男は市民ホールまえのベンチに腰かけて文庫本をひらいていた。高田は、「学会の出席者か、登壇者の方ですか」と男に声をかけた。が、高田の予想ははずれた。なんど問うても男は「ちがう」の一点ばりで、高田ははじめ、男がじぶんをうとましくかんじてそう言っているのだとおもったが、アンケートにこたえてほしいという高田の要望に男はこころよく応じたのでほんとうにちがうらしい。
頬からあごにかけてくろぐろとひげをたくわえ、白のカッターシャツにジーンズを合わせているこの男は高田の目には三十代もなかばほどに見えたが、スマートフォンにうち込まれたアンケートの解答を見ると、まだ二十九歳で、年収は八〇〇万円ほどだという。高田のねらいははずれたが、年収は申し分ない。結果オーライか。
「それでは、いったんこのアンケート結果を会社にもちかえらせていただいて、確認したあとアマゾンギフト券をおわたししますね」
「わかりました」
と男はなんらの興味もなさそうに言った。視線は宙をただよっている。
高田は新卒一年目の不動産の営業担当であった。アマゾンギフト券一万円をエサに、アンケートに解答してくれた人を後日、ファミリーレストランあたりによび出して、マンションの購入をもちかけるのである。上司からはもっと交渉数をふやせと圧をかけられている。否、いっそなぐられていた。
職業欄が空白になっていたので、アンケートには反映させないのでオフレコで職業をおしえてもらえないかと男におねがいすると、アドコウコクをつくっています、とみみなじみのないことばがかえってきた。それ以上説明してくれそうもなかったので、またこんどくわしくきけばよいかとおもった。高田は男と「次」の約束をかわした。そうして、この場をたちさろうかとおもったが、どうも感触がよわい気がして、もうすこし会話をつづけてみることにした。
「では、ふだんは土日がおやすみなんですね」
という高田の確認に男は、
「まあそうですね」
とだけこたえた。拒絶の姿勢はみとめられないがふしぜんに目があわない。やりにくいというかんじはしないが、こちらのことばがすべてすりぬけていくような感覚がある。つまりそれは、やりにくい、ということか。
「おやすみは何をされているんですか」
「趣味という意味では、なにもしていませんね。こうやって散歩して……、ほんとうにそれだけです」
そんな人間が存在するのか。高田はいぶかしくかんじたが、男からうそのけはいはかんじなかった。だからこのいぶかしさは、男の存在そのものにむけられたものであった。
高田はおおきなくしゃみをした。男に謝罪して、鼻をかむ。破裂したような高田のくしゃみをうけても男は微動だにしなかった。
「すみません、どうも鼻炎がひどくて……」
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