クズの国の浪人生

破滅派19号「サミット」応募作品

曾根崎十三

小説

14,523文字

クズサミットに招かれたしがない浪人生、有栖。
おとぎばなしをどうぞ。

私以外の誰かの苦しみは私には分からない。私の苦しみもまた、私以外には分からない。友達であっても、家族であっても。

同様に、浪人生の苦しみは浪人生にしか分からない。浪人生というのは底意地が悪く、高校生と大学生を中心に老若男女を広く妬んでいる。己の過去と未来であるのも忘れて、ただの敵だと思っている。何なら動物も妬んでいる。鳩を脅かしたり、石を投げたりするのに興じることも多い。浪人生は常に鬱屈しているので、弱い者いじめするのがスタンダードだ。浪人生の苦しみを知れるのは浪人生だけだが、親の金で高校生でも大学生でもない半端な存在になっているだけの存在であることを重々理解しているので、誘い合わせて遊ぶようなこともなかなかない。また、浪人生同士でも学力の差があるので、手を取り合って皆仲良く、とはいかない。それに「一緒に大学生になろうね」なんて友人同士でチャラチャラ言って叶わなかった嫌な思い出を大体皆持っているので、馴れ合いに警戒しがちだ。浪人生同士でカップルが誕生したという噂があれば、あいつらは何のために浪人生をやっているのだとヒソヒソとやっかむだけだ。趣味を謳歌することすら「浪人生」という肩書があるばっかりに堂々と楽しめない。己の楽しみを奪われたのを、まるで周囲の楽しそうな奴らが奪ったかのように思っている。やっかみの塊。満員電車で事故のふりをして大学生や高校生と思しき若者を何回殴ったかで憂さ晴らししている。しかも言い返して来なさそうな地味目の奴を狙う。もちろん知り合いは狙わないし、見つけたら、思い出したかのように羞恥が湧き出てきて、こそこそと隠れずにはいられなくなる。それが浪人生。座りたそうな人がいれば、老人だろうと、疲れた社会人だろうと、わざと空いている席の前で立ち、素知らぬ顔で妨害をする。リプトンの紙パックのゴミを自販機の回収ボックスにねじ込む。目立たないように迷惑行為を行うクズ。それが浪人生なのだ。浪人生同士で関わらないのになぜこんなことを言えるのかというと、SNSの愚痴アカウントや、浪人生を経験した予備校の先生のフリートークから学び取ることができるからだ。彼らは私と同じだ。そう思うことが私の救いでもある。

「有栖の分析はただの決めつけのところもあるからなぁ」

高校時代、しろが言っていた。まだ数ヶ月しか経っていないのに「高校生」だった私はもう過去になった。高校時代? 高校時代。「高校時代」という言葉を使えるようになってしまった。死ぬほど会いたくて、死ぬほど会いたくない私の少ない高校時代の友達、卯月しろ。一緒に大学生になろうと言った彼女は、私を置き去りにして大学生となり毎日SNSでドリンクやら、ランチやら、サークル仲間とふざけている様子やらをあげている。見る度にスマホを叩き割りそうになる。でも見ずにはいられない。

公園で幼稚園児だか保育園児だかが遊んでいる。何が楽しいのかキャッキャと黄色い声をあげて走り回っている。若くて生き生きしている。それは私も人生と言う長いスパンで考えてみれば同じなのだろうが、若くても生き生きしていない。だっさいジャージにボサボサの髪。浪人生に娯楽は罪だ。ギャルっぽい浪人生もいるが、浮く。コソコソとゲーセンやパチンコに通っている者もいるが、非常に後ろめたく、知り合いが見ていないか注意深く見渡し、コソコソしなければいけない。たまに開き直っている多浪もいるが、ああはなりたくないと大多数の浪人生の目が物語っている。浪人生は大学生になるために懲役刑を受けているような存在だ。娯楽とは対極の存在。なんとなく勉強の延長に見えるので、読書くらいの娯楽なら許される。

幼児たちを眺めながら、私はコンビニの一番デカくて安いイチゴコッペパンを齧る。いつもならパンの欠片を投げて寄ってきた鳩に小石を投げつけて遊んでいるのだが、できない。幼児の教育に悪いのは気にならないが、幼児を見守る大人たちが嫌な顔をするであろうことが簡単に予想できるからだ。弱者に嫌がらせをして不安そうな顔をされてもザマアとしか思わないが、複数人の、しかも幼児を守る立場の大人がいるとなるとこちらの立場が弱すぎる。幼児の人数も多すぎる。一人くらいなら嫌がらせの一つや二つもできそうなものだが、大人数となると幼児といえども反撃が手痛い。弱い者いじめは勝ち戦と分かりきっていなければ成立しない。

コッペパンを食べ終わり、リプトンの紙パックにストローを刺す。「自習室に持ち込む場合は蓋つきの物にすること」と張り紙に大きく書かれているが、守られていない。私も例には漏れず、この後自習室に持ち込む気満々だ。見回りの講師も滅多にこないが、表面上穏やかな囚人たちは静かに勉強をしているので、気付いても咎める者もない。ペットボトルより紙パックの方が安いし、レジ袋にそのまま入れておけば持ち運びも苦にならない。

幼児たちが鳩を脅かして、先生に注意されている。私はそれを見ながらリプトンを啜る。高校時代、リプトンの紙パックは午後ティーより茶葉の匂いを感じて何となくお洒落だと思っていた。今は別にリプトンでも午後ティーでもどちらでも良いのだが、何となく習慣で選んでしまう。啜りながら、ふと、リプトンにぺったりと湿気でコンビニのレシートが貼りついているのに気付いた。いつも何となくレシートを受け取ってしまうものの、何の考えもなくレジ袋につっこんで紙パックの湿気でしおしおになって出てくる。

「有栖のレシートべちゃべちゃじゃん」

しろが笑っていた。私も笑っていた。高校の頃は。今は誰も笑わないし、今思えば何がおかしかったんだろうと思う。そっと剥がすと、破れかけたレシートの広報欄に大きくQRコードが載っていた。一体何のキャンペーンだろうか。娯楽に飢えている浪人生にはコンビニのプレゼントキャンペーンも大きな楽しみだ。毎日、弱い者いじめと、家の晩御飯が好物かどうかの楽しみしかない。しかし、何のQRコードなのかは全く載っていない。ただただデカデカとレシート下部の広報欄にQRコードが印刷されている。とりあえず、勉強に集中するため強度最高の小学生向けフィルタリングをかけられたスマートフォンで読み取ってみる。開けるだろうか。最悪セブンイレブンのWiFiにでも繋げば開けるだろう。フィルタリングが有効になるのはモバイルデータ通信の時だけなので、WiFiの時はフィルタリング付きのブラウザアプリしか使えないようにして制限するしかない。でも、母の無知で通常ブラウザ以外も使えるようにしてしまっているので、すり抜け放題だ。高校時代、しろに自慢して一緒に「検索してはいけない言葉」を調べまくった。無意味な遊び。遊びに意味なんてないけど。試しにカメラアプリを起動して読み込んでみた。

その瞬間、私は真っ逆さまに落ちていた。

内臓が浮くような浮遊感に自然と悲鳴が出た。去年の夏休み、しろに無理やり乗せられたジェットコースターの感覚だ。バーで止められるものの、ふわり、と全身が宙に投げ出されるぞっとする感覚だ。飛び降りて死ぬ人はあれを数秒に渡って味わうのだろう。なぜ自殺する人というのは「せーの」と言うのだろう。最近見た心中動画でも言っていた。心中なら、まぁ「息を合わせて死ぬぞ」という気持ちの表れとも解釈できるが、中学生の頃に見た自殺配信は一人で死んでいたのに、「せーの」と言っていた。階段の踊り場から飛び降りたあの女の子も、電車に飛び込んだあの女の子も、首を吊ったおっさんも「せーの」と言っていた。私が自殺していたら「せーの」と言っていただろうか。なぜ死ぬのに「せーの」と言うのか。バンジージャンプをする人は「せーの」と言わない。私はさっき「せーの」を言わなかったので死ねないだろう。お手付きだ。UNOみたいな感じだ。だから死ねない。気合を入れるためだろうか。そうか、死ぬのには気合と覚悟がいる。自殺に気軽さはない。「死ぬほどの気合と覚悟があるなら、生き延びるためにそれを使えただろうに」といろんな人が言う。分かっちゃいないなと思う。死ぬための大きな気合と大きな覚悟は一度だけだ。逃げるための小さな気合と小さな覚悟は何度も必要なのだ。逃げ出した後どうするのか、どうやって逃げ続けるのか。持続しなければいけない。気合と覚悟が長期間必要になる。分かっちゃいない。分かっちゃいない、とは言うけど私も実際に死んではいないので、分かっちゃいないのだ。私以外の誰かの苦しみは私には分からない。

落ちているうちに意識を失ったのか、寝不足で眠ってしまったのかは分からないが、気が付くと私は椅子に座っていた。肘掛のついた、ふかふかの椅子。映画館の席みたいな感じだ。しろと春休みに映画館へ行こうと話していたが、結局行けなかった。私が浪人したので。

視界が一変に明るくなった。灯りが点いたようだ。どうやら私は何かしらの会場にいるらしい。同心円状に椅子に座らされた人々がいる。前の列よりも上段になっているので何となく全体像を感じ取ることができるものの、私はかなり前方のようだ。それにしても状況が掴めない。それぞれの椅子にはベビーカーのようなフードがついており、視界が狭められている。隣にいるのがどんな人物なのか、そもそも人物が座っているのかも分からない。向かい側にも同じように椅子が並んでいるのが何となく見える。隣の状況を見るだけであれば、フードを動かすなり、起き上がるなりすれば良いのはずなのだが、体が動かない。フードを動かすことも、起き上がることもできない。微かに首を動かせる程度の可動範囲。落ちた時に大怪我でもしたのか。その割にはどこも痛くない。窮屈さも感じないので拘束されているわけでもなさそうだ。まさかこれはあの世だろうか。

考えを巡らせていると、中心の方からマイクを通していると思しき明瞭な声がした。

「ようこそクズサミットへ。先日G7も開催されたことにちなんで、『クズサミット』を開催します。おめでとうございます皆さん。要は主要クズの首脳会議です。議題は『誰が一番のクズなのか』。犯罪者とまではいかない、ないしは厳密には犯罪者だが摘発されにくい『クズ』。世界的にもクズは問題になっているので、モデルタイプのクズを決め、そのクズを基準に国があらゆる対策を打てば世界が平和になる、というわけです。なんと! あなたがたは世界平和に貢献できるのです。光栄ですね」

アナウンサーのような改まったトーンのくせに幾分ふざけた調子で女が喋っている。

「では早速ですが、エントリーナンバー1の方、どうぞ」

並んだ座席の一ヶ所にスポットライトが当たる。姿は見えない。しかし、アナウンサーが指名した途端に、耳をつんざくような悲鳴が放たれた。声色からして、年上の男だろうか。

「助けてくれ! あ、なんだこれ、急に声が。どうなってんだこれ」

どうやら突然声が出るようになって驚いているらしい。そういえば、アナウンサーと該当者以外の声がしない。試しに咳払いをしようとしたが、できない。そもそも自分の体を目視確認することすらできない。視界が固定されている。目玉を動かしてかろうじて見える範囲を認識できるのみだ。私の体は本当にあるのだろうか。男が声を発することができたということは、私もアナウンサーに指名さえされれば発言できるようになるはずだ。少なくとも首から上は存在しているのだろう。SF映画のように頭部だけが謎の液体漬けにされ、浮かび上がっている可能性もある。ズラリと並んだ頭部を想像する。それともこれが臨死体験みたいなものだろうか。あの世に行く前の裁きを受ける場という可能性もある。私がしろだったら、いろいろ可能性を考えてニヤニヤしそうだ。あのニヤニヤ顔を思い出す。

「今のあなたの生活を教えて下さい」

「なんだよ。なんでそんなこと答えないといけねぇんだよ」

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2023年4月24日公開

© 2023 曾根崎十三

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