顔剃り

松尾模糊

小説

3,396文字

「死化粧」から改題しました。父と子の話。

外では激しい雨が降っていた。窓のガラスを打ちつける音がぱらんぱらんぱらんと響く中、《バーバー髭男爵》のドアを引くひとりの紳士。頭にのった黒い山高帽を芋虫のようにむっくりとした右手の指先でつかみ取って、地肌の露わになった頭頂部をこくりと下げた。コートスタンドに帽子を乗せてから、肩を濡らす雨滴を払い落とし藍色のレインコートを脱いで掛けた。店主はいらっしゃい、と紳士の背後に回り灰色のダブルジャケットを肩に手をかけながら脱がせた。ほのかな葉巻のにおいがジャケットから漂った。スラックスに押し込まれた白いシャツの腹回りはぱつんぱつんに張っていて、その上を黒地でカーフレザーがあしらわれたサスペンダーが抑え込んでいた。店内の中央に並ぶ二台の黒い皮張りのリクライニングチェア。店主は奥側のフットペダルに右足をかけながら半回転させてどうぞ、と紳士を案内した。濡れたストレートチップの黒い革靴とスラックスの間から紺色地で水色の水玉模様が縫い込まれた靴下を覗かせた両足を足置きの上にのせて背もたれに身体を預ける紳士に、店主は肉厚な首の後ろから両腕を回して白いビニールのカットクロスを被せた。眼前の白い壁面に取り付けられた大鏡に映る、カットクロスから亀のようにひょっこりと頭を出した紳士の目線に向かって今日はいかがいたしましょう? と笑顔を向けた。耳回りと襟足を整えてもらいたい、と彼は言った。
「……それから髭のほうもお願いしたい」

髭……紳士は黒く豊かな口髭を蓄えていた。店主は二重になった顎や、もみあげの辺りもうっすらと青くなっている様子を鏡へ向けた視線で確認した。かしこまりました、と頷いて微笑む。霧吹きを手に取り、側頭部から襟足にかけて噴射してから濡れた髪に櫛を通しつつ銀色に鈍く光る鋤鋏を入れた。かしゃかしゃかしゃという音がこだまし、濡れて束になった黒髪がカットクロスの上をすべり落ちてリノリウムの床にぼとぼとぼとと横たわる。染みついた葉巻の匂いが濡れた髪から漂っていた。
「死んだ細胞」はい? 突然の紳士によるつぶやきに店主は手を止めて顔を上げた。毛って、死んだ細胞なんですよね? 質問された店主はとまどった。そうだったような気がした。死んだ細胞が積み重なり続けて毛は伸びる、なんだか皮肉ですね。紳士はとまどう店主の顔が映る鏡面に向かって頷いた。毛が伸びなくなったら商売あがったりですからね、店主の言葉に紳士はあははは! と笑った。店主は安堵して、後頭部の髪に櫛を入れてカットに戻った。伸び続ける死んだ細胞。神は生けるものと死せるものとを混ぜ合わせたのか。混沌、カオス。店主はバックミラーを手に取って、紳士の後頭部と側頭部が見えるように傾けた。これでよろしいでしょうか? 鏡に視線を向ける紳士に尋ねた。はい、大丈夫です、紳士は頷いた。大鏡に映った、店主の持つバックミラーの中の紳士が首を振ったように見えた。気のせい。店主はバックミラーを足元の用具入れに戻して、リクライニングチェアを倒して紳士の顔の上にかたく絞った布巾をさっと置いた。回転させて鏡の下に備え付けられた流しからシャワーヘッドを手に取って水栓をひねった。温度の塩梅を確かめてから紳士の頭髪を流し始めた。店主の右手の甲を覆うケロイドが少し疼いた。熱くないですか? と尋ねると、紳士は布巾の下から大丈夫、と答えた。シャンプーを手に取り、紳士の後頭部に両手を回して泡立てながら側頭部の方へ十本の指を這わせ洗髪した。噴き出る温水が陶器の流しに当たる音が店内を満たしていった。振動によってか、布巾が左へずれて紳士の右目と店主の視線がぶつかった。茶色を帯びた虹彩の中でパッと黒い瞳孔が収縮した。それは、膨張を続ける宇宙空間の中で爆発し輝く無数の恒星が繰り返しては消える儚き一瞬を思わせた。失礼しました、店主は彼自身の中で花開きそうな何かに蓋を閉じるように布巾を元の位置に戻した。ビッグバン。無の起源。爆発。エクスプロージョン。店主はシャワーを止めてからリクライニングチェアを元に戻して、紳士に熱いおしぼりを開いて両手でぽんぽんと冷ましながら手渡した。彼はずんぐりとした十本の指でおしぼりを顔に押し当てて息を吐き出した。生命の息吹。葉巻のにおいが漂った。ドライヤーで紳士の髪を乾かした後、店主はリクライニングチェアを再び倒した。マグでシェービングクリームを泡立てて、ブラシの毛先につけたそれを紳士の顎からもみあげ、頬の上にまんべんなく押し広げていった。口髭も落としますか? 店主の質問に紳士は沈黙した。整えるだけにしましょうか? 店主は察した。
「いえ……剃ってください」

紳士は幾分か緊張した面持ちだった。承知しました、店主は口髭の上にもたっぷりとクリームをのせていった。そして、右手に剃刀を持って紳士の肉厚な顎の下に左手を添えた。たぷん。脂肪。顎からもみあげにかけて剃刀の刃をじょりじょりとあてていった。剃られた髭はクリームと共に剃刀の刃の上から店主の膝の上にのせた濡れた布巾の上にこそぎ落とされていった。店主は口髭に剃刀をあてる前に、クリームをもう一度ブラシの毛先に盛って塗りなおした。泡はしゅわしゅわと紳士の口髭の合間に浸みこんでいった。
「髭男爵」え? 紳士がまたいきなりつぶやいたので、店主はびっくりして右手に持っていた剃刀を咄嗟に持ち上げた。おたくの店名。バーバー髭男爵ですよね。ああ。いや、父が名付けたんです。店主は父の口元で誇らしげに生える黒々としたそれを思い出した。肩まで伸ばした自由の象徴を鋏で切り刻まれ、散切り頭になった翌日、家を出た若者は東海岸で人気スタイリストになった。それでも流行の波を乗りこなすことは彼にできなかった。病床で再会した父にあの髭は無かった。白く生気を失った無精ひげが僅かに顔を覗かせていた。口髭って男性の象徴だと思うんです。髭女帝にはなりませんからね。髭は男性性の化身であり、上位概念なんです。髭がなくなったら、私を髭の男と認識していたすべての人間たちが私の存在を忘れてしまうでしょう、紳士はクリームの泡立った口髭を上下させて語った。概念としての髭。髭の権化。止めときます? 口髭剃るの……店主は剃刀を作業台に戻した。
「……いえ、あなたに剃ってもらえるなら本望です。そのために今日は来たんです」

紳士はそう言って瞼を閉じた。店主は首を傾げながら、剃刀を手に取った。紳士の鼻下にゆっくりと剃刀をあてて、クリームで柔らかくなった口髭の根元から丁寧に剃っていった。店主は口髭を半分剃ったあたりで、紳士の変化に気づいた。サスペンダーで押さえつけられていた腹部がへこんで、二重になっていた顎もほっそりと尖っていた。店主は剃刀を置き、瞼の上をこすった。幻視ではなかった。疲れているのかもしれない、と思いながら頭を振って気を取り直した。剃刀で唇の上に残った半分の髭をじょりじょりと剃った。紳士の鼻の下、人中が露わになるとそこから光があふれた。店主は眩しくて右肘で顔を覆った。福音。光あれ。病床の父は店を継いでくれ、とは最期まで言わなかった。死化粧。父が泣く姿を見たのは、母が亡くなったその時が最初で最後だった。それも後ろ姿で、肩が震えていることから幼かった店主が想像したものだったのかもしれない。父は丁寧に母の産毛を剃って、顔面の上でパフを細かく震わせながら移動させた。櫛で母の長く美しい、彼女が誇らしげに風になびかせていた金色の髪を愛おしげに捌きながらその額に口づけした。後にも先にも父が見せた優しい仕草はその時だけだ。店主が鏡の方にやった視線を戻したとき、リクライニングチェアにあった紳士の姿はどこにもなく、シャツとサスペンダーとスラックス、濡れた革靴と水玉模様の靴下、それから店主の膝上にのる布巾に残った髭の残骸だけがあった。店主は再び鏡を見た。病床で見た弱々しい父の姿がリクライニングチェアの上で半透明に映り消えた。店の外に視線をやると雨は上がっていた。洋服立てにかかった山高帽とレインコートから父がふかしていた葉巻の残り香が漂った気がした。店の扉を開けて外に出ると、向かいの煉瓦造りの古いビルの上、雲間から陽が差していた。店主は大きく伸びをして息を吐いた。雀がさえずって空を飛んだ。雀たちに目を向けると、大きな虹がその向こうに架かっていた。

2023年3月14日公開

© 2023 松尾模糊

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