ふわりと浮かんでどかんと入ってくる

90年代オカルトブームよ再び!応募作品

伊和七種

小説

18,824文字

「ふわりと浮かんでどかんと入ってきたのは俺だった。俺の中に俺がいる。これは至極自然なことなのだが、目下の俺は大きな違和感を覚えた」
 初めて投稿します。昨年コロナ禍の身動きできない中、一あたりした同郷の民俗学者柳田国男の著作を踏まえて書いてみました。14歳の柳田少年が潜りこんだ石祠の中から見上げた真昼間の空に十数個の星をみた。「出典故郷七十年」体内に妙な童子を飼っている柳田をイメージしました。

1.

海沿いの病院から新宿に戻り京王電車に乗り換えた。新宿駅ホームは夕刻でもないのにごったがえしている。高幡不動行き各駅電車で帰ることにした。うつらうつらしていると、どこからか声がする。夢の中かとも思ったが、眼をあけると、隣にいた爺さんに話しかけられていた。目があうと驚いたような顔をするけれど、驚くのは俺の方だろう。

「お悩みのようですね。お顔をみればわかります」

就活中の学生のような真新しい紺の背広姿ではあるが、顔面には顎鬚を伸ばし、いかにも、うさんくさそうな風体である。宗教団体の布教活動か。電車の中でよくやると呆れ、次の駅で駅員に突き出してやろうと思ったが、このまま帰っても話し相手もいない。少しなら相手をしてやってもいい。とはいっても俺の方から尻尾を振る必要はない。半目をして爺さんの動きを伺っていると、ここでは話しづらいでしょう、なんだか俺に便宜を図ったかのような物言いで、調布駅で降りませんかと急かしてくるから、ついて行った。

爺さんは駅前の交番横にある喫茶店に入った。ほかにも喫茶店はあったのに交番横の店を選んだのは、俺を安心させる手だと逆に身構えた。入口から一番遠い席に座っていた女が小さく手を振ってきた。爺さんの娘か。いや、手の振り方に馴れ馴れしさはない。顔のつくりも爺さんに似ていないし年恰好からしてもふけすぎている。たぶん仲間の女であろう。コーヒーでいいですかと聞いてくる。口腔内に激痛が走った。さっき、口腔癌ステージⅢの告知を受けたばかりだ。コーヒーなど持ってのほかであるが、水だけというわけにもいくまい。穏当にオレンジジュースにする。さて、どういう段取りで進むだろうと注目していると、口を開いたのは女だった。

「まんまる教に入信しませんか? ご利益ありますよ」

妙に甘ったるい声で単刀直入な物言いである。こういうケースでは相手の心の内を吐き出させ、悩み不安怖れを聞き取ることから始めなければならない。少なくとも、学生時代にやっていたこの手のバイトではそうだった。

「聞くけど、どんなご利益があるのか教えてくれよ」意識して尊大に訊ねると、「それはわかりません。神のみぞ知るところですから」と俺以上に尊大に返してくる。

「その神とやらに会わせてもらおうか」こうなったら喧嘩腰だ。隣の客が驚いて俺たちを見ている。爺さんは弱りきっている。女は布教活動員として失格である。だが人前で叱るわけにもいかない。この場をどう取り繕おうか考えているのだろう、すまし顔でコーヒーをすすりだした。俺は、爺さんにコーヒーを飲み干す猶予を与えたつもりはない。俄に立ち上がり店を出た。当然支払いは爺さんだ。早走りになった。爺さんらが追いかけてくるものと思って気が急いた。曲がり角まで来て振り返った途端、ひび割れた道の端でけつまずき、顎から地面に落ちた。爺さんにも俺自身にも無性に腹が立ってきた。

街路樹の向こうに鳥居が見えた。ここまで来たら神社に参拝して帰ろうと思った。しかし鳥居の先に続く砂利道の向こうにお社がない。金色の幟旗が左右に二本、緩やかな風にたなびいているだけだった。砂利道の左右には民家が続いており、二階には洗濯物が干してあった。幟旗を手に取ったが、祭神の名を現す印字も氏子中の縫い合わせもない。賽銭箱も見当たらない。商売っ気のない神社である。しかし何様かは祀っているはずであろう。幟旗に向かって二礼二拍し最後に一礼をしようとした瞬間、背後からなにかにぶつかられた。不意打ちを食らって、また転んで今度は顎と腰を打ち付けて立ち上がれない。そのままの姿勢で右後方を振り返ると、黒いランドセルが投げ出されていた。周囲を見渡したが誰もいない。ランドセルの横っ腹で、鬼太郎と目玉の親父の根付けが揺れている。ランドセルの把手のくたびれ具合から、持ち主は右か左かの民家に住む小学五、六年の男児だろうと見当をつけた。ぶつかった拍子に、背負っていたランドセルが外れたが、それに気づかないほどに、早急に家人に伝えなければならない緊急事態に遭遇していたに相違ない。ランドセルをあければ、筆箱か教科書に書かれた名前で持ち主を特定できるはずだが、すぐに戻ってくるだろうから、そのままにしておいても問題ないと考え、駅に戻りかけた。その時、鳥居の下に爺さんと女がぼんやり佇んでいるのが見えた。ランドセルを放置したまま、立ち去ろうとしていると思ったに違いない。それでいいのだ。二度と会うこともない連中である。しかしそれが出来ない。俺の弱さなのだ。甘さと言ってもいい。幟旗の下まで戻りランドセルを拾い肩にかけ、爺さんたちの脇をすり抜けようとした。すると、背中のランドセルを予想以上の力でむしりとり、「どうぞ行って下さい。時間取らせてすみませんでした」爺さんは穏やかな声でそう言ったから、反射的に、俺は何度も辞儀を返してしまったのだった。

2.

あくる日、五時前に起き出した。カーテンの隙間から漏れる光が白み始めている。庭に出て多摩川を眺めた。庭は頼りない柵で覆われ多摩川に面している。ここに住み始めてから釣り糸をたらしたことがあったが、すぐに内水面漁協の職員がやってきて、遊漁券を買わないと釣れないと厳しく注意を受けた。一体どこから監視していたのだろう。なんだか、周辺住人の内で俺だけが狙われて注意を受けたようで面白くなかった。それ以来釣りはしていない。軽く体操をする。身体を動かすたびに顎の傷がうずき腰も痛い。大きな動きをするとバランスを崩し多摩川に吸い込まれそうになる。なぜか、多摩川は俺の家の前だけ、深い碧色をしている。

家の中に戻った。まだ十分な明かりが奥まで挿し込んではいない。部屋は手前にリビング、奥に台所と食卓、左右を寝室と書斎に使っている。食卓の左右には、床から天井までの高さの食器棚がある。久しぶりに茶でもたてるかと、棚から湯飲みを取り出す。湯飲みは京都東寺の弘法市に店を出している幼なじみの和田から買った。和田と俺は八王子市の小学校の同級生だ。和田はT大学を卒業し丸の内の商社に勤めたが、三年海外勤務をした後、さっさと退職し京都東山七条の三十三間堂隣の築百三十年の町家を改装して竹細工工房をはじめた。もう五年になる。幼い頃から肝だめしやこっくりさんが好きで、みえないものがみえるようなことを言っていたから、そういうものが大勢いるらしい京都住まいが出来て喜んでいる。弘法さんの日、毎月二十一日、東寺で開かれる弘法市に出店する和田は、自ら作った竹細工のほか茶道具も扱っている。キクちゃんを連れて京都に出かけ、件の湯飲みを買った。関東の女は京都好きで和雑貨好きだと聞いていたがキクちゃんに関してはそうでもなかった。簪商売で馴染みになった宮川町の舞妓、名前を「とし香」と言ったと思うが、彼女を誘って、晩飯会を設営してくれた。とし香は着物姿でやってきて舞や踊りを披露してくれた。二時間近く舞妓を呼ぶのにいくらかかるのか知らないが、最高のもてなしをしてくれたと感激したが、キクちゃんはそうは見ていない。帰りの新幹線の中で、和田がとし香をものにしたいと考え、私たちをだしに使ったのよと言う。そういうものの見方の出来るキクちゃんに感心した。

件の湯飲みを、足下の抽斗から取り出した麻のハンカチで磨く。まず外側から。顔を背けて息をひそめ、やや上目つかいに拝み見るようにして磨く。ひとしきり手を動かしていると望ましい光沢が現れる。次に内側。手の先にハンカチを軽くまきつけ、開いた口を傷つけないように丁寧に撫ぜる。外側を磨くのに比べると案外難しい。磨き残しがある。理由はすぐにわかった。手がべたついている。庭の柵に触った時、何かに付着したようだ。粘っこくて動物の油脂みたいで気持ち悪い。洗面所で洗ったがうまくとれない。それで茶をたてる気力が失せてしまった。

湯飲みを棚に戻しハンカチを抽斗にしまい、再び部屋の真ん中を横切る。空気が淀んでいる。昨日、面白くないことが立て続けに起こったから気持ちも淀んでいる。寝室に戻りベッドに横たわり薄目をあけ天井を見上げる。天井は四隅を同時に視界に収めることはできない。視野に入るのは頭とつま先の右上の二隅だけだ。目を閉じ四隅を一つ残らず思い浮かべようとした時、流れ落ちる水が何かにあたる音が聞こえた。やかんの底を水がたたく音のようだ。次にシュワという音。これはコンロに火をつけた音だろう。湯を沸かそうとしている。天井を見上げるのをやめ、台所に神経を傾けた。湯は沸いたようだ。勝手に棚をあけている。取り出した食器を食卓の上に載せる音。ガラスでも金属でもプラスチックでもない。陶器の食器の音。続いて茶筒を開ける音。茶葉を急須に入れた。そこで、俺は身体を起こし物音を立てないように注意しリビングに入り、完全に光が入りきっていない奥を見た。食卓の上で急須を傾けている背中が見える。キクちゃんが帰ってきたのではないことはわかっている。湯飲みから湯気がたちあがっている。半袖半ズボン姿から想像するに少年の背中のようだ。玄関は閉まっているはず。庭に出て、窓の鍵を閉めたかどうか覚えていない。ベッドの上でぼんやり天井を見ている間に、少年が庭から侵入してきたと考えるのが自然だろう。深い碧色の水面からあがってきたのか。それなら少年の体が濡れていなければならない。リビングに水滴は見当たらない。すると飛来してきたことになるのか。そういえば背中に膨らみが見える。

そこまで想像して恐怖を覚えた。命の危険に晒されている。俄に少年が振り返り、牙を立て迫ってきたらどうする。音を立てずにリビングを通り抜ける。玄関に抜ける扉まで来た。少年の横顔が見えた。牙の有無はわからないが口は裂けてはいなさそうだった。ふっとため息が出た瞬間、壁に腰をぶつけてしまった。大きな音がした。やばいと思って肝を冷やしたが、少年は茶を飲んだ余韻に浸っているようで俺の方に顔さえ向けない。気持ちに余裕が出来たのか、無性に喉の渇きを覚えた。口腔内に出来た悪性腫瘍のせいで固形物が摂取できず水分だけで暮らしていた。俺は大胆な行動に出る。棚に近づき自分の湯飲みを取り出した。少年は俺がいるのに全く気にしていない。急須の蓋を開けてみると茶葉が少ない。俺は濃い茶が好みである。茶葉を足した。コンロの上でやかんの湯が煮えたぎっている。熱すぎてもおいしい茶は煎れられないが、さめるまで待てない。煮えたぎった湯を急須に注ぎ茶葉が広がるのを待って湯飲みに注ぐ。少年が湯飲みの底を神妙な面持ちでのぞき込んでいる。その傍らに急須を置いてやると湯飲みに茶を継ぎ足している。間近で少年の背中を見た。背中の膨らみは羽根である。ただ飛べるに足る形状と性能を持っているかどうかはわからないし、飛べるだけの背筋力が少年に備わっているかも疑わしい。

二杯目のお茶を飲み干し、ぼんやり庭を眺めるようになった。俺も一緒に庭を眺めた。しばらくすると何か思い出したように、やかん、急須、湯飲みを、流しに運び綺麗に洗って棚に戻し、あっという間に靴箱の上のランドセルを背負って出て行ってしまった。ランドセルは昨日のランドセル。根付けと、把手のくたびれ具合から間違いない。

キクちゃんに連絡した。昨日、病院帰りに起こった出来事を説明し、金色の幟旗下でみつけたランドセルの少年がやってきて茶を飲んで帰って行った。明日もくるかもしれない。来たら殺される。どうしようと一気にしゃべった。すると、どうせ死ぬんでしょう。好都合じゃない。死神よ。それと、取り付く島がない。暗に、昨日、医師や看護師の前で「死ぬ死ぬ」を連発した俺のことを責めているのである。

和田にも同じ報告をすると、体調を崩しているから幻覚でもみたんじゃないのか。それはないか。目に見ないものはどこにでもいるんだ。お前の庭の前は渡しだったんだ。三途の川の渡しだなどと、いくら打ち消しても、下品に笑いながら繰り返す。俺も打ち消しながら、家の前の蒼い水面の底はそうかも知れない。だから漁協の職員に厳しく注意されたのか、異世界のものでも釣り上げられた日には漁協にも問い合わせが行くか、と俺も、夜中に頻々と物音がする古い町家に好き好んで住み、二階から見える三十三間堂の庭を眺め、後白河法皇を悩ました髑髏がこっち向いていたと、一人酒を飲むのが好きな和田に毒されていく。「暇だったら行ってやるんだが忙しくて申し訳ないなあ」と、最後には友達らしいことを言って和田は電話を切った。

切った刹那には台所で物音がしていた。和田が呼んだんじゃないかとさえ思ったが、少年は、食卓で足をぶらつかせ、コンロにかけたやかんの湯が沸くのを待っている。きっと和田との電話の最中にはやって来ていたようだ。玄関を見たがランドセルはなかった。日曜だったことに気づいた。少年は好き勝手に茶を飲んでいる。俺も好き勝手に茶を飲んでいたのだが、突然、少年は気味悪そうに、俺を見てそのまま出ていってしまった。口腔内にできた腫瘍のせいで、お岩さんのように顔半分がものすごく腫れているのは知っているが、得体の知れないやつに驚かれるのは心外だったが、もうこれでやってこなくなるだろうと安堵は出来た。

翌日、起きたらキクちゃんがいた。「和田さんが、恭介がおかしくなっている。見てきてってうるさいから来たの」とぼやきながら、庭の周囲から寝室、トイレ、風呂場、クローゼットの中と、点検して何もいないことを確認し、和田に連絡を入れて、「いるわけないでしょう、そんなもの」と少し苛立って電話を切り、俺にも同じことを言った。

「そのとおり、もう来ないよ」俺は口の中で呟いた。そして、キクちゃんは、気持ちを落ち着けてこう続けた。「明日から入院よね。手術は三日後。忘れず病院には行くから心配しないで。先生や看護師さんに迷惑かけないでよ。いい子でいてね」俺を幼子扱いするキクちゃんは総合病院の小児科病棟勤務の看護師で日頃の習性が言葉に出ている。

キクちゃんを知ったのは朝の公園。お互い走っている時である。同じ府中に住むキクちゃんと俺の自宅の間にはランニングするには好都合な公園がある。俺は左回り、キクちゃんは右回りで走っていた。「おはようございます」と声をかけても返事がない。ランナーはすれ違うときには挨拶を交わすのがマナーである。キクちゃんにもそれを教えてやらないといけないと、挨拶を続けているとキクちゃんからも返ってくるようになり、それから親しくなり結婚したが、少し前、小児科病棟から集中治療室勤務にかわり、キクちゃんは看護師寮に入った。きつい職場だということは俺にもわかるが、寮に入る必要があるのだろうか。うちからでも通えるはずだが理由をきくのが怖いから、そのままにしている。

入院の準備はできた。あとは書籍とPCを入れた段ボールを送るだけだが、手術が終わったら送ってあげるとキクちゃんが言うので任せることにした。

キクちゃんが帰った後、台所で物音がする。性懲りもなく、また来ている。前日、俺の顔を見て驚いて帰ったくせにどうしたんだ。来るなら来るで構わないが、出来ればキクちゃんのいる間に来てくれると、キクちゃんに狼少年呼ばわりされなくてすむ。

三日目ともなると、手慣れたもので、スムースに茶を煎れている。三、四杯は立て続けに茶を飲んだ。そこではじめて少年はトイレに立ったがなかなか戻ってこない。腹を下したのか。それにしても遅いから心配になり様子を見にいくと、洗面台のボウルに顔を沈めてぴくりとも動かない。右手を少年の頭頂部に置いてみたが反応がない。そのままにしておくわけにもいくまいと思い、寝室に運んだ。救急車を呼びたいが背中の羽根が気になる。救急隊にきかれても応えようがない。和田に電話をしてみた。少年を死神だと揶揄するキクちゃんより、こういうものに親しんでいる和田の方が好意的なアドバイスをくれるだろうと思ったが、「ほおっとけば、いなくなるよ」とすげない。こうなったら様子を見るしかない。少年をそのまま寝かせて、俺はリビングで寝た。

明くる朝。寝室を覗くと昨夜と同じ格好で少年が横たわっていた。胸に耳をあててみるが寝息が聞こえない。八時になっても起き上がってこない。俺は少年を寝室に残したまま病院に向かわざるを得なかった。

3.

手術は、俺に言わせれば奇跡的に成功した。なにしろ十時間も手術台に寝かされていたのだ。舌の左半分とリンパにできた腫瘍を摘出し、太ももから切除した肉で舌半分を再建した。全身麻酔をしているから記憶がない。記憶がないのに思い出す。手術台の上で、口と喉を切られ寝かされている白目を剥いた己の無様な姿。白目を剥いているかどうか知らないけれど、思い出す時には白目なのだ。和田が話すどんなホラー話よりも恐怖を惹起する。助かったのは声帯が切除を免れたことだった。MRI検査では転移が疑われていたが、喉を実際に開けてみて転移はなかったらしい。これで当面教員の仕事が続けられる。しかし主治医が言うには五年生存率五十%。五年以内に二人に一人は死ぬ。月一度通院し鼻の穴から蛇のような細長いカメラを喉元に挿入し口腔内腫瘍再発の有無を確認し、半年に一度はCTを撮って映像でも確認する。これを最低五年は続けなければならない。

入院生活は一か月半だった。キクちゃんは病室には顔を出してくれなかったのは寂しかったが、手術には立ち会ってくれたし、ナースステーションにも何回か電話をし病状を確認してくれたようだ。それに、手が動くようになった頃に書籍とPCを病院に送ってくれていた。退院したことをキクちゃんに電話をしたが留守電しか出ない。確認したいことがあった。少年のことである。

家に着いた。すぐには入れず家の前を行ったり来たりしてしまう。一ヶ月半前の姿で少年が寝室で眠っていたらどうしよう。眠っている? そうではない。死んでいる。部屋中死臭が漂う修羅場となっている。第一発見者は書籍とPCを送るために家に入ったキクちゃんに違いない。そんな場面に遭遇したとしてキクちゃんはそのまま帰っていくだろうか。小さな少年の死体など、スーパー鮮魚売り場の生魚みたいなものだろう。切り刻み、勤務先の病院に持ち込み生理検査の被験物として処理してしまう。キクちゃんの住民票はまだここにある。それくらい平気でやる女だということを、俺が一番知っている。

隣の家のおばさんが怪訝な目でみていく。軽く頭を下げ家に入った。鍵を開ける。鼻をうごめかし、かすかな匂いも嗅ぎ取ろうとする。少しかび臭いが死臭はしない。台所からリビングに入りバッグを置いて寝室に向かう。寝室の扉はしまっている。あけて部屋の中を見ると蒲団に膨らみはなかった。少年はいなかった。大きく息を吐いた。

そこでブザーが鳴った。ぐきりとして出てみると宅配だった。病院から送った段ボールが二箱。ひとつは書籍とPCなどを詰めた箱、もう一つは病院が薦めた栄養ドリンク一月分である。当座はドリンクで栄養をとることになっている。一週間分だけ入れようと、冷蔵庫の扉を開けた。そこに少年がいた。目の錯覚かと思い冷蔵庫の扉をしめ、もう一度開ける。やはりいた。冷蔵庫は実家から持ち込んだもの。母の嫁入り道具の一つで、母の実家のレストランで使っていた業務用冷蔵庫。大きな仏壇のように両側に開く。少年の二、三人は楽に入る。入るからと言って入っていていいというものではない。冷蔵庫の前で、ドリンクパックを持ったまま考えこんでいると、大事そうに両腕で抱えた缶ビールを二本、差し出して愛想笑いをする。缶ビールは口腔癌の告知を受ける前に買って入れておいたものである。俺は鳥肌が立ち足も震えだした。携帯が見当たらない。冷蔵庫の上に置いてしまっている。慎重に冷蔵庫に近づく。もう少しで手が届く瞬間、少年が右手で膝を打ち、左手に持っていた缶ビールを戻し、代わりに左ポケットに入っていたチーズを掴んだ。チーズも口腔癌の告知を受ける前に買って入れておいたものだから賞味期限はとうの昔に切れている。ビールを飲めるような体調でも気分でもない。蹲踞の姿勢で躊躇っていると、少年は目を伏せて泣き出しそうだった。携帯は手にできた。余裕ができて、あふれだした涙をジャージの袖で拭いて肩を震わせている少年を慰めてやらないといけないと考え始めた。寒くはないのか、出てこいよ、と心の中で言って、左袖を取って冷蔵庫から引っ張り出そうとすると、逆に引き込まれそうになった。かろうじて少年の肩を両手で突いて距離をとった。冷蔵庫の中の少年の目がまがまがしく光っているのが恐ろしくなり、携帯と財布だけ持って外に飛び出し駅に向かって走った。少年が追ってこないか気が気ではない。走りに走ってホームにあがった。息があがる。止まっていた電車に飛び乗る。ドアの横の席に座り前を見ると爺さんがいた。あごひげに見覚えがある。爺さんの隣に席を移した。

「追われているんです。助けてください。入信でも寄進でも何でもします」あの時と違って爺さんに両手を合わせ懇願する。居眠りしていた爺さんは、俺の声に聞き覚えがあったようで、頭を右左に揺らしたあと目を開いた。電車の進む音だけが聞こえる。しばらく考え込んでいた爺さんは何かに思い至ったようで飛田給駅で降り、振り返りもせず駅を出て行く。黙ってついていくと野川近くにやってきた。爺さんの属する教団本部がこのあたりにあり俺を連れこもうとしているのではないかと思ったが、足は爺さんを追って進んでいく。心臓の鼓動が速鳴りしている。立ち止まった爺さんの前には鳥居があった。あの日の光景と似ている。爺さんはくるりと振り向き鳥居の真下まで来るよう視線を送ってくる。指示どおりにすると、あごひげをひと撫ぜした右手で鳥居を指差し、講釈を垂れはじめた。

「鳥居は私が若い頃に建てたものです。ご覧ください。参拝者がいらっしゃいます。ようやくこの地にも神様が飛来されるようになりました」

鳥居を仰ぎ見て合掌している親子連れやカップルの姿を自慢げに爺さんは眺めている。参拝者の後に続いて、俺も鳥居に手を合わせ、爺さんの指示を待っていると、突然、顔色が強ばり、鳥居の奥を睨みつけているのがわかった。

「噂の神様がいらっしゃいました。神様に会いたいという願いが叶えられましたね」と言って、身体をくの字にして最敬礼をしている。

「神様?ですか」振り返ると少年がものすごい勢いでこちらに向かって走ってくる。俺の頭の中では、少年と神様が一致しない。だがそんなことを考えている場合ではない。逃げないといけないと思った。百メートルほど走ったところで振り返ると少年がいないが中空で羽音らしきものが聞こえる。そこにはふわりと少年が浮かんでいる。目があうのを待っていたかのように、歯を出して笑いながら迫ってくる。どかんと音がした。俺は不快なめまいに襲われ、その場に昏倒した。

目があくとキクちゃんの勤務する病院に寝かされていた。ベッド脇に迷惑そうな顔をしたキクちゃんがいる。野川近くの道で倒れていたのを、救急車で運ばれてきたらしい。救急外来勤務の、俺も一度一緒に飯を食ったことのあるキクちゃんの同僚が気づいて、勤務中のキクちゃんに連絡したのだそうだ。

「次、昏倒するようなことになったら、カテーテルを心臓に入れて手術することになるのよ。仕方ないわね。しばらく、あなたの面倒を見るしかないわね」と、キクちゃんは哀しそうな顔を向けている。キクちゃんに礼をいい救急車を呼んでくれたのは誰かと訊ねると、「ご老人だったらしいわよ。連絡先を聞こうとしたのだけど嫌がってね」と言う。

発作は三日でおさまり、入院していても処置することはないとの主治医の所見が出て、退院した。退院した翌々日から衣類など詰めた段ボール四箱を送ってきて、キクちゃんは、俺の家から病院に通う生活を再開した。出勤前、帰宅後と俺の寝室を覗き、一声かけて、「仕方ないわね」と言って出て行く。

心臓の具合は徐々によくなり外出ができるようになった。毎朝九時前には公園を横切り通りに出る。幼稚園の送迎バスがやってきて幾人かの園児を拾っていく。バスは午後一時前には戻ってきて園児を降ろす。母親がバスを出迎え見送る。昼寝も満足に出来ないなどといいながら、その言葉とは裏腹に運転手に愛想を使い、手をつないだ園児に今晩はなにつくろうと問いかけながら自宅に帰っていく。送迎バスに無性に乗りたくなっていく。散歩帰りにコンビニに寄る。これまで見向きもしなかったアイスクリームが無償に食べたくなる。そしてついに、帰宅したキクちゃんに一緒に風呂に入ろうとせがむようになる。「もうそんな関係じゃないでしょう」と一蹴された。もっともなことである。だが、俺は聞き分けがなく駄々をこね出した。泣き出すととまらない。知らん顔してくれたらよかったのに、魔がさしたのか、キクちゃんは俺を浴室に連れていく。玩具屋で買ってきたプラスチック製の船や車を湯船に浮かべる。キクちゃんは呆れているが、湯船に入ってきた。湯がこぼれる。キクちゃんの小ぶりの乳房に息せき切って吸い付き両手でかかえて離さない。キクちゃんがとろんとした眼を俺の下腹部に向けているが、まるで膨張の兆しが現われない。キクちゃんは俺の唇と唇をあわせ、泣いている。

以降、嘔吐が三日も続き喉の奥に違和感を覚えるようになる。鏡に写すと小さな手が見える。少年に違いない。少年が体の中に入っている。そう理解することで、これまで起こったことが説明できる。幼稚園バス、アイスクリーム、キクちゃんとの風呂。

和田に相談した。「爺さんは神と呼んでいたのか。俺は違うと思うけど。いずれにしてもお前の身体には何かがいる、そいつを外にだすしかない。除霊しかない。いい除霊師、見つけよう。心当たりはある。当たってみるよ」

持つべきものは親友である。和田は励ましてくれた。十日ほどして電話があり除霊師を見つけたが、忙しい人だから都合つけて京都に来いと言う。行くのは問題ないが、周りに除霊師など知らない。どれくらい除霊代を払えばいいのか見当もつかないと不安を口にすると、この週末、竹細工の売り込みで上京するから八王子の実家に寄ってくれと返してきたから了解した。

4.

八王子にいた頃の俺は暗かった。家庭は繊細さのかけらもない直情径行型の父の独断場だった。小学校に上がる前に母はいなくなっていた。父に耐え切れず家を飛び出したらしい。父は気にくわぬことがあるとあたりちらした。玄関口に無造作に置いていった数枚の千円札を持って適当なものを買って食べていた。隣家のおばさん、佐藤茜さんが見るに見かね食事をつくってくれた。父を憎んだが、もっとも憎むべきは俺を捨てていった母だ。

そんな母に小学四年の秋の日に会った。その日は学校から帰ると父が帰ってきていた。見知らぬ女を連れて妙に機嫌がよく、一万円札を数枚、握らせ外で遊んでくるように言った。家にいてはいけないと思いランドセルを背負ったまま公園へ走った。公園は和田をはじめ同級生たちの遊び場だったがその日に限って誰もいない。仕方なく時間をつぶした。このままでは警察に補導されるかもしれない。いつもは使う正門ではなく裏門を抜けて、ゆっくり回り道して帰ることにした。そこに細い路地があった。どこへ抜ける道がわからないが路地に入ってみた。まっすぐ進んでいくと「きょうすけ」と名前を呼ぶ声がする。声をかけられた方を向くと、声の主は色の白い、右頬にえくぼのあるふくよかな女だった。女が近づいてきて静かに頷き、「大きくなったわね」と続けた。女が母であることに気がついた。「こんな時間に何しているの」と今朝も俺を学校に送り出したような涼しい顔をして、母が訊ねてきた。「お父さんが外で遊んでこいって。まだ帰るのは早いかなと思って回り道して帰っているところだよ」と応える。「ごめんなさいね。かあさんのせいで苦労かけてるね」母は我に返ったように寂しそうに応えた。俺は応えるかわりに首を振って、そんなことはないという意思を表した。

「おいで、晩御飯食べよう」断る理由はない。母の後について家に入る。奥に台所と居間があった。玄関から二階に続く階段が見える。居間には食卓があった。マーボ豆腐、マグロの刺身、ほうれん草の白和え、サラダ、アサリの味噌汁がならんでいた。

「誰か来るんじゃなかったの?」と聞くと、きょうすけが来るんじゃないかと胸騒ぎがして二食分作ってしまったのよと笑っている。信じられない。誰かと一緒に住んでいる。その人が帰ってくる前には帰らなければならない。お代わりする? と母が聞いてきたが、「おいしかった」と告げ玄関に向かう。背中で「いつでも来たいときには来ていいのよ」と母が言った。二階から物音が聞こえた。きつい目をして母を見ると、「猫がいるの。人見知りなの。人が来たら二階にあがっちゃうのよ」と言った。

帰宅すると父は寝ていて女はいなくなっていた。そこで考えた。昨日は遅くなって母に会ったから急いで飯を食うはめになった。学校が終わってすぐに行けばゆっくりと話ができるし飯も食える。鐘が鳴って裏門を出て路地に向かったが、昨日あったはずの路地が見当たらない。あれから何度も裏門を出て路地を捜したが見つからない。二十年前のことだ。

その後も父は放蕩を続け、中一の冬、仕事の最中に脳溢血で倒れ、近くの病院に入院したまま寝たきりになり半年後に死んだ。父が少し容態を持ち直した時期があった。母に会ったことを話すと、驚くほど激昂し、お前には虚言癖があると言った。茜さんに、母に会ったことを父に告げたら暴れ出したと笑い話にして聞かせたが、同じように睨んできた。母の手の感触が嘘であるはずがない。

可愛がってくれていた祖父母も亡くなり、祖父母の一人息子の父も死んで、天涯孤独の身になった。俺を救ってくれたのは茜さん夫婦だった。中学校にあがる前、茜さん夫婦と三人で高尾山の麓にある児童相談所に出掛け、児童福祉司から佐藤夫婦が里親になってくれたことを告げられた。欲しいものはほぼ買ってくれ、大学院まで出してくれ、俺は母校の文学部の教員をしている。

茜さん夫婦にキクちゃんを紹介したのは、キクちゃんの埼玉の両親を訪ねた一月後だった。大きな朝顔をあしらったワンピースを着てきたキクちゃんと茜さん宅を訪ねた。

二人は俺のことを神童だと言う。中三の春まで一時間も机の前に座れなかった俺のことを。泣かせる話であるが、キクちゃんは和田からさんざん小中の頃の俺の話を聞いている。キクちゃんは苦笑いを浮べながら茜さんの嘘話を聞いている。ただ一つ気になったのは、トイレに立っている間、俺の両親は亡くなっているとキクちゃんに言っていたことだ。そこで母は生きていると声を荒げるのも大人気ないと思って何も言わなかった。

5.

日曜の夕刻、八王子の和田の家に出かけた。和田の家は八王子駅から北に歩いて二十分のところにある。和田は用事が延びて帰るのが遅れると連絡してきたが、和田の両親とは面識があるので先に行って待つことにした。両親は息子が帰ってくるというのにぴりぴりしている。それとなく聞いてみると、一年に一度は帰省しているようなことを言っていたが、和田は京都に住みはじめて初めての帰省らしい。それに彼女を連れて帰ってくるらしいが、俺は何も聞かされていない。どういうことなんだと思い始めた頃、和田が帰ってきた。後ろにいたのは、洋装だったからすぐにはわからなかったが、とし香だった。とし香は、二十歳そこそこの年だと知ったが人馴れしていてよく口が回り、自分は京都の北の海辺の街の出身だとか、親は漁師しているとか身の上話を皮切りに、結局、青山に竹細工ショップを出したいので物件を見に来たと言った。それを和田が応援してやっている構図が見えた。その場にいるから俺も応援していることになる。さらには京都での和田の素行についてもある程度の保証を与える恰好になる。ショップの話は続きそうだったから、「急用を思い出した」と言って和田の家を出た。和田ととし香が考えていることが読めた。二人は両親に出店費用を出させようとしている。うまい具合に使われたかも知れないと思いながら八王子駅に戻った。途中で和田から電話があった。お前が来てくれたおかげで話がうまく行った。京都に来る日が決まったら連絡くれ、除霊師に話しとくと言ってくれた。とし香とは結婚するのかと訊ねると、ビジネスパートナーだと返してきた。それ以上は聞かなかった。和田の両親には悪いことをしたような気になった。

せっかく八王子まで来たのだから母校の小学校に寄ってみようと思った。職員室には灯りがともっていた。さすがに校庭には入れないから遠回りして裏門にきた。驚いたことに裏門の真上に鳥居があった。野川近くの鳥居を思い出していると、鳥居を見上げている爺さんの背中が見えた。驚くことはない。爺さんが建てた鳥居の一つなのだろう。

「あの節はありがとうございました。おかげで生きてます」

取り急ぎ、救急車を呼んでもらったお礼だけは言っておかなければならない。

「どういたしまして」と返してきた爺さんは、「ところで、神様が見つからないのですがご存知ありませんか」と訊ねてきた。

「いえ」さすがに、俺の中にいるとはいえないから、すっとぼけた。

「私が見誤ったようで、あいつは神様ではなく調伏しなければならないものだったんです」

「すると、悪魔なんでしょうか」

「いや神は神なんです。それでも調伏しなければならないんです」というなり、爺さんは手にしていた白木の棒状のものを振り回し、「百年前に現われた時には、凄まじい天変地異が起こり、続けて疫病が流行り、何十万の命が失われました。あなたも数少ない目撃者の一人です。いずれまた周辺に現われるようなことがあるかも知れません。その時は調伏方ご協力お願いします」と続け、振り回していた棒状のものを空に放り投げはじめた。俺の中の少年がぴくりと緊張し、そのうち胸を押さえ蹲ったまま震えだした。俺は、この場を離れるのが賢明だと判断し、「いずれまた」と爺さんに投げやりな挨拶をし、路地の奥に走っていった。さっきまで少年を除霊できると嬉々としていたが、爺さんがいうのが正しければ、除霊されて俺の外に出ると調伏されてしまうかもしれないのは、かわいそうな気がしてきた。

幟旗が立っている間を通り抜けると十メートルほど先に母がいた。苦労して捜してきたが会える時はあっけないものだ。あの日と同じように母について家に入る。台所、居間、二階にあがる階段にも記憶がある。マーボ豆腐、マグロの刺身などが食卓に並んでいたが、残念ながら口にはできない。病気のせいだとはいえない。友人の家に遊びに出掛けて晩飯をご馳走になってきたばかりだと嘘をついた。

「友達? 和田君?」

「そうだよ。和田」母は和田のことを覚えていて「ビールならいけるでしょう」と食卓の上の缶ビール二本のプルトップをあけた。医師にアルコールは止められていたが母と乾杯をした。母は喉を鳴らして一気に飲み干す。こんなに酒が強いとは知らなかった。喉元がくすぐったい。アルコールを流し込んだせいで少年がおかしくなったかと慌てたが、ほくそ笑みながら大げさに拍手をしている。俺が母親に会えたのを喜んでくれているようだった。

「どうしたの?」

母が不思議そうに俺を見るから首を二、三度まわして肩が凝っているだけだよというと、「そういえば、路地の入口にお父さんいなかった?」と聞いてくる。

入口にいたのは白い棒を振り回していた爺さんだけだったからご老人しかいなかったと応えると、見た目は老人かも知れない。苦労しているからねと言い足し、二本目の缶ビールを手にとって、ちらっと俺を見る。俺は笑みを浮かべ二本目を勧めると、二本目も母は一気に飲んだ。その勢いで、外に女の子をつくった父が、たまに、その子を連れてやってくるとびっくりするようなことを言ったから、俺は思わず、ビール缶の横っ腹を右手の親指と人差指でペコペコさせてしまった。もしかしたら、その子は、あの日、父が連れてきた女との間に出来たのかも知れないと思った。母は、桜色に染まった顔を見られているのが恥ずかしくなったのか、両手で顔を覆い、「恭介が許すなら、私も父さん、許しても」と言った。「俺は許すよ」「そう、よかった」と応え、「今日は泊まっていくでしょう。訊ねたいことあるから」と、タオルと着替えを手渡してくる。むしろ、俺の方こそ訊ねたいことが一杯あるのだ。

風呂には湯がはってあったがシャワーだけにして着替えを取った。母が出してくれた着替えは子供用の上下のジャージだった。ビールを勧めておきながら子供用の着替えを出してくるとはおかしな母である。

着てきた服を着て二階にあがる。部屋の左の壁際に鏡台がある。猫が鏡台の下から俺を睨んでいる。母は上がってこない。部屋の右隅にたたんであった蒲団を引っ張り出して、真ん中に敷き、その上に寝転んで天井を見上げた。蒲団に寝転ぶと天井を見上げるのが癖になってしまっている。猫が気になって仕方ない。出てくる気もないようだ。蒲団の上は靄っていて高くもない天井が見えない。隣の部屋で焚かれている香のようなものが、部屋に漂ってきている。

切った林檎をガラスの器に入れて母があがってきた。美味しいかどうか保証できないけれど、と言って鏡台の横の机に置く。鏡台の下から猫が母に近寄っていく。母は猫を片手でつかみ、俺の鼻先に近づけて、「あの日もいたでしょう。これから仲良くしてね」と言う。何年生きているんだ。尻尾が三つに分かれている化け猫か。母が離すと猫はまた鏡台の下に隠れた。隣の部屋に行ってくれと願ったが、猫に言わせれば、自分の縄張りに俺が侵入してきただけのことなのだろう。

一階のトイレに降りた時に来客があった。トイレを出て玄関口を見ると大人の靴がある。居間では母が一方的に話し客は頷いている。客の顔をみてみたくなり台所に隠れた。台所の扉を薄くあければ玄関口が見える。帰り際の客の顔を確認できるはずだ。食器があたる音、箸を使う音が聞こえている。母は客と食事をはじめた。というより母は客が食べているのを見ているだけなのだろう。長くなりそうな雲行きである。

台所にある小さな机の前のスツールに座って机の上を触った。伏せてあった写真立てを表向きにすると母に頭を撫ぜられている男児が写っている。男児は少年だった。思わず少年をみた。少年は俯いてなにかしている。俺にはこの写真の記憶がない。俺の幼少期の記憶は、茜さん夫婦によって口伝され体内に構築されたものではないのか。俺の中に少年が入ってからというもの、茜さん夫婦に引き取られてからの記憶と、それ以前の記憶が地続きにつながったように思えてならない。写真が伏せて置かれていたことに不安がないことはないが、母に確認すればすむことである。

客は帰らない。父か。戸をあけ客の顔を確認しさっと二階にかけあがろうかとも考えたが、なかなか実行できない。二人は談笑している。

喉元が苦しい。少年が出てきている。しかも拳を突き上げ、頭突きまでしてくる。

「ここで外に出る? 出たら爺さんに捕まるぞ」と諌めると、冷蔵庫を指差してくる。母の台所の冷蔵庫と家の冷蔵庫は同じ型で仏壇のようなつくりだった。冷蔵庫に入る快感を覚えてしまっている少年が俺の家の冷蔵庫と間違えているのかも知れない。それなら少年だけで入ればいい。しかし爺さんのことが頭をよぎる。外に出た刹那、路地の入り口でへんな棒振り回している老人が跳んでくるかもしれない。隣室で母と話している男がそうかも知れない。といって、このまま、少年と一緒に俺が冷蔵庫に入るのは俺の生死にかかわる。そうでなくても昏倒したばかりだ。無視しようと考えたが少年はしつこかった。再三こぶしを突き上げ頭突きまでしてくる。少年は作戦をかえてきた。土下座を始め涙を流しだした。面倒になってきた。冷蔵庫に入れば満足するなら、すこし我慢してもいいかと思い始めた。俺の弱さが出始めたのだ。体が燃えるように熱く発作の兆候がする。野川近くで昏倒したときと同じだった。薄目を開け少年を見ると、心臓を太鼓かわりに叩いている。あの発作は、俺の中に入った少年が心臓を叩いたせいだったのだ。しかも流した涙で気管支がつまり、呼吸困難を起こしはじめている。冷蔵庫が近付いてくる。少年に動かされている。逡巡しながらも両開きの冷蔵庫の扉をあけ、首を突っ込んだ。

「今日はここまでだ」

ものには順序がある。段階を踏んでいこうと理解を求めた。冷蔵庫に入るのが好きだということはわかった。家に帰って冷蔵庫に入って遊ぼう。それでいいかと喉元に訊ねると少年が頷いたように見えた。冷蔵庫の扉をあけたままにしていたからブザーがなりはじめた。そこに油断が出来た。口を大きくあけたその隙に、少年が喉元から飛び出し背後に回って背中の羽根を広げ体当たりをした。気がつくと、俺は、冷蔵庫の下段の冷凍室のボックスに下腹部が挟まった情けない恰好でいた。それでも自由のきく両腕を使い、冷蔵庫の扉を強く押したがぴくりともしなかった。このまま凍ってしまうのか。母の声が近づいてきた。冷蔵庫には手をかけない。台所が静かになる。母は客を見送りに行ったのかも知れない。見送りがおわれば洗物をしに台所に戻ってくると期待したがそれも空振りに終わった。浴室の方から物音が聞こえる。ビールを飲んだから洗物を明朝に回してシャワーをして二階に上がるのかもしれない。まだワンチャンスある。俺が上にいないことに気づけば、捜しに降りてくると予想したがそれも叶わなかった。下腹部は凍結し腹部まで進行してきている。心臓から頭頚部まで凍結するのは時間の問題になった。

どれほど時間がたっただろう。ゆっくりと気配が近づいてくる。冷蔵庫が開いた。そこにはキクちゃんが立っていた。キクちゃんは声も出せないくらい驚いている。いや呆れたというほうが正しいか。それでもしばらくしてキクちゃんはいつものキクちゃんに返った。

「どうしたのよ。すねてないで出ていらっしゃい。ミキサー買ってきたよ。棚の上に置いといた。あれ使ってスムージー作って飲んで。病院食もいいけど、栄養とらないと。妙な妄想ばかりしているのよね。そろそろ大学に戻らないと。わかった?」

キクちゃんはトートバックの中からスムージーの材料らしい果物や野菜を取り出し、

「ちょっと、そこどいてくれる」と続ける。俺の頭が邪魔で冷蔵室に材料が入らないのだ。キクちゃんの手を借り凍結した下腹部を抜こうとした時、いいアイデアが浮かんだ。冷蔵庫の中でキクちゃんを抱けばうまくいくのではないか。下腹部は凍結しているからキクちゃんを満足させられるはずだ。思い切って、身体を冷蔵庫の壁に密着させ、両腕でキクちゃんの左腕を引っ張ったが、キクちゃんも両腕で俺を引っ張り返し、綱引きになったが、ついには冷蔵庫から出されてしまった。

「また妙な妄想? 遊んでいる場合じゃないでしょう」と諌められ、「そうそう、心臓発作起こした時に助けてもらったご老人を見かけたの。待ってもらっているのよ。挨拶まだでしょう」と告げてくる。

少年はどこに行ったのだ。俺の中に入っていないと調伏されてしまう。戸外が騒がしい。とっさに、爺さんが携えていた白い棒を思い描き、半紙などあるわけないからコピー用紙をなすびのような恰好にヤツ切りにし、竹棒もないから台所にあった菜箸に挟みガムテープでくっつけたものをぶら下げて、俺は外に出た。

「ムジョウレイホウデンベンカジ、ムジョウレイホウシゲンデンツウカジ、ムジョウレイホウシンゲンシンツウカジ……」予想どおり、爺さんは白い棒を振り回しながら、呪文のようなものを唱えている。女が米を撒いた。振り下ろすような捨て鉢なまき方だったから、それでは効き目がないだろうと爺さんに叱られている。それでも、女は、爺さんのいうことが理解できないのか聞こえていないのか無視しているのか知らないが、同じことを繰り返している。少年と爺さんの間に入って爺さんに対峙し蹲踞する姿勢を取った。爺さんは俺を避けて少年に向かっていくと予想したが、なにを血迷ったのか、俺を相手に白い棒を振り回している。負けじと俺も菜箸を振り回す。しだいに爺さんが手にする白い棒の方が、先に付いた白紙に遠心力がついてよく回りだした。急ごしらえの菜箸では太刀打ちできない。手がしびれてくる。

斜め後ろを見ると、心なしか少年の体が小さくなったようだ。調伏の加持が利いてきたのかも知れない。眼に力をこめて早く俺の中に戻れと合図を送るが少年に動きはない。

ムジョウレイホウ、、、カジ、ムジョウレイホウ、、、カジ……

爺さんがやめてしまった呪文の端のところだけを、声高に唱えた。膠着状態が続き時間だけが馬鹿に経過する。次第に俺の声は小さくなっていく。しまいにはめまいまでしはじめた。爺さんの方も、振り回す棒に力が伝わらなくなり、身体が斜めに傾き震えまで見える。勝負の正念場にさしかかった。

そこでキクちゃんが玄関から顔を出した。

「どうしたの。立ち話しているの? 命助けてもらった方でしょう。上がってもらったらどうなのよ。ご老人、震えていらっしゃるじゃない」と、俺に憤怒の一瞥をくれた後、爺さんに笑顔で一礼し、ドアを開けたまま、家の中に戻った。キクちゃんには少年が見えていない。俺と爺さんがちゃんばらでもしていると、呆れている。

爺さんの真後ろにいた女が、顔を出し「遷宮されました」と告げた。はっとして爺さんが視線を家の中に送る。俺を見限った少年が、キクちゃんの中に入りこんだと女は言っているようなのだ。

ここまで尽くしてやったのに。さっさと調伏されてしまえ。俺は怒り心頭に発し、白い棒を振り回しすぎて肩で息している爺さんと、物言いと態度に改善の見られない女を、家に招き入れ、公園に向かって走りだした。

その背中に、「なにしてんのよ、早く戻ってきなさい」と、叫ぶキクちゃんの声が聞こえる。俺は立ち止まって長考した。少年は幼い頃の俺だ。少年にキクちゃんを奪われてしまうことは断じて許せない。

俺は、踵を返し、勢いをつけ、ムジョウレンホウ、カジ、カジと唱えながら、家に戻っていったのだった。

——(了)

2021年3月14日公開

© 2021 伊和七種

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