「もう少し涼しくしてくれませんか?」後部座席からヨシイさんは言った。
「わかった」僕はカーエアコンの温度を二度下げた。
仕事の待ち合わせ場所に向かっていた。フロントガラスから、秋めいたうろこ雲が見えた。短い夏が今年も通り過ぎてゆく。
僕は額の汗をサックスブルーのハンカチで手早くぬぐい、バックミラー越しに後部座席の様子を伺った。ヨシイさんは、濃紺の生地に小さな赤い花柄が敷き詰められたブラウスを着ている。
カーオーディオから、ポリスの『見つめていたい』が流れた。おまえの動きのすべて、おまえの歩みのすべてを、俺は見ているぞ。そんな風にスティングが歌っていた。
くたびれた黒い日産・ウイングロードを北に走らせ、ドン・キホーテの駐車場でヨシイさんを降ろした。ヨシイさんはいつも通り、縄からするりと抜け出すように後部座席から出ていった。
待ち合わせ場所のコンビニエンスストアに先回りした。店内に向かって一番右側のはしに日産・ウイングロードを停めた。ほどなくしてヨシイさんがやって来た。店内に向かって左側のすみに、ひそやかに直立した。
その直後だった。低いエンジン音を唸らせて、黒いフォード・マスタングがコンビニエンスストアの敷地に入ってきた。フォード・マスタングは、僕が乗る日産・ウイングロードの右横を通り抜けて、店内からは見えない側面の駐車スペースでその動きを停止した。
僕はヨシイさんを見てから、横目でフォード・マスタングを見た。ドアが開き、身長一九〇センチメートルを超えるであろう大男が出てきた。
男の顔は堀が深く、まぶたが厚かった。唇は虫に刺されたように腫れあがっていて、その周りは髭でおおわれていた。黒髪を後ろで結わえていて、側頭部が鋭く刈り上げられている。マンバンというヘアースタイルだ。男の肌は焼きすぎたトーストのように日に焼けていて、首元でゴールドの大ぶりなチェーンネックレスが存在感を主張していた。
男の全身を眺めた。イエローのグラフィックTシャツに、リラックス感があるワークパンツを合わせている。足元ではスカイブルーが鮮やかなナイキ・エアジョーダン1が輝いていた。
男の風貌は西海岸のギャングのようだった。拳銃がとても似合いそうだ。両手で二丁持つのがいいかもしれない。男はスヌープ・ドッグのように見えた。
男がウイングロードの横を通った。一瞬だけ視線が交差した。丸鋸が火花を散らしたように感じ、僕は目を瞬いた。
男はゆっくりと、大股でヨシイさんに近づいた。客のようだ。ヨシイさんは男に気がついたそぶりを見せた。瞬間、日差しをよけるように手をかざして太陽をさえぎると、身体の向きを反転させた。ヨシイさんの表情が見えなくなった。
男はヨシイさんと話しているようだった。ひょうきんな表情で、親しみを感じさせた。やはりスヌープ・ドッグのような男だと思った。
男とヨシイさんは並んでホテルの方面に歩き出した。その場に残された抜け殻のフォード・マスタングが、巨大な黒い棺のように沈黙していた。
その帰り道、ヨシイさんはめずらしく饒舌だった。
「千葉県の松戸市で暮らしていたときと比べて、名古屋の叔母に引き取られてからの生活は良いものでした」後部座席の窓に映る街並みを見ながらヨシイさんは言った。「母と暮らしていたときは、家に入り浸っていた男に暴力を振るわれました。乱暴のようなこともされました。母はただそれを眺めていました。終わりがみえない、地獄のような日々でした」
黙ってヨシイさんの話を聴きながら、前の車との車間距離に注意を払った。前の車はワックスで良く磨き上げられた黒いトヨタ・ヴェルファイアだった。
「名古屋の叔母に引き取られてから、わたしは身体を売るようになりました。中学生になったころから、叔母が女子大小路で営んでいたスナックにやって来る客を相手に」ヨシイさんがパワーウィンドウを開ける音が響いた。「そうすることで、わたしは誰かに必要とされていることを実感したかったのかもしれません」
ヨシイさんの話は唐突にそこで終わった。日産・ウイングロードが道路を滑る音だけがその場に残された。
仕事が軌道に乗ったことから、僕は引っ越しをした。新しいマンションは一緒に仕事をするメンバーの待機場所にもなっていた。
新しいマンションも築四十年以上の歳月が経過していて、過ぎ去った時の流れを感じさせる趣があった。入居している住民の間では一切の交流がなく、僕の部屋のほかにも明らかに不特定多数の人間が出入りしている部屋や、外国人が集団で生活している部屋があった。怪しい人々のスーパーマーケットのようなマンションだ。
マンションは遮音性が高い鉄筋コンクリート造で、エントランスやエレベーターにも一切の監視カメラがなく、じつに理想的な隠れ蓑のようなマンションだった。
念のため部屋のドアの外に火災報知器型の隠しカメラを設置し、我々のチームは注意深く、スムーズに日々の仕事をこなした。人員は流動的ではあるものの、常時八名前後のメンバーを抱える規模になった。
その中核を、ヨシイさんとアリマさんが担っていた。彼女らの下に、さらに三名ほどのメンバーを配置した。配下のメンバーには売上の四割を渡し、二人には配下のメンバーの売上から二割を渡した。僕の取り分は四割とした。
ヨシイさんとアリマさんには、メンバーの素行管理を主に任せた。タバコを持ち歩かせないこと、外で飲酒をさせないこと、条例に引っかかる時間には外を出歩かせないことなどを徹底させた。警察に補導でもされたら、たまったものではない。
あわせてメンバーのメンタルケアも任せた。この仕事は、誰にでもできる仕事ではなかった。ときには心身ともに負担が大きい行為を要求され、物のように扱われることもあった。そんな環境で生き抜くために、無条件に共感を示してくれたり、黙って話を聴いてくれる存在をメンバーは求めていた。ヨシイさんとアリマさんは、メンバーが羽根を休める、止まり木のような役割を果たした。
リクルーティングも好調で、メンバーを介して良質な候補者を切れ目なく獲得することができた。対応面のキャパシティを考慮して、採用を断念することが増えてきたくらいだった。
僕は一日で五件前後の現場を回った。送迎の合間と、現場が終わった夜に仕事を受注し続けるせわしない日々が続いた。なかなか充実した日々だった。毎月手元に一五〇万円前後が残るようになった。
日産・ウイングロードの後部座席にアリマさんを乗せて、南西に走っていた。仕事を終えた帰り道だった。時刻は夕刻に差しかかろうとしていた。強い西日が目に突き刺さった。深緑のレンズのレイバン・クラブマスターをかけて西日をしのいだ。
マンションから少し離れた場所でアリマさんを降ろし、日産・ウイングロードを立体駐車場に入れてから部屋に戻った。部屋にはアリマさんのほかに誰もいなかった。
目が覚めるようなターコイズブルーのカレッジTシャツをアリマさんは着ていた。その裾を、淡いブルーに色落ちしたデニムスカートにざっくりとしまい込んでいる。
我々はダイニングのテーブルに、向かい合わせで座った。どこかいけ好かない、こじゃれた近所のカフェでテイクアウトしたサンドウィッチを食べた。僕はスモークサーモンとビーンズのサンドウィッチを食べ、アリマさんはローストビーフのサンドウィッチを丁寧に食べた。
食後に熱い紅茶を淹れた。次の仕事まではおおよそ一時間ほどの時間があった。アリマさんはこのあと仕事がなかった。時間があったので、ぽつりぽつりと話をした。
「この仕事を始めて、こういったことが良いことなのか、それとも悪いことなのかはみえてきたかな?」
「まだわからない」デザートの洋梨とジャスミンのタルトにアリマさんはフォークを入れた。「もしかしたら、良い悪いでははかれないことなのかも」
「そうかもしれない」心からそう思った。
アリマさんはとても愛おしそうにタルトを食べた。食べ終えると口を開いた。
「あたしの左手の人差し指について、なんでなくなっちゃったか話したことあったっけ?」
「ないと思う」
「あたしが小学生になる前のことだったんだけど、お母さんは気づかなかったの。あたしがドライアイスで遊んでいることに」
「目が届かないところにいたのかな?」
「ううん。お母さんはあたしの目の前にいたの。でも、気がつかなかったの」アリマさんは紅茶を一口飲んだ。「視界に入っていても、認識できなかったんだと思う。目の前で起こっていることが」
「どうしてだろう?」
「今になって思えばだけど、お母さんはひどく疲れていたの。身体を売って生きることに」
僕は紅茶を一口飲んで、話の続きを待った。
「身も心も削られていたのだと思う。今ならわかる。精神的に落ちると、お母さんは認知能力が低下するようになっちゃったの。その結果、あたしの左手の人差し指は壊死しちゃったってわけ」
赤く染まった夕日がレースのカーテンを突き抜け、部屋の中に漏れ入っていた。
「それまでずっと、お母さんとあたしは身を寄せ合って、息を殺すように生きてきたの。でもその出来事をきっかけに、お母さんがあたしを育てることはできない、そう判断されてしまったの。それで、あたしは児童養護施設に入ることになったの」
それから僕たちは二人で一緒に、冷めた紅茶を無言で飲んだ。飲み終えると、アリマさんは静かに部屋を出て行った。
一日の仕事を終えて、奥の部屋のソファに腰をかけて一息ついた。ハイネケンを飲んだ。
アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズが演奏する『チュニジアの夜』をオーディオから流した。地下のダイニングバーでヨシイさんと話してから、僕は今でも定期的に『チュニジアの夜』を聴いていた。
そのとき、ドアチャイムの音が響いた。僕はドアスコープを覗き込んだ。ヨシイさんが映っていた。忘れ物でもしたのだろうか? と思ったが、二十二時を回ろうとしている時刻を考えると不審に思えた。
ドアの外に設置している監視カメラの映像を念のため確認することにした。モニターには、ヨシイさん以外なにも映っていなかった。
僕はチェーンロックを外し、施錠を解除してドアを開けた。ヨシイさんを部屋に入れてドアを閉めようとした瞬間、俊敏ななにかが勢いよくこちらに走り込んでくるのを感じた。バスケットボールシューズ特有のスキール音を耳が捉えた。
反射的に、力いっぱい叩きつけるようにしてドアを閉めた。突っ込んできたなにかのスニーカーの片方がドアに挟まった。スカイブルーが鮮やかな、ナイキ・エアジョーダン1だった。
奥の部屋から、『チュニジアの夜』がかすかに聴こえた。背筋に冷たいものが走った。
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