第九章

ニュー・ハートシェイプトボックス(第10話)

多宇加世

小説

8,919文字

 時間の咀嚼音に本気で耐えられぬ時、人は、いや病人の僕でさえ、こちらから時間に噛みついて、食らい尽くしてしまおうと考えるのではないだろうか?
これはいわば自殺のことだ。

「もう一つの船の人々 第一部」

 

なにもかもを変わらぬ態度、寸分違わぬ行動・経路で過ごしても、やはりそれでも人は繰り返しのなかで生じるわずかなずれが、初めのうちは一度や二度といわず何度も気になってくるものである。それはそう行動をとり始めてから、最初のうちに起こる。ルーティーンのずれ。まだ固まっていないのだ。でもそれはしょうがないのかもしれない。強迫観念に囚われたきわめて規則正しい人の、ある一日の行動を定点で撮り溜めていっても、例えば一週間分を重ねて映像を再生すれば、やはりそこにはずれ、つまりゴーストのようなずれが1ミリほど生じるであろう。だが結局、それもどうでもよくなってきゆき、「何も変わらぬ」と認識して、それが日々となる。

僕も何も変わらぬ日々を過ごした。永遠の孤独。もうちょっとで僕の毎日は永遠になりそうだった。それにしてもおかしな話だ。いつまでが永遠でなくて、いつからが永遠なのか、誰か答えられる人がいるのだろうか。永遠を知る者は産まれた瞬間から自分がそうだと知っているのだろう。なんのこっちゃ。ティキティキ

僕の中心にはいつも中心そのものがなければならない。だから僕は永遠、永久の位置を調整して、頭に響く正体のいまだ不明の誰かのいう言葉に従わざるを得ず、一人、奮闘している。回り続ける独楽を想像してもらえれば、動き続けることによって得る中心とブレのノイズについてわかりやすいかもしれない。だが、中心にいま、僕はいるのか?

何も変わらぬ日々。初め、中心には、何かがあった。そんなはずなのに、僕は医療行為による摩耗のせいにして、それをどこかへ捨ててきてしまったのだ。「誰かが僕の中心を我が物顔で身体にはめ込んでのうのうと生きている」という妄想をする日もある。僕のほうから、僕が忘れ去った中心を呼んでも声は届かないので、僕の体に響く誰かのいう言葉の端々に、僕の中心の居所のヒントがないか、耳をそばだてている。集中せずとも、ヒントは自然とそこだけ音量が増して聴こえてくる、と妄想する。あるいは船に住む僕には陸地に住む偽者の僕がいて、それはまあドッペルゲンガーでも分身でもよいのだが、その存在が船にいるこの僕に来るはずだったいい知らせ、いい結果、いい返事、いい感覚、それらを盗んでいる。だから僕のもとには何もやってこない。この僕のほうが陰の存在、偽者なのかもしれない。いやこれは話の脱線というものだ。忘れてもらって構わない

若い患者がこう話している。ところどころの音量が響く

「僕にはお爺ちゃんがいたんですけど、お爺ちゃんは軽い脳梗塞を何度かやって、――ええ、脳梗塞の痕跡だけがあとから見つかったんです、どうやら寝ている間に何回かやってて自覚がなかったんです。……で、その後、結局ぼけちゃったんですね。で、鉄パイプを家に張り巡らしたんです。大量に。家の周囲に足場を組んでまで。祖父はもともとが大工でしたので。で、その孫の僕はというとその鉄パイプをおじいちゃんの目を盗んで、同じ町の、歩いて三分くらいのとこの鉄くず屋に外して持っていっては売って小遣いにしてたんですよ。かなりなカネになりましたよ。お爺ちゃんはそのたび、また新しい鉄パイプを取り付けるんです。なんてったって大工ですから余った鉄パイプは家の倉庫に大量にあったわけです。鉄パイプ外して運ぶじゃないですかそのたびお爺ちゃんと何度も道ですれ違ってるんですね。狭い町なので。ルートは大体決まっているわけです。でも、ぼけちゃってるんで、僕を自分の孫だとはわかっていないみたいなんです、自宅のほうから何度も道を鉄パイプ持って歩いてくる若者ととすれ違って、まったくなんとも気づいていないんですよ。おかしいですよね。自分の家から鉄パイプ外されてることにも結局気づかず亡くなってしまいましたよ」

他の患者が笑っている

「それは君もおかしいよ。君は気づいてないね? お爺さんは鉄パイプをたくさん在庫として抱えてたわけだね? それならば君はそこから盗んで売ればよかったんじゃないかい? お爺さんが家の周囲に取り付けるのを待ってから外して持っていくのではなく、さ」

若い患者、それを聞いて絶句してしまう

僕は……」

「お爺様、あなたのお孫さんは立派な病人、患者になりましたよ。ははは」

別の若者が口を開く

「それで思い出したんですが、私にはですね、ブレスレット指輪ネックレスやミサンガやその他じゃらじゃらと装身具を身につけてみたいという欲求が時々むらっとやってくるんですよ。レゲエの店の人みたいに私もじゃらりじゃらりと手首に何か巻いてみたいもんだと思うんです。でもそのたびに、病気のことを考える。まあ、実際私はいま、なんの病気にも罹っていないんですが、これからなんらかの病気に罹り、検査だ入院だ手術だとなった時、じゃらじゃらとつけた装身具を――ああ、そうだ、ボディピアスもそうですね?――それらを全て外す瞬間が、想像するとなんともぞっとしてしまって。外さねばならぬ時、私はどんな気分になるのかってね。病人になる瞬間というのは色々あるでしょう。入院衣を着せられ点滴を打たれ、ベッドに寝させられる、病気が発症するといっても、結局は医者か誰かがそう判断したからそうなるのであって。しかしあなたの祖父のように、睡眠中のいつのまにかに軽い脳梗塞が起こっている人だっているわけですよね。気づかないうちに。でもまあ、もしも、じゃらりじゃらりが手首や首に巻いていたら、それらを一つ一つ外す瞬間を考えると、どうもその時が余計に、病人になる瞬間だとしてしんみりと感じられてしまうのではないかなと思いましてね……」

別の患者:「ああ、あなたも自分が病人、患者なのに気づいていないんだ……」

「急に誰ですか、あなたは? それに、私が? まさか!」

誰もいないうちに砂浜へ出て、僕は僕の考えのなかで多くのことを溺死させてから、太陽に祈るんです。太陽を鳴らすには、そんなに強く叩く必要はないけれど、あなたが見るすべての幽霊達、そしてあなたと僕も息を止めることでしょう。その美しさに僕は一度は認めた天国をすべて取り消します。シンボルは僕の中を突き抜け、人々の描かれていない鏡に向かって(僕はいつのまにか部屋にいるので)、顔を映し出します。僕は、位相の外にいることが判明してしまうんです。ならば余裕をもって引き上げましょう。血栓の溜まった僕の脚だけがまだ波打ち際にいるでしょう。そしてもう二度と戻ってこない世界を十分に見ましょう。すべてがOKになったら、僕は一度は認めた天国に背を向けます。泣き喚くことは許されません。僕の心は冷えて固まります。あなたが愛を必要としないからです。そう。誰もいない所崇拝。倒産した遊園地崇拝。僕の中心の魂は鏡がひび割れているので、分断されてしまっているのです。中心はすでにその姿、意味を失ってしまったのです。なぜって中心は一つのはずですから。割れてしまったものはもういりません。それが僕の病気なんです。いえいえ。いいんです。あなたが僕に言ったことを僕は喜んで引き受けました。僕の中心は割れてしまったそうです。でもあなたの話を聞いているとそうとも言い切れませんね。以上、僕のこと

「あんたがた、この人はね、ここへ来てから同じことをずっと言ってるんだよ。自分は患者じゃないと思ってるんだ」

老人が大声で患者たちにそう告げるのが聞こえた

「そうなのですか。でも僕に話しかけてくれる台詞のその所々が光っている!」

「ああ、患者だなんてかわいそうに!」

「そんなことないんだ、みんな病人なんだ!」

「わーーーー!」

こんな会話の日々が僕らの病気の所産なのだ

僕は何もかもを信じていない。倒産した遊園地崇拝? まあ、それはね。ティキティキ。もちろん自分が病気じゃないと信じるのも自由だ

でも自分がなんでこんなに苦しむのか、理解するためにも、なぜここにいるのかについても、やっぱり病人だって自分で理解するほうがいい。でも、それすらもできない患者のことを僕は忘れてないか? こういうことも小説になるだろうか。ならないだろうか。

それは温かな水風船のようなものだった……

手ごたえのあるようでない温かな水風船のようだった……

その話をもうここでしてしまおうか?

いや、早々と話したからといって、なんとなることではない

 

医者が言う

「私の言ったことを来週までできるようになれるといいですね。もちろん、せかしはしませんが」

「声のことを意識すると逆にそれに囚われてしまうということでしょう?」

「そうです。順調ですね」

「気をそらす。お医者さんの言う『学習』……、でしたっけ」ティキティキ。ケッ!

「そう、そう、そう! 素晴らしい優等生ですね。その調子でいきましょう

優等生のふりをする僕は人を騙すので

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2020年2月6日公開

作品集『ニュー・ハートシェイプトボックス』第10話 (全12話)

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© 2020 多宇加世

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