さきのばし

合評会2023年01月応募作品、合評会優勝作品

曾根崎十三

小説

4,288文字

合評会「アボカド」応募作品。アボカドって多少黒くなっても食べて良いらしいですよ。

つい面倒くさくて。痛いのも嫌だし。怖いのも嫌だし。つい後回しにしてしまっている。

会社からインフルエンザの予防接種を受けるように言われたけれど、やろうやろうと思っているうちにもう手当が出る期日が終わってしまった。何だってまあ、そんなことばかりだ。「もっと早くすべきだったのだ」とほのかな後悔を覚える。毎日、そんなことの繰り返しだ。お風呂に入るのも面倒くさいなぁと思っているうちにいつのまにか眠ってしまい、朝になってから慌てて入り、出勤する。そもそもインフルエンザの予防接種もお風呂もやりたいものではない。やらないといけないで仕方なく。でも、やることさえできれば「やはり、これはすべきことだったのだ」と実感する。問題は腰が重すぎてなかなか実行に至らないことだ。

冷蔵庫の中にアボカドがある。最近めきめきと値段を上げてとうとう200円を超えていたのに、それは珍しくセールで100円だった。これは安い。アボカドなんていつぶりだろう。小学生の頃は実家でよく刺身醤油とわさびで食べていた、という話を上司に話したら「何その文化。新しい流行り? ヤバいよ、それ」と明らかに不快そうに引かれた。小学生の頃と言っただろうに。クックパッドでも載っているし、さほどキワモノ的な食べ方ではないとは思うが私が属している文化圏においては恐らく異質なのだろう。じゃあどうやって食べるのかと訊くとサラダにのせたりして食べるらしい。それこそ最近急に出てきた食べ方の気がするが、上司曰く昔からそうだという。

グレープフルーツは半分に切って砂糖をかけてギザギザのスプーンで食べるという話をした時も同い年の子に「私それおばあちゃんの家で食べたころあるよ。佐々木さんって年の割におばあちゃんっぽいよね」と言われた。おばあちゃん。たしかに私はもうおばあちゃんのかもしれない。年齢的には後期高齢者でも何でもないのだが、実際蓋を開けてみれば老後って感じがする。結婚する予定もなければ子供も産む予定もないし、年金をもらうまでとりあえず働いて食いつないでいるだけ、みたいな。グレープフルーツに限らず、ものの食べ方で言うと、私は大抵の物は混ぜて食べるのだが、これはよろしくないらしい。おばあちゃんとかそういう次元じゃない。納豆ご飯もカレーライスも海鮮丼もパスタもドリアも混ぜる。その方が美味しいので。親からもみっともないと言われて育ってきた覚えがあるし、未だに実家へ帰った時も、ついやってしまい、親の顔に泥を塗るなとか、よそでやって恥をさらすなとか何とかと怒られる。誰に似たのだろう。私の食べ方が間違いというのなら、一体どこで学んだのだろう。恐らく何となくやってみて、ただ「美味い!」と思ったのかもしれない。多分そういう系だと思う。きっと。良く言えば、自ら新しい扉を開いたのだ。しかしまぁ、食べ物を混ぜるというのはなかなかの重罪らしい。見る度に親からネチネチ言われるし、テレビで「許せない行儀の悪さ」で栄えあるランキング1位を獲得していたし、ネット検索しても料理を混ぜる行為への罵詈雑言が出るわ出るわ。どうやら、料理を作る過程以外で、つまり出された料理を混ぜるのはタブーらしい。なぜなのか。理由を調べても「汚い」「行儀が悪い」といった漠然としたものしか出てこない。汚いと言ったって不衛生なわけじゃあるまい。ネット上の声を見ていると、料理をぶちこわしにする不可解な行動、やら、混ぜる奴はパーテーションで隔離してほしい、とか、店員から注意して出禁にしてほしい、とか、そんな奴が近くにいたら吐き気がして食べずに店出る、とか、友人として距離置く、百年の恋も冷める、等、さんざんな言われようだ。そこまで迫害されるべき重罪らしい。ところがだ。反対に、食べ物を混ぜる側の意見を見ていると、不快に思われる方もいるので家で食べる時だけこっそりそうしてます、という意見が目立つ。人の文化を嗤う人よりも嗤われて狭い肩身で生きている人の方がよほど優しいように思った。優しいところで別に何も良いことはないけど。なんか、救いがあるような気がした。そして、私は優しくない。気を遣って混ぜるのを辞めたりはしないから。気を遣って、じゃあアボカドはサラダにします、ともならないし、カレーライスは分けて食べます、ともならない。優しい世界で私は不快をまき散らし優しくなく生きている。

ちなみに、例外的に「混ぜて食べる前提で作られた料理」というのもあるが、それを混ぜない行為は迫害されない。ビビンバやまぜそばや、納豆を混ぜるのが汚らしくてどうしてもできない、という意見には掲示板でも知恵袋でもTwitterでも「人それぞれだよ!」という励ましのコメントがたくさんついていた。私からすれば、まぜそばを混ぜない方が不可解で料理をぶちこわしにしていると思う。とはいえ「つまみ出して欲しい」とは思わない。直面しても「損してるなぁ」と思いつつぼんやり眺めるだけだろう。私にも優しい世界の住人なりのわずかな優しさがあるようだ。それにしても、なぜそこまで全体的な反応が百八十度が変わるのか。反応している人が同じ人ではないにしてもあまりに量が違う。混ぜる人の話に「人それぞれだよ!」と書いている人もいないわけではないが5%以下である。数えてないけど体感それくらいだ。いや、「混ぜる=汚い」という社会通念が恐らくあるのだろう。完成した料理を混ぜるのは禁忌。混ぜるべきとされている料理を除いて、いけないことなのである。そこからはまるでブレていないので私は覚えている違和感というのは世間とズレているから生じているものだ。

アボカドもきっと同じなのだろう。今日こそは帰ったらアボカドを食べないと。もちろん、刺身醤油とわさびで食べる。どうせ誰も見ないのだから、誰の気も害することはない。まぁ、きっと仮に公衆の場でアボカドを調理して食べなければいけない状況になっても私は不快をまき散らして刺身醤油で食べるだろうけど。

帰宅し、リビングの灯りをつける。床や机に物が散らかったままだ。つい後回しにしてしまう。

わさびが切れていなかったか不安で、帰りにコンビニで買ってきたが、既に予備が二つあった。また賞味期限を切らせてしまう。冷蔵庫のアボカドを手に取った、思えばその時点で薄々嫌な予感はしていた。まな板の上で、包丁の刃をぐるりと一周させようとしたら、ぐにゃり、と崩れた。まさか、と断面を見るとずぶずぶの真っ黒になっている。少しくらい黒い程度なら食べられるらしいが、ちゃんと切られないほどにもろもろと崩れていく。あーあ、手遅れだった。手にやわやわになって崩れたアボカドが付着する。外から見たらまだ大丈夫そうだったのに、すっかり駄目になっていた。毎日冷蔵庫を開けて見る度に、ああ食べないと食べないとと思い続けていて、今日やっとようやく実行できた。もっと早くすれば「やはり、これはすべきことだったのだ」と満足にアボカドにありつけていただろう。アボカドいつ買ったんだっけ? もう覚えてない。完全に冷蔵庫の中の風景として馴染んでいた。昨日一昨日の話ではない。先週? そんなやわなものではない。一か月は経っているかもしれない。何なら買った頃よりも気温がちょっと変わっている気がする。季節が移り替わるレベルの時を経ているのだからそりゃあ駄目にもなる。買ってきてめちゃくちゃダブっているわさびの出番もなかった。そもそも肝心の刺身醤油ってあったっけ。冷蔵庫の奥深くにあったような気がする。

あ、そうだった。私、死ななくちゃ。

アボカドついでにふと思い出した。やらないとなー、とはずっと思っているので、思い出したというのは語弊があるかもしれない。私もアボカドと同じでもう手遅れだろうか。パッと見普通の人間に見えても中身は完全に駄目になっている可能性もある。

死ななくちゃ、とはずっと思っていた。かれこれ十数年以上は思っているだろう。でも、面倒くさいし、痛そうだし、怖いし、そのうち、と思ってあやふやにしている。死なないといけないとは分かっている。薬を貯めるだけ貯めても飲んでいないし、首を吊るための縄を買うだけ買って何もしていない。混ぜるな危険とガムテープを買ってきても、それだけで満足している。さきのばしさきのばしでずっと生きている。この前、いや、この前と言ってももう何年か前なのだが、その時も首を吊る時に頭を通す輪っかの結び方をググって、とりあえず作るところまでやって、なんか面倒くさくなって放置していた。中学の頃も、ドアノブにひっかけた紐に首を通して引っ張ってみたけど、思いの外痛いし苦しいしで面倒になった。自殺を後回しにして人生先延ばし。

これもいざやってしまえば「やはり、これはすべきことだったのだ」と思うのだろうか。それとも「もっと早くすべきだった」と思うだろうか。痛いのも嫌だし。怖いのも嫌だし。勇気だってない。あらゆる面で私がいない方が良いのは分かっている。いつも、どの文化圏にいても「違う文化圏の人」に結局はなってしまう。料理を混ぜて食べる時以外は「今すぐ消えてほしい」と他人から願われることもないだろうが、いる方が良いか、いない方が良いかで言うと、いない方が良い。費用対効果がよくない。同じ条件下、同じようなスペックの人が私と同じ事をした時、私は大抵下回る成果となる。私は明確にそのことに気付いているし、改善するつもりもない。というか、頑張ったことはあるけれど、人一倍頑張ってようやく人並みなので、コストパフォーマンスが悪い。死ぬのが良いという結論は前々から出ていて、自殺した方が良い、とは思いつつ、ついつい先延ばしにしてしまうのだ。食べすぎちゃったから、運動した方が良い、とかそんな感じ。それと一緒。でも、だらだらして結局できない。

そのうち夏休みの宿題みたいに無理やりやらされたりするのだろうか。それとも誰か「早くしなさい」と叱ってくれたらできなくもないような気もする。その期待は薄いだろう。大人になると叱ってくれる人はどんどんいなくなる。こうして傲慢なトンチキ老人が爆誕するんだろうなーと他人事みたいに思うけれど、このままダラダラしていたら、私もまたきっとそうなってしまうのだろう。やだやだ。あー、面倒くさい。やるためには気合とか思いきりが必要だ。でも、私は今日アボカドを食べるぞ!という思いきりを持つことができたけれど、その思いきりは今の所活用できていないし、とりあえずこのままノリでいけるかもしれない。

いい加減やらないとな。

2023年1月22日公開

© 2023 曾根崎十三

これはの応募作品です。
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"さきのばし"へのコメント 13

  • 投稿者 | 2023-01-24 20:11

    「あ、そうだった。私、死ななくちゃ」で新しい風景がパッと広がって面白かった。5つ星!

  • 投稿者 | 2023-01-27 08:56

    この話の方が段々と自分の事のように思えてきて、下っ腹がいたくなってきました。いたいいたいいたいってなってきました。

  • 投稿者 | 2023-01-27 16:12

    小林さんとは逆に「あなた考えすぎなのよ…」となってしまう語り手で、それがなんというか新鮮でした。しかし、アボカドと醤油って思った以上に市民権あるんですね。

  • 投稿者 | 2023-01-27 21:36

    曾根崎さん、こういうの書くと本当にうまいなあ。
    心に残る作品でした。言われたくないことをすっかり言われちゃったというか、見ないふりをしていたのに無理やり見せられたというか。
    内心忸怩的な、心の奥底にくすぶっているものを、思い切って捨ててしまえばもっと楽に生きられるのになー、なんてこと言い出すのが中年というものなんだろうと思ったことでした。

  • 投稿者 | 2023-01-27 23:57

     食べるタイミングを失ったアボカドが、自殺に踏み切れない主人公を上手く象徴している。主人公の視点で時系列に従っており無駄な登場人物もいないので読みやすい。主人公か饒舌でノリが軽く、自殺を考えている人物設定とつじつまが合っていないのではないかと最初は思ったのだが、読み直してみると主人公が無理して頑張ってる感じが伝わってきて、抱きしめてあげたい気持ちになった。タイトルもいい。/何となく自殺を考えているが実行せずにいる若者は実際に少なからずいるそうなので(伊藤沙莉主演のドラマを見た)、ネット上で悩みを共有する相手を探したり、有名タレントの自殺を気にしたり、急に何もしたくなくなって一日中布団をかぶっていたりといった描写があればさらに説得力が増したように思う。書き加えて短編の文学賞を目指してはどうだろうか。

  • 投稿者 | 2023-01-28 05:03

    やみつきになりそう。3回読んで、その度もっと面白く感じました。
    予防接種、風呂の先延ばしという導入から、アボカド→グレープフルーツ→おばあちゃん→混ぜ食べ→世間の混ぜ食べへの冷遇→混ぜないことへの寛容さに対する不公平感
    と、思考が猛スピードでかけめぐる中、帰宅という物理動作で現実に戻ってアボカドを思い出す。ついでに死ぬのを忘れていたことも思い出すっていう、連想ゲーム的にずらずら繋がっちゃう感じに、勝手に共感しまくってしまいました。
    しかも自殺の話の後、今度は叱ることについて意識をもってかれちゃって、さらに先延ばしされてるのがまたいいですね。

  • 編集者 | 2023-01-28 15:38

    自分は混ぜるの苦手なので、耳の痛い話でした。カレーを混ぜるなら、ドライカレーを食べたいし、グレープフルーツも房の襞ごと掬うようにして食べていました。納豆は混ぜますし、韓国料理ならビビンバが好きですし、混ぜることが組み込まれた料理に抵抗はありません。官僚的な枠をはみ出せない人間なのだと思います。実存が詰まっていて、自分はこの逆バージョンが書けるくらい人は多様であると思いました。

  • 投稿者 | 2023-01-28 15:43

    つかみどころのない小説。「あ、そうだった。私、死ななくちゃ」から物語が始まると思ったのに、結局何も進まない。
    主人公はなにが楽しくて生きているのか? 不安にさせられる

  • 投稿者 | 2023-01-28 18:15

    インド人のエリートビジネスマンが日本に来て暮らすエッセイで、インドでは食事の際にたくさんの食材を混ぜ合わせて、捏ねて食べることの文化的背景を解説しているものを読んだことがあって、それで「なるほど。文化が違う。自分が取り入れることができない文化だが、理屈はわかった」となったことがあって、それ以降受け入れ難いものを見ても「どんな背景あるの?」ってスタンスが取れるようになった経験があります。
    まぁ背景掘るようになると争いが消えるかというと、そういうものでもないのですが。

    (この話の例でも、上司がアボカドの食べ方についてなんか言ってくるのは、会話の前から主人公を軽んじていたことが背景で、そこ掘ってもより深刻化するだけだよなぁ、みたいな)

    思考を追っていく文体楽しかったです。

  • 投稿者 | 2023-01-28 23:04

    自分で読んでいない又聞きなのですが、ベルンハルトがいざとなれば自殺すれば良いのだと思えば生きるのが楽になったと書いているそうで、それを聞いたときそういう考えもあったかと目鱗な気がしたのですが、実際はこうやって実行しなまま先延ばしし続けるのかもしれませんね。
    余談ですがビビンバって見た目はそんな美味しそうじゃないんですよね。運ばれてきたとき俺はパスとか思ってたのですが、頼んだ人がぐちゃぐちゃかき混ぜだすと食欲を刺激する良い香りが。取り分けられたそれを一口食べてみるとソーデリシャス。最近食べてないので食べたいですね。

  • 投稿者 | 2023-01-29 21:39

    インフルエンザの予防接種のことかと思っていたら「自殺しなきゃ」につながる展開が上手です。内容もいつも曾根崎節で不安感が心地よかった。ちなみに私もグレープフルーツを輪切りにして砂糖をぶっかけギザギザスプーンで食べてました。イチゴは牛乳に砂糖か練乳をかけて凹んでギザギザになったスプーンの裏で潰して食べてました。

  • 投稿者 | 2023-01-30 10:13

    全編独白という書き方はいつかやってみたいなーと思いつつ、つい先延ばしにして未だ実現できていません。
    別に混ぜて食べる派ではないんですけど、言ってることはすごく筋が通っていて、何度も「うんうん」と頷きながら読んでいました。この後自殺は実行できたのでしょうか……

  • 投稿者 | 2023-01-30 11:34

    さっき読んだWeb漫画で、賃貸の部屋で自殺すると遺族に多額の請求が行くそうなので、死に場所は少し考えたほうがいいようです。事故物件で安く住めてラッキーっていう人の裏側には、家族を亡くして凹んでいるところに請求書が来ちゃうキツイ人生もあるんだなあと勝手に思い至りました。あ、本作、上手いです。

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