豪奢、静寂、逸楽

モグラ研二

小説

16,571文字

自宅で飲酒していると見知らぬ男に「お前の人生は間違っている」と断言される。私はそのことを否定する自信がない……一方、サラリーマン兼田マグオは何となく言った「ゴリラの着ぐるみが陽気な音楽に合わせて腰を振り、パンケーキを出すお店『ゴリパン』」を提案し……現代の殺伐とした社会で生きる人々の健気な姿。希望溢れる世界。※スマイル推進教室の部分はほぼノンフィクションです。

「お前の人生や考え方全てが間違っていると断言する!」

見知らぬ中年の男が顔を真っ赤にして叫んでいた。男は頭髪が欠如しており、だいぶ太っていた。
私は自宅で飲酒をしていたのだ。そこに、その男はなぜか知らぬがいたのである。
私も男も、透明な、ガラスのタンブラーに酒を入れ、飲んでいた。

「間違ってんだよ!お前の人生!考え方!全てが!だからムカつくんだよ!ムカつくから死ね!」

頭髪の欠如した、だいぶ太っているその男は、自身から分泌される油で全身が濡れていた。
私は何も言えなかった。否定も、出来なかった。それほど自分に自信はなかった。

「ご馳走様!」

元気いっぱいに男は言って、タンブラーをテーブルに置き、部屋から出て行った。

私はしばらくボーっとしていた。見知らぬ頭髪が欠如した男が、誰かに似ているような気がした。スルメイカを口に入れ、クチャクチャ音を立てていた。
雨の音が聞こえてきた。洗濯物を急いで入れなければならない。

 

兼田マグオが企画会議であまり真面目に考えずに提案した、ゴリラがパンケーキを焼いて出すお店『ゴリパン』が、なぜか部長のお気に召したようで、実際にやってみようという運びになった。そうして兼田は25歳と若かったがゴリパンチームのリーダーに指名された。

「良い案だ。コワモテのゴリラがピンク色のフリル付きエプロンなんか付けてたら最高だ。それはまさに、現代社会の殺伐とした状況に疲弊した人々にとって、完璧な癒しになるだろう!」

兼田は当初、ゴリラの着ぐるみを着た店員が陽気な音楽が流れている中、腰を振りながらパンケーキを焼くのはどうだろうか、という考えを持っていた。
しかし、その考えを言ってみると、頭髪の欠如した、太り過ぎな部長が、油まみれの顔を顰めたのだ。

「兼田くん。君の考えは甘いよ。今の時代はホンモノ志向なんだ。誰がショボい着ぐるみなんかで喜ぶんだ?」

兼田は顎に手をやり、少しの間考える。そして述べた。

「生ゴリラですか?」

「そうだよ兼田くん。そこは生ゴリラを使わないと仕方ないじゃないか?」

「部長、ぼく、生ゴリラを探します!」

兼田は部長に向かってウインクし、ガッツポーズを決める。

「いいね。若々しいね。その勢いだよ」

兼田は「ゴリラの貸し出し」を求めて、動物園との交渉を始める。

 

廃墟のようになっている建物が、近所にあって、それが、非常に特異な形をしている場合、あれ?これはどういう目的で作られ、また、利用された建物なのだろう、と思うことがある。
細長い屋根の先は鋭い。窓は大きく、窓枠には雲をモチーフにしたファンシーな飾りが付いていた。
最も目を引くのは古びた玄関ドアの真ん中にデカデカと彫刻されたゴリラの顔である。
個人宅にしては、あまりにも個性的過ぎる。何かの店舗だろうか。
この建物の歴史を、とても知りたいと思った。

通りかかった老婦人に、尋ねてみた。
老婦人は干からびた鳥の死体のような見た目をしていた。

「やめてください。声を掛けてこないでください。今の時代、頭のおかしい殺人鬼みたいなのが平然とうろついてますから。だから、次、声を掛けて来たら警察に通報します。変な男に殺されそうだと。レイプした上で殺してやると、あるいは殺した上でレイプしてやるのだとか、非常に物騒なことを言っているから、早く逮捕してくれと警察に言いつけてやる……」

あの建物の大きな窓のガラスは、すべて粉々に粉砕されていたのを、記憶している。

 

「お前の人生や考え方全てが間違っている!」

自宅で飲酒していたら、また、見知らぬ頭髪が欠如している中年男性が、目の前におり、叫んでいた。

「あの、チータラ食べますか?」

私は言った。

「え?ああ、食うけど」

男は皿の上のチータラを鷲掴みして口に入れた。太って膨らんでいる頬をさらに膨らませた。
しばらく、私も男も、それぞれのタンブラーに入っている酒を、チビリチビリ飲んだ。

「だから!お前の人生!考え方!全て間違っているから!ムカつくんだよ!お前!早く死ねや!」

また、男は顔を真っ赤にして叫び、タンブラーをテーブルに置いた。

「ご馳走様!」

走るようにして、男は部屋から出て行った。

私はしばらくぼんやりしていた。雨の音が聞こえた。特に、洗濯物は干していなかった。朝から曇り空で、おそらく午後から雨が降るのだろうと、予想していたのだ。

 

兼田マグオは直接、その彫刻家のいる山奥のアトリエを訪ねた。
丸太を組み合わせただけの小屋に、彫刻家はいた。
彼は、小屋の前にある切り株の上に座っていた。
熊のような体格の男で、全裸だった。全身が毛深い。汗まみれである。
兼田マグオは頭を下げた。
「お願いできませんか?」
彫刻家は睨みつける。
「チャラチャラした感じがするな。そんなものに加担したくない」
「いいえ。チャラチャラなんてしていません。少し、ファンシーで、可愛らしい感じかも知れませんが、それだけではないんです。これは、現代人にとって、大変重要で、必要になるものなんです」
爽やかな山の風が吹いていた。
緑のにおいがした。
空は、気持ちよく晴れ渡っていた。真っ青な空が、とても美しい。
日の光が、彫刻家の全裸を、毛深い全身を、熊のような全身を照らしていた。
彫刻家は熱心に、汗だくになりながら話す兼田マグオを凝視している。
兼田は、いかに現代社会の殺伐としたムードが凄いのか、それが、いかに現代社会に生きる人々を苦しめ、狂わせ、死なせているのか、それを止めるにはいかに『ゴリパン』という圧倒的な癒しがどうしても必要であるか等々を延々と語り続けた。
全裸の彫刻家は頷いて「いいだろう」と言った。
「いいんですか!」
「条件があるが」
「条件さえ飲めば、ゴリラの顔の彫刻を、制作してくださいますね?」
「条件をお前が飲めばな……」
彫刻家は、座っていた丸太から離れ、立ち上がる。
そうすると、彼は2メートル近く身長があるとわかる。
ずんずんと、重たい足音をたてて、彫刻家は兼田の側まで来て、首筋を舐めた。
「ひゃあん!」
兼田は情けない声を出してしまう。
彫刻家は微笑を浮かべる。そして、兼田の頬を優しく撫でる。
「可愛いな、お前……」
「え?……」
「ふふ。条件は、わかるな?」
熊のような体格の彫刻家は、兼田マグオの額にそっとキスをした。
兼田は顔を赤くした。自分に何が求められているのか、全てを理解した。
「……はい」

 

突然の雨が降ってきて、全身びしょ濡れになった部長は、めちゃくちゃ不機嫌な状態となり、今すぐ誰かの頸動脈をカッターナイフで思い切り切断してやりたいと思った。普段は、自身から分泌される油で全身が濡れている部長であったが、このときは、その油が全て雨によって洗い流され、いつもの「ベトベト」状態ではなく、「ツルツル」状態なのであった。
「ツイてないなあ、まったく……」
頭髪の欠如している、太りすぎの印象を与える部長はため息をついて、アーケード街の庇の下に雨宿りをする。
「とりあえずここで少し休むか……」
部長は電子タバコを取り出して咥える。豊富な煙を、鼻の穴や口から放出し始める。目は、トロンとしてきて、恍惚の状態。
「なんかムラムラしてきたな……」
確かに、その言葉通りで、部長の、濡れたスーツのズボン、その股間部分は隆起していた。人通りはなかった。
「やろうかな……」
今年で47歳になる部長は、真剣に考えていた。
「やりたいな……」
自転車が前を通り過ぎた。不意の出来事であり、こういうことがあるから、ここではさすがに出来ないのだと、部長は思い、諦める。
「どうかしましたか?」
アーケード街の店、その一つから女性が出てきた。
若い女性で、白いティーシャツ一枚だけ着ていた。乳房が大きく、黒いブラジャーが透けて見えた。
「どうかしましたか?」
上目づかいで部長を見つめる。まつ毛の長い、ぱっちりした目。大きな乳房の谷間が、部長に迫っていた。
「え?ああ、なんか雨が止まないなあ、とか、思って」
「突然でしたからね」
「もうびしょ濡れで、困りますよ……ははは」
部長は愛想笑いを浮かべた。もう、股間は収まっていた。部長にとって、乳房の大きな若い女性は性的な対象ではなかったのだ。部長はいつも小学校1年生の男子だけを性的な対象にしており、違法なルートから当該男子の全裸映像などを入手し、激しい叫び声をあげながらマスターベーションしていたのである。そのとき、部長の口は開けられ、真っ赤な舌が飛び出し、細かく動き回る。ペチャペチャと音をたてる。それは、部長にとって重要なアクション。つまり、部長はそのとき、小学校1年生の男子のツルツルの肛門をペロペロしまくっている、というシチュエーションを、存分に味わっているのである。

 

目つきの鋭い男。皺のない高級スーツを着用。髪は薄くなりつつあるが、エリート風で、気品があるように見える。
男は部屋の黒い皮張りのソファに座っていた。静かな部屋だ。それに、家具が一つもない。
正面の白い壁に、画用紙が貼られていた。画用紙の表面、そこには、黄色いクレヨンで描かれた、ぐちゃぐちゃに塗られた幾何学的な模様がある。
あきらかに、下手くそだし、何が描きたいのか、その意図が全くわからない絵だ。知能指数の低い猿が、クレヨンを渡されて描いたものではないか。

部屋に、女が入って来た。白い、ぴっちりしたティーシャツを着ている。豊満な乳房をしており、それを包む黒いブラジャーが透けて見えていた。

「濡れたおじさん」

「何?」

「さっき、あそこの庇の下にいたの。ハゲで、太ったおじさん。全身ずぶ濡れで」

「なんだそれは。エレガンスのカケラもないな」

「うん。なんか汚い印象しかないおじさんだった。私のこと、凄くエロい目で見ていたし……」

「エレガンスのないおじさんだと?ダメだな。そいつは。生きる価値がない。ある程度の年齢になったら、男はエレガンスを身に付けないといけない。俺は56歳だが、こんなにもエレガンスだ。わかるか?」

「うん。精悍な顔立ち。高級スーツ。爽やかなコロンの香り」

「決まっているだろ?俺は昔は議員秘書もしていたし、高級セレブが出入りするステーキ屋の会計をやっていたからな」

「……身に染みてる。エレガンスが。そういうことなの?」

「そうだ。俺の血にはメソポタミア文明の王族の血が、一説では流れているのだという。それに、ロマノフ王朝の血も、一説では流れているのだという。凄いだろう?」

「凄いわ……」

「ああ、俺は、凄いよ」

高級スーツの男は、脚を組み、顎に手をやり、エレガンスを演出したよくあるポーズをとる。脚の長さが目立つ。非常に、スマートな男なのだ。

「どうだ?」

「凄いわ……」

女は、寒そうに、体を震わせながら言った。床に直置きされているポットから、温かいコーヒーがでてくる。
マグカップに口をつけ、女はため息をついて「寒いわ」と呟いた。

「この絵は、前からあるのか?」

鋭い目つきの男が言った。

「ええ。それが何か?」

「これ、誰が描いたんだ?」

「知らないわ。なんか黒い服のフードを被った男がいきなり現れて、無言で壁に貼っていったの」

「犯罪じゃないか?」

「犯罪なの?」

そこで会話は途切れた。部屋は静かで、二人とも、身動き一つしない。外の物音が、少しだけ聞こえる。風の音。車の通過する音。誰かの咳の音。
10分ほど、そうした状態が続いた。
自分は十分なエレガンスを身に付けていると主張していた男が、ソファから立ち上がり、茶色い革カバンを手にして、何も言わずに部屋から出て行った。

「あの人、無職なのに、いつもどこに行っているのだろう。就活?」

部屋に残された女は呟いた。
女は、しばらく呆然とした様子で、壁に貼られている下手くそな絵を見ていた。

 

廃墟のようになっている建物が、近所にあって、それが、非常に特異な形をしている場合、あれ?これはどういう目的で作られ、また、利用された建物なのだろう、と思うことがある。

細長い屋根の先は鋭い。窓は大きく、窓枠には雲をモチーフにしたファンシーな飾りが付いていた。

最も目を引くのは古びた玄関ドアの真ん中にデカデカと彫刻されたゴリラの顔である。

個人宅にしては、あまりにも個性的過ぎる。何かの店舗だろうか。

裏手に回ってみた。

全く手入れのされていない庭園がある。
枝葉が伸び放題になり、化け物みたいな形状と化した樹木。蔦植物が煉瓦造りの塀を覆っていた。

日が、傾き始めていた。

庭園には小さな黄色い花が、あちこちに咲いていた。タンポポではない。もっとずっと弱そうで、小さな花である。

庭園の片隅で、小学校1年生くらいの男の子が、体育座りをしていた。

丸坊主で、半袖半ズボンの、恐らく学校指定の体操着を着ていた。

「あなたは誰ですか?」

私が言った。

「はい。ぼくはマナブちゃんといいます。あなたは誰ですか?」

「はい。こんにちは、マナブちゃん。私はタハラといいます。マナブちゃんは、こんな廃墟みたいな場所で、何をしていましたか?」

「はい。タハラさん、こんにちは。ぼくは、ここで隠れんぼの練習をしていました」

「一人で?」

「はい。タハラさん。ぼくはいつか、誰かと隠れんぼしたいと思います。だから、そのときに下手くそと言われないよう、ここで練習しているのです」

「隠れんぼ実施の目処は立っているのですか?」

「はい。タハラさん、ぼくには友達が一人もいなくて教室でも孤立しています。クラスメイトのガキ大将みたいな太っていて色黒な板田橋くんにはいつもバケツによって水をかけられていて、バイ菌野郎は死ね、除菌だ、お前はバイ菌なんだから死ね、と連呼されます。そのときに板田橋くんは嬉しそうに笑いまして、水浸しのぼくを指差して先生も愉快そうに笑うのでした」

特異な形状をした、廃墟同然の建物を私が後にしたとき、すでに辺りは暗かった。

私は、この廃墟がどのような歴史を持つのか知りたかった。だから、通りかかった老婦人に、そのことを尋ねた。

老婦人は干からびた鳥の死体のような見た目をしていて、目を見開き、こちらに迫ってきた。

「いい加減にしてください!あなたはこの国で残忍な殺人事件が多発していることを知らないのですか!世界平和を願う戦後民主主義を信奉する私でさえ、容赦なく殺す殺人鬼!それはあなた!あなた!あなた!」

あの建物の窓ガラス全てが、まるで何か、巨大な生物が体当たりでもして破壊したかのように、破損していたことを、確実に記憶している。

 

目を釣り上げ歯をむき出しにしたスーツ姿の54歳くらい(少なくとも、確実に50歳は過ぎているのではないか。それは肌の質感でわかる。)の男が、閉まり始めた電車のドアに体当たりした。

男は一見するとスマートで、髪は薄くなりつつあるが、鋭い目つきをしており、なかなかのエリートに見える。

一度は完全にドアが閉まるが、男は再度、体当たりした。

ドアは開き、男は電車内に入る。

アナウンスが流れた。
……電車の遅れに繋がるため、駆け込み乗車はおやめください。

そのアナウンスは車内全ての人間に対してなされていた。

あの54歳くらいの男は黙って吊革につかまり、最近流行りの自己啓発本『サクセスの神様!強盗殺人犯の私でも立派に更生して今では年商3億円の会社社長です!』を、カバーも付けずに読んでいた。

数十年間、社会から隔絶した生活を送りながら、塀から出た瞬間、異例の大活躍を始めたその人物について、ロングインタビューを軸にしながら、そのサクセスストーリーについて、丁寧に、わかりやすく書かれていた。

夢中で本を読む男に、周囲の人々が、憎しみのこもった目を向ける。

電車が動き始めた。

アナウンスは、執拗に繰り返されていた。
……駆け込み乗車は大変危険ですので、おやめください。無理をせず、次の電車をお待ちください。

見つめる人々。

さすがに、54歳くらいのエリート風男性も、アナウンスと憎悪の視線に気付いた。
男は黙って、すぐ真横で自分を見てくる若いマスクの男の目を見た。

また、アナウンス。……駆け込み乗車はおやめください……。

自己啓発本を床に叩きつけ、男は薄くなりつつある髪を掻きむしった。

「うるせえ!うるせえ!俺に駆け込み乗車させる世の中が悪いんだろうが!俺だって好きで駆け込み乗車してねえぞ!誰が好きであんな危険で、しかも、人から軽蔑されるようなことを進んでやるんだよ!そうだよ!わかってるよ!軽蔑されるってことくらいわかってるんだよ!ボゲ!それでもやらなきゃいけないんだ!俺はな!そういう人間になりたかったんじゃないんだ!でも、ならざるをえないじゃないか!ああ?なんだボゲども!じゃあお前らが、俺をどうにかしてくれるのか?できるのか?駆け込み乗車しなくても生きていける人間にしてくれるのか?そんなの無理だろ!俺が主体的にやってるわけじゃねえんだからな!俺の主体なんてそもそもねえんだ!俺は、俺じゃねえんだ!誰が好き好んで電車の閉まってるドアに体当たりするんだ?言ってみろよ!なあ!言ってみろ!ふざけんな!やってられねえんだよ!クソみてえな目で見て来やがって!てめえらだってここにいるってことは俺と大して変わらねえんだからな!このクズども!いちいちウザいんじゃ!ボゲどもが!お前らは全員卑怯者だ!」

唖然とする周囲の人々。エリート風であり、エレガンスに満ち、知的にも見えた彼が、今や顔を真っ赤にし、歯をむき出しにし、目を釣り上げて地団駄踏みながら怒鳴っている。

「こんな本読んだってサクセスなんてできるわけねえんだよ!わかってんだよ!それくらい!」

足元の本を踏みつけながら叫ぶと、男はスーツのジャケットを破り、ズボンも脱ぎ捨て、中年男性の、剥き出し、全裸状態を露呈したのである。

54歳くらいの彼だが、興奮状態であるためか、チンポコはフル勃起であった。赤黒いチンポコは約18センチ。なかなかに大きい。ビクンビクン震えていて、先走りの粘液が、先端の穴から出ていた。

……出したい。射精したい。出したい。射精したい。射精。射精。射精……それだけが、今、興奮状態における、男の思考回路全てなのだった。

 

壁に貼られた下手くそな絵。黄色いクレヨンで、何を描こうとしたのか、何の意図があるというのか、全くわからない幾何学的な模様が、そこには現前している。知性のない猿にとりあえずクレヨンを渡してみたら、こんなものができました、とでもいうような絵である。
部屋は、異常なほどに静かだった。
音楽という概念が、この部屋にだけは存在しないようにさえ、思える。
白いティーシャツを着た女は、ぼーっとしていた。
……絵を見ると、昔、ほんとうに好きだった人を思い出す。美術学校に通っていた頃、私も下手くそな絵を、描いていた。アーティスティックな感じを意識して、基本もできていないのに、いきなり野獣派みたいな原色だけを使って、それをキャンバス上にぶちまけるようなスタイルで、描いていた。
そうして私は教室でキャンバスに向かい、筆を持ち、甲高い奇声をあげながら、がむしゃらに描いていた。それが、天才っぽいイメージだったから、そのようにすれば、みんなが、私のことを「もしかして天才なのかな?」とか、思ってくれると、考えていたから。
「それは、マティスを意識しているの?」
そんな風に、あの人は声を掛けてきたのだ。
あの人は熊のような体格をしていて、毛深くて、とにかく大きかった。
猪熊要七郎という名前だった。
彫刻の勉強をしているのだと言っていた。
見せてもらった。
彼の作る彫刻は、ピテカントロプス、ネアンデルタール人、北京原人、そんなものばかりだった。みんなチンポコが立派だった。
「原始人が好きなの?」
私は言うと、猪熊要七郎は笑った。
「君は、本当の知性というものが、どういうものか考えたことがあるか?」
その日から、私と猪熊要七郎は、ランチを共にするようになった。
猪熊要七郎は、学校を卒業したら山奥に小屋を作って、そこで芸術活動をするのだと真面目な顔で言っていた。
「そこでは常に全裸で過ごす。自然と一体化し、自然の知性を吸収し、それを具現化する。大切なことを、ひとつひとつ、魂を込めて作ってみたい」
……私たちは男女の関係にはならなかった。でも、私は彼を愛していたのではないか。わからない。私は結局、勉強が嫌いで、ずっと野獣派を気取って、アーティスティックな感じを演出することだけに情熱を注いで、それで、終わってしまった。
私は、絵を描かなくなった。
同時に、彼との交流も、途絶えてしまった。
今、どうしてるのだろう?数年前までは、彼の作品は良く雑誌で取り上げられていた。最近は全く、何にも露出がない。
山に、いるのだろうか……。
何も意識しないで、女はぼーっと、壁に貼られた絵を見ていた。
そうやって見ていると、模様が、段々と崩れていくように思われた。組み合わされた四角い形は溶けていき、にじんでいき、それぞれを隔てている線が消え去り、やがて全部が混ざっていく。

 

憔悴した様子の全裸の男が、駅員や警備員数名に腕や肩や腰を掴まれて連行されていた。駅構内を歩いている多くの人々が立ち止まり、興味深そうにして、持っているスマートフォンを、その連行されている全裸の男に向けていた。
「映画の撮影かな?」
赤と黒のチェック模様の長袖シャツを着ている若い男が言った。
誰も、答える者はない。
「多分、映画の撮影だよね?」
若い男はもう一度言った。誰も、答える者はなかった。みんな、思い思いに撮影を楽しんでいる。
誰も自分の声に応じてくれないことに少しだけショックを受けた。この人たちは、ここに存在しているように見えるが、実は存在していないのかも知れない。そのことを実証するために、こいつらのうちの弱そうなやつの頸動脈とかをカッターで切断してみるのも一考の余地があることかも知れない。
残酷な映像を、数十秒間、思い浮かべるが、すぐに止める。
「でも、平和が一番だよね」
駅の出口から5分ほどの距離のところにある立ち食いソバ屋でキツネソバを食べて、彼は街路の向こう側に消えた。

赤と黒のチェック模様の長袖シャツを着た若者は、板橋区内にあるワンルームマンションに帰宅した。
「ただいま」
誰も、答える者はない。彼は大学生で、地方から上京し、一人暮らしをしているのだ。
部屋は本が山積みにされていた。ほとんどがビジネス本や自己啓発本だった。新興宗教の教祖が人生の正しいあり方について語る本もあった。どうにか東京でサクセスしたい、というのが、彼の願いだった。
「やりたいことや、特技なんてないけど、有名になって一発当てて、金を儲けて45歳くらいで社会生活からは引退し、悠々自適の生活を送りたい」
そんなことを、壁に貼ってある《頑張れば夢は叶う。諦めない不屈の心が大事だよ》と書かれたポスターを凝視しながら言うのである。
《明るい未来に向かって翼広げて飛び立とう!愛の溢れる世界目指して!力強く歩いていこう!僕たちの物語永遠に続くサクセスの旅!》
これは、彼が大好きなポップソングの歌詞である。彼は部屋で一人のときに、よくこの歌を口ずさむ。ポジティブで、明るい気持ちになってくるのだ。
彼が、本を手に取ろうとしたときに、物音がした。
彼は、手を止めて、部屋を見回す。
「え?」
「紙山陽介くん?」
女の声が言った。トイレのドアの向こうから、聞こえた。
「紙山陽介くん?」
すでに、赤と黒のチェック模様の長袖シャツを脱ぎ、上半身裸の彼は、トイレのドアを開ける。
そこには、地味な鼠色の和服を着た、70歳くらいの老女がいた。便器に座っているのだった。
「あの……」
「紙山陽介くん?」
老女は、干からびた鳥を連想させる容姿をしていた。彼は、そんなふうに思うことはかなり失礼で、お年寄りは常に敬わねばならないと、即座に自身を戒める。
「は?」
「あなた、紙山陽介くんでしょう?」
「いや、違いますけど……」
老女は、静かに便器から立ち上がり、彼の横を通り抜け、玄関口まで足音もたてずに歩いていき、そのまま、玄関ドアを開けて、部屋の外に出て行った。

 

……私は、自分の人生や考え方を、完全に肯定することが、できない。

だから、自分の人生や考え方を肯定して満面の笑みを浮かべる人を見ると、恐ろしくて涙が出そうになる。

「ぼくの笑顔がみんなを幸せにするんだと、ぼくは断言できるよ!」

自信に満ち溢れた人が、叫びながら、胸を張り、笑顔で迫って来るのだ。それが、本当に怖くて仕方がない。

そんな自分は病気であり、治療しないとダメなんだと思った。

それで、よくわからない地域情報誌に載っていた、スマイル推進教室に通ったこともある。

駅ビルの最上階にある教室だった。
部屋は、奥行きが15メートルほど。白い壁。天井には『太陽の神様みたいに笑い合おうよ!』と、力強い書体で書かれた紙が貼られている。

そこの講師がスマイリスト(笑顔の伝道師)を名乗る勝田マナブという人物。

坊主頭の筋骨たくましい若い男で、タンクトップ姿。脇毛が豊富に生えていて、そこから凄く酸っぱい臭いをさせている。もちろん、常に笑顔である。

「笑顔は自信に繋がります。まずは形から入りましょう。さあ、みんならしい笑顔を見せてみて?」

教室にはテーブルはなく、パイプ椅子が規則正しく並ぶ。私は、1番先頭の列に座っていた。

「にーって言いながらやると、いいんですよ」

そんなアドバイスを、勝田マナブはしていた。私の両隣には、スーツ姿の無愛想なサラリーマンみたいな人が座っていたが、それぞれ笑顔を作り始めた。

40歳超えたおっさんが、にーっと言いながら笑顔を作る、そういう光景だ。

「いいですよ!みんな!いい笑顔!幸せ!そうですよ!これが最高の幸せ!」

勝田マナブは両腕を上げ、バンザイのポーズ。もちろん笑顔である。白い歯が光っていた。彼の脇に生えた豊富な脇毛が丸見えとなり、同時に物凄い酸っぱい臭いが、教室中に拡散された。

「笑顔で幸せ!ぼくもね、この笑顔で道を歩く女の子とよくそのままホテルに行きますよ!声を掛けてみると、女の子はみんな目をトロンとさせてね!そして次の瞬間にはセックスしているわけです!みんな!セックスは好きですか!」

「はーい!セックス大好きでーす!」

「今は幸せですかー!」

「はーい!笑顔がマックス超幸せ!笑顔がマックス超幸せ!ああ!ああ!」

……教室は盛り上がる。熱気が凄い。
私は、少しも笑えなかった。臭いし、不愉快な思いがしていた。

「君、笑いなさい?」

最初は、勝田マナブも優しく言ってくれた。
しかし、私が言葉を無視し、下唇を噛み締めて笑わないでいると、眉間に皺を寄せた。

「なんで笑わないんだ?あんた、やる気あんのかよ。辛気臭い顔しやがって……」

私は黙っていた。下唇を噛み締め、眉毛を八の字にし、目は、潤んでいた。
勝田マナブは私を凝視していた。

「おい!この野郎!なんか言ったらどうなんだ!スマイル推進教室に来て、なんで笑わないんだ!笑えば幸せなんだから笑えこのクズ!ゴミ!お前は笑え!このクソ!笑わないか!このカス!チンカス!ヘドロ!お前は朝方の駅構内にあるおっさんが吐いた臭い吐瀉物だ!この、ボゲ!」

私は結局スマイル推進教室から追放されたのだった。どこに行っても、明るい気持ちになることはできない。私は、画用紙に黄色いクレヨンで向日葵を描いた。勝田マナブが、最初に言っていたのだ。向日葵の花は元気いっぱいの象徴なのだと。

その絵は部屋の壁に透明なテープで貼ってある。最近はあまり目にもしなくなったが、多分、今でもあると思う。

向日葵の絵を描いても、明るい気持ちにはならない。スマイルは現れない。

どうすれば、いいのだろうか。

……電車に乗り、吊革につかまって自己啓発本でも読めば、いいのだろうか。

強盗殺人犯の男が書いたサクセスなんとか、という本が、大ベストセラーになっているらしいが。

強盗殺人で数十年社会から隔絶されていたにも関わらず、塀から出た瞬間、大活躍を始め、今では年商3億円の会社の社長なのだという。

いかにも大衆受けしそうなサクセスストーリーではないか。

苦難の人生について、その人物はテレビで語っていた。
見たところ70代の男性。短い白髪。目は、サングラスを掛けているために見えない。毛皮のコートを着用。腕には純金だろうか、ごつい時計を付けている。

「はい。殺したのは若い女と、幼い子どもでした。はい。この手で首を絞め、首の骨を折り。散々ののしられました。私を鬼畜だとね。人の心がないサイコ野郎だと。悔しかったな。私にだって心はありますよ。人間だもの。内容は忘れましたが不幸な男女が恋愛をして最後一緒に死ぬとかそんな感じの悲劇的な小説を読んで、夜の間ずっとすすり泣きをしていたことだって、実際、あるんですから。そうして、私は塀のなかで勉学に励み、サクセスした。……確かに若い女と幼い子供を殺しましたが、それは過去のことだ。人は、過去にいつまでも囚われてはいけない。前を向いて進まないといけないんです。希望に向かって。ポジティブになって真っ直ぐ光に向かって行かなきゃいけないんです」

その人物は最後、サングラスを外し、笑顔でカメラに向かってウインクしていた。
「みんなも、サクセスしようね!」

世間ではその人物は概ね肯定的に評価されているようだ。
『辛い過去に囚われないで前を向いてサクセスし続ける姿がステキ』とのこと。
私もいつか、彼の本を読んだ方がいいのかもしれない。

……私は世界の全ての人から馬鹿にされているし、ゴミだと思われている。
そういう考えに、どうしても、取り憑かれてしまう。

頭の中に「お前はゴミ!死んじまえ!」そういう声が、反響しているときもある。
脳内にチップを埋め込まれ、何か、そのような声を受信するように、なっているのかもしれない。
そう思って、電柱に頭をぶつけていたら、警察官に捕まり、薬物検査を強制された。辛辣な言葉、例えば「お前みたいな奴は生きている価値がない」とか、取り調べの際に言われたが、何も感じなかった。社会正義を体現する警察官でさえ、私をゴミ扱いするのか。そこに怒りはなく、いっそ、清々しい感じすら、あるように思われた。

「お前はさ、一言多いんだよな!」

会社の上役から、そのように言われたことがある。しかし、私はほとんど話さないタイプなのだ。極めて寡黙な人間なのだ。……それが、一言多いとは、つまり喋るな、ということなのか。

……土に還れば、話すこともなくなるだろう。だが、どこの土がいいだろうか。
私は最近、いい土について、それが、この国のどこにあるのかを調べることに、注力し始めたところだ。

 

『ゴリパン』開店の日。
賑やかな店内。忙しく動き回る店員たち。
兼田マグオはその様子を満足そうに眺めていた。
店内はお洒落な装飾で満たされていた。
銀色の流線形、知的なムードを演出するオブジェ……白い壁にはウォールステッカーによる鮮やかな花々……。観葉植物も、良い感じだ。そして、世界の国旗が、天井から長く、垂れている……。
カウンターテーブルには金色の花瓶があり、真っ赤な薔薇が生けられている。
現代社会の殺伐としたムードを吹き飛ばす癒しの数々……。

「ようやくオープンか。長かったねえ、兼田くん」

頭髪の欠如している太った中年男性、部長が言った。顔中に油がべっとりとついていた。

「はい。『ゴリパン』開店です」

兼田マグオは感慨深い顔をして言った。何回、動物園に断られたことか。

オープン記念に招待された、高級スーツやドレスに身を包んだ正真正銘のセレブたちが拍手した。

兼田は恥ずかしそうに顔を赤らめてお辞儀をした。
「みなさん。ありがとうございます。これは現代社会において、記念すべき出来事だとぼくは断言できます」
彼が、微笑みを浮かべながら頭を上げた、そのときであった……。

「やめなさい!テツオ!ダメ!ダメ!」

外から、女性の甲高い悲鳴が聞こえた。
窓ガラスが派手な音を立てて割れた。二メートル以上あるだろうか、巨大なゴリラが店内に勢いよく飛び込んできた。

「やめなさい!テツオ!」

女性の声は無視された。巨大ゴリラは近くにいたセレブ女性の顔面を思い切り殴った。女性の首は変な方向に捻れた。女性は血を、口から吹き出した。店内は騒然とした。やばい、とか、生ゴリラだ、とか、これってフラッシュモブとかじゃないの?とか、思い思いに叫びながら、第一級のセレブたちが、逃げ回る。

「テツオ!テツオ!」

ゴリラは高級スーツを着た50代くらいの男性の股間を鷲掴みして引きちぎる。

「ウギャー!」

放り投げられた肉の塊。それは男性の陰部である。
逃げ回るセレブ、追いかけるゴリラ。
花瓶は床に落ちる。オブジェは倒れて折れる。観葉植物は滅茶苦茶にされる。旗は天井から引きずり降ろされてボロボロにされる。壁の花々も、セレブたちの血飛沫で台無しになっている。椅子が倒れる。テーブルは真っ二つに裂ける。

人間の臓物が転がる。血反吐を吐く人々。服を剥ぎ取られ、すでにセレブとは思えない見た目。みすぼらしく、醜く、おぞましい、目を背けたくなる光景……。

「なんだよ、これ……」

兼田マグオは、カウンターの中から店内フロアで繰り返し演じられている惨劇を見ていた。

「マジで、なんなんだよ……」

横を見ると、すでに部長はいなかった。置き手紙があり、「なんかやばそうなんで帰ります。ごめんね」と書かれていた。

 

「お前の人生や考え方全てが間違っていると断言する!」

自身が分泌する油によって全身を濡らしている、頭髪の欠如した太った男が、顔を真っ赤にして、全力で叫ぶ。
卓袱台を挟んで。私の目の前で叫ぶのである。
私も男も、手にはガラス製のタンブラーを持っていて、そこには酒が注がれていた。

「わかるか?間違っているんだよ!お前はよお!」

その言葉を、明確に「違います」などと、私は否定することができない。
否定できるほど、私は自分に自信がない。
「違います。私の人生や考え方は全く間違っていません。完全に正しいです。客観的、俯瞰的に見て、正しいです。そのことを否定する人間の人生や考え方こそ気持ち悪いですし、間違っていて、悪魔主義的であり、即刻死ぬべきです」
そんなことを、私は言うことができない。

「どうなんだよ!なんか言えや!」

赤い顔をして、男は凄絶な叫び声をあげていた。
私は、男の背後の壁を見ていた。
そこには、誰が貼ったのであろうか、画用紙が貼られていた。黄色いクレヨンで、花のようにも、幾何学模様のようにも見える、得体の知れないものが、描かれていた。
このようなものを描く人物の気が知れないと思う。
どういうつもりでこんなものを描いたのだろうか?明るい気分にも、暗い気分にもなり得ない、つまりは、どこにも辿り着けないような絵である。何も考えのない低能な猿が、嬉々としながらクレヨンで描いたような絵である。

「公園でタハラという近所で有名な爺さんがベンチに座って赤いクレヨン一本で画用紙に何かを描いていたらしいんだ。それで、公園で遊んでいた小学生の男の子たちが、爺さんのところに群がってきて、ねえ、何を描いているの?動物さん?と聞いたところ、爺さんはにこやかに笑って、画用紙を見せたんだ。そこにはね、その場にいる小学生それぞれの詳細な全裸が、非常に猥褻なデフォルメを施されて描かれていた。きみたちみんなエロいね、だから、性的に搾取したいと思ったんだ。爺さんはそう言った。そうしたらPTA会長とか、自治会長とかが団体で来て、タハラの爺さんを拉致し、地下室で鉄パイプやバールのようなものでもってボコボコにしたというんだ。爺さんは血まみれになって許しを請うたと言うよ。最後まで、あの子たちを見てエロい気持ちを抑えるのは無理だ。私は私自身にそんな嘘をつくことはできない。私はいつも誠実でありたい。特に、エロいことには誠実でありたいんだ。そのようなことを涙を流して、爺さんは延々と訴えていたというよ。タハラの爺さんは80歳は過ぎている老人だけど、信じられないくらいにピュアな魂を持っている人物だ。だから、そのピュアな魂は穢れ切った大人たちには理解不能で、だから、ボコボコにリンチされたんだろう。結局、意識不明の重体で病院に運び込まれたのだが、そこの病院を経営している人物に対して、PTA会長や自治会長が告げ口をしたんだ。そいつは危ない奴だから、延命措置なんぞしたらお前の病院ではドクターが患者のケツにお注射と称して自身の太いチンポコを挿入する傾向があると流布するからなと脅しをかけた。病院は、タハラ老人の治療を中止した。もちろんその日のうちにタハラ老人は死亡した。死体は秘密裏に解体され、自治会長の経営する養豚場で餌として処理されたのだという」

私がぶつぶつと、そんなことを言っている間に、あの叫んでいた男はいなくなっていた。多分彼はちゃんと「ご馳走様」と言って、出て言ったのではないか。真っ当な教育を受けて来た彼の、育ちの良い部分が、その言葉からはいつも読み取ることができるのである。

「タハラさんがPTA会長や自治会長やアーケード街の店の連中から激しい暴行を受けて、鉄パイプとかで顔面をぐしゃぐしゃにされているときに、私は見ていることしかできなかった。人道主義的にまずいのかなとか思ったけど、タハラさんとはそんなに話したことがなかったし、正直、助けたいとか思わなかった。しかも、自分の身を危険に晒してまで、である。だから、私は小鹿のように脚をプルプルと震わせて、タハラさんが壮絶なリンチを受けるそのようすを見ていることしかできなかった。そのことで、私を責める人はいないと思うし、もし、責め立てる人がいるのだとしたら、私はその人のことを絶対に激しく憎むし、死んで欲しいと願ってしまうに違いない。どういう立場から、私に対し「タハラ老人の身代わりになって死ね」などと言えるというのか。私は、私自身の方が、タハラさんよりも大事である。それが、いけないことだと言うのだろうか?」

そんなことを、私はぶつぶつ言っていた。ぶつぶつ言いながら、怒りが湧いてくるのを感じた。怒りはいけない。静まらねばならない。壁に貼られた絵を、再度、凝視する。私は酒を、チビチビと飲み、皿に盛られたイカの塩辛を素手で摘まんで食べた。

 

「天誅!キエエエエエエエエ!」
大きな通りに、年老いた男の甲高い絶叫が響いた。
パタパタと……走り去る足音が、遠くなる。
雨が、降っていた。
テレビ局で、つい十分前まで「サクセスし続ける人生」を語った男は、腹部を押さえてうつ伏せに倒れた。
テレビ局の、ちょうど門を出たところだった。大通りに面したところで、人通りが非常に多い。
夥しい量の血液が、倒れた男の周囲に溢れていた。
すでに死んだのか、男は全く動かない。
横向きにした顔。目を見開いているが、何にも、焦点が合っていない。眼球の表面には、確かに反射する映像がある。しかし、もはや、何も見えていない目。
顔色は青ざめている。急速に、灰色に近い色に変わっていく。
男が掛けていた高級ブランドのサングラスはすぐ横に落ちていて、
踏みつけられたのか、レンズがぐしゃぐしゃになっていた。

「何?」
「え?人殺し?」
「マジ?」
「やばくない?それ」
「やば!やば!」
「あ、この人、あのベストセラーの人じゃない?」
「サクセスの人?」
「ほんとだ!うそ!」
「死んだの?」
「なんで?いい人だったのに!」
「うそ!やばくない?やば!」
「えー、マジで!やば!やば!大ニュースじゃん!」

周りに集まった人々は懸命にスマートフォンで倒れた男を撮影していた。
この滅多に見ることができない光景を利用して、何としても自身の承認欲求を満たさなければならない。

数分後には、インターネット上に多くの画像がアップされた。

「なんか、動かないし、飽きたね」化粧の濃い女子高生Aが言った。「こういうときに一般大衆に向けて適切なサービスを提供できないのって、終わってない?」化粧の濃い女子高生Bが言って、金色の髪の毛を触る。そして、ラメなどで過剰に装飾されたスマートフォンを持っている化粧の濃い女子高生Cが「つまんないね。帰る?」と言った。

《充実したサービスを提供してくれないものに、用はない。》

そうして、人の群れが、「サクセスの神様」の死体から離れていく……。ひとつのムーブメントが終わったのである。

 

……雨が、降っていた。
雨滴が、倒れている男の周囲、その血だまりに波紋を描く。
雨によって薄まりながら、血が路上をどこまでも流れていく。
血は、排水溝に落ちて、ドブ水と混ざり合う。
ドブ水には、腐りかけたネズミ・猫・犬の死体、溶けた胎児、切り刻まれた殺人被害者の死体、思春期の少年が書いた青臭いポエムの切れ端、マネキンの腕、中年男性が側溝に向けて吐き出した吐瀉物、精液で満たされたコンドーム……そうしたものが浮かんでいたり沈んでいたりした。

そうして、臭い水は、どこまでも流れていくのだった。

2021年6月5日公開 (初出 2021年5月14日カクヨムにて公開

© 2021 モグラ研二

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