K線の秩序

佐藤

小説

6,340文字

寒冷地を通るとある鉄道路線の車内に現れた闖入者が秩序を破壊する。落ち着いた筆致で浮かび上がる、静かで大人しい残酷さ。

風に舞う落ち葉も尽き、ただ冷たく乾いただけの風がカラカラと転がる冬の最中である。滅多に雪の降らないここいらでは、丸裸になった立ち木の輪郭が、無気力に白く曇った空から射す薄いあかりのせいでぼんやりと滲み、昼間であるのに夜のような、活力に乏しい寒々とした印象を受ける。黒くぼんやりとした影のような立ち木が街道沿いに等間隔に並び、背の低い建物が連なる町並みと調和して見事なモノトーンの風景を構成している。どこまでも灰色で、どこまでも淋しい。

街道に沿って線路が延びている。どこへ行くとも知れぬ街行く人の外套の裾が揺れたかと思うと、煤けたベージュ色の鉄道車両がゴウゴウと駆け抜けていく。八両か十両の長い編成だった。どこかありふれた感じのつまらない外見であったが、視点を車両の中へ移すと、内装の鮮やかな色合いから中々に新しい車両であることが見て取れる。車両の辺に沿って設えられたシートはビロードの鮮やかな青で、手すりや車窓を縁取る金属は艶やかに光り、この冬の最中には、内装の新しさがかえって冷たく寒々しく感じさせる。

ドアはボタンで開閉するタイプであった。

車窓から見える閑散とした景色とは相反して、車両の中は混雑していた。最後尾の車両の、それも一番後ろの端っこの辺りが最も空いていたが、それでも全てのシートは乗客で埋まっており、十人前後の乗客がつり革に捕まったり、端のドアの横の隅に寄りかかったりしている。

座っている乗客の中の、まるで黒い犬のような起毛の上着を来た若い男は、膝の間にビニール傘を邪魔そうに立てて持て余していた。その日は雨の予報だったのだ。急な雨のとき安い使い捨てのビニール傘は便利だが、雨に備えて持ち歩く分には、白とビニールの色合いがいかにも安っぽくて、どんな格好にも似合わない。この五百円も出せば買うことのできる使い捨てのビニール傘の行く末というのは、たいていの場合は早い段階で紛失するか盗まれるか壊れるか、いずれかの運命にあるが、若い男の持ち物はそれでも随分長持ちしていて、金属の骨の所々が赤く錆びてしまっていた。そしてまたこの錆びた具合のおかげで、紛失せずに済んでいるというわけだった。真向かいには白髪の混じったおばさんが、買い物の大きな紙袋に腕をまわして抱えて、指先になんとか傘を引っ掛けて、座っていた。やはり傘が邪魔そうだ。おばさんの右隣にはサラリーマン風の上司と部下と思われる二人の男が、スーツの上に似たようなロングコートを羽織り、似たような四角い鞄を抱えて座り、鞄から何かの書類を出したり引っ込めたりしながら小声で何か話している。さらにその隣の、シートの端の席では、白い丸い襟のついた紺色のワンピースを着たショートヘアの女の子が、膝の上で文庫本を開いたまま、金属の手すりに頭を押し付けて眠っている。良い所のお嬢様という風だが、本当に良い所のお嬢様というのは、電車などには乗らないものなのかもしれない。

「次は……ま…の…………番線…………」

走行音に掻き消されて殆ど聞き取れないアナウンスが流れたあと、金属どうしが引っ張り合うようなぶつかり合うような音と共に減速し、まもなく車窓に駅のホームが見えた。おしまいに方形の車両のかたちを僅かに歪ませる軋んだ音がしたあと、車両は正確な位置に停車した。

「当駅にて、特急列車の通過待ちを致します。三分ほど停車いたします。電車にお乗りになって、そのままお待ちください。」

アナウンスが流れる。降りる乗客はいないようだ。ポーン、という曇った電子音のあと、空気が抜けるような音をたてながら、最後尾のドアが開いた。ずんぐりと大きい体をした若い男が乗ってくる。年の頃には不似合いな動物の絵柄が編み込まれた白いセーターを着、いちど丸坊主にしてそのまま放っておいたというようないかにも不精な髪形で、口を半開きにした締まりの無い表情をしている。絶えず「あーおーあーおーあーおーあー…」と、歌とも呻きともとれない声を、車両中に響く音量で発し続けている。白痴だった。

白痴の男が「閉る」のボタンを押さなかったので、開け放しになったドアから冷たい空気が入り込んでいた。風が時折強く吹いて、ドアの付近はすぐに冷え切ってしまった。

シートの端に座っている女の子は驚いたようにして目を覚まし、すぐ後ろのドアから吹き込む寒風にさらされ身を震わせた。買い物袋を抱えたおばさんは冷え性で、急に冷えてしまった空気にスカートの裾からのぞいている足首が晒され、はやくも痛いくらいに冷たくなってしまっている。開け放しのドアと、ドアの横で何かに掴まるでも寄りかかるでもなくただ棒立ちしている白痴の男を、恨めしそうな目つきで交互に見てはいるが、自分から立ってドアを閉めることはしない。理由は、彼女が降りる駅はまだ先で、到着するまでは今いるところに座っていたいが、車両のシートが今は一杯で、立っている乗客もいるから、ということに他ならない。自分が立ち上がった後に今立っている乗客が座ってしまうかもしれないし、もしもよりによって、あそこにいる白痴の男が座りでもしようものなら、それは間違いなく最低なことなのだった。サラリーマン風の二人の男は、寒さはそれほど気にならなかったが、白痴の男が発し続けている音のほうに神経を消耗させられていた。車両の中で携帯電話で話すマナー違反にも苛々させられるが、こっちのは社会のルールというものがそもそも通用しない相手だけに性質が悪い。なるべく気にしないようにしながら二人の話を続けてはいたが、気持ちが白痴の男の方へと向いて上の空になりかけていた。他の乗客たちも、ドアか声か、もしくはその両方に対して、少なからず苛立ちを覚えはじめていた。

やにわに、黒い起毛の上着の若い男が、すっと立ち上がってドアのところまで行き、「閉る」のボタンを押した。ポーン、と音がして、ドアが閉まった。付近の乗客はみな、心の中で賞賛の拍手を贈ったが、同時に、彼がその行為によって呪われてしまったのでは、という根拠のない不安を覚えた。というのも、白痴の男に対しては、我々とは住む世界が違う、厳密には同じ空間に存在してはいるが、存在を許されることの代償として縛り付けられざるを得ない掟というものが、彼にだけは適用されない、我々が存在している平面から、彼は少し浮いたところにいる、という感じを覚えていたからだ。彼にとって、何の悪意も無く、それも殆ど関わりとすら言えないほど小さな関わりを持ったというだけの若い男を呪うという行為など、造作も無いことのように思えた。それ故に、白痴の男がすぐさまドアの「開く」のボタンを押したとき、付近の人々は、「悪い予感が当たった」というような落胆した気持ちになった。一方、若い男が席を立ったとき、立っていた乗客の中で、若い男がいた席に座ろうとした者は誰一人として居なかったのだが、このこともまた、我々が立つ掟に縛られた平面と、そこから浮かんだところにいる白痴の男との間にある隔たりを強く印象付けていた。

若い男が再びドアが開けられたことに気が付いたのは、再び席に着いた後だった。彼はもう一度立ち上がってドアを閉めに行くことを躊躇した。「もう好きにしてくれ」というようなシニカルな態度をとったほうが、この場においてはむしろ常識的だと思われたし、電車が発車する時刻になれば、自動的にドアは閉められるはずだった。しかし直後のアナウンスが状況を変える。

「発車の時刻ですが、車両………のために、もう暫く停車……ます。お客様にはお急ぎのところ………ますが、もう………お待ちください。」

白痴の男の呻き声に妨げられて完全には聞き取れなかったが(その声は息継ぎの瞬間を除いてはずっと発せられ続け、その声量は不規則に大きくなったり小さくなったりしていた)、もう暫く…おそらく五分か、それ以上…の間、電車が発車できない事態だということは明らかだった。幾人かの乗客の口から落胆の溜め息がもれる。買い物袋を抱えたおばさんが開いたドアと男とを交互に睨んでいるのに加え、いまやカタカタと震えてしまっているシートの端の少女が、そこから届きそうで届かない位置にある「閉る」のボタンをじっと見つめていた。すこし前までは余計な面倒を避けたいがために白痴の男と開いたドアから外されていた乗客の視線が、いまはあからさまにそこへと向けられていた。

「……車両の点検中です。もう暫くお待ちください。」

再びのアナウンスから間を置かず、先ほどドアを閉めた若い男がもう一度立ち上がった。寒さに震える少女の眼に、ビニールの傘を携えた彼の姿は勇者の再来のように映った。

若い男は一直線にドアのところまで行き、白痴の男には一瞥もくれずに「閉る」のボタンを押すと、ポーン、という電子音が鳴り終わるよりも素早くターンして、もといた席に戻りかけた。しかしすぐさま背後から、ポーン、という音がしたので、踵を返してドアのところへ戻ると、「閉る」のボタンを押して、今度は門番のごとくその場を動かなかった。若い男より一回り体の大きい白痴の男は尚も「開く」のボタンに手を伸ばすが、すかさず若い男が叩きつけるように「閉る」のボタンを押すので、いい加減に折れたと見えて、相変わらず呻き声をあげながら、車両の真ん中を向こうの方へと歩いていった。若い男はようやく安堵して自分の席へと戻った。

若い男の英雄的な行動によって、乗客たちの間にはようやく平和が訪れ、あとは運転の再開を待つだけだと誰もがそう思った。しかし、少し離れたところから聞き覚えのある音がして、一斉にそちらを見たとき、常識を逸脱したその事態に、乗客たちは自らの認識の甘さを認めざるを得なかった。なんということだろう、白痴の男が片っ端からドアを開けてまわっているのだ。人々は、おそらく死の直前まで屈服することのないであろう呪いのような執念を見た。

もはやあの男を妨げる者はない。男が通りかかると、立っている乗客は端のほうに寄って身を縮め、座っている乗客は投げ出した足を貝のようにすばやく引っ込めた。白痴の男は車両のいちばん端のドアまで全部片付けると、悠然と引き返して来て、おしまいに、最後尾のドアの「開く」のボタンを、あっさりと押してしまった。

若い男は、もはや我慢がならなかった。開けられてしまったドアを閉めようとしない向こうのほうの乗客にも、吹き込んでくる冷たい風にも、そして何より、嘲笑うかのようにさえ聞こえる奇妙な声を発し続けている、わけのわからない存在に対しても。彼は三度立ち上がった。放たれた矢のように飛んでいって「閉る」のボタンを押し、白痴の男のほうを向いて怒鳴った。

「いいかげんにしろ!」

白痴の男がその言葉の意味が理解できたのか、そうでないのかは分からない。ただ、少なくとも、音量の大きさという観点で対抗意識を持ったのは確かなようだった。若い男の怒鳴り声より大きな声、というよりも、殆ど叫ぶような声で、「あーおーあーおーあーおーあーおー!」をやり始めた。そしてそれは若い男の叱責の声を打ち消し、飽くことなく延々と続けられた。いきなり天から汚物が降り注ぐ位に理不尽で不快な騒音だった。白痴の男に向けられる乗客の思いは、それまで理解不能な存在に対する恐れだったのが、一度に怒りへと変わった。誰もが、胸の内を掻き毟りたくなるような怒りを覚えた。買い物袋を抱えたおばさんは、足首にキリキリと冷える痛みを感じながら、男をすぐさま外へ蹴りだして、頭をどこかの角へ打ち据えて殺したいと思った。サラリーマン風の男の一人は、持っているボールペンをあのうるさい音を立てる咽喉に突き立ててやりたいという欲求に駆られ、もう一人のほうは、書類を全て丸めて男の口へ全部突っこみ、肺の中を紙くずで埋めてやりたいと思った。すぐ近くで騒音にさらされている少女は、すぐにでも騒音を止めなければこちらの頭がおかしくなってしまうのではないかという思いから、男を窒息させるべく、何か丁度良いものを探すために自分の鞄の中を手探りしはじめようかというところだった。

しかし一番先に我慢が限界を超えたのは、やはり彼の若い男だった。騒音を止めよと叱責する自分の声が何度やっても掻き消されるので、掌で、しかし衝撃は与えずあくまで柔らかく、白痴の男の口元を押さえた。白痴の男は、目の前にいきなり自分を塞ぐものが出現したしたので、過剰に反応し(彼にとってそれが過剰であったかどうかは分からないが)、若い男の手を跳ね除けると、呻き声をあげ続けたまま、若い男に体重を預けるようにしてのしかかった。若い男は咄嗟に、携えていたビニール傘を杖にして堪えようとしたが、錆びていた傘の柄はあっさりと折れ、若い男は白痴の男の下敷きになって倒れた。肉の塊が床に叩き付けられる鈍い音とボタンか何かが当たる金属的な音がし、少女が引き攣るような小さな悲鳴を上げた。上になった白痴の男は、ただ、大声をあげ続けることと、体の下にいる男を抑え続けることだけをしていた。何か考えがあるのかどうかなど、誰の目にも見て取れなかった。下になった若い男は、一回り体格の大きい男の二の腕に首筋を押さえつけられる格好になり、呼吸困難に陥って顔全体が紅潮していた。意識を失う前に何とか脱出しなければ、と思った彼は、必死の思いで、左手に持っていた傘の柄で、上になっている男の胴体を横から打ちつけた。このとき、折れた傘の柄の不規則なかたちに尖った断面は、確かに白痴の男のわき腹を貫いていたのだが、貫く前と後でほとんど白痴の男に変化が見られなかったので(大声で喚きながら若い男の上でのたくっていることには何ら変わりは無かった)、若い男のほうは、傘の柄が相手の肉体を貫いたことも、それどころか自分の攻撃が効果を上げているのかどうかすら分からなかった。だから、傘の柄が何度も何度も打ち付けられた末、ようやく白痴の男の力が緩んでその体の下から這い出すことに成功し、彼が立ち上がって状況を確認したとき、自分の手と衣類とが血液でずぶ濡れになっているのと、自分を圧倒していた相手の身に着けている白いセーターの脇腹のあたりが、使い古した雑巾のように黒っぽい濡れた屑になり、倒れたペットボトルから溢れるみたいに何か破片の混ざった血がこんこんと溢れ出ているのとを見て、彼は大変に驚いたのである。

大量に出血し殆ど危篤と言っていい状態になっても、白痴の男は「あーおーあーおー」という呻き声を止めなかった。とは言え、その声は弱々しく、電車が走り出してしまえば走行音に消されてしまうレベルだと思われたので、血まみれになってしまった若い男を含め乗客たちは、それ以上気にしないことにした。若い男が座っていた席は、乗客たちのモラルによって空けられたままになっていたが、彼自身、自分の体が汚れていることを十分に自覚していたので、まだ新しい車両の清潔そうなシートを汚すことを憚った。

「車両の点検が終了いたしましたので、間もなく発車いたします。当列車、安全装置が作動したため車両の点検を行った関係で、十五分ほど遅れての発車となります。お客様にはお急ぎのところ大変ご迷惑をおかけしております。間もなく発車いたします。どなたさまも、ご乗車になられて、お待ちください…。」

アナウンスが告げる。言われるまでもなく、乗客は既にみな車両の中にいた。最後尾のあたりには血と臓物の入り混じった厭な臭いが立ち込めていたが、不平を言う者は無く、ドアの「開く」のボタンを押す者も無かった。

2007年12月16日公開

© 2007 佐藤

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