初めて僕は、寿命の範囲以外で、外の塀からひょっこりと現れた外部の人間により生命の進行を阻止されて死んだ人間の殻を見たんだ。
僕を含めた五人で四囲が真っ黒の壁に覆われた地下室へ入ると、天井からぶら下がった裸電球が照らす床は、老婆の血で四隅まで深紅に染まっていた。
大腸を外へぶちまけられた真っ赤な床に寝そべる惨殺死体を見て、僅かに虚栄が立ち上がったが、数秒も経つと上司の腰に泣きすがってここから出すように乞うた。
「それでも刑事か!」
と怒鳴られた。上司の眼球は明瞭な白と黒だったのに、僕はその眼の奥に正気を感じないのだが。
まともに仕事も出来そうにない状態の僕はまだ新人だったので何とか許してくれた。ここは怒り心頭の体である上司が仕切ることになっておりお前は邪魔だから裏の倉庫へ行けと指示された。
口元を手で覆いながら地下室を這い上がり捜査が行われていない倉庫室へ駆け足で向かった。向かう道中にお手洗い場が無かったらどうしようかそればかり考えていた。
真っ白の手袋を手から外してふらふらと気力がないまま倉庫室の扉前まで着いた。扉についた小窓からあの地下室のような明度の薄明りが漏れていた。自分自身に落ち着きを取り戻すように言い聞かせながらノブを回して、僅かに開けた扉の隙間から体を滑り込ませるように中に入る。
今すぐに仰臥の姿勢を取りたいほど疲弊しきっていた体だったが、その時、倉庫内に沸き起こった悲鳴一つで爪先から髪の先まで硬直してしまった。
それは女性の悲鳴だった。
辺りを見渡すが、視界にはあの地下室と同じ黒いケーブルが天井からぶら下がった裸電球に照らされた壁一面を覆う食料やら空気入れが積まれた倉庫然とした風景が広がっており、人影は一切なかった。
だが確かに倉庫の壁に悲鳴は反響し、コンクリートで出来た壁が吸収しきれなかった悲鳴は中央に集まって未だダンスしている。
まだ犯人が潜伏してたんだ!
聴こえてきたのは明らかにか弱い女性と類推できる被害者的な声色を伴って響いた悲鳴だったのに、過度の恐怖から勝手に細身で虚ろな目をした犯人像が脳裏に浮かび、今にも恐ろしい武器を使って殺してきそうだ。
逃げようと内側のノブに手を伸ばした。
「それでも刑事か!」
そう叱責されたことによってわずかに傷ついていたありとあらゆる矜持が、急に勇気を鼓して体を右のほうへ曲がらせ、流れるままに奥のほうへ突き進んでいた。大きく開けてゆがめた口の端からよだれを垂らして慄いていた僕は、胸の中心から硬直した体をどうにかして動かし角までたどり着く。
倉庫内はそれほどの広さはなく、すぐにそこまで着いた。そして僕はようやく視界の中に人の姿を捉えてると、眉下を緩め大きく息を吐いた。
「なんだ」
と呟く余裕もあった。
対の角にもある決して整然とは言えないがどこもはみ出さずに物を収納している棚の下で、女性がうずくまっていた。
お前の情操はその程度かと言われれば、僕をここまで突き動かした矜持もそれまでだが、それがたとえ同期である女性刑事じゃなかったとしても、犯人像から離れた優しい丸みを帯びた腰つきで胎児のようにうずくまる女性に、今のように安堵していた事だろう。
同様にスーツ姿の女性は僕の中でもっとも特徴的な象徴になっていた骨感のある輪郭を腕の中に隠して、目元のみを晒しこちらを見ていた。
「キリタニさん、ここで何してるんですか」
そう問いかけながら駆け寄って、慣れ慣れしいと思ったが、衝動的に湧いた自分の傲慢さを尊重し、桐谷という刑事の隣に腰を下ろした。
やっと脱力が出来た。それだのに脳のなかでは惨殺死体の映像が暴れて目の前を霞ませている。まったくこの崩壊した精神をどうやって前のように戻せばいいのか分からない。
桐谷は隣に座った時に腕から顔を上げて首を真っ直ぐに据え上げると、しばらく僕を見下ろしていた。それはなにか考えていたような厳めしい面だったが、やがて顔中の筋肉は滑るように降下し、肩の力を抜いて呆れたように首を振ってから初めて口を開いた。
「あの死体みてたら、体調悪くなって、ここに居たのよ。ああびっくりした」
存外にも軽い調子でそう言った彼女に、僕も笑ってあげたかったが、吐息が喉を震わせ逃して上手い声が出なかった。
気を取り直すため、俯いて一呼吸を置いてから答え返した。
「僕も、です」
桐谷は僕には見えないほうの耳に落ちて来た髪をかけて、頷いた。その視線は地面に落ちている。僕も今は目を合わせる需要もないため、垂れ下がる首を放置しぬらりと光る革靴の尖ったつま先を見ていた。
「だめね、新人がこのありさまじゃ」
「そうですね。このまんまじゃ本当に税金泥棒になっちゃいますね」
戯言を真に受けてか桐谷は薄くて長い掌で顔を覆うと、自分に対して脅迫するように言い聞かせた。
「戻らないと、早く戻らないと」
「そうですね、上げていきましょう、テンションを。」
的外れな慰めなどわざわざ口にしなくてもいいのにとりあえず発言をして意味を為すか為さないか試そうとする僕の楽観精神をどうにかしたいものだ。
殺人現場でテンションを上げる状況がどれだけ狂気の沙汰か理解しているが、死体を眼前にしてそこらへんの常識が麻痺した自分には、それが善後策であると考えている。
「あ、人間の血脈って、繋ぎ合わせると地球二周分にもなるらしいですよ」
いつの間にか記憶の引き出しに侵入していたどうでもいい知識に憤りを覚えながらも引っ張り出して言葉にすると、彼女は元より二重の瞼をよりパッチリと開いて驚いた様子で言った。
「ほんとに? それはテンション上がるわね」
倉庫のの中央にしかない明度の浅い電球は、彼女の瞳の表面をどこまでも魅力的に反射し輝かせていた。
気を遣って反応をくれたのかもしれないが、もしくは理性が自分を壊そうとしているだけかもしれない。
それにしても、本当は何も考えたくなくて。意味のない喃語を人の前で垂らしそうになる。今になって桐谷の存在が煩わしい。
この数十分で、まったく、人生の基盤を拳でたたき割られたような気分だった。
死体なんて魂がどこにも留まってないことは明らかな、ただの器になのに。
あれを見る前まで二十数年ここまで生き抜いた自分は、もう揺らぐことのない瓦解と再構築を繰り返してどこまでも頑丈になった基盤の上に、これからは刑事として居丈高な大きな塔を建て行くのだ。そう思っていたものだ。
でも刑事になる以前のように、またすべてが瓦解した感触がある。
あれを、誰にも打ち明ける事なく生きてゆかねばならないのだ。秘密を抱え込むから人は大人になるのだ。そういえば、今感じている疲労感は老化による体力の減少のようだ。いっきに胸のあたりが十年くらい老いたのだろうか。
僕は今にも大きな圧力がかかってあんな五臓六腑をぶちまけた死体のように、自ら望んで内側から破裂したような死に方をしそうだった。
隣の彼女を見やる。そういえばさっきから彼女は先程からずっとため口だな。
そう考えを巡らせ始めると、最初の自己紹介の場面まで思い出した。そういえば四つほど年上だった。警察になるにはかなり薹が立った、といえば無礼か。
隣の彼女は床と水平になるまでもたげた頭を抱え、こちらから僅かに見えた目を一杯に開いた表情は追い詰められた表情に見えなくもなかった。やはり年が先輩連中と近い分はやく成果を出さねばとでも思っているところだろうか。
結局、立つことすら不可能な状態は変わらずテンションなど一寸も上がっていない。
さっきから鳴りやむことのない人が行き交う音はこの部屋の外から聞こえている。だから、桐谷と密閉された空間で二人きりという感覚にならないからどこからも男女の気流が流れ込まないのだろう。だから僕はお気楽で彼女に対して気さくに接していた。
「この後、わたし結婚式なんですよ」
鼻を覆うように添えた指の隙間から零れたのは湿ったような声だった。
僕は思わず、犬歯を覗かせるような不自然な笑顔を浮かべてしまった。
「あなた、ご自身の?」
なぜこの職業柄で仕事の後に結婚式の予定を入れるのか、そちらの考えも伺いたいところだが、あの楽観精神を思い切り踏み潰し、また違う事を尋ねると、
「いいえ、わたしは招待された側で、余興をするの」
結婚式の余興と訊いて、桐谷さんが観客で失笑を奏でるところを想像してしまった。余興と訊いてあまりいいイメージは湧かない嫌いがある。結婚式を体験したことが無いが、結婚式で友人代表方が執り行う余興という儀式にアンサーがないという事は知っている。
まだ笑いの余韻が消えないまま、僕は頤を天井に上げている自分に気づいて、空恐ろしくなっていた。
「余興って、何するんですか」
そう訊くと彼女は恥ずかしそうに笑って答えた。彼女が自発的に微笑んだところを見たのは記憶の限りでは初めてだ。
「ええっとね、扉の前に立って時間がくるまで待ってて、
ウェディングドレス着て、『その結婚ちょっと待った!』っていうのをするんだけど……」
「え…?」
結婚式の余興と訊いていたので疑問の声が漏れた。
彼女はその不穏当な様子を見て解せないように無表情のまま瞬いた。
「なに?」
「いや、結婚式の余興で、いかがなものかと存じますけど、えっ」
特に理由はなかったが正座に座り直して、一度、痰を切って仕切り直した。
「余興って、それまで相手側は何をするか分からないですよね。それ、新婦さんどう対応すればいいんですか」
「ああ、考えてなかったな、新郎側の招待客だから」
彼女は初めてその壁に当たったようで顎に拳を当てて天井を見上げていた。
なんだろう、また瓦解の音がする。
これまでイメージしてきた知的な印象の桐谷さんは虚像だったのだろうか。
彼女は唇の輪郭を曲げて、顎に梅干しの種のような皺の後を残しながら真上に眼球をぐるりと回して不可思議で人を食ったような様相だった
彼女から目を離して、再び革靴のつま先を見る。
そしてふと僕が蕩けた。
体中が大理石のようにぼんやりと光って一瞬だけ溶けた。そのわけを本当に理解する前に、僕が放散していた輝きは光塵となり完全に消え去った。
そうだったわ。いつでもこの程度。そんな言葉の感触が生暖かく手に触れた。その片手に握った内臓はよく分からないうちに裸電球ひとつしかない地下室にいる老婆の細い大腸に変わっていた。
あの地下室で僕と老婆二人だけだった。
「あの、今の僕とおんなじ感じしました?」
無礼にも勝手に握った大腸を手放さないままでいたが、焦って死んだ老婆の顔を覗きこんで訊いてみた。しかしもう老婆は眼球だけしか動かさずに僕の目をじっと見る事しかしない。
やっぱり違ったのかもしれない。
残念でならない心境が胸の中に滞り続けた。
桐谷さんはどこか反省したように眉を下げて瞼を閉じた。鼻から息を吸うと自制的な口調でいった。
「ごめんなさい、嘘。本当は、おかしいって分かってる。
新郎は私の大学のサークルで知り合ったの恋人なの。三年付き合ってすぐ別れたけど、サークル仲間の中ではそれが恒例ネタ、みたいになってて。
その仲間内のノリでこういうことになったの。断ればよかったんだけどね、その時は、余興で代用することで、
何年か誤魔化し続けて想いが、零れるかなと思って。」
裸電球の薄明りに照らされた桐谷さんの肌は真っ白だった、ようやく桐谷さんにも生気が吹き込まれたみたいだ。
彼女は曲げている自分の膝を掌でぱちんと叩くと、気を取り戻したように前方を向いた。
「うん、まだ好きなんっだろうなきっと。うん、そっか、そっか」
威勢よく啖呵を切ってそう言いきった割には竜頭蛇尾な雰囲気で、彼女の可憐な声が細く縮んでいった。
そんな桐谷さんを、僕は抱き締めにいった。
鼻と口という呼吸器官を突如、僕の肩で塞がれた桐谷さんは顔を引きはがそうと暴れ出したために身を剥がしたが、僕のなかでは極めて友諠的なバグで、感興が湧いている限りずっとこのままでよかった。
そのついでに、僕は勢いよく立ち上がって言った。電球の照明が僕が遮ったせいで届かずに彼女の出し抜かれた顔をどこまでも暗く覆い隠してしまう。
「僕が出ましょうか?」
未だに恋している人の結婚式で、その事を知ってか知らずか友人たちから、結婚を引き留める余興を押し付けられるなんて、そんなの、あんまりじゃないか。
彼女は怒哀の間の一寸の境にいるような顔をしていた。それは感情的な表情ではなかったが、ちょっとだけ不審の色が滲み出ている顔の表面を見せて、佇立している僕を見上げて見下ろした。
「なに…どういう事?」
「挙式の場所を教えてください」
僕は不随意にもにやにやしながら、彼女が立ち上がるのを待っていが、彼女の唖然とした様子を見て長くなりそうだったため、いつまでも後ろ手に上体が反り返った体勢でいる彼女の手を取って、立たせると、走り出して二人は倉庫を出た。
走り出すとすべてがあっという間だった。
身体の芯以外を避けて風が後ろのほうへと過ぎ去っていく。脳裏も後ろめたさもすべてが透徹して、どこまでも潔白な人間になっていくようだった。
しかしどれもこれも、ウエディングドレスを来た僕が新婦にシャンパンの瓶で頭を殴られるまでの話だった。
彼女が指定されていたという時間内に会場まで着き、名簿に名前が記載されている彼女と記載されていない僕を式場スタッフに交互に見られながら、振り切り、細身のウエディングドレスに身を通して会場の立派な扉の前まで来てしまっていた。
スタッフの二人が同時に扉を開いた。
ここに来るまで、彼女からの「やめよう」は幾度も聞き流した。しかしその代償が今ここにのしかかってきているようで、本当は心苦しさから彼女の手を握りたかったが代わりにドレスの裾を、片方小さなブーケを持った両手で握りしめて、聴かされていた科白を大声でいい放った。その瞬間に桐谷さんは僕の肩に縋りついていた。
「その結婚、ちょっと待った!」
広い宴会の場の一番奥で並び鎮座していた新郎新婦の、新婦が血相を変えてこちらに向かってくるのはそのすぐ後だった。
新郎と、新郎側の一部の客は桐谷さんの顔を見るなり大口を開けて青ざめていた。
口論になるより前に、披露宴の空気をぶち壊しにかかった僕に対し、上手く結われているが根本が真っ黒でくすんだ金髪の、厚化粧で明らかに元ヤンであろう新婦は、未開封のシャンパンの注ぎ口を、こう親指を下に握っていた。
目の前まで着た新婦が、そのシャンパンを振り上げる。
その瞬間に口をつぐみ俯いたが防御は間に合わず、頭部に重い衝撃が響いた。
それからの記憶はよく戻らないが、とにかく僕はウエディングドレスのまま、両腕で頭を守りながら会場内を逃げ回っていた気がする。何故か新婦側の客たちは盛り上がって、本来、逃走を予想し縫われていないウエディングドレスを身に着けて動き辛そうに追いかけ続ける新婦と逃げ回る僕、その後を青い顔で追う新郎と桐谷さんに歓声を向けてくれた。
僕がはっきりと意識を取り戻した時にはすでに式は終わっていた。
あの新郎新婦も客一人もおらず、清掃員だけが一心不乱に床を注視し続けそこに落ちている桃色の造花の花弁をモップで一緒に端に追いやったりテーブル上の布を新しいものに変えている。
時間をも領する静寂が、式場の終焉を見せられている僕らの見当識を荒らしていた。
僕と桐谷さんは殺人現場の中と変わらず、式が終わった後の披露宴会場の隅で、壁に背をへばりつけるように座っていた。ただ倉庫の中と違うのは、僕は一部が裂けた安い純白のドレスを纏ったままで、二人とも死んだように息を潜め頬を紅潮させながら、お互いの身を子供のように寄せ合っている事だ。生乾きのシャンパンでべたついた僕を厭うことなく桐谷さんは身体を預けていた。
後ろ手についた手を動かすと冷たい表面に触れた。
首をひねって目線を移すと爪先の側にシャンパンの瓶があった。
あのデモニッシュな笑みを浮かべていた新婦の手に握られていたシャンパンを思い出して体中が粟立ったが、どれもこれも、もう済んだ事。
僕はそのシャンパンの瓶を手に取り中身がまだあるか確認した。筋の隙間が詰まったように重くなった両腕を、目線まで瓶を掲げると、半透明の瓶のなかで液体が揺さぶられ渦巻いている。
僕の片腕にすり寄る彼女は虚脱感に見舞われていて何もしゃべらなかったが、その時に初めて、まるで自分の意志ではないところで動いた腕が身勝手に僕の手から瓶を奪い取ると、顎を天井に向けて中身を呷った。
彼女の、仰け反る白い喉が、何度もうねる。
それをみながら僕は、どうしてもこの人には頼り切れない。そう思った。これからも彼女との交流には、ある面に於いては堕落が付きものになるように思えてならなかった。
僕ら喋らず目交ぜもせず、まるで子供同士が河川敷で石を投げるようなな軽佻さで脳みその大事な部分を投げやってしまったようだった。
おかしくなっていたのかな。誰か専門の医者にこの衝動性の異常さを診てもらうべきだろうか。
いや狂っていたってもういいだろう。これが僕の本質であることは嫌というほど分かった。どんな梃子の原理でも変えられない部分だ。
隠すのだ。記憶の中の老婆と死体と同じ所に隠しておこう。僕らは今までそうしてきた。僕たちは自分の事をおかしいと理解してるだけずうっまともで、世の中を生き渡りやすい、はずなのだから。
シャンパンを一気に飲み干すと桐谷さんは、勢いよく僕の肩に頭部をぶつけて来た。
僕らは曖昧模糊な瞳で清掃員を見続けた。
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"祝いの門出に痛恨の一撃。"へのコメント 0件