついてるから、いとしいだけさ。昔のことなら忘れちまう。だけどまだ今はまだあの女の口臭や」──変なことを口走る奴だな──「その艶かしい口から吐き出されたよ、息の暖かさが俺の頬にまだ、ぬくもりとして残ってやがるから、こびりついていやがるから……」

「寝たのか、その女と」

「……そんなこたしないよ。身ごもらせちゃ可哀想じゃねえか」

「ほう、若いのにおっさんみたいだな、おまえは」

「……それなりに苦労しているからかな(というかそんなアバンチュールな感じじゃなかったし、やるなら無理じいするしかなかったからだが、力ずくで……)」

「女はどこへ?」

「罪人を見に行くっていってたな」

「そう言ってたんだな、本当に」

「ああ、それがどうしたんだ」

「行こうか、その女のもとへ」

「なぜ?」

私は彼の肩を叩き、

「おまえには時間はない。そして何もかもがない。それは今後も変わらないだろう。もたもたしてると誰かに奪われるぞ」と、ぼっそりささやいた。耳もとで。

私は自分に言い聞かせるように、考えこみながら、ゆっくり言葉をつないでいった。

「戦いを放棄したものに投げかけられるのはさげずみの言葉だけだ。たとえそれを表面にあらわさずとも言外ににじみ出てしまう。いいか、そんな奴らはただ死を待つだけの身だ。争うことによって地位を得るのだ。……自分をより拡散できる舞台を。おのれの価値を全世界にとどろかせてみろ! 大あらしがきたらんとしていても、その中に飛び込まないのなら何事も起こりはしない。……脆弱だから、飛び込めない? そんなのは言い訳だ。自分の弱さに甘えているだけの卑怯者だ。羽ばたくか舞い落ちるか、その扉を開こうともせずがたがた考えるんじゃねえ、どん底にいるならなおさらだ。一秒一刻も無駄にするな、どんな困難が立ちはだかろうとも、うねりの中に身を投げだせ! そこが白日のもとであろうが、漆黒の中の荒野であろうが! ゆけ! ひとみ愛に燃えて!」

男は私の顔を食い入るように、まばたきひとつせず見つめていたが、──私は、またもやたましいが夢の世界に遊びだしていて、うずうず、まいたった、けだるく天上界の宴へ通じる回廊を歩いていた、すると門番に呼びとめられた。待っていると、あの牧神がやってきて、

「またおまえか。よく図々しくこれるものだな」

「待ってください私はたった今、ほのかにかおる、来るだけに足るものを」

そっこーで、

「ダメだあんなもん、ゴミクズだ!」

それから、私はむんずと襟首をつかまれて、つまみ出された。後頭部に蹴りを入れられながら。──気づくと、若者に、

「大丈夫ですか、正気を失っていたようでしたが」と、半笑いで、心配されたが、

威厳たっぷりに、

「預言者とはそういうものだ」と、ない余裕をふり絞って空威張りした。──沈みゆく夕陽に向かって。

「……何かきてますよ」

私はせまりくる恐怖に子猫のようにおびえながら、

「大たつまきだ」

ずけずけと、

「……飛びこめますか? あの中に?」

「たやすいことだ」

私の額に冷や汗が流れていた。

 

6  老人と赤ん坊

 

爽やかな風が吹き渡る大地に齢百歳の老人が立っていた。この老人は丘の上に立っていた。胸には布でくるまれた生後、四、五ヶ月の赤ん坊。老人はいつくしみながらこの赤ん坊を育てるつもりだった。老人の腕にしっかりと抱かれて赤ん坊はすこやかに眠っていた。

「もうじき砂嵐がひどくなるな」

照りつける太陽が容赦なく老人のあれた肌を焼く。老人は皮袋を口に運び、のどを潤した。

見渡す限り赤茶けた大地が拡がっているさびしい所だった。老人は歩き始めた。

二日後、ある小村に到着した。

「すみません、何か食べ物を施してもらえませんか?」

老人は戸を叩きながら、そう呟いてまわった。ようやく、気のよさそうな太った女が藁小屋の風通し窓から顔を出して、にこにこと笑いながら、

「まあ、かわいらしい赤ちゃんですわね。よければ私がお乳を飲ませましょうか?」

「それは願ってもないことです。助かりました。感謝します」

「いえいえ、私はお乳をあげるのが好きなんですよ。ちょうど私の子供が乳離れしたとこだったんです。まだまだお乳が出ますんで、ちょうど良かったぐらいです」

籐椅子にゆったりと女は座り、肩をはだけて乳房を出した。慣れた手つきで赤ん坊を抱くと、小さな赤子の唇に乳首を当てがって、吸うように促してやった。鍬や、弓などが壁に立てかけられてある。この家の主人は働きに出かけているのだろう。

ゆったりとした時間が流れていた。鶏の鳴き声と子供たちの遊び声が混じりあい野外から聞こえていた。ときおり、この不意の訪問者を見に、子供たちがやってきては、立ち止まり、珍しそうに老人を眺めては駆け出していった。

やがて、夕暮れになると囲炉裏がともった。働き疲れた主人が猟から戻り、撃ちとった三匹の鳥と、青く澄んだ魚を女房に手渡した。女房はさっそく獲ったばかりの鳥と、魚をさばき、イモ類などと共に土鍋の中に入れ、囲炉裏にかけた。味付けは塩だけを入れた。食べ終わると老人は、

「お世話になりました。では、そろそろおいとまいたします」

と、言い、立ち上がった。

「何をおっしゃられるんです。外はもう暗いではありませんか。今晩はぜひ泊まっていってください」

「お言葉はありがたいですが、私は夜の暗闇の中を歩くのが何よりも好きなのです。心配なさらないでください」

「あなたはいったいどこからこられたんですか?」主人と女房は戸口まで老人を見送りながら尋ねた。

「遠い国からです。かつて栄華を極めたある都からです。今は見る影もありませんが」

老人は星を見つめながらそう答えると、窓から光をもらす家々の間を通り過ぎ、星明りを頼りに荒野の中をさ迷い歩きだした。

一体いつまで旅を続けなければならないのだろうか…… 一体何度、飢えをしのがなければならないのですか…… 教えてください…… 神さま……

 

7  私のいないくだらない下界。アップルティーは婦女子の飲み物か?

 

すまし顔の少女がエレクトーンを弾いていた。狙い通りの音はなかなか出ずにいたが、それでも彼女は練習の手を休めることはなかった。今は下手くそでも若いうちにたくさん弾いておかなくちゃ、いつか華麗に弾きこなせるようになんか、「絶対なれやしないんだから!」と、やっきになって、細い腕でしなやかに奏でていた。長年の憧れのニッキー・ホプキンスの手さばきを真似しながら。彼女は100以上のベランダを並べたマンションのその中央あたり、ラベンダーを切り刻んだ模様のカーテンをたらした奥の一室で、くるみ割り人形を演奏していた。彼女はその楽譜を道端で拾った。興奮で自然に指先に力が入りすぎてしまう。一体誰がこれを書いたのだろう。くるみ割り人形をエレクトーンで弾ける楽譜が存在するなんて。薄汚いおたまじゃくしが譜面いっぱいに泳いでいて、(こんなので本当にメロディになるのかな)と、疑っていたのだが、しばらく鍵盤を叩いているとその補助音の、神がかり的な配列に幼い心が躍りだした。(これ落とした人、困ってるんじゃないのかな)と、頭によぎったが、(でもこれがあれば、今度の演奏会で、あの明美に……、あの憎っくき明美にくやし顔をさせれるんだ。賞状を手にする私を指をくわえて見ていろ!)

それから二、三度もたついたあと順調にひきはじめた。しっかりとリズムを意識しながら。窓越しの景色がだんだん翳ってゆく。ティーカップが空になり、空に瞬く光の点をじっと見ていた少女は楽譜をパタンと閉じた。えくぼを夜空にきらめかせて。もう寝る時間だ。少し上達したような気がしていて、浮かれながら服を脱いでいった。発育のよい、しかし幼い体をあらわにして、パジャマに着替えると、毛布にくるまりこんだ。だがやはり女の子。どうしてもアップルティーが飲みたくなってしまった。彼女の暮らすマンションから排出される生活用水が流れ込んでゆくドブ溝に沿って、人気のないじゃり道をしばらくたどってゆくと、日陰を余儀なくされている、ぼろい家がある。集落のようにしてただ一軒。下水に何か詰まっているのか排水するたびに玄関前に水たまりができる。やがて黄ばみはじめて。その家の中に、グリップがぐにゃりとひん曲がった万年筆を、火にかけている男がいた。その男は、脳に一撃、ひらめくものがあって、インキ壺にペン先を突っこむと、

「俺は飛べる! 思うがままに! いつだって! いつだって!」

と、叫び、おもむろに手に取ったペンで、紙に文字を書こうとした。だがインクが紙に付かなかった。

(なぜだ? こんなに書いてもまだぜんぜん減らねえなあ、まだなみなみと入ってやがるって、ついこの前そういう感慨にふけったはずだが……)

と、インキ壺を覗きこむと、液体がドロドロになっていた。そのありさまにいきりたってライターの炎で液状に戻そうとしていたのだが、まったく溶けず、

「なんてこったよ! 軽快に書き飛ばそうと思ってたのによ!」

沸き出そうとしていた言葉はすでに零れ落ちてしまい、四散しくさっている。男はへなへなと、うつむいた。泣きたかった。やさしい淑女の胸もとに抱かれ。──まるで愛に見捨てられたもののように、

「なじんじまう、なじんじまう、手になじんじまう……」

そんなことをぶつぶつ呟きながら、ペン先までをもライターであぶり始めた。そのぐねり加減を確かめるかのように、半分あけた口からよだれをたらして、一心不乱に。何のためにそんなことをしているのか本人にもわからなかったが。しとしきりし終えると、小銭を握り締め、瞳孔をひらかせてふらふらと家を出た。誰も彼もがのどが渇きやがるから。少女がたまに外出すると近くの自販機でよくこの男と遭遇した。この夜更けにも。男は飲みたいものを選んでボタンを押しても、なかなか取りあげようともせずシャツの胸をはだけさせたりして、その辺でぶらぶらしていのだが、そんな男を警戒しつつ、(あの人、窃盗犯、余罪ありとかかな)などと思いながら少女が立ち去ろうとすると、ペットボトルのキャップをくるくる指でこねくり回しながら、少女が取り間違えていった缶を持って、そのあとを追いかけていった。

背後から、

「これあなたのアップルティーじゃ?」

少女はとまどい、不審者から目をそらすと、自分がポケットにしまいこんでいたものを仔細に眺めて、頬を赤くし、

「え、じゃあこれは?」

「それは僕の黒酢リンゴ、僕の、黒酢リンゴ……」

少女はしばし呆然自失となり、

「わたしそんな、変な、そんな変なの飲んだことない、わたしそんな、わたしそんな、そんな女なんかじゃない!」

「……黒酢、それ、……僕の、黒酢……リンゴ」

美男子にはうぶな態度を見せるのだが相手が変質者だけに、少女はキッと睨みつけると、

「眠かったから、間違えただけだからっ! 私の返してよっ!」

そう言い、混乱した頭のまま、アップルティーを奪い、いちもくさんに駆けていった。部屋に戻ると、(えらい恥をかいた、……ちがう! えらい目にあわされちゃったの!)と、さっさとそんないやなことは忘れてしまおうと、ベッドに寝転がり、枕もとの伝記本をぱらぱらとめくりだして、声に出して読みはじめた。

「え、なになに、この伝記上にあらわれる悪魔と若者は洞窟で出会いのちにたもとをわかち……」

だんだん少女のまぶたが重くなってくる。

「……この世に悪がはびこるとき、魔人があらわれる。この世の人々が悪徳で染まるとき、突如としてその群れの中の、その時代の如才だらけの、だらしない、冴えない男の心のうちにある変化が生じ、死んでいったものたちの、巨大な、怨念が注ぎ込まれて、朦朧として倒れふし、……全身が痙攣しだして、変わろうとする心に抗おうと必死でじたばたともがくが、混濁した意識はやがて慢心さで満たされてゆく……、なんなんだこれほんとに、わけわかんないや」

少女は本をほっぽり投げると、そのまま眠ってしまおうとした。その本は13年前の聖誕祭の日にまだ字も読めない少女に父親がプレゼントしたものだった。どんな苦しいことが身に降りかかろうと、それが良い思い出に変わりますように、との願いをこめて。

寝付けない少女がふと、(あの楽譜、あいつが落としたんじゃないのかな)と、思い、おびきだそうと、窓をあけてかじかんだ手で一曲弾きだすと、やはりあの男が自販機の前で耳をすませていた。音のほうに影を伸ばして。深夜、眼科の前で、目をおよがせながら……。──覚えたての曲を弾いていた少女がやがて目を瞑ると、いろいろな情景が頭に、取りとめもなく浮かんでは消えていった。少女はその情景にあった音を探しあてようと、ストローでアップルティーを吸いながら、足でてきぱきとペダルを踏みつけていった。少女がたまに弾き間違えると若者が荒野で、「ああ! 神はいないのか!」と呻き、メロディカルな調べが続くと、「どうやらたすかったようだぜ、見ろよ、街だ。やっと休めるぜ」と、彼らの旅路が楽になった。やがてあたりが静まり返った。

 

8  私のいない天上界はかくまで遊惰か

 

牧神がいらだっていた。

「そもそも天界に猿などはいれるわけないじゃないか。うろちょろしやがって」

と。

女人が、

「あら一匹ぐらいかわいいものですよ。それよりあなた最近、詩をおかきになられていないようね。酒ばかり飲んで」

少したじろいで、狼狽を隠そうと、

「いや、そんなことはない。書いてるよちゃんと、下界で」

「あのあなたが守護してるっていうあの男を通して?」

けむにまくように、

「そう、誰にともなくね」と、そっぽをむく。

「娘さんをほっぽって?」

牧神が、「いやそんなことはない。あの娘はかならずうまくなるんだ。わかりきっている」

女人が、「少女しだいじゃない、そんなの。途中で投げだすかも知れませんわよ。エレクトーンより楽しい遊びを見つけて」

「いや、そんなことにはならないよ。もっと美しくもなる。見目麗しくね」

会話もとぎれると、地上では、少女の父親がやすやすと憑依されてしまい、

「きみたちの中に目と眉の間隔をあける化粧のテクニックについて知っているものはいるか

なんていったか、アイ、ア、アイトーチプスとかいったっけか、いや、たぶん違うな、なんだっけか、まあ、そんなことはどうでもいいが、知らないか? ごぞんじかな?」

と、インターネット掲示板に書き込んでいく。ところがなかなかレスが付かないことに腹をたて、

「聞いているのか! わかるかこの気持ちが、気はくが。迫力を持って感じられているのか

届いているのかきみたちの胸に! 娘にプレゼントしたいんだよその、アイ、なんだっけ、知らんが!」

と、暴れに暴れまくること。ロウソクだけともされた一室で。書籍に囲まれながら。

──ゆったりと時は流れてゆく。

 

9  私を魅惑する劇、白鳥の湖。そしてやっぱり水が好き

 

私はその劇の虜になっていた。いつのまにやら。ついつい見てしまうのだ。見始めたが最後、最後まで椅子に座ったまま席を立てない。立つことができないのだ。動きたくないんだ。トイレも我慢している。早くトイレに行きたいから早く劇が終わらないかななんて、微塵も思いはしない。思いつきもしない。お漏らししたほうがましだ。お漏らししてお終いまで見たほうが私にとって最善の選択のように思える。私は常々最善の選択を心がけている。トイレのドアを右手で開けたのなら左手でペーパーを巻き取る。それが最善だと思われる、インスピレーションを感じるからだ。その直感に私は素直に従う、耳を傾ける、耳をそばだてる、いつだってそうさ、アンテナを周囲に張り巡らせているのさ、そして多様な情報の中から必要だと、これはしなければいけない、これはしたくない、あれがしたい、あれはやりたくない食いたくない、これが食いたいんだ、そんな食料であれば食欲、まあその他を総じて私の衝動と言ってもいいだろう、そうだ私は私の衝動に突き動かされているのだ。突き動かされていろんなことをやっているのだ。いろんな目にあってるんだ。私は自分の欲望に支配されているだけの操り人形にすぎないのだ。いろんな地図も描いている。趣味でも描くがある家を探しているときなどにも描く、家というかある芸術館などだ。ミュージアムだ。あたりまえだ。知らない土地さ。知らない土地に降り立ついい男さ。育ちが違うんだ。地図など2秒あれば描ける。もたつかないのさ、いい男は。いい男ってのはそんなもんだ。シャっとライターを取り出しタバコの先っちょにジュポっと火をつける。缶コーヒーのふたをカシャっとあける、そういうものだ。あけるために使う指は人差し指だ。親指と中指の二本だけで缶コーヒーなど持ってしまい、そこで人差し指さ。あけたときの第二間接の角度はジャスト45度。ぎりぎりのところだ。ポケットから地図を取り出す。道は直線で表し目指すポイントが角から何軒目かをまるで表記してあるのだ。私はいつもそうしている。あの坂道のあそこで車を停めればあの家の風呂を覗く絶好のポジションを確保できる、というようなことだ。車を停めて、すばやくPだ。パーキングにオートマ車の、とにかく、操作さ。そしてシャキっとハンドブレーキを引いて、ライトを消す。この一連の動作、流れるようさ。怪しまれてはいけないのさ。見たいものが見れなくなるからさ。まさに女体とは芸術だからだ。私はそういう典雅なことを愛する男だ。つい劇場に足が赴くのだ。確かに私は芸術がわかる男である。その感性があると言うことだ。その傾向があるのだ。傾きやすいのだ。生まれ持っての性質さ。そんな傾向と対策を胸にがっしりとこの浮世に四肢を一本一本降り立たせたわけだ。つまりそれが芸術であるのか芸術でないのか、要するに、それが芸術であるのかそうでないか、わかりやすく述べると、それが芸術だとするとどれほどのものか、それが芸術ではなく猥褻画だとするとどれほどの猥褻画なのか、それを言えるのだ。言うことができるのだ。言うだけの素養があるのだ。教養があるんだ。学があるんだ。華があるんだ。だからさ、見境なく誰でも好きになるんだ。華があるからしかたないんだ。やりたいんだ。いいものを見たいんだ。見たいだけなんだ。無理にとは言わないんだ。いいものを見て心を入れ替えたいんだ。その上リフレッシュもかねたいのだ。欲張りさ。芸術に関しては私は欲張りなほうさ。それは認めよう、それに恥とも思わない。もう慣れてしまっているのさ。こんな自分に。欲の皮が垂れ下がっているのさ。いやらしい顔つきをしているだろうよ。そんな顔は誰にも見せはしないが。見せたくないのさ、見られたくないのさ。見られるかもしれないと思っただけで足がわなわな震えてとまらないんだよ。だから私は暗闇が好きなのさ。暗いところに自分はいて明るい舞台を見るのさ。そんな私を見抜くことは不可能だ。私だと誰にも見破れないのだ。できぬ相談なのさ。私色に染まらぬものに私の何がわかると言うんだ。私色に染まらぬやつは私以外のものに染まっているのさ。そんなものが私のエリアに入ってこれると言うのか。私のエリアに入ってこれぬものが私を保護観察できるのか。できぬのだ。ならば誰にも私を見抜くことができないと言って、はばかって、歩いてみたり幅を計ったりしてもいいだろう。ババ抜きをするのもいいだろう。ババをするのもいいだろう。馬場を汚して馬主に怒られるのもいいだろう。しかしだ、私は誰をも私色に染めようとはしないのだ。誰も染まらないわけじゃない、そもそも染めようとしていないのだ。試みていないのだ。染めたくないのだ。したくないだけのことであってできないわけじゃないのだ。だが白鳥の湖、これを見ているときは別かもしれない。この劇だけは観劇中に我を忘れてしまうのだ。クライマックスが近づいてくると周りが見えなくなる。その時、そのほうけた私の姿を誰かに見られているかもしれない。一目惚れされているかもしれない。つくづく罪な男さ。幕がおりた瞬間、感激とともに私は人々を見回す。誰も私色に染まっていない、その安堵感が感激のあとすぐさまやってくる。興奮の汗、冷や汗ともに襟首を濡らし、額から冷たいしずくとなって滴り落ちる。なぜ私はこんななのだろうか? なぜに自分の醜い部分を出せないのか、人の目ばかり気にするのか、私がやっていることは欺瞞だ。何の情熱もない、それはその通りかもしれない。だが、そんなことはないんだ。情熱は私の中にちゃんと眠っているのだ。寝ているだけのことなのだ。私は私の情熱をその発露するままにまかせずに、まるでもう情熱などもてない年頃なのですと言わんばかりに情熱にやられないようその情熱から小出しに小出しに引きちぎってきては熱い恋などもうすまじ、傷つくのが怖いんですもの、なんて臆病風に吹かれてる癖して、冷淡に装って、私はあなた方に関心がないんです、人として最低限の接触はしますが、ふれあいますが、振舞いますが、笛も吹きますが、吹けと言われれば吹きますが、言われなければ吹きませんが、ふるいから落ちる粉をただ見つめていたそんな時代もありましたが、私は何にも興味がないんです、少々劇をたしなむぐらいでなどと、あーっ! 私はこんなことまで口走ってしまうようになってしまっていたのか! これはもう性根から腐っているとしか思えない。私はこの性根を徹底的に鍛えなおすつもりだ。自分がいやになってしまったんだよ。そうだ、私は本物の白鳥の群れつどう湖でこの身を清めに行くべきなのだ。そうせずにはおれないんだ。だけどさ、もしもさ、彼女ができちゃったりしたらさ、それはそれとして、この話はなかったことに、今回は残念ながら見送るとの方針を打ち立てるよ、それはそうだ、それはしかたない、彼女と二人で缶カフェオレと缶レモンティーでも飲みくらべっこしながら白鳥を眺めながら静かな時を過ごすだろうよ。しかしこんな短期間ではできまい。それはありえない。私にとってガールフレンドとは一生に一人できるかできないかの大存在であって、巨大な熱を放つ小惑星なのだ。それがたかが東北北海道めぐりの旅程の間にできようものか。その確率は0,01パーセントもないのではないだろうか。やはり私は白鳥の群れに混じって何年か溶け込んでいなければいけないのだ。すっかり馴染んでしまうまで何年かかるかわかりはしない。20年はかかるような気もするが、そろそろ、湖の中へ入水しに行くしたくをしよう。これからはそこで生きるのだ。そこが私の場所なのだ。きっと生まれ変わった姿で帰ってくることだろう。それはもう妖精のような姿だろう。決して妖怪ではない。妖精そのもののような姿さ。身も心もだ。いくばくかのつき年を湖上で過ごしただろう私は、紛れもなく白鳥のような男に生まれ変わっているはずなのだ。

 

10  今、明かそう私の正体を

 

気づいてたのか? 俺の正体を? そうだ、俺はウスバカゲロウだ。

いつから気づいてたんだ? 俺が鶴でないことを。こうまで鶴になりきってた俺がバカみてえじゃねえか。お前は物語。俺は何も語れねえ。ただできることは、いつも岩を打ち砕く。つるはしで。夢も打ち砕く。鶴が打ち砕く。ようしゃなく羽をひろげて。鶴ってのは用心深いんだぜ、気を許してるから口もきくし、用事こなすけど、ふつうだったらとっくに浮気してるよ。タヌキの葉っぱ占いでさ、こん前、ふつうだったら気にしないんだけどそんな星占い。お前、鶴じゃないだろそのうちバレる、って、吐き捨てられてさ、だって俺って鶴じゃん。

気づいてないんだろ? 俺の正体に。うすうすしか、うすうすとしか感じてないんだろ? まだ。だってほらこんなにタンチョウじゃんよ。俺だって知ってたんだよ。昔からだよ。前からだ。ずっと、ずっと。光のほうに向かってたら、ガラス窓にぶつかって、俺、悔しくて、だから鶴を装ったわけさ。お前のことみんな物語りって呼んでるから、目に見えないし、耳で聞こえねえけど、お前なら俺を鶴にもするし、気づかないふりしたまま話を進めてくれるって。

だがよ、いつから知ってたんだ? 俺がウスバカゲロウだってこと? 起承転結のどこよ? まさか起か? 最初からか、なにもかもお見通し、いやいや、お前は絶対抜けている、俺はよじ登る、木々をよじ登る、大樹をよじ登る、木に登るのが好きなんだ、しかし、お前はいつだって俺を鶴だとしかも、誉れの高いタンチョウだと、蚊に刺されたら痒いだろってわざとか、蚊取り線香だよ。わざとか、あれ。俺、死ぬだろ。俺にも効くだろ、俺、鶴じゃねえし。やめてくれ。陰険な仕打ちそくざに悪習絶て。

お前ほんとはまだ気づいてねえんじゃねえのか? 俺がウスバカゲロウだってことを? だったら、誰にも言うなよ、俺がウスバカゲロウだってことを。

物語りよいことだけ、綴ってればいい。物語よ。さしあたって、差し当たりない、近所に悪いうわさの立たないことだけさ。

さいきん、お前が堕落して、なんか経済学かじってますって、バカが、マーケティングだとか、バカが、そんな、売るための戦略とか、バカが、考えて、お前らしさなくしてまでしゃかりきになって。そんなんなら、俺は鶴さ。自分らしくなくていいなら、ウスバカゲロウだってなんだって、大こうもり。

だがお前は、わかっててやってるのか? ほんとに俺が鶴に見えるのか?

物語よ、俺にはあなたがわからない。まるで釈迦の手のひらで踊る孫悟空の心境だ。だが俺は忘れない、ウスバカゲロウとして迎えたにどのあの冬を。にどと戻れないあの日を。はかなげだった、短い生涯だった、だが俺はきみの中で永遠に生きれる。きみの中で。よどみない光の中で。

だが、ウスバカゲロウだってことばらすんじゃねえぞ? 鶴にしてみせろ。鶴だと言い張れ、じゃなきゃ俺はお前にすがらなかった。

ほんとのところさ、どうなんだ? あてにしてていいのか? お前、ほんとにいるのか? いねえんじゃねえか、お前、どこにもいねえんじゃねえか?

2010年8月8日公開

© 2010 罧原堤

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