第六章

ニュー・ハートシェイプトボックス(第7話)

多宇加世

小説

8,848文字

かなり長い風車の羽根
電飾の絡まる睫毛
私が夢でいつも台無しにしてしまうことたち
窓外にしか現れない女たち
肉体を吐き出した男たち
めいめいが語り出したら

「引用(短編『岩仏より)」

 

個室にもベッドを囲むカーテンはある。僕はいまベッドにいた

ドアを開ける音。小さな足音

そしてカーテンが揺れ、重なった襞の隙間から風と顔だけが。女性看護師だ

「どうですかー?」

「ええ、かわりありません」

「病気やケガで、体が不自由になると、日常生活には心配事が沢山あります」

「ええ、そうですね。そうだと思いますよ」

「マタ、アトデ、キマスネー」

 

女性看護師が顔を引っ込めていなくなってから、しばらくして廊下へ出ようとしたところ、ドアが開け放たれていた。女性看護師はいっつも開けっ放しだ。別に嫌がらせをしているつもりではないんだろうし、僕もそこまで嫌でもないが、閉めるためにいちいち入り口まで行くのは、手間っちゃ手間だ。だから女性看護師が来たあとは、いっそのこと自分も開けっ放しのドアから出て散歩することにしている。と、廊下を遠くから男がやって来た。僕は今日の午後、風呂の予約を取っておいていたので、それまでの時間を、廊下を来たこの彼との散歩に充てることにした。散歩してからの入浴のほうが順序として妥当だと思ったからだ。僕らは歩いた。まずは昨夜の夢の話をしながら

彼の夢の中の鳩が今、僕らの頭の上を飛んでいた。だがその多くは地面を歩いていた。僕らはそれを踏まぬようにして進んだ。飛んでいる鳩は主に僕の夢に出てきた新聞配達員を追っていた。唸る二輪原付とは反対に配達員の動きはきびきびとしていた

が、しかしそんな話をしていた彼は急に浮かぬ顔つきになった。どうしたのか尋ねると

「尿や便のように、精子をも僕は排泄物と見做して過ごしていたのだろうか?」

と言うのだった

僕は、この人は何を言い出すんだろうと思ったが、他の患者よりもこの人は興味深い所があったのを知っていたので、自分の部屋へ来てくれという彼の誘いにも応じて、立ち寄った

『岩仏』という短編が収められた小説を彼は僕に見せた

彼はその中の数行が、彼の考えを解く確率の高い文章なんだと思う、と言った。それはまるで、数字選択式の宝籤で数字をコンピューターまかせに自動的に購入した籤を手にした時の気分を味あわせてくれる気がするとも言った。籤にもよるがコンピューターまかせに購入するのは「クイックピック」と呼ばれる。自分の意思がそこにあるようで、自分の手によるものでない選択なので、そもそも、その購入した籤は、売り場から出て歩きだした自分の財布の中にきちんとおさまっているのかすら疑わしいという、そんな不安の入り混じる感じなのだという。「どうせはずれに決まっている、コンピューターまかせなんて」というふうに感じるが、しかし彼の考えを解くにはこれがいいのだという。彼の場合のこれというのは、前述の短編の収められた小説の本のことであった。自分は、悩みを取り除くためにこういう既存のものを引用すべきなのだと彼は言ったのだった。ぎりぎりまでその不安と戦って考え抜いた先、確信が持てぬまま最終的に、思考のパズルの最後の穴に、他のパズルから拝借したピースを無理くり嵌めるくらいのほうが、抵抗感があって気持ちよくてちょうどいいのだとも言った。摩擦刺激があるらしい

それから、彼は「検尿をとってもいいか」と尋ね、僕は「どうぞ」と言った。朝、検査があったのを忘れていたのだと言う。彼はそして、そのあとで儀式めいたことをするのだが、それを、それをこそ見ていてくれないかと尋ねた。僕は断ることで彼を傷つけたくなくて、心から了承した

彼は『岩仏』の本と、検尿取りの紙容器を持ってトイレに行き(僕の部屋と同じで個室に自分用のトイレがある)、洋式便器に腰を下ろした。そして本を開いた。僕はトイレの入り口に寄りかかった。扉は上下が大きく開いた作りで、閉じたままでも彼の表情は伺えたが、扉を全開にすることを彼は望んだ。ちなみにこの扉の作りは、完璧な密室状態を作らないためである。といっても個室を与えられる種類の患者は、そういった余計な心配はまずないといってよいのだが

「ここで数行を引用するんです」と彼はいった。彼は数行読み上げた。

「それと同時にまず、大便をする」彼の大便をする音が響いた。便器に溜まった水に大便が落ちる音

彼が便器にむずむずと座り直すと、匂いが漂った。彼は一度本を置き、紙で尻を拭き、立ち上がって一度プルンと陰茎を僕のほうへ垂らした後で、便器に向かった。後姿は尻の割れ目がはっきり見えた。そして彼は一旦水を流すことなく、小便をしだした。大便と溶けだした紙に小便がかかる。それから勿論、検尿を忘れずにとった

「そしてまた何行かを引用する、と……」

彼は片手を局部から離し、再び本を持ち、読み上げた。陰茎の先から器用にも一滴もこぼさず用を足し終えた

 

「引用にはこのやり方がもってこいなんです。体が何か不要なものを、つまりは老廃物を出し、その体内の開いたスペースに、目と口で追った文章がそこに収まるんです。なので、僕はもうこの本を体内に吸収したので、この本自体に頼ることはなかろうと思うので、本を荷物の奥のほうへと仕舞い込みますよ。いいですね?(僕は「どうぞ」と答えた)実はこの本に限らず、僕にはもうほとんどすべての本が、意味をなさないんです。僕にはもう無理なんです。はい。そして、老廃物……、老廃物……、僕の悩みはまさにその老廃物についてなんです。図らずも。もう一度言います。やっぱり僕は精子も老廃物だと思っているんでしょうか?」

僕は彼がまだ続けて何か言い足したいのをわかっていたので、先を促した

「ちなみに大便をしながら小便をしても引用にも検尿にも差支えがなくて一緒なのだけど、長い入院生活、いろんなパターンで排泄するのが癖になっているんですよ」

へえ、でもわかるよ、と僕はなるべく傷つけないように答えた

彼はそして

「ま、今回はこれで。効率のよいやり方でやった引用文を聞いてください

といってもう一度同じ文を、今度は本を見ず暗誦をしだしたのだった

 

森田敦の小説より引用:

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2020年2月6日公開

作品集『ニュー・ハートシェイプトボックス』第7話 (全12話)

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© 2020 多宇加世

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