ものの有様

積 緋露雪

評論

6,839文字

ものについて考えてみました。多少古いもので、時代に合っていないかも知れませんが、よろしくお願いします。

ものと言ふのは存在するだけで既に引力か斥力を発してゐて、そのいづれにも属さぬものは、ものとして認識されることはなく、あってなきが如くに意識の俎上にさへ上らぬ何ものと言ふ疑問符がつくものとして非在するものなのだ。しかし、その意識の俎上にも上らぬものの非在と言ふ存在の在り方が吾の存在に何らかの影響を与へてゐるから、存在とは一筋縄ではいかぬもので、意識上に上らぬからといって、無意識などに消えることはなく、非在と言ふ形で存在するそれらはそれらのものの存在を以てして人知れず恐れ怯えてゐるものなのである。

私はそもそも無意識と言ふ考へには否定的で、無意識などは夢幻の類ひに違ひなく、無意識は現存在の有様において論理から食み出た非論理的なる狂気を覆ひ隠すためにでっち上げざるを得なかった前時代的な唾棄されるべき産物の残滓に思へるのである。それと言ふのも無意識によって闇に葬られしものたちの呻き声を一度でも聞いてしまったならば、もう無意識などと言ふ言葉でお茶を濁すことは不可能な筈で、それでも尚、無意識と言ふ言葉を使へる輩は思考停止してゐるだけに過ぎぬといへる。

非在と言ふ形で存在するものは、いつ何時意識上に上ってきて不意に虚を衝く形で襲ってくるかも知れず、存在は、つまり、此の世の森羅万象は、絶えず存在に怯えてゐて、意識上に上る上らぬの選別を意識的に行ってはをらずとも、何時も緊張を強ひられ、亀の如く、将又、蝸牛の如くに、何かあると直ぐに頭を引っ込める準備をしながらびくびくと此の世に存在するものなのである。

さうしなければ、存在の存続は絶えず危険と隣り合はせで、例へば不慮の事故で絶命することも日常茶飯事で、つまり、いとも呆気なく死んでしまふ憂き目に遭ふ可能性に晒されてゐて、いつ何時でも死んでも何ら不思議ではないといへる。

存在を語る時、存在と言ふ言葉の周りをぐるぐると回る視野狭窄と言ふ悪癖がある私は、ちょっぴりとそれを避け、いなすようにしてみると、例へば時空間と言ふものは、普段は全く意識することはなく過ごさうと思へば、何の不自由なく過ごせてしまふのであるが、私にとっては時空間は絶えず意識せざるを得ぬもので、少しでも気を抜けば、時空間に押し潰される威圧感を感じる故に、或る種の強迫観念の如く、私にのし掛かるのである。その見苦しさといったならば、何とも此の世の時空間の中に存在することのとんでもない居心地の悪さは言ふに及ばず、そもそも私の此の世における存在に何か大いなる問題があるとしか思へぬ後ろめたさが絶えず意識され、此の時空間の中で生きることの罪悪感は、それはそれは醜いものなのである。つまり、私に限って言へば、時空間は何時も意識せざるを得ぬもので、その存在が、唯、存在するだけで私を苦しめるのである。

そんな私を囲繞する時空間にあっぷあっぷで何故か溺れてゐるやうな感覚に何時も襲はれてゐる錯覚に置かれてゐる私は、私を囲繞する時空間を或ひは呪ってゐるのかも知れぬ。

その時空間ときたら真綿で首を絞めるやうに私をきりきりと締め付ける。そんな時空間に存在するものは、端的に言って私には恐怖でしかないのだ。私を囲繞する時空間と共にそれら森羅万象は、

――へっへっへっ。

と私を嗤ひながら重たい重たい重たい十字架を私に背負はせるから始末が悪いのだ。何故に私に重たい重たい重たい十字架を背負はせるのかと言へば、それは私が此の世に存在すると言ふ一言に尽きる。私が此の世に存在するといふことは他とは同時に同じ場所には存在出来ない弧時空に投企されてゐるのであるが、それは目も当てられぬ悲惨な様相で、と言ふのも、弧時空に投企された私といふ何ものにも縋り付けぬ存在は、私の二本の足で直立をし、振り子の原理で歩くのであるが、それはGPS機能によって絶えず確認出来ることで、GPS機能で示された私の居場所には徹頭徹尾私のみがゐて、他物は其処には存在しないのだ。

確かにSmartphone(スマートフォン)などの端末のTouchpanel(タッチパネル)をTap(タップ)することで、私は現実を拡張し現実を上書きする仮想現実を以てして、私の存在を意識する。つまり、私はその能力を拡張されることで、何かこれまで現実のみに対峙してきた私は、例へばSmartphoneの画面に平面で映し出される仮想現実に、私の存在を敢へて嵌め込み、奇妙な、否、これまでになかった存在様式の仕方を強ひられる。

仮令それが3Dの仮想現実だとしても、画面は徹頭徹尾平面であることが、それがIllusion(イリュージョン)の眷属に過ぎぬことを表はしてはゐるが、しかし、3Dの仮想現実に三次元時空間を平面上で認識してしまう脳と言ふ構造をした頭蓋内の闇たる五蘊場は、今の処、その目新しさに目眩み私の存在の唯一無二なことは忘失しつつある。仮想現実は、何ものも《同じ居場所》に存在せしめることを成し遂げてしまふ現実のChaos(カオス)を齎してゐるのだ。これは世界認識のParadigm(パラダイム)変換と言へるのかと問はれれば、さうに違ひないと言へるのかもしれぬが、例へば闇の中でSmartphoneの画面が結構明るく輝くその様は、異様でもあり、また、一方でとてもありふれた現実の風景でもあり、このTouchpanelが此の世に存在するのは最早欠くべからざるものとして現実に組み込まなければ、それは現実を語ったことにはならぬであらう。つまり、携帯端末の登場により、現実は拡張され続け、仮想現実が現実を上書きすることで途轍もなく平面的な時空間が四次元と言はれるこの現実の世界を二次元の世界へと縮退させたのである。

四次元を二次元に縮退させることで、現実の拡張を成し遂げた仮想現実は、その縮退にこそ現実の拡張にその秘訣が隠されてあるに違ひなく、といふのも、縮退によって二次元の平面世界が即座に四次元の仮想立体世界へとその有様を変化させることはお手のもので、その魔術の如き次元の操作はTouchpanelといふ平面上でやってのけてしまふことで、誰もがいとも簡単に仮想現実にのめり込んでしまふのである。

それがどういふことかといふと、視覚上のことだから、いとも簡単に騙されるのである。それは敢へて言へば騙し絵に騙されてしまふ視覚能力しか持ち得ぬことを逆手にとってのことなのである。五感で世界に対峙する、つまり、私の場合は、時空間によってきりきりと締め付けられるやうな存在の居心地の悪さを絶えず感じるといふ感覚が私の存在証明の一つの要因と言へ、Touchpanelに対峙する私は、其処に現はれる仮想現実が、私以外の数多の他者が全く同じ仮想現実の世界を見てゐる、つまり、私は他者と同じ場所に存在してゐる仮想上の立ち位置が現実に上書きされるのである。それはまさに魔術の如きもので、誰しもがTouchpanelを前にするとそれがどこにゐやうが同一の場所にあたかも存在してゐるといふ非現実的なことが現実として大手をふるって歩くのである。

これは世界認識におけるParadigm変換と言える筈で、Smartphoneの画面を見てゐるといふことは同一世界を同一の位置で共有してしまふ、つまり、それは世界を情報化してしまふといふ身も蓋もない行為なのであるが、ありとあらゆるものを情報化して仮想現実にその厖大な情報を盛り込むことで、Smartphoneの画面上の世界は、世界自体の様相を一変させ、世界もまた、単なる情報として現存在は受容するのである。そして、情報化された世界と現実の世界を繋ぎ、現実の世界に対して上書きすることで、現実世界は情報として溶け出し、Chaosが出現するのである。

何故Chaosが出現するのかといふと、そもそも世界が情報としてのみ強調されてしまふと世界は、厖大な情報へと溶解をし始め、それはChaosでしかなく、しかし、それでは現実世界との接点がなくなるので、それを食い止めるために厖大な情報を呑み込める仮想現実の出現が必須であり、一度仮想現実が出現してしまへば、仮想現実は手を変え品を変えてその厖大な情報を丸呑みし、情報が多いほど、仮想現実は現実世界を上書きした時に使ひ勝手がよく、優れた仮想現実として万人に喜ばれるのである。そもそも仮想現実に情報過多といふことはあり得ず、仮想現実にどれほどの量の情報が盛り込めるかを競ひながら、仮想現実も数多ある中から現存在は取捨選択してゐるのが現状で、万人が必要に応じて膨大な量の情報の中からその都度適量の情報を取り出して仮想現実と付き合ってゐるのである。適量の情報量を確保するにはそれはそれは厖大な情報量が仮想現実に盛り込まれてゐなければならず、Big(ビッグ) data(データ)を持ち出すまでもなく、仮想現実は誰もがAccess(アクセス)するもので、仮想現実は貪婪な怪物の如く厖大な情報を時時刻刻と呑み込み更新しながら、仮想現実と現実世界を共に上書きしてゐるのである。

そのやうに時時刻刻と最新の情報で上書きされる仮想現実と現実世界の相関関係は、断然、仮想現実が現実世界に対して優位を保持してゐて、世界は既に仮想現実に一見すると従属してゐるやうに見えるのである。厖大な情報を時時刻刻と丸呑みする仮想現実は、個人が世界を情報へと翻訳したものを丸呑みするばかりでなく、不特定多数が世界を情報として翻訳したその厖大な情報を丸呑みし、共有することで利便性は飛躍的に上がるのは当然のことであり、情報を共有することで、弧存在たる吾は、これまでそれら己の知り得ることはある程度限られてゐて、これまでは例へば印刷物などで情報を得、そのやうな時代では情報を持ち歩くことが出来ない故に、現存在の記憶力がものを言ふ時代であったのであるが、携帯端末を手にした現存在は、極論を言へば、記憶力が途轍もなく劣ってゐても全て仮想現実にAccess出来れば情報は五万と得られ、その厖大な情報を取捨選択して己の欲する情報のみに辿り着ければ、それでよく、また、試されるのはその情報の真贋を見極める能力なのである。尤も、仮想現実よりも現実世界の方が翻訳出来ずにある情報は厖大にあり、現実世界に比べれば仮想現実は現存在が世界で必要な情報に翻訳できたものを切り取ったものに過ぎぬのであるが、それ故に仮想現実が咀嚼せずに丸呑みする情報は全て正しいと言ふことはなく、むしろ現存在を欺く情報に満ち満ちてゐると言っても過言ではないのである。

それでは情報の真贋を見極める能力はどのやうにして身に付ければ良いのか、これが大問題なのである。仮想現実では、現存在は服を着るやうに情報を纏ひ、その中には悪意に満ちた現存在は必ずゐる筈で、情報は凶器になり、厖大な情報が、情報に対して無防備な弧存在たる現存在は、厖大な情報の洪水に丸呑みにされて、情報に溺れることになるのである。さうならないためには、現存在は、情報に対して仮想ではなく、現実において大いなる実害がある武器と同様のものとして扱はなければならないのが実情で、情報を丸呑みする仮想現実は、これは言わずもがなであるが、現実世界と必ずずれが生じてゐて、善意も悪意も丸ごと丸呑みするために、時時刻刻と更新、上書きされる仮想現実には、一歩踏み間違へればそれは凶器となる地雷の如くに仮想現実に彼方此方に埋め込まれてあるのである。

かうなると現存在は、現実世界との間に仮想現実に距離を開けて、決して上書きする愚は行はなくなり、厖大な情報を腑分け出来る術を見出す道を探り、その結果がAI、つまり、人工知能の登場を渇仰するのである。つまり、仮想現実の厖大な情報を個人の能力では取捨選択する能力は持ち得ず、人工知能の助けを借りて現存在に必要な情報を予め人工知能に取捨選択して貰はないと、既に仮想現実の情報量は呆然とするほどに厖大なのである。

そこで世界を情報化することは、果たして可能なのかといふ疑問が湧いてくるのである。現に情報化されてゐるのだがら可能と肯ふべき筈なのだが、しかし、重要なのは情報化出来ずに世界内に存在する《もの》の有様なのではないだらうか。《もの》が情報化されるのはその位置情報と簡単な何のためにあるのかといふことと現存在による印象の堆積でしかなく、《もの》そのものは決して言葉で語り果せぬ存在である。つまり、仮想現実に入力されてゐる厖大な情報は《もの》の上っ面の情報でしかなく、《もの》そのものを問ふた本来であれば、世界が成り立たせてゐるその本源の情報は仮想現実には皆無と言っていいかもしれぬ。誰の胸にも去来するであらう「私は何《もの》?」といふ問ひを発する以上、それは「世界とは一体何なのか?」といふ問ひを含有してゐるのである。それは、つまり、《もの》とは何なのかといふことに収斂するもので、《もの》を問ふた先達は数多ゐて、有名処ではプラトンのイデア論からカントの「物自体」、ハイデガーの例へば「道具存在」等等挙げれば、切りがないが、《もの》を問ふことは、即ち、己を問ふことなのである。

それでは仮想現実、厖大な情報で溢れてゐる仮想現実に「吾」は吾として存在してゐるのかといへば、決してそんなことはなく、唯単に、「吾」は仮想現実の情報を媒介にしてAccessしてゐるだけで、本音を言へば、「吾」は、仮想現実なんてちっとも信じてをらず、現実が穴凹だらけなのを、携帯端末が現実に開いた穴を塞ぐことで、目を奪はれるのであるが、それはTelevision(テレビ)でも同じことで、「吾」は絶えず現実世界に開いてゐる穴凹に興味津津なのである。そして、穴凹が開いてゐない仮想現実に、つまり、何処も情報で埋め尽くされた仮想現実を現実世界に開いてゐる数多の穴凹にあてがふには打って付けなのである。それは情報が厖大ならば厖大なほどよく、仮想現実を眺めてゐることで、現実からTrip(トリップ)出来るかのやうな幻想を齎す仮想現実は、極論すれば麻薬と同質の《もの》なのである。

そのやうに依存性がある情報は何処まで行かうが《もの》の偶有性を経巡るのみで《もの》の本質へは届かぬのであるが、つまり、仮想現実は《もの》の偶有性のみで成り立ってゐるのであって、其処に《もの》の本質を探すのは本末転倒なのである。ところが、現実問題として《もの》の偶有性ばかりが肥大化する事で、《もの》の本質に漸近的に近付いてゐるのではないかと錯覚する誤謬が罷り通る事態に面食らふどころか、それを全く信じて疑はないのである。その要因が何処にあるのかと言へば、《もの》の偶有性のみで現実に全く困らないからである。しかし、一度、災害が起きると仮想現実は仮想でしかない事を嫌といふ程に思ひ知らされるのである。現実の激変により世界に対する盲目ぶりを突き付けられた現存在は、其処で初めて仮想現実は現実世界と如何にずれてゐるのかを身に染みて感じるのである。

其処で、《もの》が世界の森羅万象が粒立ち各各自律して存在してゐる事に気付く筈なのであるが、しかし、実際はさうはならず、目の前の現実が巧く呑み込めない現存在は、情報を得ようと、Smartphoneに齧り付くのである。

――へっ、此処でも情報!

さう、災害時こそ情報が何よりも重要なのだ。しかし、情報を頼りに現存在は災害に巻き込まれぬやうにと暴力的な自然の脅威から遁れるべく、只管、情報を得ようと躍起になるのである。その時、得られる情報は現存在の生死を分ける重要なもので、現存在が置かれてゐる事態を把握するには、現存在の五感と本能では、最早、不可能な生き物として、仮想現実にどっぷりと浸かった現存在には、全く己の五感と本能を信じられず、否、信じられないのではなく、唯唯不安でしかなく、その不安は情報といふ偶有性の《もの》を必死に得る事で即効的に解消せずにはゐられぬである。

剥き出しの《もの》に対する接し方を、最早、忘却してしまった現存在は、いつ何時も「情報」なくしては、己の生を決する事すら出来ぬ羸弱な存在として進化する事を已めてしまった存在なのである。ここで、

――情報があった方が生き残る確率がかなり高まるではないか!

と、半畳が入ると思ふが、東日本大震災前、鼠が我が家に潜り込んで来て、何だと思ってゐたならば、あの強烈な大震災である。幸ひにも我が家は潰れることはなかったが、鼠はそれを知ってゐたと思へる。つまり、人間よりも鼠の方が危険を確かに察知してゐたである。皮肉な事に仮想現実が現実世界を上書きしてしまふ日常に慣れ親しめば慣れ親しむ程に現存在は、生物としての生命力は、弱くなるばかりで、近い将来人類は衰滅するのは定めに違ひない。例へば大地震に見舞はれた時、独りで生き残る術を見出せない現存在は、動物としては最早失格なのである。

2023年3月28日公開

© 2023 積 緋露雪

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