新死鬼

寺原緩歩

小説

8,756文字

細霧、東雲に道を濡らす
疲れ、途に倒れ、人知れず死す

細霧、東雲に道を濡らす。歩き疲れ、途に倒れ、人知れず死す。死に際に町内会でのある会話を思いだし一人笑うを認め、惨めさに打ちのめされた。一つとして人としての思い出を持たぬ我が身を憐れみ、蔑むにつけてここに終わるもまた仕方なしとどこか投げやりに思い、とうとう息絶える。
それより三日して人の目に触れる。三日のうちに虫、獣の啄むこと三度し、もはや故人の面影はなく、その親族に伝わるに一月を要す。親族、友人、知人、同僚に至るまで甚だ多くの者が故人の葬儀に参るにつけても誰一人として平静の表情をする者はなく、故人の人徳の程が知れた。参列者、口を開けば皆一様に言う。世の理不尽ここに知る、と。
目が覚めたのか曖昧なまま、トンビの形をした雲の北へ流るるを見ていた。腹の空くのを認めるに、どうやら起きているらしい。確信たるものはなくとも空腹の感があるのはやはり起きているためだろう。俺は未だ夢の中で空腹を感じたことがない。ともすれば俺はいま覚醒しており、なおかつ、飯を食わねばならぬらしい。しかし、動こうとしても体を砂に埋め込まれたように身動きがとれず、とても立ち上がる気にはならなかった。空腹は酷くなるばかり。それに耐えられず、仕方なしに匍匐で前進した。砂の中を泳ぐ時には、まとわりつく砂に逆らってはいけない。それをすれば砂は鉛にかわる。匍匐で前進するのは砂に逆らうのと同じようであった。
空腹の逆らうに能わざる力に負けて、道を半ばにして前進をやめた。前進する意味とはなんだたかな、と考え出したが最後、動く気などもう消え失せていた。
「もしや、幽明ではないか」
晴明な声がした。目のうつらうつらとなっていたのをなんとか見開いて、声のする方へ目をやると、かつて最も親しく交友のあった者がそこにいた。不思議なことにその者の名を思い出せず、寂黙の相を呈していると、そいつの方から名乗った。名を子規と言うらしい。その男はいかにも親しげに、自ら話し出した。今の自分の近況だのを自慢するように語る。俺にしてみればどうでもいいことだが、その話を聞き続けるに一つ思い出した。
「子規よ、俺は一つ君について思い出した事がある。今のいままですっかり忘れてしまっていた。兎角に不思議な事ではあるが、君は確か二十年も前になくなったのではなかったかね。ともすれば、今この目に見える君は幽霊かあるいは俺の幻覚ということになる。どちらにしてもあり得ない事ではあるが、実際に今俺には君が見えている。俺は自分のおかしくなったことを自覚していないし、幻覚を見るほど馬鹿でもない。やはり、君は幽霊ということになる。もしそうであるならば君は早いところ成仏した方がいい。それが自然の摂理というやつだからね」
子規は少し困惑げに眉をひそめ、思案顔をした。それを解くと急に笑いだし、明るい調子で次のようなことをいった。
「私は別に自然の摂理とやらに逆らっているわけではないよ。それに死んでいるとか、幽霊だとかいうのなら君の方が早くそれを自覚するのだね。君、気づいているかい。もう、ずっと昔に死んでいるんだよ、君は」
彼は何が嬉しいのか、ずっとその調子のままに続けざまに色々と語りだした。
「その証拠に、ほら、君の体は随分痩せ細っているじゃないか。死んですぐだとそんなには痩せ細ってはいないよ。それに、何よりも、君が死ぬところを私は見ていたんだからね」
確かに腕は小枝、足は鹿のもののようになり、肌のすぐ下には骨がある感じがした。この空腹が、もし、俺が知らず知らずのうちに、何日も、ものを食べずにふらついていた結果だとしたら納得のいくものがある。だが、彼の言を信じるならば俺は死んでいることになる。俺が死んでいるのならばこの空腹はなんだろうか。まさか、死んでまで生前の苦しみを味合わねばならぬのか。それは違うだろう。彼は悪鬼になってしまったのだろう。だから、人を惑わし俺を彼と同じ世界へ誘おうとしているに違いない。ともすれば、彼の言は聞き流す程度に聞いていればいいはずだ。
「死んでいないと思いたいのだろう。私もそうだった。だがね、君は死んでいるし、私も死んでいる。まあ、百聞は一見にしかずさ。ついてきなよ」
彼は、尚、明るい調子でいった。俺はこの分けのわからない状況においてこの男の言うことに従わねばならなかった。相手が悪鬼である可能性が高い以上、ここで変に反抗をすればどんなひどい目に遭うかわからないためである。
しかし、一つ問題があった。彼について行こうにもこの体では力が入らず、立ち上がる事さえ出来ないのである。それに気付いたのか、ポケットから一切れのパンを渡してきた。その瞬間、俺の中にある理性とか知性とか言うものはなくなりほとんど獣の如くそれにかぶりついた。一切れのパンは全身に生命を与えた。彼に曰く死んでいるらしいが、それでも生命を感じ、起き上がれたのである。起き上がるまではできたのだが、歩くことができなかった。それでまた、一切れのパンを渡してきた。今度もまた、生命のちからによって歩く事が出来た。亀よりもずっと遅い歩ではあったが、路に倒れていた時よりは、匍匐で進んでいたときよりは、ずっと早かった。
彼の歩は速く、とても追い付けそうになかった。そのため俺が三歩進むと彼は立ち止まり、俺が十歩進むのを待ってくれた。
そんなにまでして俺を善からぬ所へ誘いたいのかと少しばかりの憤りを覚えながらも、パンの恩を忘れることができなかった。それに何より、彼が生前の(二十年も前のあの若々しく、才気に溢れる)姿のままでいるため、どこか本気で憎めないでいたし、俺が彼に従う本当の理由はそこにあるのかもしれない。どこまで落ちぶれたとしても友であることには変わりないという気がして、俺の方でもなんだか嬉しいような気がしてきた。
少しして、彼は立ち止まり、ここに入ってご飯を食べろと言ってきた。白壁に塗り残しの跡からチラリと見える黄ばんだコンクリート、玄関庇の右側が欠けている。門が一つあり、簡易な門であるため、誰でもそこを越えることができた。その門の両端には垣や塀はなく、外部との境界のようなものは精神的な世界にしかないように設計されていた。いかにも日本人の精神を写しているというような家である。だからといって一戸建ての日本家屋かといえば、そういう訳ではなく、どちらかといえば西洋風のコンクリートの家であった。間違いようがない。ここは俺の家であった。
確かに俺の家であれば、そこでいくら飯を無断で食ったからといって誰が文句を言えるだろうか。ここは俺が建てた家だ。つまり、この家の領域内にあるものは全て俺のものなのだ。であれば、彼に従わない理由はない。
門を通り、玄関を潜ると、俺の匂いがした。廊下を右に曲がり、冷蔵庫のある台所へと向かい、冷蔵庫の中を漁ろうとした。冷蔵庫には確かに触れることができたのである。しかし、食物となると一切触れる事が出来なかった。ハムをとろうとしても透けるようにして、ハムは横たわったまま、飲み物はどうかと、手に取ろうとするもやはり、沈黙を貫く。自覚せざるを得なかった。俺は死んでいるらしい。
ハムやら卵やらを見ていると、またあの空腹がやってくる。今度の空腹はより一層地獄の様を呈していた。食べ物は目の前にあるが、食べることはできない。おずおずと外へ出ると彼の様相がはっきりと見えるようになっていた。よく肥えた肉付きのいい手足に少し油の乗った顔が彼の食べ物にありつけていることを表していた。
「いくつか聞きたいことがある。答えてくれるかね」
彼は喜色満面として、答えるとも、と言った。おそらく俺が今から言う質問を彼はわかっているのだろう。茶番をやるつもりで、いかにも深刻げに聞きただした。
「俺はつまり、死んでいるのだな」
「如何にも」
「それじゃあこの空腹はなんだ。俺はすでに死んでいるというのに、なぜ生前の苦しみを味合わねばならぬ」
「それは私にもわからない。ただ、その空腹というのは私たちにのみ許された苦しみであり、警鐘でもある」
「警鐘というのは」
「警鐘というのは、つまり、ああならないようにあるってことさ。」
そういうと彼は電柱の下を指差した。ぎょっとした。そこには生気の消えた、人形みたいなものがへたれこんでいた。斜目であるためか、焦点が合わない。肩の力を抜ききって、腕をだらりと垂れさせている。口は言わずもがな、開いている。
「あれはなんだ、あれは……」
「元は普通に話をすることもできたが、何日も物を食べれずにいたからああなったんだ。つまり、空腹を無視しているとああいう風になる」
「じゃあ、俺は、君がパンの一欠片をもくれなかったらああなっていたのか。」
「ああ、そうだ。」
安堵感よりもこの先の不安の方が大きかった。やっと……やっと生きるという地獄から抜け出たというのに、こんなことがあっていいものだろうか。俺はどこか期待していたのに、だから彼に従ったし、本当に死んでいると分かったときも少なからず嬉しかった。生きている喜びよりも生きている苦しみの方が遥かに大きいのだ。それだというのに、ここはまるで、そういう人間を苦しめるためにあるようなものじゃないか。
どうしてだろうかな、俺は地獄へ移り住んでしまったのはどうしてだろうかな。
「まぁ、心配はするな。空腹に従わなければああなるというだけだし、それにああなるのは食物を食べる方法を知らないためだ。食物を食べる方法さえ知っていればああはならない。心配するな、心配するな。」
「ならば、その方法とかいうのを教えてくれ。俺はああはなりたくない。」
「よし、いいだろう。人の為に怪をなす。たったこれだけでいい。しかし、これが結構難しい。知っているだろう。今の人間は闇雲に科学を信仰して仏教や道教なんて信じていないんだ。ごく稀ではあるが、キリスト教を信じる者もいるがあちらの考えは色々と複雑でね。それになにより、いくら人のために行ったって、奴ら有り難がるどころか御払いをしようなんて考えるし、挙げ句それを動画に撮って飯の種にしようとするんだ。全く、やってられない。」
「それじゃあ、どうして、君はそんなに頑丈そうなんだ。君の話を聞いていると、どうも、食にありつけそうもないが。」
「そうさ。普通の家を襲ったらね。だから、庶民の家を襲うんだよ。半端に金を持っている家や宗教を信仰する家を襲うと、ろくなことにならない。試しにあそこの金持ちそうな家にいってみなよ。」
その言に従うことはできなかった。例え誰に気付かれずとも、己の所業の邪悪さを俺自身が許さぬからである。俺は首を縦には振れなかった。その様子を見てまた、思案顔に浸り、突然、合点がいったというような表情をした。
「あぁ、なんだ、君はなにか勘違いをしているんだね。いや、私が襲うなんて表現したのが悪かったんだ。いいかい、私が言うのはつまり、彼らの家へ入り、その家のなかで出来ることで彼らにとって生活の役に立つ何かを手伝って来い、というわけさ。それも彼らに見える形でね。そうでないと彼らが怖がらないからね。」
「なんだ、そういうことか。それなら別にいいか。わかった、やってこよう。」
宵の明星ひたすらに光る頃合い、幽鬼の一人、貧家に入り、怪を為す。然れども人々皆恐れず、物にもありつけず、幽鬼肩を落とし、ここを去る。幽鬼去りて後、貧家の主人に曰く、怪に動揺するは甚だしく、世に生きるにいささかの不可思議もなし、と。
子規の元へ戻ると何か言い表せない思いが沸々と沸いてきて、その感情のままに次のようなことを言った。
お前はきっと俺のことを馬鹿にしているのだろう。だから、食べ物にありつけもしない家へ俺を向かわせたのだ。あの家は金持ちなどではなかった。お前がいままで俺に優しくしてきたのは俺を落胆させるための罠だったんだ。そうさ、そうにきまっている。でなければ、俺に妙に優しくしてきた理由がわからない。大体にして考えてみれば、見返りのない優しさなんてものを人が人に向けるわけがない。俺もそうだったからよく分かる。俺は生前見返りを求めて行動した。だからよく分かる。しかし、そういう事であったにせよ、俺は一度お前に救われている。その点に関しては感謝している。だから、今回のことについては不問にしておいてやる。だがな、もう二度と俺の前に姿を表すな。最初から妙だとは思ったさ、そうだ、妙だったんだ、妙だったんだ……。
最後の方になると口ごもりながらも感情の全てを出した。
子規に翳りがある。その理由は恐らく、俺の言葉であろう。しかし、俺とて必死である。このまま何も食べれずに廃人のごとく有り続けねばならなくるのは心苦しい。そうであるために多少は厳しく当たらねばならない。子規が顔を険しくしたまま口を開いた。
「確かに、君の言う様に私は君に見返りを求めて優しくしてきた。しかし、それは君のいうような極悪非道のものではない。人の道に外れることはあっても、そのために君を馬鹿にするだとか言うのではない。その証拠などというものはないが、もし、もしもう一度私を信じてくれるのであれば、君を馬鹿にしていないこと、なにより君を本当に友だと思っている事の証明として食べ物を食べさせてあげよう。」
今さら虫のいい話をベラベラと語り始めた子規の顔を俺はよく知っていた。それは以前にみた、何よりも俺が好んだ勇ましい男の顔であった。俺はもう一度子規を信じて子規の言うとおりの家へ入り、子規の言う通りのことをした。
宵に沈む月光の中、幽鬼一人、或る一家へと向かう。一家につきて幽鬼、怪をなす。其の家の娘、甚だ驚き、獣の呈をなし、右往左往に転げ回り、懇願につきて言うには、我が家の食、汝が為の物なり。これを以て怒りを鎮め給え、と。友の幽鬼の言葉の通り、その家の食、幽鬼、食べる能う。
子規の元へ戻り、まず彼に浴びせた罵倒の数々を詫びた。子規はにこやかにそれを許した。しかし、いくつか気になることがあり、それを確かめずにはいられなかった。
「子規よ、俺は君に言ったことを本当にすまないと思っている。しかし、いくつか気になることがある。聞いてもいいだろうか。」
「もちろん、私は君を友だと思っている。君の質問にはなるべく答えるよ。」
「そうか。ではまず、俺はなぜ食事にありつけたのだ。あの家の者はまるで何かを恐れるようにほんの少しの怪で食べ物をくれた。前の家の人間は全く動揺しなかったというのに。これはいったいどういうことだ。」
「彼らは何かを恐れていたんだ。だから、簡単に食べ物を手に入れられた。」
「その何かと言うのは?」
少し間をおいて彼は話した。
「さぁ、私にもわからない。兎角、彼らは何かを恐れていたんだ。それ以上は私にもわからない。」
「それじゃあ、なんで君はあの家に行けば食事にありつける事を知っていたんだ。」
「それは……、わからない。」
そこから先は何を聞いても無駄なような気がした。彼は恐らく彼らとは違う何かを恐れているのだ。それが俺のことである事は明白であった。しかし、あえてその事にはもうこれ以上触れることはしなかった。それは、もしかしたら彼にとっての何か重大なことであるような気がしたためである。その代わりに別の質問をした。
「前から気になっていたんだが、彼らは、あそこにいる廃人然とした彼らは、いったいなんなんだ。空腹の先にある姿だと君は言った。しかし、空腹とあの痴呆のような姿と何が関係している。」
聞かれてもいい質問になった為か彼はえらく調子のいい声に変わった。
「あぁ、あれはつまり、幽霊というやつだよ。」
「俺達も幽霊だろう。」
「違う。私達は幽霊のなりそこないだ。本物の幽霊というやつは全てにおいて不可干渉なんだ。つまり、何者にも縛られないし、何者をも縛れない。私達は常に空腹に縛られ、怪によって、人々に奉食という縛りを与える。ここに決定的な違いがある。」
「それじゃあ、俺達をなんて呼べばいい。」
「そうだな、古人は私達のような者を幽鬼と呼んでいたらしい。私は、彼らのような状態を幽体と呼び、私達のような状態を亜幽体と呼んでいる。」
「そういうのは誰から聞いた。」
「私が随分と前に考えた。」
つまり彼の言う事は彼の妄想に過ぎない恐れがあるわけだ。そもそも彼は二十年も前に亡くなっているため、若いままの姿なのだ。姿だけが若いのならまだしも、もし、彼の頭がその若い姿に見合うものであるのなら、二十年も前のちょうど想像力旺盛な年頃の頭であるのなら……。そういう者の言う事である。信憑性が欠けていると言わざるを得ない。
ふと、ある恐怖が浮かんだ。
「幽霊は消えることがないのか。」
彼は電柱に寄りかかる幽霊を見て呟くように、消えることはないと答えた。続けて、消えることはないが、減ることはあると答えた。
「それは消えているためではないのか。」
「いや違う。」
「何が違う。」
「幽霊は消えることがない。それは、こうなった者には皆、当たり前のことのように自覚できる。それに奴らは消えないんだ。奴らは消えることがないんだ。」
確証もなく彼はただ消えることはないと言い続けた。何かに怯えるように彼は消えることはない、消えることはない、と繰り返した。その様子に少し、俺が恐怖を感じたのを彼が気付いたらしく、うつむきながらポツリ、ポツリと話し始めた。
「わからないんだ、何もわからない。私はこうなって二十年も経つがわからないことの方が多い。そのうちの一つが幽霊についてなんだ。私は本能的な部分で彼らと私とでは何か決定的なとこで違っていると理解している。しかし、その決定的なものが何かは全く理解していない。ちょうど人間が他人との違いがあることをいつの間にか理解しているのと同じように私も彼らとの違いをいつの間にか理解し、しかし、一方でその違いの具体を全く理解してはいないんだ。恥ずかしながら、私は二十年もの間、その事についてあまり考えてこなかった。そんな分からない事よりも、もっと重要な問題があったからだ。私はずっと飢えの恐怖と戦ってきた。何かはわからないが、幽霊にはなりたくないという思いが空腹の先にある恐怖というような、強迫観念に近いものにずっと支配されてきた。二十年だ、二十年も私はそれと戦い続けた。必死で戦う間その戦いの後の事など考えられなかった。不思議な事に分からないと言う様な事は、恐怖になる事が無く、私の恐怖は幽霊になるという確定した分かりきった事象に向けられていた。あぁ、私はもしかしたら、幽霊と幽鬼との違いはわからずとも生者との違いはわかるのかもしれない。つまり、私はわかっていることに恐怖する。しかし、生者はわからないことに恐怖する。」
話しを聞き終わると深々と、やっぱり俺は死んでいたのだな、と思った。今のいままでずっと、もしかしたら俺はまだ死んでいないのかも知れないなんて甘い幻想を抱いていた。この地獄よりも元の地獄の方が何倍も居心地が良かったんだ。だから、死んでいると本当のところで認めていなかった。でも、俺は確かにあの廃人、幽霊に恐怖していた。自らの行く末を本能的に感じ取ったから俺は恐怖したんだな。それは生きていた頃には感じなかった。俺が生きていた頃に恐怖していたのは、不確かな人間の心やトンネルの先の光景という不確かなものばかり。不安と恐怖はいつも見えないものにあった。子規の言うことは正しい。
二幽鬼、暫し黙々と自らの心を見つめた。互いに何も話す気力がなかったのである。疲れきっていたのだ。幽明は短期の間に起こりすぎた不馴れな出来事のために、子規は長年の苦しみの為に、それぞれが疲れきっていた。それで何も話さなかった。しかし、その中にあって子規が何か心に決めたらしく話し始めた。
「幽明、私は君に謝らなければならないことがある。私は君に嘘をついた。それは私の弱いための嘘であった。それによって君が危うくこの地獄を受け入れねばならないところだった。君はまだ死んでいないんだ。君はまだ、死んでいないんだ。」
子規の言うことは正しい。俺はそう信じていた。
「どうか、わかってほしい。私も必死だった。とても一人ではやっていけないほどに疲れていたんだ。二十年というのは長い。私はその間ずっと戦っていたんだ、ずっとだ。許されざることかも知れないが、私の事情も汲んでほしい。それに本当はこんな事を言うつもりはなかった。私はこのまま二人で幽鬼として存在していこうとさえ思っていたんだ。それを取り止めることの勇気をどうかわかってほしい。」
子規は、俺は死んでいないと言った。本当に俺は死んでいないのだろうか。
故人の葬儀に一人、甚だ悲しむものがいた。それは俺だった。棺のなかに形のわからぬ故人の姿があった。いつの日であったか二十年も前の故人の葬儀を思い出すに、あれほど泣いたことはなかったように思う。俺はそれほどに故人のことが好きだったのだろう。それは参列者皆に言えることだろう。それは友が心のうちにて不滅であった証だった。あの涙は友の魂であった。生命であったのだ。
俺は友を地獄に置いて、一人、元の地獄へ帰ることなどできるはずがない。子規の言うことは間違っている。俺はすでに死んでいるのだ。親族に殺されるような俺はすでに死んでいるも同然なのだ。正しきこと、必ずしも人の道にあらず。
幽鬼二人有りて、怪をなす。之、身に覚えありし者共の因果応報なり。霊媒師に曰く、怪なす幽鬼、遺産が為に殺されし者なり。この者の怨み甚だしく汝らの子々孫々永代に至るまで供養せよ、と。これより後の怪ある所以、二幽鬼の供養をせぬがためなりと伝う。

2019年5月18日公開

© 2019 寺原緩歩

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