夢魔

積 緋露雪

小説

36,691文字

自己探求の馬鹿さを堪能してください。

「夢魔」

 

積 緋露雪

 

 

――この野郎!

と、さう頭蓋内といふ闇の脳と言ふ構造をした《五蘊場》――私は脳絶対主義が嫌ひで脳と呼べばそれまでなのだが、どうしてもさう呼ぶには忍びないある羞じらひがあったのだ――で叫んでゐた私は、不意に全身に電気が走ったかの如くに肉体に力が漲り、その肉体を意識下に従へる事に成功したその刹那、あっと思ふ間もなく反射的に私は私をせせら笑ってゐたその夢魔に対して殴り掛かってゐたのであった、が、果たせる哉、私の拳は虚しく空を切り蒲団が敷かれた畳を思ひ切り殴るへまをやらかしたのみであったのである。当然の事、私を嘲弄してゐた夢魔はぴくりともせずに相変はらず私の眼前に、つまり、私の閉ぢられし瞼裡に表象するといふ再現前する形で平然とゐたのであった。

一方で私はといへば、私が夢魔ではなく畳を殴ってゐた事を薄ぼんやりと認識してはゐたが、しかし、そのまま寝床から飛び起きて覚醒する事はなく、布団に横たはったまま眼前の夢魔に目を据ゑては夢魔の嘲笑に馬鹿らしい程に怒り心頭なのであった。

この夢魔は時折私の夢に現はれる――もしかするとそれとは反対に私が夢魔の世界へ夢を通して訪れてゐるのかもしれぬのであるが――のであった。また、この夢魔は何時も能面の翁の面(おもて)をしてゐて、朱色(あかねいろ)の大きな大きな大きな落陽を背に引き連れて、それでゐて夢魔の面は逆光で見辛くなっては決してなく、煌煌とした輝きを放って、その面にいやらしい微笑を浮かべては決まって私を罵るのであった。

――そら、お主の素性を述べてみよ。

――くっ――。私は私だ! それでいいではないか。それ以外、何を私に求めると言ふのか!

――へっ、私は私? それはお主だけが思ってゐるに過ぎぬのじゃないかね? ほら、お主の素姓を述べ給へ。

――くそっ。私が私である事を私のみが思ってゐたとしても、それの何処がいけないのか!

――馬鹿が――。お主は《他》がお主を承認しない限りは、お主はお主になり得ぬ下らぬ《存在》に過ぎぬのぢゃ。そら、お主の素姓を述べてみよ。

――くっ――。

――口惜しいか? ならば早くお主の素姓を述べてみよ。

――くそっ。

――ふほっほっほっほっ、所詮、お主にお主自身の素姓を語れる言の葉は無いのさ。それ、お主の素姓を「私」の類の言葉無しにお主について述べてみろ。

――《他》以外の《もの》が己ぢゃないのか?

――ふほっほっほっほっ。馬鹿が! 《他》もまた《吾》なり。お前の頭蓋内の闇、即ちそれを私達は《五蘊場》と名付けたが、その《五蘊場》に《他》たる世界は表象されないのかね?

――《他》は《他》として自存した《もの》ではないのか!

――否! 《他》は《吾》あっての《他》だよ。

――否! 《他》たる世界は《吾》無くしても《存在》する!

――ほほう。しかし、《吾》は《他》たる世界をその内部に、つまり、《五蘊場》に取り込まなければ、即ち世界認識しなければ《存在》すら出来ない。これを如何とする?

――ぬぬ。しかし、所詮、《吾》など世界に対してその身の丈を弁へてきちんと《存在》するといふ塵芥にも劣る《存在》に過ぎぬのぢゃないかね? ふほっほっほっほっ。

――ちぇっ、結局は《他》たる世界は《吾》無くしても《存在》するか――。

――それはお主がさう言ったに過ぎないのぢゃないかね?

――さうさ。《他》たる世界において《吾》は芥子粒にも劣る厄介者でしかない!

――ふほっほっほっ。その自己卑下して自己陶酔する《吾》の悪癖はどうにかならないかね?

――悪癖?

――さうだ。《吾》の悪癖だ。自己卑下して万事巧く行くなどと考へる事自体傲慢ぢゃよ。

――しかし、《吾》は《吾》の《存在》なんぞにお構ひなしに自存してしまふ世界=内に《存在》せざるを得ぬ以上、《吾》は自己卑下するやうに仕組まれ、若しくは「先験的」にさう創られてゐるのぢゃないかね?

――ふほっほっほっほっ。では、《吾》は何故《存在》するのかね?

――解からない……。

――解からない? それは余りに《存在》に対して無責任だらう?

――ちぇっ、この野郎!

と、私は再び夢魔に殴り掛かったのであったが、果たせる哉、これまた私の拳は空を切り畳を殴っただけに過ぎなかったのである。

――ふほっほっほっほっ。お主に虚空は殴れないよ。

――虚空だと?

――さう、虚空だ。お主の内部にも《存在》する《他》たる虚空に私はゐるのぢゃ。そしてその虚空は全てお主が創り上げた《他》たる内界と言ふ若しくは外界と言ふ世界の一位相に過ぎぬのぢゃ。

――お前はその虚空の主か?

――ふほっほっほっほっ。さうだとしたならお主はどうする?

――別にどう仕様もしないが、しかし、虚空とはそもそも何なのかね?

――ふほっほっほっほっ。「在ると思へば立ちどころに出現し、無いと思へば立ちどころに消滅するところの、その時空間自体」の事ぢゃて。

――ちぇっ、それは主観、それも絶対的な主観の事ではないのかね?

――さて、お主は夢が徹頭徹尾お主の《もの》だと断言出来るかね?

――くっ、口惜しくてならないのだが、私にはさう断言出来ぬのだ!

――つまりぢゃ、それは主観は主観で完結出来ぬといふ事ぢゃが、はて、其処で何か言ひたい事はあるかね?

――つまり、主観と吾等が呼んでいる《もの》は、この肉体同様、耳孔、眼窩、鼻孔、口腔、肛門、生殖器等等、外部に開かれた穴凹だらけの《存在》に違ひないといふ事ではないのかね?

――その外部が虚空ぢゃよ。

――主観の外部? 主観の外部は客観ではないのかね?

――ふほっほっほっほっ。さて、客観とは何の事かね?

――ちっ。

――客観とは主体の傲りの表はれではないのかね?

――主体の傲り?

――さうぢゃ。「《吾》此処に在り、それ故、客観は主観に従属せよ!」といふ事を暗黙裡の前提として、将にその主体が己の事を主体と名指す《吾》のその悪癖故に、主体は客体を悪し様に扱ふ。其処でぢゃ、さて、《吾》は本当に《吾》かね?

――つまり、《吾》そのものが虚妄だと?

――ふほっほっほっほっ。虚妄故に《吾》を《吾》が虚妄と断言する事は、《吾》が《吾》に対する《存在》の責任を放棄する事に直結する故に、《吾》は《吾》として実在する《もの》と狂信する外ないのぢゃ、ふほっほっほっほっ。

――何故《吾》が《吾》を虚妄と名指す事が《吾》に対する《存在》の責任放棄に結び付いてしまふのかね?

――《吾》が《吾》を虚妄であると断言する事は、或る「神」の視点から眺めると言へばよいのか、否、つまり、悪意的にその事を曲解すればぢゃ、《吾》はその時全的自由を獲得したと一見見えるかもしれぬが、しかし、その実、《吾》がその様に振舞ふ事をこの《吾》は絶対に受け入れぬし、また、全的自由なんぞ、この《吾》に持ち切れる筈がない!

――つまり、《吾》が野放図に堕してしまふからかね?

――はて、束ぬ事を聞くが、お主は絶対の無限なる《もの》を持ち切れるかね?

――ふっ、否が応でも《吾》はその無限なる《もの》を持ち切る外ないんだらう?

――ふほっほっほっほっ。その通りぢゃて。《吾》はその無限なる《もの》から遁れたい故に《吾》なる《存在》を虚妄と看做したいのぢゃ。

――だが、しかし、《吾》はそもそも泡沫の夢の如く生滅する虚妄の一事象に過ぎぬのぢゃないかね?

――ふっ、その通りぢゃ。しかし、《吾》には決してさうは出来ぬ、つまり、この《吾》の《存在》を虚妄と看做す事は出来ぬ宿命を負ってゐる。

――宿命? 何の宿命かね?

――《吾》が《吾》故に《吾》ならざる《吾》へと絶えず変容する外に此の宇宙での存在意義がないといふ宿命、ふっ、つまり、此の無限にすら思へる宇宙に対峙するには、《吾》は《吾》を徹底的に擁護せずにはゐられぬ宿命だからぢゃて。

――そして、《吾》は《吾》を絶えず弾劾せずにはをれぬ《もの》として此の世に《存在》する事を強要される……違ふかね?

――それは「神」の摂理と言ひたいところぢゃが、詰まる所、《吾》は《吾》にのみにその《存在》を弾劾される《存在》としてしか、ふっ、《存在》出来ぬ悲哀……。

――やはり《存在》は悲哀かね?

――ふほっほっほっほっ。それは絶えず《吾》に「《吾》とはそもそも何《もの》か?」といふ猜疑心が爆発する危険を孕んだ《吾》といふ《存在》が「先験的」に持つ危ふさ故に、《存在》はそれが何であらうと悲哀なのぢゃ。

――へっ、だが、《吾》が《吾》で完結するなどといふ愚劣極まりない存在論にしがみ付く時代は疾うに終はってしまった事だけは間違ひないぜ。

――ほほう。すると、《吾》の《存在》と世界の関係は如何様になったのかね?

――相変はらず《吾》無くして世界無しの見方が根強いが、しかし、私は《吾》無くしても世界は只管《存在》といふ立場だがね。

――するとぢゃ、それは言ひ方を変へれば世界は絶えず《吾》の《存在》を待ち望んでゐるといふ事かな? つまりぢゃ、此の世界は《他》になりたくて《吾》の出現を待望してゐると?

――或るひはさうかもしれぬ。

――さうかもしれぬね? ふほっほっほっほっ。

と、私の瞼裡の薄っぺらな闇にゐ続けるその夢魔は相好を崩して、さもありなむといった哄笑を上げるのであった。

――どうやらわしに対する憤怒は収まったやうだな。

――そんな事などどうでもよい! それより、するとだ、世界は《吾》の《存在》を只管待ち望んでゐるとすると、世界に永劫に《吾》が出現しなければ、例へば世界は自滅するかね?

――ふほっほっほっほっほっ。世界もまた《存在》する以上、己の自同律の陥穽から遁れられぬのぢゃて。

――ならば、世界は世界自体が《存在》する事で既に世界自体の事を《吾》と認識してゐると?

――違ふとでも?

――へっ、汎神論の如く何であれそれが《存在》しちまへば、其処に自意識が《自然》と宿るとでも思ってゐるのかね?

――ああ、さうぢゃ。

――さう? へっ、何を寝惚けた事を! ふはっはっはっはっはっ。すると、意識は《存在》が《存在》すると必ず宿るといふ事かね?

――さうだとしたならばぢゃ、お主はお主自身の《存在》と世界に《存在》する森羅万象の《存在》の関係をどうする?

――別にどう仕様もないがね。《吾》と世界の関係は、其処に意識が介在したとしても、《吾》は己と世界の事を認識した「現存在」として、つまり、世界=内=存在として此の世に屹立し、世界は世界でその《存在》が何であれ此の世に出現しちまへば、世界は何の文句も言はずにその《存在》を受け入れる筈だ。

――筈だ? ふほっほっほっほっほっ。お主は未だに己の《存在》に対して確たる確信が持てぬままかね?

――ああ、さうさ。己に対しても世界に対してもその《存在》に確信が持てぬのだ。

――それでもお主は此の世に《存在》してしまってゐる。それがそもそも気に食はぬのぢゃらう?

――だからどうしたといふのか!

――それぢゃよ、それぢゃ、ふほっほっほっほっほっ。牙を剥きな、己に対しても世界に対してもぢゃ。

――牙を剥く?

――さうぢゃ。牙を剥くのぢゃ。

――しかし、牙を剥いたところで、その牙を剥いた相手は何食はぬ顔で《吾》の《存在》を無視し続けるぜ。

――当然ぢゃ。

――当然?

――当たり前ぢゃて。これまで此の世に《存在》した《もの》が牙を剥かなかったとでも思ってゐるのかね?

――すると、既に死滅した数多の《もの》達もやはり己と世界に対して牙を剥き、未だ此の世に出現せざる未知なる何かに変容すべく、牙を剥きながら《吾》といふ《存在》に忍従してゐたと?

――当然ぢゃ。此の世に《存在》した《もの》はそれが何であれ、絶えず未だ此の世に出現せざる何かに化けるべく、己に対しても世界若しくは宇宙に対しても牙を剥いて己の《存在》をぢっと我慢する外ないのぢゃ。

――この宇宙自体も例外ではないと?

――ふほっほっほっほっほっ。当然ぢゃ。

――すると、お前はどうなのだ?

――ふほっほっほっほっほっ。わしとて例外ぢゃない! 当然、お主がわしをお主の夢世界に呼び出す事には腹を立ててゐるがね。しかし、これは言はずもがなだが、果たせる哉、わしがお主の夢の中に《存在》しちまふ事を、わしはぢっと歯を食ひしばって堪へてゐるのぢゃ、ちぇっ、忌忌しい!

――へっ、ざまあ見ろ、だ!

――ふほっほっほっほっ。それぢゃ、その意気ぢゃ。

――ちぇっ、忌忌しい! お前が己自体に、つまり、私の夢に出現させられる事に我慢がならぬのであれば、さっさと消えればよからうが!

――ふほっほっほっほっ。それは不可能ぢゃて。何せお主がわしの世界に、つまり、わしの虚空にお主が無理矢理出現してゐるのだからぢゃ。

――む? 私がお前の虚空に出現してゐるだと? それはまた異な事を言ふ。此の夢は私が見てゐる夢ぢゃないのかね?

――さうぢゃ。

――さうぢゃ? ならば私の夢は私においてちゃんと完結してゐるのぢゃないかね?

――いいや。それでは一つ尋ねるが、お主の夢がお主のみで完結してゐるといふ証左は何かね?

――夢が、私が見てゐる夢が私において完結してゐる証左だと? 此の今、私が見てゐる夢は、私の頭蓋内の闇たる《五蘊場》で明滅してゐる仮象たる心象風景ではないのかね? つまり、私の頭蓋内は私として完結、否、閉ぢてゐる!

――ふほっほっほっほっ。ならば聞くが、闇は元来お主の《もの》かね?

――闇が私の《もの》? ちぇっ、私はそんな事一言も言っちゃゐないぜ。唯、私の頭蓋内の闇たる《五蘊場》は、私において完結若しくは閉ぢてゐると言ってゐるに過ぎぬのだがね。

――だからぢゃ。闇は元来お主の《もの》かね?

――ちぇっ、下らぬ!

――下らぬかね? もう一度聞くが、闇はそもそもお主の《もの》かね?

――ちぇっ、いいや、としか答へやうがないぢゃないか。ふん、闇は、つまり、万物の《もの》さ。

――ふほっほっほっほっ。万物と来たか。簡単に言へばかうぢゃらう。つまり、お前が言ふ頭蓋内の闇たる《五蘊場》は、元を糺(ただ)せば、物質にしちまへば不純物が溶解してゐるだけの七割程が《水》といふ存在に過ぎぬ「現存在」と言えば身も蓋もないが、その「現存在」の頭蓋内の闇を脳といふ構造をした《場》と看做した、つまり、高が《水》を以てしてそんな脳といふ構造をした《場》を作り出すといふ芸当ができるのだから、《水》以外の森羅万象が闇を何かしらの構造をした《場》にしてしまふ芸当は、此の宇宙を見渡せば取るに足らぬ、つまり、何ら特別な事ではなく、とっても在り来たりの《もの》、否、現象に過ぎぬのぢゃないかね?

――つまり、それは意識は、ちぇっ、魂は何《もの》にも宿り得るといふ事かね?

――違ふかね?

――違ふかね? すると、しかし、万物に、否、森羅万象に魂が宿るといふのは、お前の独断でしかないのぢゃないかね?

――さうぢゃ。ふほっほっほっほっ。

――ちぇっ、下らぬ!

――さう断言するお主は、さて、何《もの》かね? 元を糺せば唯の《水》と違ふかね?

――さうだが、それがどうしたといふのか?

――つまり、《水》は有機物とは違ふ無機物ぢゃらう?

――だから、それがどうした?

――つまり、無機物の、ふほっほっほっほっ、此の宇宙には在り来たりの《もの》の一つでしかない《水》が闇を脳といふ構造をした《場》へと昇華させられるのであれば、何《もの》も闇を《場》へと昇華させられる筈ぢゃがね。

――元元、闇は、それが仮令《真空》であったとしてもだ、闇といふ時空間は元元《場》ぢゃないのかね?

――ならば闇の同質性は認めるかね?

――闇の同質性? ふん。それはをかしくないかな?

――何処がをかしいのかな?

――だって闇は何《もの》も呑み込む何かぢゃないかね? すると、闇は連続した線形として語れるのか、それとも非連続の非線形として語れるのか、どちらだと思ふ?

――さてね。多分、闇は線形と非線形の両様の様態をしてゐるんぢゃないのかな。ところが闇は何《もの》も呑み込まなければならぬ宿命にある。ふほっほっほっ。闇もまた哀れぢゃの。

――ふっ、線形に非線形? 闇も《場》ならば偏微分が難なく成り立つ線形か非線形のどちらかの筈だがね。それ以前に闇が線形か非線形かを問ふ事自体下らぬ愚問なんだぜ。私はそれを承知でお前に尋ねたのだがね。

――ふほっほっほっほっ。済まぬ済まぬ。わしの言ひ間違ひぢゃ。つまり、かうぢゃ。闇とは論理的かね、将又、非論理的かね?

――お主はどう見る?

――両様だらう?

――それはまた何故?

――闇は絶対的な主観の《場》であるか、絶対的客観の《場》であるかの両様を何の苦もなく統覚しちまってゐるからさ。

――ふほっほっほっほっ。それぢゃ闇はどうあっても《存在》から遁れ果(おお)せてしまふぞ。

――だから闇は無と無限と空(くう)を誘(いざな)ふのではないかね?

――ふほっほっほつほっ。それこそお前の単なる思ひ過ごしぢゃないかね?

――絶対的な主観、若しくは絶対的な客観が思ひ過ごしでも構はぬではないかね?

――そうぢゃよ、どちらでも構はぬ。お主にとって絶対的主観、若しくは絶対的客観といふところの《もの》を敢へて名指せば何なのかね?

――それは《存在》する《もの》の単なる気紛れさ。

――気紛れぢゃと?

――さうさ。《存在》する《もの》の気紛れを称して絶対的主観、若しくは絶対的客観と名付けただけさ。

――それぢゃと何にも名指してゐないぢゃないかね?

――そもそも何ものも、否、「神」以外、《もの》を名指す事は不可能ぢゃないかね?

――それでは此の世が何かの、つまり、神の気紛れで《存在》しちまったといふ事と同じぢゃないかね?

――それで構はぬではないか。神の気紛れで此の世が誕生したといふ事で?

――それぢゃ、何かね、この私といふ《存在》も糞忌忌しい神の単なる気紛れで《存在》してしまひ、そして闇を、この頭蓋内の闇を見出す度に、無や無限や空に誘はれちまふのも、その神の単なる気紛れといふ事かね?

――だからどうだといふのかね? 「《存在》は有限故に無と無限と空を欲し、神は無限故に有限なる《もの》を欲す」なのさ。

――つまり、此の世の原理は無い《もの》ねだりといふ事かね、ふほっほっほっほっ。

――だとしたならば、お前は神に唾でも吐き掛けるかね?

――ああ。天に唾を吐くに決まってをらうが、馬鹿を承知でな。全く反吐が出さうぢゃ。神は無限故に有限なる《もの》を欲す?

――だからどうしたと言ふのかね?

――ほら、ほら、神へ牙を剥けばいいぢゃよ、ふほっほっほっほっ。

――へっ、今更、神に牙を剥いたところで何にもなりゃしないぜ。だって、私は既に《存在》してゐるのだからな。

――その《存在》を保証してゐるのは何かね?

――《他》であり、私の意識さ。

――それぢゃ、それはお主が此の世に《存在》する確たる証左にはならぬぞ。

――何故?

――《他》もお前の意識も全てがその淵源を辿れば神が無限故に欲した、つまり、それを神の気紛れと看做すならば、お前が此の世に《存在》してゐる証は、全的に神に帰すぢゃらうが。

――つまり、《存在》とはどう足掻かうが、神の問題を避けられぬといふ事かね?

――さうぢゃ。多かれ少なかれ、此の世に《存在》する森羅万象は、神問題で躓くのが此の世の道理ぢゃて。

――そして、《吾》は《吾》にも躓く。

――《吾》に躓き、神に躓いたその《存在》は、さて、それでは何故に己の存続を望むのかね?

――全てが謎だからさ。

――謎ねえ。ふほっほっほっほっ。さて、その謎を解く自信が《存在》にあると思ふかね?

――いいや。全くない筈だ。むしろ、その謎を解くのに二の足を踏んでゐる。

――さうかね? しかし、人間は自然を解明するのに躍起になってゐるのぢゃないかね?

――人間は全史を通じて神に躓き続けてゐるからね。しかし、人間は自然を科学で以てしてそのどん詰まりまで人間の智たる科学的知のみで組み立てたところで、それは信仰告白とちっとも変らぬ事になってしまふ事に吃驚するだらうよ。

――ふほっほっほっほっ。それは、科学と神のどちらかを選べと森羅万象が問はれれば、此の世に《存在》する《もの》は、きっと神を選ばざるを得ぬといふ事かね?

――ああ、さうだ。《存在》は否応なく科学より神を選ばざるを得ぬのが此の世の道理だと言ふ事を嫌といふ程知らされる事になる筈だ。

――何故にぢゃ?

――何故って、簡単な事だ。科学は神の摂理以上の公理や法則を見出せっこないと既に相場が決まってゐるぢゃないか。

――神の摂理を超える科学的な論理か……。ふむ。

――つまり、それは科学は神の摂理を解きほぐしてゐると言ふ事だ。

――所詮、人間の「智」は神には遠く及ばぬといふ事ぢゃな。ふほっほっほっほっ。

――しかし、それでも、へっ、人間は神に敵はぬと知りつつも、此の世のからくりを解き明かしたい欲望を持った《存在》として此の世に生まれ出てしまった。

――ほう、それは初耳ぢゃ。人間が「智」でもって神に対峙するか、馬鹿らしい、ふほっほっほっほっ。

――何故に馬鹿らしいと即断できるのかね?

――人間の「智」は高が知れてゐるからぢゃ。

――ちぃっ、ほら、此れでも喰らへ!

と、私は再びそれが何もない空を切るだけで「だん」と畳を殴る事にしかならない事を十分に承知しつつも、何としても神神しい光を放ってゐるその翁目掛けて殴り付けずにはゐられなかったのであった。

――ふほっほっほっほっ。何をまた無意味な事を繰り返すのかね。人間と言ふ《存在》はどうも断念する事が下手糞な生き物ぢゃな。所詮、お主には虚空は殴れぬよ。

――へっ、何ね、無意味な事を十分承知しながらも、人間っていふ《存在》は、此の世に《存在》しちまった以上、どうしても無意味な事をやらなければ気が済まぬのさ。

――ふほっほっほっほっ。それで何か解かったかね?

――いや、何も。唯、私は確かに此の世に《存在》してゐる事を否が応でも自覚させられ、そして、その様に己を認識せねばならぬ《存在》として、私は確かに《存在》してゐると自覚する外ない《存在》として《存在》してゐるに違ひなく、ちぇっ、Tautology(トートロジー)か、まあ良い、そして、お前は、私の幻でしかないといふ事もまた確かだといふ事が解かったぜ。

――ふほっほっほっほっ。お主は確かに此の世に《存在》してゐると己を自覚若しくは認識してゐると。そして、どの口が言ふのか、わしがお主の幻でしかないぢゃとは。ふほっほっほっほっ。しかし、それではお主は全く納得出来ぬのぢゃらう?

――ちぇっ、何でもお見通しか。その通り、私は全てが納得出来ぬのだ。私が《存在》してゐると私が認識してゐるといふ事は、もしかすると全て私の思ひ過ごしか?

――さて、それはお主が決める事ぢゃ。

――へっ、私は確かに言った筈だよな。私が此の世に《存在》してゐると認識してゐるのも、もしかすると私の気のせいかもしれぬと?

――だから?

――私は実際、ちぇっ、詰まる所、此の世に《存在》してゐるのかね?

――確かに《存在》してゐる筈ぢゃ。

――筈ぢゃ?

――さう、筈ぢゃとしかわしには言へぬのぢゃ。

――すると、やはり、私の《存在》は私の気のせいの可能性がないとは言ひ切れぬのだな?

――だとして、さうだとして、それが何だといふのかね?

――いや、何、単なる愚痴だ。

――cogito,ergo sumぢゃて。

――詰まる所、人間、否、《存在》が神に対して詰め寄れた結果が今も尚、デカルトのcogito,ergo sumか。はっはっはっ。ちやんちゃらをかしい、ちぇっ。

――まあ、短気は損気ぢゃぞ。

――しかし、《存在》は未だに「思ふ」といふ事でしか己の《存在》を肯んじないんだぜ。これ程の笑ひ話があるかね?

――それぢゃ、お主に訊くが、お主が《存在》すると認識する、つまり、「現存在」としてのお主の意識は、さて、確かに《存在》する《もの》として扱っていいのかな?

――え? 一体何が言ひたいのかな?

――つまり、お主の意識は、果たして、此の世の《もの》と規定するその根拠をお主は持ち合はせてゐるのかね?

――へっ、つまり、それは、私の意識がその意識の《存在》の根拠を吐露出来るかといふ事だらう?

――さうぢゃ。

――ちぇっ、それがはっきりと断言出来れば誰も悩まないだらうが!

――それをお主は自同律の「罠」としか看做せずに、《吾》が《吾》でしかない事から遁走する愚行ばかりを何度も何度も何度も繰り返すばかりで、何の省察もない。まあ、生きてゆく以上、《吾》は《吾》に対して鈍感にならねば一時も《存在》出来ぬのぢゃが、ふほっほっほっほっ、それでも《吾》は《吾》である事から遁走出来ぬ無念に、《吾》を一時でも忘却したいといふ悦楽に身を委ねる《吾》の怠慢、ふほっ、それは《他》から見れば、何と言ふ小心者の行ひを行ってゐるのかと白い目で見られるしかない、つまり、そんな大馬鹿《もの》が、《吾》なんぞといふ得体の知れぬ《吾》に感(かま)ける事はそもそも断念して素直に《吾》は《吾》を受け入れればいいのぢゃ、ふほっほっほっほっ。

――だが、《吾》が《吾》をして《吾》に対して踏ん切りがつかぬ事は、《吾》が《吾》である事の必然ではないのかね?

――だから、何だといふのぢゃ? それは結局は、《吾》が《吾》から遁れたいが為の方便に過ぎぬのぢゃないかね?

――ちょっ、簡単に言へば《吾》は、それが何であれ《吾》である事に堪へられず、また、《吾》に対する猜疑心の塊でしかないのか――。

――だから、さう吐露したからといって《吾》は《吾》から一時も遁れられぬのぢゃて。

――それはお前に言はれなくとも当然の事として私にも解かってゐるぜ。

――ほほう。お主はその如何にも不味い《吾》を喰らふ事が出来るのかね?

――《吾》を喰らふ? ウロボロスの蛇の如くかね?

――いいや、《吾》は《他》を殺してその死肉を料理して喰らふのと同じやうに、《吾》が《吾》といふ観念を喰らへるかと、訊いたまでぢゃ。

――お前に言はれずとも、《吾》は《吾》を無理矢理にでも喰らってゐる筈だがね?

――ほほう。自覚はあるのだな。それで、《吾》が《吾》を喰らふ不快は如何程の《もの》かね?

と、翁の面をし、眩い光背の如き光を発するその夢魔は、にたりと嗤ひ、そして、

――ふほっほっほっほっ。

と、哄笑したのであった。

――これは愚問だが、さうやって嗤ってゐられるお前こそ、《吾》を喰らふ不快に何にも感じぬのかね?

――ふほっほっほっほっ。お主は大間抜けぢゃな。わしの不快は全てお主が引き受けてゐるのぢゃて。

――私が? 何故に私がお前の不快を引き受けねばならぬのだ!

――何ね、わしはお主等が生み出す虚空にしか《存在》せぬ《もの》と変はらぬからぢゃ。

――へっ、そんな事、端から解かり切ってゐる事ぢゃないか。お前が私の夢に出現してゐるのか、それとも私がお前の夢に出現してゐるのかのどちらかしかないのだからな。

――ふほっ、此処ではっきりしておくが、お前がわしの夢、否、わしの虚空に夢見毎に飽きもせずにやって来るのぢゃ。決して一度もわしがお前の夢に出現した事はない。

――すると、お前の虚空は私以外の《吾》に踏み迷ってゐる《もの》達が、夢の回路を通して、ちぇっ、此の私も含めて出現してゐるといふのか! 私は今のところ、夢の中でお前以外に出会った事はないがね。その《他》の《もの》にはとんと出会った事はない!

――ふほっほっほっほっ。だからお主はうつけ《もの》、換言すれば、お主の目は節穴なのぢゃ。ほれ、お主の目の前を《他》の《吾》に踏み迷ってゐる《もの》が通り過ぎたぞ。

――なぬ! 私には何にも見えなかったが……。くそっ、お前以外何にも見えぬ――。

――だから節穴と言ったのぢゃ。何といってもお主はお主以外の事には全く無関心で、己の事ばかりに熱中、否、耽溺してゐる限り、わしが棲まふ此の虚空で《他》には出会う事は永劫に不可能ぢゃて。

――私の周りは《他》ばかりだと言ふのか!

――さうぢゃ。お主は、数多に《存在》する私の虚空に《吾》に踏み迷ふ事で迷ひ込んだ《もの》共のたった一つの《もの》に過ぎぬのぢゃ。

――では、何故に、私は、お前以外見えぬのだ――。確かお前は、私が《吾》に耽溺してゐるからだと言ったが、をかしいな、私はこの《吾》に正直うんざりしてゐる筈なのだが……

――ほらほら、何処も彼処もお前以外の《他》ばかりぢゃて、ふほっほっほっほっ。

――ふむ。もしかするとこの《吾》も《他》ではないのかね?

――何を訳の解からぬ事をほざいてゐるのかね? お主はどう足掻かうがお主なのぢゃ、わしの虚空においてはな。

――では何故に《他》に出合はぬのだ!

――お主はNeutrino(ニュートリノ)は知ってゐるな?

――それがどうしたといふのかね?

――つまり、お主はNeutrinoの孤独をわしの此の虚空で存分に味はふのだて。

――何故に私はNeutrinoの孤独を味はふ必然性があるのかね? 全くもって訳が解からぬ! ぬぬ! もしや埴谷雄高の受け売りかね?

――さうぢゃが。だが、これはお主がお主に出会ふ為ぢゃて、その解りやすい喩へなのぢゃが。

――私が私に出会ふ為? 何とも矛盾した言ひ種だな。私は、ちぇっ、既に「先験的」に私ではないのかね?

――このうつけ《もの》が! お主が此の世に《存在》したその理由の一つが、お主がお主になる事ぢゃて。お主は自身を完成した《存在》と看做してゐるのかね、傲慢にもぢゃ?

――否。私はお前に言はれずとも、未完な私のまま、私は私の完成といふ見果てぬ夢を実現すべく、その殆ど不可能にしか思へぬ事に挑んでゐるのさ。

――さうぢゃ。お主は、此の世に在り得ぬお主の完成を夢見て、《存在》に堪へ忍んでゐるのぢゃ。さて、そして、其処にこそ、お主がNeutrinoの如き孤独を味はふ必然が《存在》してをるのぢゃ。

――一体何の必然が此の私にあるといふのかね?

――まだ、解からぬのか?

――ふむ。

――此のわしの虚空において姿形ある《存在》、つまり、《他》とぶつかれる《存在》は、ほんの一握りしか、今のところ、《存在》してをらぬのぢゃ。

――つまり、さういふ事は、私以外にも《吾》にまだ為り得ずに《吾》を求めて彷徨してゐる輩が大勢ゐるといふ事か!

――だが、Neutrinoは殆ど何《もの》にもぶつかる事なく、つまり、現存してゐるNeutrinoの殆ど全ては何《もの》にもぶつかる事なく《もの》を通り抜けてしまって《吾》が《吾》である事を知る機会を俟つ事なく、しかし、そのうちの僅少の《もの》は《他》の物質にぶつかって、ぽっと蒼白き淡い淡い淡い光を発して死滅する。

――といふ事は、お前のいふ此の虚空では死んだ《もの》のみが姿形ある《もの》で《他》と出会ってゐるといふ事かね?

――いいや。だからお主はうつけ《もの》なのぢゃ。死した《もの》は、ぽっと淡い淡い淡い蒼白き光を発して此の世から消滅した《もの》で既に《存在》してゐないのぢゃ。それがどうして姿形を持つ《もの》へと変容するといふのかね?

――NeutrinoにはNeutrino振動といふ《もの》があって、Neutrinoは別のNeutrinoへと変容可能な筈だ。それでは、お前のいふNeutrinoの孤独とは一体何なのかね?

――己が底無しの虚無でしかない事を己のみで認識し尽くす事ぢゃて。

――己の虚無? ふっ、そんな事は《存在》ならば如何なる《もの》も認識してゐる筈だがね。

――本当にさう思ってゐるのかね? だからお主はうつけ《もの》なのぢゃ。Neutrinoは己が果たして《存在》してゐるのかも解からぬ状態で此の世を彷徨し、何か《他》の物質にぶつかった刹那、『あっ、《吾》は《存在》してゐたんだ!』と一言喚く間もなく、光となって消滅してしまふ。その《吾》が《存在》する事すら疑ふしかないNeutrinoの孤独は推して量るには、余りにも深過ぎるのは言わずもがなぢゃらう?

――さうかね? 《吾》が《存在》する事自体認識出来ぬのであれば、それは《存在》と言へるのかね? つまり、《吾》は《吾》であると、少なくともそれが譬へ不快であっても認識してゐない事には底無しの虚無も知る術がないぢゃないかね?

――例へば《吾》が《吾》であると認識する事は、さて、「先験的」に認識してゐるのか、それとも「後天的」に認識してゐるのか、どちらぢゃと思ふかね?

――正直に言ふと私にはどちらとも言へない、つまり、解からぬのだ。

――ふほっほっほっほっ。それはさうぢゃな。だが、直感的にはどう思ふ?

――私には《吾》なる認識は「先験的」に賦与された《もの》ではないのかと密かに思ってゐるのだが、しかし……。

――しかし、何だね?

――何、デカルトの箴言が気にかかってね。

――ふほっほっほっほっ。Cogito,ergo sum.ぢゃな。

――さう。《吾》が思ふといふ事は、果たせる哉、「先験的」な《もの》だといふ確証は今のところ、私にはないのさ。

――其処でぢゃ、《吾》とは、人間のみに賦与された観念だと思ふかね?

――いいや。此の世に《存在》する森羅万象に《吾》といふ観念は宿ってゐるに違ひない。

――それで?

――さうすると、どう足掻いたところで、《吾》といふ観念は本質に先立ってゐなければ、《存在》が《吾》といふ観念を包摂する状況は永劫に訪れない。

――ふむ。お主も何かを考へてはゐるやうだが、どうもお主の語りは舌っ足らずでいけない。

――それでは、《吾》といふ観念は、本質に先立たないとでも言ふのかね?

――ふほっほっほっほっ。大馬鹿者が! あらゆる《存在》は皆、《吾》に踏み迷ってゐるといふ事に思ひ至らぬのか!

――《吾》の周りには、私には決して見えない、私以外の《他》が犇めいてゐるのだったな。それが解からぬのは、つまり、《吾》が《吾》を踏み迷って、《吾》が《吾》を喪失してゐる事の証左といふ事かね?

――ふほっほっほっほっ。やっと気付いたか。

――つまり、Neutrinoも《他》にぶつかって淡い淡い淡い蒼白き光をぽっと発して滅する以前に、《吾》である事を知ってゐる。

――それで?

――つまり、《吾》といふ観念は《他》の《存在》を必要不可欠な条件とせずに、《吾》のみ此の世に未来永劫に亙って置かれたとしても、《吾》は《吾》として必ず《存在》し、それを《吾》は自覚する。

――ふほっほっほっほっ。本当にさうかね?

――それではお前は一体全体何なのかね?

――はっきり言へば、お主の影と呼ぶところの一部に過ぎぬ。

――私の影?

――さうぢゃ。お主の影の一部たるお主の頭蓋内の《五蘊場》に明滅する夢魔に過ぎぬ。つまり、此の夢魔は、お主の数多ある《異形の吾》の一体でしかないのぢゃ。

――といふ事は、私は夢で私を夢見てゐる馬鹿者か! ちぇっ。

――ふほっほっほっほっ。漸く気付いたか! このうつけ《もの》が!

――しかし、私にはお前は翁にしか見えぬのだが、これは一体全体何の事かね?

――ふほっ。簡単な事ぢゃて。お主が己の事を既に老成した《存在》と看做したくてうずうずしてゐるのぢゃ。

――ちぇっ、つまり、此の私が私である事に満足しちまってゐるといふのかね? ちゃんちゃらをかしい!

――だがぢゃ、お主の意識の深奥ではお主は既に老成した《神》に近しい何かとして渇仰してゐるのと違ふかね?

――つまり、お前は私の鏡といふ事なのかね?

――さうぢゃ。わしは、お前が思ひ描く《吾》としてお前の夢見毎にお主に呼びつけられ、かうしてお主に罵声を浴びせられる、つまり、お前の下らなさを全てわしが引き受けてゐる、とっても損な役回りをお主に授けられたお主の影の一部なのぢゃ。

――何やらお前はメフェストフェレスを気取ってゐる言ひ様だな。

――ふほっほっほっほっ。わしはお主の片足が馬の足をし、その足が不自由な影といふ事か! ふほっほっほっほっ。お主にしてはちっとは真っ当な譬へだな。

――これは愚問だが、影と闇との差異は《存在》するのかね?

――影には象られた形が与へられてゐるが、一方、闇は、このぺらぺらの瞼を閉ぢさへすれば、直ぐ様闇の底の知れぬ迷宮へと迷ひ込める。ところがぢゃ、夢に登場する《吾》は、《吾》の影の場合が少なくないのぢゃないかね。ふほっほっほっほっ。

――つまり、私が己の夢に登場する《吾》は、《吾》の影といふ事かね? 何処にそんな証左があるのかね?

――それでは逆に尋ねるが、お主はお主が見る夢で己の姿形をはっきりと見た事があるのかね?

――多分、ある筈だ。

――ある筈だ? ふほっほっほっほっ。それは無いと言ってゐる事と同じ事ぢゃよ。

――ちぇっ!

――それそれ、再びわしをぶん殴るかね? ふほっほっほっほっ。だがな、お主はお主の夢の中で己の事を何か実体があるが如く看做さなければ、お主が見る夢はしっちゃかめっちゃかにぶち壊れた渾沌へと一気に堕すのぢゃないかね?

――それが影といふ事かね? もしかすると、ルドンが描いた隻眼の大目玉の絵の目玉に似た何かかもしれないぜ。

――ふほっほっほっほっ。ルドンの目玉の絵と来たか――。するとぢゃ、お主はお主の夢の中でお主自身を姿見で見た事はないのぢゃな。

――そもそも夢が鏡面界の出来事に等しい何かなのぢゃないかね?

――ふほっほっほっほっ。夢が鏡面界と来たか――。これまたお主にしては気が利いた事が言へたものぢゃ。では、夢が鏡面界として、其処にお主はしっかりと映ってゐるかね? 多分、お主以外の《もの》ばかりが夢、即ち鏡面界には満ち溢れてゐる筈ぢゃらう?

――さうだとして何か不都合な事でもあるのかね?

――それではずばり訊くが、お主の夢にお主は《存在》してゐるかね? 多分、《吾》といふ《念》しかお主の夢には《存在》してゐない筈ぢゃが、どうぢゃ?

――確かに、私の頭蓋内を今弄(まさぐ)って彼方此方記憶を辿ってゐるが、私の夢に私の姿形は未知なままだ。

――ふほっほっほっほっ。お主の夢なのにお主の姿形は未知のまま。つまりぢゃ、お主の夢にお主は本当に《存在》してゐるのかね? ふほっほっほっほっ。

――私の夢には私がゐない……。あるのは《吾》といふ《念》のみ……ぶはっはっはっはっ。とんだお笑ひ種だな。

――それでもぢゃ、お主は夢を見る。それも貪るやうに夢を見る。そんなお主は、では一体全体何なのぢゃ? 答へられまい。

――《吾》が何なのかを《神》をも唸らせる位に正確無比に、そして当意即妙に《吾》について語り果せられたら、それは大哲学者としては勿論、正覚者として、その名が世界中に轟く事間違ひなしさ。

――だから、わしが言ったやうに、お主の夢に現はれるお主は、お主の影であって、その影はぢゃ、わしでもあるしお主でもあるのぢゃ。さて、この矛盾、お主は何と答へる?

――つまり、お前は私の夢の中の姿見に映った此の私か――。

――それは先程言った筈ぢゃて、ふほっほっほっほっ。

――すると私は、夢において巨大な万華鏡の中に《存在》してゐるといふのかね?

――このうつけ《もの》が! お主の夢にはお主以外の、《世界》といふ《もの》が現出しているばかりの筈ぢゃが。ふほっほっほっほっ。それ以前にお主は未だに夢を何かお主の《存在》の正体に触れる数少ない機会と考へてゐやしないかね?

――つまり、夢は既にその役目を、つまり、先人達が夢には《存在》の本性が現はれるに違ひないと看做してゐた牧歌的な時代は終はってゐると?

――夢の役目とは何の事ぢゃ?

――つまり、さう言ふ事ならば、《吾》が《異形の吾》へと変容するそのからくりは、夢を追ったところで、未来永劫解からぬと言ふ事か?

――それでは一つお主に尋ねるが、お主は夢がお主を魔王の如くに変へる装置と看做してゐないかね?

――ふむ。私は夢に現実ではあり得ない《吾》の《存在》の様相が現はれる数少ない《吾》独自の《世界》だと考へてゐるが、それは間違ひだと?

――当然ぢゃ! 夢の中のお主は先程も言ったやうに《吾》の《念》しか《存在》してをらず、《吾》は肉体を喪失した何か霊性の《存在》の如く看做したいのが此の世に《存在》する《もの》の本心だらうが、ふほっほっほっほっ、だがぢゃ、最早、夢の中の《吾》は、捨つるべき《吾》の残滓に過ぎぬのぢゃ。

――すると、夢とは、《吾》の塵箱か? へっ、何を馬鹿な事をほざきをって!

――ふほっほっほっほっ。解かってゐるぢゃないか。夢が《吾》を捨つる塵箱と言ふ事が。お主の言ふ通り、夢は《吾》を捨つる塵箱であり、《吾》が《吾》である事を断念するが故に《吾》は再び再生されるのぢゃ。

――ふっ。一体全体何を言ってゐるのかね? お前の言ってゐる事は全く意味不明なのだが――。

――お主が覚醒する故に《吾》を夢から再生するのぢゃて。

――すると、《吾》は夢の中では《吾》ではない何かといふ事に為るが、しかし、《吾》といふ《念》は、夢の中でも確かに《存在》してゐるし、また、《吾》といふ《念》が《存在》しなければ、《吾》は夢を見る事もない筈だが、お前の言ふ《吾》の断念とは何の事かね?

――字義通り、《吾》の断念ぢゃ。

――それぢゃ、断念した《吾》とは何なのかね?

――五次元的なる余剰次元的な《存在》へと変容した化け物、つまり、《異形の吾》の事ぢゃ。

――余剰次元の《吾》?

――さうぢゃ。時間も含めた四次元世界の現実から解き放たれた《世界》に遍在する《吾》の《念》。

――《世界》に遍在する《吾》の《念》とは、何の事かね?

――これまた字義通り、《世界》に遍在した、つまり、《世界=異形の吾》といふ《吾》の在り方の事ぢゃ。

――《吾》が《世界》? ふむ。だがそれは、当然の事ぢゃないかね? 何せ、夢は私のこの頭蓋内の闇の脳といふ構造をした《五蘊場》に表象される私独自の《世界》なのだからな。

――ふほっほっほっほっ。お主は、夢は《吾》に閉ぢた《もの》と看做してゐるのか、馬鹿が! 先にも言ったやうに、お主が夢を見る度毎に、わしの虚空にお主が現はれたり、将又、お主の夢の《世界》にわしが呼びつけられるかのどちらかなのぢゃて。

――つまり、夢において、《吾》の《世界》は己に閉ぢ籠った《もの》ではなく、《他》に開かれた《世界》、つまり、《他》と何処かで繋がった《世界》で、しかも、その《世界》は、《吾》である事を断念し、余剰次元へと変質した《異形の吾》といふ、奇妙奇天烈な《吾》でもあり《世界》でもある、或る名状し難い《もの》が現出してゐて、其処には徹頭徹尾《吾》は《存在》しないのか――ふむ……。そして在るのは《吾》といふ《念》ばかりなりしか……。

――納得したかね?

――いいや、全く。《吾》の夢に《吾》がゐないといふ事がどうも合点がゆかぬのだ。何故に《吾》の夢において《吾》である事を断念しなければならぬのか?

――ふほっほっほっほっ。お主は夢における《吾》が《吾》と断言出来るかね?

――ふむ。夢の《吾》が《吾》かどうかねえ……。ふむ。夢の《吾》もまた、《吾》ではないのかね?

――本当にさう思へるかね、ふほっほっほっほっ?

――しかし、夢を見てゐるのはこの私たる《吾》なのだから、その夢に登場する《吾》は、私であるに違ひないと考へるのが自然な筈だがね。

――思ってもゐない事を。お主の本心では夢の《吾》は《吾》である保証は何処にもなく、あるのは夢と現実を繋ぐ《吾》といふやうに《念》ずる事で表出する《吾》といふ思念のみといふ事ぢゃ。

――しかし、《吾》は夢を見る度毎に《吾》である事を断念してゐるのだらう? それが今一つ私には良く解からぬのだが。

――ふほっほっほっほっ。簡単な事ぢゃ。《吾》がそもそも非連続的な《存在》なのぢゃ。

――《吾》が非連続的? それは先にも話した事ではないのかい?

――さうぢゃ。先にも話したが、その問答を一歩進めると《吾》はこれまで連続的に《存在》した事はなく、《吾》といふ《もの》は、此処に思念があったかと思ふと次の瞬間にはあらぬところに《吾》の思念があるのが普通ぢゃらう。《吾》とは《吾》の《念》が思ひも及ばぬところへいとも簡単に飛躍してしまふ非連続的な《もの》なのぢゃ。

――すると、《吾》は絶えず《吾》である事を断念し、そして、直ぐ様別の《もの》に為り替はり、さうして、何も悪びれる素振りも見せずに《吾》はこの《吾》が《吾》だと思ってゐるだけの事か。ふっ、つまり、《吾》とはそもそも揺らいでゐるといふ事だね?

――それをわしは、《自同律振動》と呼んでゐるがね。

――《自同律振動》? 成程、《吾》もまたNeutrinoの如き《もの》といふ事か。さうすると、吾等が《吾》と呼んでゐる《もの》は、絶えずあれだこれだと名指せぬ《状態》にあり、そして、また、《吾》は《他》と出会ふ事もなくこれ以上あり得ぬ非情な孤独のままに《吾》は《吾》だと思ひ為し、それはつまり、《吾》に関しては《吾》の観察次第でどうとでもなるといふ事だが、果たせる哉、《吾》とはそれ程混乱を来たてしてゐる《存在》なのかね?

――ふほっほっほっほっ。それが《吾》を踏み迷った《もの》の言ふ事かね? わしが、言ふ以前にお主には既に解かってゐる筈ぢゃがね。《吾》は既に《神》の視点を失った事により、自同律でのみ《吾》の《存在》を保証しなければならぬのだが、つまり、絶えず振動し摂動し揺らいでゐるこの《吾》をして《吾》を決定する矛盾を愚行する事でのみ、《吾》の《存在》を何《もの》とも規定出来なくなった故に、《吾》と呼ばれる《もの》は、さう呼んだ瞬間に既に《吾》とは似ても似つかぬ《もの》になってゐて、遂に《吾》は永劫に亙って《吾》を摑まへ損ねる愚行を繰り返すばかりになってしまったのぢゃ。

――つまり、自同律は《吾》の錯覚でしかないと?

――当然ぢゃらう。例へば親の世話をしたい時には既に親は無しと同じやうに、《吾》を見出した時には既に《吾》は無しといふ事ぢゃて。

――すると、何もかも虚妄となるが?

――ふほっほっほっほっ。それはお主が一番良く解かってゐる筈だがね。

――すると、もう一度訊くが、この《吾》とは一体何なのかね?

――無限大へ向かって《存在》する虚妄の《吾》が収束する極限の《もの》ぢゃて。

――つまり、其処には《吾》が無限大に向かって《存在》する事が前提になってゐるが、さうすると、《吾》が《吾》である自同律において《吾》は無限大へ入水(じゅすい)する如くに思考の飛躍を無理矢理にでもしないと、《吾》は見出せない、つまり、結局のところ、《吾》は何時まで経っても《吾》を見出せない《存在》となるが、すると、私が呼んでゐるこの《吾》とは一体なんなのかね?

――ふほっほっほっほっ。夢幻(むげん)空(くう)花(げ)ぢゃ。

――ならば、現実は何かね?

――ふほっほっほっほっ。無様に眠り呆けた目玉の《吾》にびんたを喰らはせる《他》さ。

――すると、《吾》が《吾》と看做してゐる《もの》が夢幻空花で、《他》は現実といふ事か。だが、《吾》は夢では《他》たる《世界》を夢で見てゐるのと違ふかね?

――さうぢゃ。しかし、夢において因果律は滅茶苦茶だがね。

――さうかな。夢においても因果律はきちんと一本筋が通ってゐると思ふがね。つまり、現実は、殆どが《他》の時間に左右され《吾》はその《他》の時間にあたふたと戸惑ふやうに《他》の時間に多大な影響を蒙るが、一方、夢では、徹頭徹尾《吾》の時間が流れてゐるのぢゃないかね?

――ふほっほっほっほっ。つまり、夢において《吾》は或る種の《神》といふ事かね?

――意識下の《吾》は多分に《神》に近しい《もの》なのさ。

――ふほっほっほっほっ。意識下の《吾》は、果たせる哉、《吾》と呼べる代物かね?

と翁の姿をしたその夢魔は私を侮蔑するやうに嗤ったのであった。私はその醜いにたり顔に向かって、「此方もお前を侮蔑してゐる」と言ふ感じでかう言ったのであった。

――ふっ、深海生物の如き醜悪な姿をした《異形の吾》がうようよしてゐる筈ぢゃ。そいつらの妄想が夢見中に不意に意識上に、つまり、夢に浮き上がってくるのぢゃ。ふほっほっほっほっ。意識上に、つまり、夢に浮き上がってくるそれらは《異形の吾》の死臭漂ふ死体と思はぬかの?

――《異形の吾》の死体だと! 何故に死体だと?

――つまり、因果律がぶち壊れてゐるからぢゃよ。夢に流れる時間は、決して《吾》の所有物の如き時間な筈などありゃしないのぢゃ。そして、《吾》、否、《異形の吾》であったな、その《異形の吾》が夢における《神》である筈はないのぢゃ。

――しかし、夢において《吾》は自作自演を行ってゐるのではないかね?

――ふほっほっほっほっ。

また、夢魔の、他人を侮蔑した嗤ひであった。私はこの夢魔の人を食ったやうな嗤ひにはうんざりしてゐたのであった。そして、夢魔は更に次のやうに続けたのであった。

――例へば何かに追はれてゐる夢もそれは《吾》の、否、《異形の吾》の自作自演かね。それは《吾》の傲慢といふ《もの》でしかないぞ。夢は、《異形の吾》、つまり、わしもそれに含まれるのだが、その淵源にあるかもしれぬ意識下といふ仮初の時空間に棲息するGrotesque(グロテスク)な妄想の権化と化してゐる《異形の吾》の死に際に見た妄想こそが夢の全てなのぢゃて。

――つまり、夢は《吾》の消耗品かね?

――ふほっほっほっほっ。さういふ事ぢゃ。

――それでは、何故に《存在》は夢に何かの「出口」のやうな《もの》を見出さうとするのかね?

――何事も変容する為ぢゃよ。

――つまり、《吾》は夢を消費する、つまり、《異形の吾》の死体が朽ちるままにして、《吾》を脱皮してゐるのかね?

――さて、お主に捨つる《吾》が本当のところ、あるのかね? ふほっほっほっほっ。

――一つ尋ねるが、《存在》は如何なる《もの》でも夢を見ると思ふかね?

――わしはさう看做してゐるがね。さうぢゃなけりゃ、此の世が諸行無常の筈がないのぢゃ。

――へっ、夢もまた、諸行無常だぜ。

――ふほっほっほっほっ。当然だらう。《異形の吾》の死体は、さて、わしもお主の《異形の吾》に含まれるがな、その《異形の吾》の死体は、朽ちて腐ってゆくのは自然の道理だらう?

――すると、《吾》が覚醒してゐるといふ状態は、私の意識上にその《異形の吾》の死体の死臭に満ちているといふ途轍もなく居心地の悪い嘔吐を催す状態といふ事かね。そして、私の夢にさうして現はれてゐるお前も私の《異形の吾》の死体といふ事かね? お前は、覚醒といふ《もの》をさう看做してゐるのか? ふっ、馬鹿らしい!

――当然ぢゃらう。現実は何時も《吾》には居心地が悪い《もの》ぢゃらう。そして、わしはお主の言ふ通り或る意味死んだ《もの》ぢゃ、ふほっほっほっほっ。

――さて、それでは、此の夢幻空花な《吾》とは一体全体なんなのだらう……。

――《世界》の裂け目に目玉が嵌め込まれた化け物の類ぢゃよ。

――《吾》が化け物? さうすると、《吾》は夢現のどちらにおいても異形の《もの》といふ事か――。

――ふほっほっほっほっ。だからどうしたといふのぢゃ。そんな事で慌てふためいてゐては、《吾》が《吾》をして此の無情で無常な《世界》に独り屹立するなんて出来やしないぞ。

――意識上に浮き上がって来た《もの》が《異形の吾》の死体でしかないのであれば、私の頭蓋内の闇たる脳といふ構造をした《五蘊場》に明滅する事を已めない数多の表象群は、つまり、死者の夢といふ事かね?

――当然ぢゃらう。

――当然?

――お主にはまだぴんと来てゐないやうだが、此の世は生者の数より死者の数が数的には圧倒していて、更には、未だ出現すらしてゐない未来人の数の方が圧倒的多数なんぢゃよ。

――だから?

――まだ解からぬか! このうつけ《もの》めが!

――ふむ。

――お主は、死者の象徴なのぢゃて。お主の考へてゐる事の大概の事は、既に死んだ《もの》も考へてゐたもので、お主はそれを反芻してゐるだけなのぢゃて。

――しかし、私は、《吾》だといふ自負、ちぇっ、下らぬ自負があるがね?

――つまりは、お主は、死者にその思ひを託されたのぢゃ。

――何を託されたといふのかね?

――精神。否、魂ぢゃよ。

――所謂「精神のRelay」の事かね?

――さうぢゃ。「精神のRelay」ぢゃ。だが、大抵の《存在》は、死者に対する尊崇の《念》など露知らず、己の現世利益を欣求する事で、満足してゐる。

――本当に満足してゐると言ひ切れるのかね? 私には、現世利益を求める《もの》にも大いなる虚無主義の残滓を見てしまふがね。

――ふほっほっほっほっ。少しは、《世界》を認識してゐるみたいぢゃな。

――しかし、私の思索は先人達が残した思索を真似てゐるに過ぎぬ。

――それで構はぬのぢゃて。お主は、さうしてお主の思索を次世代に残せれば本望ぢゃらう。

――だが、誰も私の思索何ぞ求めてはをらぬがね、ふっ。

――お主が、お主の良い読者に為ればそれでいいのぢゃ。誰も見向かない思索は、それだけ常人とは違ってゐる証左であって、後は時間が篩にかけるのを待つのみぢゃて。歴史は残酷な《もの》で、何時の時代に生まれた《もの》も同一線上で自然淘汰に晒し、その結果図太く生き残る《もの》のみ百年後も残るのぢゃよ。お主の思索が誰も見向きもしなくてもお主が、お主の思索の良い読者である限り、お主は次世代に、つまり、未だ出現してゐない未出現の未来人の為を思ってのみ、作品を残せばいいのぢゃて。

――そして、へっ、私の言葉は死者の言葉でしかないのだらう?

――だから、不満かね? それこそ傲慢と言ふものぢゃて。死者の言葉が語れれば、お主はお主の思索を創出するほんの少しの可能性が生まれて来るのぢゃ。死者の言葉すら語れぬ輩に、己の思索を語れる筈はないぢゃらう。一つ尋ねるが、お主は、アインシュタインの一般相対性理論を理解してゐるかね?

――何を訊くかと思へば、一般相対性理論だと? アインシュタインのやうには理解してゐないと思ふがね?

――ふほっほっほっほっ。それぢゃよ。お主は、一般相対性理論を理解してゐる証左がお主の言にはある。お主が一般相対性理論を理解してゐるといふ事は、一般相対性理論が発表された当時の天才と双肩の《存在》といふ事ぢゃよ。

――これは何の意味があるといふのかね?

――つまり、現代を生きる《存在》は、それが何であれ、歴史の最先端を走ってゐるのぢゃよ。さて、其処でぢゃ、現在名の通った作家の何人が百年後も読まれてゐると思ふかね? 時間とはかやうに残酷で、時間は絶えず創出した《もの》が存続できるかを試し、篩にかける薄情《もの》でしかない。

――お前はその時間をどんな《もの》として考へてゐるのかね?

――ふほっほっほっほっ。《個時空》のお出ましぢゃな。わしは、Cronus(クロノス)の大鎌が気に入ってゐるのぢゃ。

――ならば、その大鎌でお前の《生》を刈られてしまへばいいのさ。

――ふほっほっほっほっ。わしは、既に刈られてゐるのぢゃて。お主の夢には死者しかゐないと言ったばかりぢゃらう。

――それは詰まる所、死者たちとの交感といふ事かね?

――さう捉へても別に構はぬが、それでは満足出来ぬのぢゃらう?

――ああ、その通りだ。夢における《吾》が《吾》の魂魄、若しくは《念》でしかないといふ事に全く納得出来ぬのだ。尤も、嘗ては「現存在」は夢に《存在》の出口、否、《物自体》の暗示のやうな《もの》に触れられる《世界》だと、何かにつけて夢に関して語ってゐたが、私には、それが既に興ざめする外ないのだ。それだけ夢の地位は落ちた事になるのだがね。

――ところが、お主の夢に、わしが出現する事に我慢がならぬお主は、夢中殺人とでも呼べばよいのか、夢の中でわしを殺さうとわしの隙を狙ってゐる。ぢゃが、わしとて、そんな事は百も承知でお主に呼ばれるがままにかうしてお主の夢に飛んで来るのぢゃ。一つ訊ねるが、お主は何故にわしを呼ぶのだ?

――そんな事私の知った事か。お前が勝手に現はれてゐるに過ぎぬのぢゃないかね?

――まさか――。わしは、そんなに暇人ぢゃないのぢゃ。

――ならば、私の夢などに感(かま)けてゐないで何処か外に行ってくれないかね?

――さうさせぬのはお主ぢゃらうて。

――何を根拠にそんな事が言へるのかね?

――自分の胸に訊いてみるんぢゃな。

――ふむ。

――まだ解からぬのか! このうつけ《もの》めが! お主は《吾》を只管に望んでゐるから、わしがお主の夢に現はれる羽目になるのぢゃて。

――それは前にも聞いたよ。お前が私の鏡だといふ事は。それにしてもだ、私が欣求する《吾》が何故にお前のやうな翁なのだ?

――お前がそれを望んでゐるからぢゃよ。

――私が望んでゐる? これは異な事を言ふ。私は既に老人か?

――さうぢゃよ。これも前に言った筈だがね。

――へっ、嗤はせないでくれるかね。何を寝惚けた事を言ってゐるのかね? 私が老人?

――それ見た事か。図星だから狼狽へてゐるのが解からぬのか、ふほっほっほっほっ。

――私が老人? では訊くがその根拠は何なのかね?

――お主は絶えず《吾》に対して自虐的にしか接する事が出来ず、死の周りを思考が堂堂巡りを繰り返すばかりだからぢゃよ。それは即ち、死期の迫った老人でなくて何だといふのかね? お主は、もしかすると気付いてをらぬかもしれぬが、「私」の完成を夢見てゐる。しかし、「私」の完成など此の世にも彼の世にもありゃしないのぢゃて。それでもお主は、どうしても「私」の完成を夢見ずにはをれぬ。なんと幼稚なお爺さんなのぢゃらう。ふほっほっほっほっ。

――馬鹿らしい。言ふに事欠いて幼稚なお爺さんと来たか。ふん、別にそれでも構はぬではないか。胎児が既に老成してゐるなんて、何と素晴らしき事か。

――ふほっほっほっほっ。老成した胎児かね。さうすると《生》は羊水に浮遊する事で全て事足りるのぢゃな。外界、つまり、《世界》はお主には無意味な《存在》でしかないのぢゃな。

――否、老成した胎児が此の世に誕生すれば《存在》はちっとはましになるに違ひないと思ってね。

――つまり、胎児が、既に《吾》の何たるかを認識しちまった事で、お主は《吾》の何たるかが少しははっきりとすると踏んでゐるのぢゃらう。だがな、《吾》がそんなに単純な《もの》かね、老ひた若人よ。ふほっほっほっほっ。

――しかし、羊水に浮かぶ胎児は、既に《世界》における自在感を知ってしまってゐる筈だぜ。

――ふほっほっほっほっ。すると、海中に棲む生物は、全て自在感を知ってゐるといふ事かな?

――さう。例へば、魚類の《世界》との相互関係は、浮遊さ。自在なる浮遊感にこそ、多分、《世界》の秘密が隠されてゐるに違ひないのだ。

――つまり、お主は無重量の事を言ってゐるのだらうが、お主も既に自由落下してゐるぢゃらうが。

――それは《パスカルの深淵》の事かね?

――ふほっほっほっほっ。さうぢゃよ。《パスカルの深淵》に自由落下してゐるぢゃないかね?

――《パスカルの深淵》に自由落下するのは何時も意識のみで、肉体は常に地上に留め置かれてゐる。

――それで構はぬぢゃないかね? お主の肉体が仮に《パスカルの深淵》に自由落下するのが、例へばお主の死後の事ならば、それはそれでそれを待ってゐればいいだけの事ぢゃて。それよりも、お主が言ふ意識の《パスカルの深淵》での自由落下は、詰まる所、お主の頭蓋内の闇たる脳といふ構造をした《五蘊場》に、必ず《パスカルの深淵》が《存在》してゐて、お主の意識が、その《パスカルの深淵》へ飛び込まざるを得ぬ、止め難き欲求のままにお主は《五蘊場》の《パスカルの深淵》に飛び込んだ。それは快哉《もの》ぢゃよ。

と翁の顔ににたりとした笑顔を浮かび上がらせた夢魔は、『これ然り』といった物言ひで言ったのであった。

――すると、《パスカルの深淵》とは、誰にも遍く《存在》するといふ事かね?

――ふほっほっほっほっ。《パスカルの深淵》が見える《もの》と見えない《もの》とがゐて、《存在》は全てそのどちらかぢゃて。つまり、《パスカルの深淵》は幽霊と同属の何かに違ひないのぢゃ。

――《パスカルの深淵》が幽霊ね。ふっふっふっ。それは面白いぢゃないか。《パスカルの深淵》が幽霊か――ふむ。それぢゃ、一つ訊くが《五蘊場》に明滅する表象群もまた幽霊と同属の《もの》かね?

――ふむ。表象群ぢゃと。反対にわしがお主に訊くが、《吾》は《吾》の死後も《吾》として《存在》してゐると思ってゐるのかの?

――さあね。でも、私は、《吾》は未来永劫、相転移を繰り返しながら《存在》し続けると看做してゐるがね。

――それぢゃ、お主にとって《五蘊場》に明滅する表象群は幽霊に属する何かぢゃて。

――何故にさう言へるのかね? 私が、《吾》が未来永劫に亙って《存在》し続けると言ったからかね? それぢゃ、何も説明にもなってゐない。既に私は、《吾》が未来永劫に亙って《存在》すると解釈してゐるからな。

――本当にさうかね? それでは何故にわしがお主の夢に何度も呼び出されるのかね?

――お前が勝手に私の夢に出現してゐるだけの事だらうが――。

――何をとぼけた事を言ってゐるのかね? わしは、前にも言った通り、暇人ではなく、忙しいのぢゃ。お主がわしを呼ばなければ、わざわざお主の夢にわしが出現する事は決してないのぢゃて。

――私は何と言ってお前を呼んでゐるといふのだ?

――かうぢゃよ。『助けてくれ~~!』とね。

――『助けてくれ~~!』。へっ、ちゃんちゃらをかしい! 私が何に追い詰められてゐるといふのかね、否、《パスカルの深淵》に飛び込んでゐるのだったな。ふん、多分、私は、自由落下によって生じる自在感が不気味なだけなのだらう、ちぇっ。

――自由落下が不気味かね? ふほっほっほっほっ。それでは、お主は、《存在》の杳として知れぬ不気味さを既に味はってゐるのぢゃな。これは傑作ぢゃて。

――何が傑作だといふのかね? 私は、唯、《パスカルの深淵》に自由落下するのが、何か糸が切れた凧のやうで、それが不信に思ってね。

――自己猜疑、大いに結構ぢゃないか。さうして揺れる《吾》をたっぷりと堪能する事ぢゃて。さすれば、お主は《吾》なる《もの》が揺れ動く波動の一種である事に納得する筈ぢゃて。

――はっはっ。そんな事はお前に言はれずとも、とっくの昔に知ってゐたさ。

――だから?

――つまり……。

――つまり、何ぢゃね? 渦だらう? まあ良い。それよりも束ぬ事を訊くが、お主は《吾》が極小から極大まで、伸縮してゐる《吾》自身を感じた事はこれまでになかったかな?

――《吾》は絶えず縮小と膨脹を繰り返してゐるが、極小と極大までには至った事はない。

――まあ、それが当然ぢゃらう。お前は生きてゐるのぢゃから。零といふ極小と無限大といふ極大は《非在》の専売特許ぢゃて。

――では、何故に極小と極大の《吾》を感じたかなどと問ふのだ?

――まあまあ、短気は損気ぢゃ。何ね、お主は《吾》を《吾》の身体とぴたりと重なった《もの》と看做してゐるのかどうかを訊いたのぢゃて。

――《吾》は肉体に縛られながらも自在といふ曲芸を難なく遣って退ける強者ぢゃないのかね?

――さうぢゃ。《吾》は独りぽつねんと此の渺茫たる《世界》においても『《吾》然り!』と《吾》と対峙出来る強者なのは、当然ぢゃが、それが解からぬうつけ《もの》が此の世には意外にも多く《存在》するので、お主に訊いたまでぢゃて。それでは、お主は《吾》が縮小と膨脹を繰り返してゐる不思議は知ってゐるのぢゃな。

――ふん、《吾》が縮小と膨脹を繰り返すのは、別に不思議ぢゃないがね。頭蓋内の闇たる脳といふ構造をした《五蘊場》に明滅する《吾》の表象群は、ぴたりと《吾》に重なる《もの》は僅少でしかなく、殆ど其処に表象される《吾》は大きさが愕然とする程に違ってゐる《吾》が明滅してゐるのさ。それは、《吾》が《吾》である事の宿命ぢゃないか。つまり、自同律の不快。

――それは、唯の方便ぢゃて。その自同律の不快といふ言葉は。

――何故に方便と看做せるのかね? 現に此の世には《吾》に踏み迷ってしまった人人ばかりぢゃないか。それを私は埴谷雄高の言葉を借りて自同律の不快と言ってゐるのさ。

――ぢゃが、頭蓋内の闇は、全宇宙もプランク定数の《世界》も容れる事が出来る不思議な伸縮自在の器で、《吾》が全宇宙に匹敵したり、素粒子の如き《もの》に変化したりするのは何ら不思議な事ぢゃないのぢゃ。

――では、一つ訊くが、《五蘊場》と《吾》は等価かね?

――お主はどう思ってゐるのぢゃ?

――覚醒時は、外界を見る事で絶えず《吾》の大きさを修正してゐるが、睡眠時は《吾》は自在に変身してゐるに違ひない。

――ふほっほっほっほっ。外界を見る事で《吾》の大きさを修正するとは、これまた傑作ぢゃて。ふほっほっほっほっ。つまりは、《吾》は絶えず《吾》から食み出るか、縮小して何処かに隠れる《もの》といふ事ぢゃな。それは「先験的」な《もの》と思ふかね?

――多分、《吾》なる《もの》全ての宿命さ。

――ふほっほっほっほっ。《吾》なる《もの》の宿命とは、これまた傑作ぢゃて。《吾》なる《もの》は、何によって絶えず《吾》を矯正されてゐるといふのかね? 何故に《吾》なる《もの》は《吾》から食み出ようとするのかね?

――《吾》が《吾》でしかないといふ事を心の深奥で味はひ尽くす為さ。

――では、何故に《吾》は《吾》でしかない事を心の深奥で味はひ尽くさねばならぬのかね? 《吾》が心底《吾》である必然性はなからう?

――ふっ、これは異な事を言ふ? 《吾》が心底《吾》である必然性がないとすれば、《吾》が《吾》と名指してゐる《もの》は何なのかね?

――夢幻(ゆめまぼろし)ぢゃて。

――そんな事はお前に言はれずとも十分承知してゐるつもりだがね。だが、《吾》なる《もの》は、それが夢幻の類である事を知りつつも、《吾》なる《もの》を『《吾》』と名指すのぢゃないかね?

――ぢゃが、お主はそれが不満なのぢゃらう? お主はお主でしかない《吾》に不満でならぬ。それを他人から借りた言葉、つまり、『自同律の不快』などと言って気取って見せるが、その本心ではそれもまた、不満でならぬ。さて、其処でぢゃ、お主は、《吾》と名指したその《吾》をどのやうに《吾》に平伏させようとしてゐるのかね?

――平伏させようも何も、《吾》は既に《吾》であったではないか。

――ふほっほっほっほっ。既に《吾》か、ふほっほっほっほっ。これまた傑作ぢゃて。それでは《吾》の来し方行く末を何とする?

と翁の姿をした夢魔がさも楽しいといった満面の笑みを顔に浮かべて言ったのであった。

――歴史に埋もれた無名の人を掬ひ出し、未だこの世に出現してゐない未来人にその思ひを繋ぐ媒体が此の《吾》だらう?

――ふむ。《生者》としての覚悟は出来てゐるやうだが、しかし、お主は、お主が人類の、否、宇宙史上といったところかな、その歴史に足跡を残したがってゐる傲岸不遜な希望をそのちっちゃな胸に抱いてゐるだらう?

――《吾》が《吾》である事が傲岸不遜といふのかね? すると、《吾》が此の《吾》と名指す事が既に傲岸不遜といふのかね?

――さうぢゃよ、ふほっほっほっほっ。《吾》の面の皮の厚さといったなら筆舌尽くし難い程ぢゃて。そもそも《吾》が《吾》をして《吾》と名指す行為は、《吾》の捕縛の試みでしかないぢゃらう?

――しかし、《吾》は、《吾》を《吾》と名指したところで、その《吾》からするりと逃げ果せるのが関の山だぜ。

――それから?

――そして、《吾》は《吾》の内外に《パスカルの深淵》がばっくりと口を開けてゐるのを知る。さうして、《吾》は無と無限の狭間で《吾》に眩暈を起こして《吾》を見失ふのさ。

――其処ぢゃて。《一》といふ数字には既に無と無限が「先験的」に含有してゐるのぢゃ。つまり、《一》は《零》からむくりとその重重しい頭を擡げし或る《存在》が、例へば、0.1が0.09999999……と、《九》が無限に続く事で一つの階を上り、さうして、何度も何度も無限の《九》を続けては《一》の階を上り続けて、最後の0.99999999……の階を上る事で《一》といふ「単独者」として此の世に佇立する。

――何を今更! そんな事は百も承知だぜ。だから、《吾》の内外に《パスカルの深淵》がばっくりと大口を開けてゐるのだらう?

――ふほっほっほっほっ。つまり、お主にとって《パスカルの深淵》は底無しといふ事ぢゃな。それはそれで結構な事ぢゃて。ならば、お主に訊くが、お主は何故にその《パスカルの深淵》に飛び込むのぢゃ?

――逃げ場が最早なかったからさ。

――何からの逃亡かね?

――へっ『《吾》』さ。

――ふほっほっほっほっ。何故に《吾》から逃げるのぢゃ?

――ちぇっ、鎌をかけやがって! 《吾》は「先験的」に《吾》なる《もの》から逃亡する《もの》だらう? それ故に《吾》は伸縮するのぢゃないかね?

――このうつけ《もの》が! 何て未練がましいのか!

――へっ、《吾》とは徹底的に未練たらたらぢゃないかね? だから伸縮するのぢゃないかね?

――それで《吾》が「先験的」に《吾》から逃げると? それぢゃ洒落にもならぬぞ。

――端から洒落で言ったつもりはないがね。

――ならばぢゃ、お主は何をして《吾》から逃げねばならぬといふのかね?

――《吾》が幸か不幸か此の世に《存在》しちまってゐる事自体が不合理だからさ。

――何をして《吾》の《存在》が不合理と言へるのかね?

――結局、《吾》なくしても《世界》は何事もなかったかのやうに《存在》する不合理さ。

――ふほっほっほっほっ。《世界》に嫉妬してゐるのかね? それはお門違ひぢゃぞ。

――そんな事ぐらゐ当然承知しているがね、しかし、《吾》の不在が《世界》にとって屁にもならないとふ事実は、屈辱でしかない。

――馬鹿が。《存在》はそもそもが屈辱でしかないのぢゃて。

と、翁の面をした夢魔がさう言ふと、私の眼前は、闇ばかりが広がる《世界》に一変したのであった。それは、多分、夢魔が私を夢世界に連れ去った事の証左に違ひないと思ったのだが、それといふのも、夢の端緒は大概、闇から始まるに違ひないのである。すると、夢魔の声のみが何処とも知れぬ闇の中から聞こえて来たのであった。

――どうぢゃの。《パスカルの深淵》を自由落下する意識に追ひ付いた《吾》の居心地は?

――はて、《吾》の意識に追ひ付いたとは全く知らなかったが、それはまた、何故にかね?

――睡眠にはREM(レム)睡眠とnon-REM(ノンレム)睡眠の二種類がある事は知ってゐるぢゃらう?

――それと私が《パスカルの深淵》を自由落下する意識に追ひ付く事と何の因果関係があるのかね?

――解からぬのか! つまり、暫くわしはお主の視界から消えると言ふ事ぢゃ。

――はて、何故に?

――お主の頭蓋内の闇に鎮座する脳が休まるnon-REM睡眠へと睡眠が移行するからぢゃて。

――しかし、それは、私にとっては一瞬の事でしかないぜ。

――或ひはさうかもしれぬが、しかしぢゃ、わしは暫くお主の夢世界を全的に抱へてお主の視界から消えるのぢゃて。これは、生理的な現象でお主の意思でどうにかできる《もの》ではないからぢゃ。

と言ふとそれ以降全く何の声もせず、私は、それが恰も自然の事のやうに眼前の闇に投身したのであった。しかし、その闇に私がゐたのは一瞬の事でしかなく、再び私は、夢の中へと彷徨ひ出たのであった。すると、翁の面をした夢魔が忽然と私の眼前に現はれたのであった。

――さて、身体は十分に休めたかの?

――さあ。私は現在、眠ってゐるので何とも言ひ難い。

――ふほっほっほっほっ。それはさうぢゃの。

――しかし、お前が消えてゐたのは、ほんの一瞬の事にしか思へぬのだがね。

――しかし、現実は一時間半程の時間が確かに経過したのぢゃぞ。

――ふむ。実際はさうなのだらうが、non-REM睡眠は、しかし、意識にとっては一瞬の事としか認識出来ぬ憾みがある。

――其処まで半醒半睡の中でも意識がはっきりとしてゐるのであるならば、non-REM睡眠時の時間を、換言すれば、お主の意識はその終はりを今か今かと鶴首して待ってゐた一時間半程の時間を、体感してゐても不思議ではないのだが、お主も脳は人並みに休まるのぢゃの。ふほっほっほっほっ。

翁の相好を崩し、満面の笑みを浮かべながら夢魔は、こんなに楽しい事はないといった風に哄笑するのであった。そして、

――しかしぢゃ、お主の脳が休まるnon-REM睡眠中に自在なる《吾》を体感してゐた筈ぢゃて。

――否! 《吾》は不自由なる《吾》を体感してゐたに過ぎぬ。

――さて、それはまたどうしてさう看做せるといふのぢゃ?

――答へは簡単さ。《吾》は相変はらず蒲団の上にかうして横たはってゐるからさ。つまり、《吾》は自在に何処となりに夢遊病者の如く、ふらりと歩き出さねばならぬのさ。

――夢遊病者が徘徊するのは、non-REM睡眠時と相場が決まってゐるぢゃらうて。お主の意見に従えば、脳なしの肉体が、つまり、Guillotine(ギロチン)で首をばさりと斬り落とされた肉体が、首の切り口からびゅうっと血を吹き出しながら、何処へかゆらりと歩き出す《吾》といふ《もの》を夢見てゐるといふ事になるが、しかし、それぢゃ、《吾》といふ《存在》は身も蓋もないぢゃらうて?

――さうかな。《吾》に意識があるなしに関係なく、《吾》なる《もの》は絶えずゆらりと首なしのまま、此の世を彷徨してゐるに違ひないと思ふがね。

――ふほっほっほっほっ。本当にさう思ってゐるのかね?

――勿論! 《吾》なる《もの》は首なしでも肉体は自在に、ちぇっ、つまり、首なし故に自在に彷徨出来るのさ。

――しかしぢゃ、首なしといふ事は、詰まる所、《吾》の《吾》からの解放を意味はしないぢゃらう。それは、《吾》の《死》のみが待ってゐる三途の川を渡る《もの》でしかない!

――別に首なしの《吾》が、三途の川を渡っても、それが永劫ならば、その首なしの《吾》は自在な筈さだ。

――ふほっほっほっほっ。三途の川を渡るのが永劫とはこれまた傑作ぢゃて。だが、お主は結局、non-REM睡眠の時間を感知出来ぬのぢゃらう?

――つまり、それは《吾》は、《吾》の呪縛から遁れられなかった証さ。

――では、今、夢遊病者の如く、徘徊すればいいぢゃらう?

――意識がある時に彷徨したからといって《吾》は《吾》から自在に為れる筈がなからう。

――さて、さうかな。ふほっほっほっほっ。

と、夢魔は更に楽しさうに哄笑するのであった。その翁の面は相変はらず落陽時の太陽のやうに朱色の光を放って、私の眼前に確かに《存在》してゐたのであるが、夢魔は、私が幾ら手を伸ばしたところで、天空の星星の如くに手が届かぬ処にゐるに違ひなかったのである。

――しかし、私は、寝惚けて夢遊病者の如くにふらりと歩き出した事が何度となくあるが、その時に《吾》は全的に《吾》であって、《吾》は《吾》から自在であった例はなかったぜ。つまり、四六時中、《世界》は《吾》のみに対峙するのさ。

――其処に《他者》はゐないのかね?

――ああ、ゐない。《吾》以外その《世界》には何《もの》も《存在》しない。

――では、お主は、その時、全知全能の《もの》として、《存在》を造化する《もの》として、《世界》に《存在》してゐなかったのぢゃな。

――勿論。全的なる《吾》は途轍もなく不自由な《吾》でしかなかった。そして、《もの》は私の意識とは無関係に、発生しては自己増殖するばかりの奇妙に歪んだ《世界》に《吾》はゐたのだ。

夢魔は、何故に楽しさうに見えるのだらうか。不図、そんな事を思ひ、改めて夢魔の顔を見てみると、何となく見覚えのある顔のやうに見えて来るから不思議なものである。否、私は、確かにこの夢魔に何処かで一度会った事があるに違ひなかった。それが、何処であったのか何時会ったのか思ひ出せないのだ。しかし、確かにこの翁の顔貌は何処かで見てゐる事に間違ひない。私は、頭蓋内の各記憶部屋の扉を開ける如くに蜂窩状に形作られてゐるに違ひない記憶の闇に沈んでしまった翁の顔の面影を求めて、一部屋づつ、灯を点けて探すのであった。しかし、記憶といふ《もの》は、或る類型化したPattern(パターン)として記憶されてゐるに違ひなく、私は、頭蓋内を少し俯瞰して蜂窩状の記憶部屋の灯を点け回り、そして、さっと身を翻して、その灯で明るくなった各部屋をその翁の顔のPatternで繋ぎ合せてみるのであったが、記憶部屋の灯は上手く干渉せずに或る形の像を結ぶ事なく、無秩序にそれらの灯は点ってゐるやうにしか見えなかったのである。しかし、幽かにではあるが翁の顔を凝視すると灯が仄かに明るく輝く記憶部屋のPatternがあり、それが、何によって起るのかを暫く考へ込んでゐたのであった。すると、

――ああ、さうか!

と、翁の顔を何処かで見たのか合点が行ったのでのである。それは、幼少の頃、今は亡き父親に連れられて見に行った薪能での翁の面に間違ひなかったのである。父親は、伝統芸能が大変好きで、私は、よく能に連れて行ってもらったのであった。しかし、長患ひの後に亡くなった父を喪って既に数十年が経ってゐた事もあり、翁の面に直ぐには思い至らなかったのか、それとも、私が無意識裡に嘗ての記憶を封印したのか、解らぬが、いづれにせよ、翁の面をすっかり忘れていた事は確かなのであった。

――何をそんなに神妙な顔をしてゐるのぢゃ?

――いや、何、お前に何処ぞで会った事がある事を思ひ出したのでね。

――ふほっほっほっほっ。それは、結構な事ぢゃて。これでお主も解かったぢゃらう? わしがお主の夢に連れ出される《存在》だといふ事がぢゃ。

――否、全く解らぬがね。

――それは嘘ぢゃて。わしが大勢の人の前の「舞台」で演じてゐる事には思ひ至ったはずぢゃて。

――だから、それがどうしたといふのかね? 「舞台」を夢とでも言ひ換へたいのかい?

――ふほっほっほっほっ。お主、解ってゐるではないか。その通りぢゃて。「舞台」は見も知らぬ大勢の《他人》が一つの「舞台」を夢心地で観る《もの》なのぢゃ。

――つまり、お前は、例へば共通夢などといふ言葉を造語すれば、共通夢の夢魔として、私以外のその《他》大勢の夢にも出現せずにはをれぬといふ事かね?

――当然ぢゃらう。わしは、さうやって《生》を繋いで来たのぢゃ。つまり、大勢の視線を、闇の中でぎらぎらと輝く眼球に見られる事を糧にして、わしは、その日その日を最高の「舞台」で、翁を演じるのぢゃ。

――では、今、一つ何か演じてくれないか。

――ふほっほっほっほっ。それは無理ぢゃて。わしを生かすも殺すもお主の腕次第ぢゃて。

――すると、今かうしてお前を夢で見てゐる《他者》は多く《存在》してゐるのかね?

――電脳世界では、動画Site(サイト)で現在何人観てゐるか表示される仕組みになってゐるが、「夢舞台」は将にそれと同じなのぢゃ。つまり、数字として表示されぬが、お主は夢の中で数多の《他者》と出会ってゐる筈ぢゃが、さて、どうした《もの》かなう。

――否、私は、未だにお前以外見てゐやしない。はて、待てよ、先ほどは私の夢にはお前しかゐないと言ったが、よくよく思ひ為せば私の夢には、私の見ず知らずの赤の他人がしょっちゅう出現して来る事に思ひ至ったが、すると彼らと私は共通夢を見てゐるといふのか。――馬鹿な!

――では、何故にお主は赤の他人と夢の中で、目が合って直ぐに互ひを一瞬にして理解出来るのぢゃ?

――それも埴谷雄高の受け売りでしかないぜ。

――だから、それがどうしたといふのかね? お主は夢の中で、赤の他人に実際に出合ってゐるのぢゃらう? それら夢中の赤の他人は、言はずもがななのであるが、お主と共通夢なる共同幻想を共有してゐるのぢゃて。

――どうしてさう断言出来るのかね? 私の夢の中に現はれてゐる赤の他人は死んだ《もの》達かもしれず、または、未だ出現せざる未来人かもしれぬではないかね?

――それでも構はぬぢゃて。何故って、夢において因果律は元元破綻してゐて、夢は去来(こらい)現(げん)が渾然一体となった、奇妙な《世界》なのであるが、それ故に、幽霊でも未出現の未来人でも、お主にとっては赤の他人である《他》共によって共有されるのぢゃて。

――すると、私は生誕以前にも、また死後でも尚、《存在》するといふのかね?

――さうぢゃよ。

――はっ、笑止千万! それでも夢はTime machine(タイムマシン)といふ事ぢゃないかね?

――それで構はぬではないか!

――ふっふっ。しかし、夢を見てゐる《吾》は蒲団に横たはったまま《現在》に拘束されてゐるに過ぎぬではないかね?

――だが、《五蘊場》だけは、因果律を飛び越した奇妙奇天烈な《世界》なのは、認めざるを得ぬぢゃらう?

――へっ、夢の神格化かね? 夢は既に使ひ古された襤褸切れでしかないぜ。

――ならば、何故にお主はわしをお主の夢に招聘したのかね?

――そんな事、解かる筈がない。それが解かれば、夢解釈は、信に堪へ得る《もの》の筈だぜ。夢解釈は、フロイトを持ち出すまでもなく、夢を徹底的に《現在》の下僕として看做してゐるが、それは傲慢と言ふものだらう。

と、その刹那、夢魔は不敵な嗤ひをその翁の面に浮かべたのであった。それは恰もたまゆらに恍惚状態へと羽化登仙した《もの》のみが、その面に浮かべる醜悪極まりない嗤ひなのであった。

――何がをかしいのかね?

――いや、何、お主は何だかんだ言っても、いまだに夢の神通力を信じてゐるのと思ってな。だから、かうしてわしをお主の夢見の度毎に呼び出すのぢゃて。

――どうあっても、私の夢を《他》と共通の夢、つまり、共通夢にしたくて仕方ないのだな。

――ならば、聞くが、お主はお主の夢の中でお主である事を全否定した《もの》として表象してゐるかね? してゐないぢゃらう? 夢の中では《吾》は《吾》以外の何《もの》でもない筈ぢゃて。

――それも既に使ひ古された言種だぜ。私は夢においても《吾》を疑ってゐるんだぜ。

――ふほっほっほっほっ。お主のこれまでのその言質の何処に《吾》に疑義を挟んだ《もの》があるといふのかね? わしが見たところ、未だにそんなお主を見た事がないのぢゃて。お主はわしの前では徹頭徹尾お主でしかないのぢゃ。

――しかし、かうして私は夢中の《吾》を疑ってゐるだらうが!

――果たせる哉。お主の夢中の言質は全てお主によって発せられし《もの》であり、お主は夢中ではお主である事で生き生きとしてゐるのぢゃて。それが解からぬのでは、お主の目玉は節穴だな。

――へっ、夢の《吾》の目玉はそもそも穴凹でしかないぜ。

――本当にさうかね? 本当に夢の中の《吾》の目玉は単なる穴凹でしかないのかね? 本気でさう思ってゐるならばぢゃ、Topological(トポロジカル)に言っても夢中の《吾》は、何ら特異な《もの》の筈はなく、結局はTaurus(トーラス)型の意識体と言へばいいのか、ふほっほっほっほっ、単なる輪っかに変容可能な《もの》でしかないのではないのかの。

――抽象化だね。望むところだぜ。「現存在」の記憶の仕方は、抽象化の問題にぶち当たらざるを得ぬからね。最先端の脳科学には疎いけれども、ただ、認識の仕方は、《もの》を抽象化してParts(パーツ)毎に脳と言ふ構造をした《五蘊場》の彼方此方に取り分けて《もの》を記憶してゐると言われてゐると、これは又聞きだから正しいのかどうかは私には何とも判断しかねるけれども、仮にそれが正しいのであれば、「現存在」にとって具体を成り立たせてゐるのは抽象であり、何にでも抽象化が好きな「現存在」のその本質の問題に触れざるを得ぬ。

――ふほっほっほっほっ、何を言ってゐるのか解ってゐるのかね? 知りも知らぬ事を語るのは已めた方がいいぞ。Topologicalに吊られたか? 馬鹿が! Taurusに吊られたか? 馬鹿が! それでは何かを語ってゐるやうでゐて、結局は何にも語ってゐない虚しさのみが残る憾みばかりが募るばかりぢゃて。ただ、確かに「現存在」は抽象化が好きな事は間違ひないのう。抽象化される《吾》。ふほっほっほっほっ。確かに《吾》は抽象化される運命にあるが、しかし、《吾》をいくら抽象化しても、結局は《吾》はお主の認識の手からするりとすり抜けるのが落ちぢゃらう。

――だが、この《吾》が実際に存在すると言ふ感触は、どう足掻いても拭ひ去る事は出来ぬのだ。

――当然ぢゃらう。お主は存在してゐないのかね?

――確かに存在してゐるとは言へるに違ひないが、ただ、私は生ける屍の如くにしか己の事を知覚出来ぬのだ。

――それは単なる甘えでしかないぞ。例へばぢゃ、お主が仮に生ける屍としか己を認識出来ぬといふのは、それでも生きてゐるお主は、誰によって生かされてゐるのか考へた事もないぢゃらう。自身の事を生きる屍などと言ふ《もの》に限ってその日常はとても恵まれてゐて、唯唯、自己愛にのみ現を抜かし、《他》の存在を排斥してゐるにすぎぬのぢゃ。

――つまり、私は直截的に言へば自意識過剰に過ぎぬといふ事かね。へっ、そんな事は重重承知した上で私は己を生ける屍と表現してゐるのだかね。だから始末に負へぬのだ。自意識過剰である事を承知してゐるにもかかはらず、己の存在に確信が持てぬ。これ程薄ら寒い自己愛もないだらう。

――ふほっほっほっほっ。薄ら寒い自己愛ぢゃと? だから甘ちゃんと言ふのぢゃ。自己愛などとほざく前に、そのどうしようもなく己の内部からふつふつと湧いて来る意識の在処について思ひを馳せた方が身の為ぢゃて。その意識がどうして自己意識へと変容するその転回に目を向けるべきぢゃて。

――意識が自己意識へと変容する転回点?

――さうぢゃ。

と、さう言った夢魔の顔にはほんのりと赤みが浮かんで来て、上気し始めたのが手に取るやうに解ったのである。それが瞋恚によるものなのか、夢魔の思考の壺に嵌まったものなのかは解らぬが、ただ、夢魔が何やら興奮してきた事だけは間違いない事であった。

それでは夢魔は何にそんなに興奮してゐたのであらうか。その答へは簡単である。《抽象化》である。この「現存在」と言ふ代物は、何でも抽象化する悪癖があり、その業から遁れられぬ宿命にあるとしか思へぬのであるが、何故か解らぬが、抽象化を始めると心が嬉嬉としてくるのである。それは、思考すると言ふ事がそもそも抽象化する事と紙一重の違ひしかないといふ現存在の思考法は、夢魔には面白くて仕方がないやうなのであった。

――意識が自己意識へと変容する転回点とは、また曖昧な言ひ回しだね。意識とはそもそも己から乖離したものが果たしてあるのだらうか。その思考がどんなに反自我であってもやはり、その思考は自己からは離れられぬ。一体、意識が自己意識でない意識とは、はて、どんな意識状態の事なのかね。

――ふむ。例へばぢゃ、宇宙を丸ごと掌中に収めた思考をしてゐるときなど無我の境地に近く、其処には自己意識がなくても意識は或る意味興奮して宇宙の涯に思ひを馳せてゐるではないかのう。

――宇宙の涯ね。お前にしては余りにも当たり前の喩へだね。確かに、この吾なる生き物が存在を余儀なくさせられる世界、或ひは宇宙、つまり森羅万象の世界に思ひを馳せてゐるとき程、うきうきしてゐるのは間違ひないが、その宇宙は、しかし、とってもTopologicalなものに終始してゐる筈だがね。

――ふほっほっほっほっ。どうしても位相学に焦点を合はせたいやうだのう。数学的なる宇宙の解釈は一つの解釈としては当然認められるべきものだらうがぢゃ、しかし、数学的なる宇宙像は数多ある宇宙像の中の一つでしかなく、宇宙とは、そもそも無数の「顔」を持つ「存在」ぢゃらう。

――宇宙の存在といふ言葉を保留したやうに聞こえたが、宇宙は存在しないのかね。へっ。

――ふほっほっほっほっ。どうぞ後勝手に。これがその全ての答への言葉ぢゃて。一般相対性理論、量子色力学などなど数理学的なる宇宙解釈は、一見此の宇宙を最もよく理解させるもののやうに思はれてゐるに違ひないが、それは此の宇宙の一解釈に過ぎず、数理学を崇め奉るのは良くないぢゃらう。

――そんな事はお前に言はれなくとも重重承知してゐるつもりだがね。

――本当にさうかね。お主の頭にはまず第一に数理学的なる宇宙解釈が第一位に奉られてゐて、それを物差しとして例へば曼荼羅などの宇宙観を解釈する事を試みてゐるに違ひない。そもそもお主は此の宇宙をFractal(フラクタル)なもの、つまりは数理学的なものに照らし合はせてから、宇宙と言ふ得体の知れぬものを解釈しようと試みてゐるぢゃらう。それが底浅いのぢゃて。つまりは、お主は世界に対して緩衝体を置いて対峙してゐるようなものであって、数理学がなければ、屹立さへ出来ぬ典型的な現代人なのぢゃ。

――智慧の蓄積ではないのかね、数理学的なる宇宙像は。確かに、全人類は特に哲学者と言はれる人間は、数理学的なる隠喩を、或るひは暗喩を使ひたがるが、それは、しかし、宇宙の解釈を本当に狭めてしまひ、「想像力」若しくは「創造力」を削ぐ元凶になってしまってゐる。それは認めるが、しかし、此の広大無辺なる宇宙に取っ付く足場に数理学的なる宇宙像がなってしかるべきだと思ふがね。

――ふほっほっほっほっ。だから甘ちゃんだと言ふのぢゃよ。悟性よりも感性が先立つ筈ぢゃがね。ぶち当たって見るのがいいのぢゃ。直截に此の世界にぶち当たってみる事ぢゃて。さうしなければ、お主の宇宙は見つからぬぞ。

――それぢゃ、とっても幼稚な宇宙像にしかならぬがね。

――それでいいではないか。はじめの一歩は誰とてもそんなものぢゃて。しかし、其処から現存在は「想像力」を存分に膨らませて独自の宇宙論といふものをでっち上げるのが夢ぢゃろて。それこそが、生生しい宇宙の姿といふものぢゃて。

そのときに私が寝てゐた部屋に一陣の清清しい風が吹き抜け、私の頬を撫でていったのであった。

――さて、そろそろわしは退散する時間が来たやうぢゃのう。では、またの機会を。

夢魔はさう言って姿を消したのであった。そして、やうやっと目覚めた私は寝床からぼんやりと起き上がり、果たせる哉、夢の事などまるで覚えてをらず、夢魔はその姿を消したときに夢までも全部一緒に持ち去っていったのであった。

しかし、よくよく頭蓋内の闇たる脳と言ふ構造をした《五蘊場》を弄ってみると、その日、私は二度寝したやうで、当然の事、夢の事をなど全く覚えてをらず、しかし、何故か右手の拳が痛く、何かに寝てゐたときにぶつけたやうで、はて、一体どんな夢を見ていたのかと、《五蘊場》を弄るのであるが、とんと合点が行くものは見当たらず、唯、「宇宙」と言ふ言葉が《五蘊場》を唯駆け巡るばかりなのであった。

(完)

2023年3月23日公開

© 2023 積 緋露雪

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