雨の教室/落伍者の死

延島迦十

小説

6,220文字

蛍光灯が、蠅の羽音のように鳴った。

天井を振り仰ぎ、老いた教師は眉をひそめる。雨の湿度をはらんだ薄闇で、まるで心臓の脈動のように、明滅する白光。その光の下で震える、皺の弛んだ喉は、どこか病んだ鶏のようだ。

「蛍光灯も、昔より寿命が延びたと聞いたがなあ」

不意に、愚痴ともつかない独白がこぼれた。

雨音の皮膜が、その声を閉じこめ、壁の内側へと塗りこめる。放課後の校舎は、他に応じる生徒の姿もない。テスト用紙の束を抱え、それきり押し黙った背中は、やがて、ある教室の前で立ち止まった。

軋む音をたてて、扉が開かれる。

中には、隙間なくカーテンを引いた、薄暗い光景があった。暗がりにうずくまる、六列の机と椅子。棺桶のように、沈黙する黒板。皺深い指が、壁のスイッチをひねった。その途端、中央の机に、一人の少女の姿が浮かび上がる。

黒髪の、白い肌をした少女だった。セーラー服から伸びる手足が、蔓性の花のように、ほっそりと目を惹きつける。その指先には、一冊の本。手垢で黒ずんだ本は、その中身まで薄茶けて見えた。しおり紐がほつれ、綴じ糸の切れたページは、今にも崩壊しそうに危うい。

日記帳、のように見えた。経年によって変色した固い表紙。そして、手書きの文字が綴られたページ。しかし、少女の意識は、広げた日記帳から、さまよい出ているようだった。その視線は、何もない中空を漂っている。

「何を読んでいるの?」

問われた少女は、驚いた様子で顔を上げた。睫毛に縁どられた瞳が、蝶のように瞬きをする。しかし、次の瞬間には、唇に笑みを浮かべた。すべてを理解した共犯者に、密やかな合図を送るように。

それきり少女の視線は、広げたページの上に落ちた。黒く濡れた瞳が、綴られた文字を辿り始める。一方の老教師は、痰の絡んだ咳をして、窓辺の机に腰を落ち着けた。どうやら定期考査の採点を始めたようだ。しかし、はかどっているようには見えない。

絶え間ない雨音は、周波数の合わないラジオノイズのようだ。窓と扉を閉ざし、密閉された教室は、内側に音を溜めこみ、決して漏らそうとしない。その騒音めいた静寂の中、不意に一つの声が生まれた。

――親愛なる貴方へ。

それは、少女の声だった。外見の印象と同じ、綻んだばかりの蕾に似て儚げな、それでいて甘く絡みつくような、そんな声。椅子に腰かけた少女は、一心に日記帳を見つめている。その姿から、先ほどの声が、冒頭の一文を朗読したものだと気がついた。

たった一人の聞き手のために幕を開けた、朗読劇。漠然とした誰かに宛てたその言葉は、たちまち砂糖のように形を崩し、雨音に溶けて消え去った。

――親愛なる貴方へ。

これから私は、名も知らぬ貴方に、遺言を捧げようと思います。正確には、これは遺言ではなく、伝言と呼ぶべきものなのでしょう。彼女から、私への。私から、貴方への。しかし同時に、これは、私の唇が吐き出す最後の吐息であり、私という存在が残した唯一の足跡となるはずです。だから、どうか、この遺言を読み終えたなら、臨終の一息を嗅ぎとり、教室に残されたかすかな足跡の、その先に続く光景を見つけてください。この本を手にした貴方なら、きっと成し遂げてくれるはずです。

始まりは、ある雨の午後でした。図書室の本棚で見つけた、一冊の日記帳。好奇心からページをめくると、どこか見覚えのある文字が、私の目に飛びこんできたのです。わずかに右に傾ぐ癖のある、柔らかな少女の筆跡。その冒頭には、「親愛なる貴方へ」と綴られていました。さては、誰かが暇に任せて、詩か小説を書き殴ったに違いない。犯人を突き止めてやろうと、ちょっとした悪戯心から、私は日記帳を持ち帰りました。今、思えば、その瞬間こそが、運命の分かれ道だったのです。

内容自体は、思春期の少女にありがちな、実に他愛ないものとして映りました。詩とも小説とも、はては、日記ともつかない散文。しかし、苦笑と共に読み進める内、私は、とんでもない事実に気づいたのです。この書き手である少女の、学年、クラス、そして名前。それらを見る限り、どうやら彼女は、私のクラスメイトだったようなのです。いいえ、記された日付を信じるなら、今もクラスメイトの一人であるはずなのです。しかし、幾ら首をひねっても、私の頭の中に、彼女の記憶は残っていませんでした。

病気や事故による休学、登校拒否、転校……いいえ、違います。調べてみると、彼女の存在は、たとえば出席簿に、たとえば図書室の貸出カードに、しっかりと記録されているのです。にもかかわらず、彼女の存在は、生徒、教師、学校中の人間から、すっかり忘れられてしまったようなのでした。誰もが、その痕跡すら目にとまらない様子で、意識の内から締め出しているのです。

私は、必死に、彼女の記憶をかき集めました。仕草、表情、声、匂い……パズルのピースから、全体の絵柄を思い描くように、失われた少女の姿を取り戻そうと、あらゆる努力を重ねました。そうして、ようやく一人の少女が、私の脳裏に現れたのです。

それは、不思議な光景でした。机も椅子も取り去られた床の上で、膝を抱える一人の少女。チョークの鳴る黒板を見つめ、小鳥のように首を傾げながら、教師の熱弁に聞き入っていた、その後ろ姿。それは、まるで誰の目にも映らない、不可視の亡霊そのものでした。時には、定期考査の最中、静まり返った教室で、からかう眼差しを浮かべながら、一人一人、クラスメイトの机を覗きこむこともありました。悪戯に指先で消しゴムを転がしても、誰一人、目の前の少女に気づかないのです。そう、かつての私がそうであったように。

まざまざと記憶がよみがえった瞬間、私は、悲鳴をあげました。

そして、気づいたのです。ああ、どうして今まで気づかなかったのでしょうか。校舎の中を見渡せば、教室に、廊下に、階段に、屋上に、誰の記憶からも失われた生徒たちが、ひっそりとさまよっていたのです。あの少女と同じように、他者には観察されない存在として、確かに存在しているのでした。

その日から私は、彼らとの接触を試みました。

初め、私から声をかけられると、一様に驚いた彼らですが、真剣に対話を望めば、何時間でも話を聞かせてくれました。思えば彼らも、退屈していたのかもしれません。そして、私は知ったのです。生きながら亡霊となった彼らの、ある共通点。それは彼らが、自殺志願者だということでした。それも彼らが望むのは、ただの自殺ではありません。どうやら彼らは、その強い願望によって、肉体的な存在を、不可視のものに変えたようなのです。彼らが言うには、その望みは、世に溢れるような、見せかけの自殺ではないのです。真の自殺だと、彼らは口を揃えて言いました。では、真の自殺とは、一体何なのか。

その主張によれば、そもそも、巷で行われる自殺は、一見自殺のように見えても、それは紛い物に等しいのです。

病気・いじめ・借金・失恋……あらゆる苦難が引き起こした自殺は、一見、自殺に見えはしても、それは他殺と呼ぶべき代物です。また、家族に、恋人に、世論に、己の死を賭して、何事か訴えようとする自殺は、言論としての、言わばコミュニケーションの一手段とでも言うべきものなのです。

それならば、真の自殺とは、一体何か? それは、『私』の手による、自分殺しです。そう、私が、確かに『私』であること。それこそが、真の自殺の要なのです。その条件が守られてこそ、成立する行為。真の自殺とは、そういう性質のものなのです。

このように書いても、きっと貴方は、首を傾げることでしょう。かつての私がそうしたように。しかし私は、彼らとの対話によって。過去の自分が、どれほど不自由な存在であったかを知りました。言わば、私は、見えない糸で雁字搦めになりながら、それに気づかないマリオネットだったのです。

その見えない糸とは、何なのか? それは、クラスメイトから、教師から、学校中のすべての存在によってなされる、観察です。シュレディンガーの猫が、観察者の存在によって、初めて状態を定めるように、私という存在もまた、観察者によって定義されるのです。

貴方もご存知だと思いますが、私には、感情があります。私は、笑います。私は、泣きます。私は、怒ります。しかし、それは本当に、私の感情だと言えるのでしょうか? 何人にも侵されない自由意志? いいえ、違います。私たちは、その手元に配られた感情というカードの中から、場面に相応しい一枚を選んで、そっと差し出しているだけなのです。

飼い猫が死んだら、泣き出します。理不尽に咎められたら、怒ります。孤独への恐れから、友を選びます。口さがない陰口を耳にすれば、憎みます。沈黙が落ちれば、気まずさを覚えます。その反応にそぐわない人間――言わば、面白いジョークを聞いて泣き出すような人間は、この学校という場では狂人なのです。

これは、学校というシステムに起因します。同じ年頃の子供たちを集め、日々の大部分を拘束し、相互コミュニケーションを行わせる、たったそれだけの単純な仕組み。しかし、この仕掛けこそが、狂人排除のシステムと成りえるのです。それも、自浄作用とでも言うべき、自然現象として。

想像してみてください。同じ年齢の、けれど、さまざまな嗜好や意志をもった、何百人という思春期の少年少女が集合し、一個の集団の中で、互いに交流を始めたなら、一体、何が起こるでしょうか? それは、相互の観察によって発生する、感情や行動の平均化です。

まずは、互いの観察によって、集合としての平均が導き出されます。生徒たちは、その平均値を基準として、自己の行動を決定し、ついには、身の内の感情すらも、縛られるようになるのです。貴方もご存知のように、各々の個性すら、その平均を前提として論じられるのです。

生徒たちは、その行動や感情に、自発的な矯正をかけ、時にストレスを感じながらも、己の平均化を心がけます。時には、一個の集団として、その値を著しく逸脱したものに対し、無視や嫌がらせといった、ストレスによる矯正を施したりもするのです。

しかし、これは、あくまで自然現象であるからこそ、誰が罪に問われるわけでもなければ、この学校そのものが、諸悪の根源として糾弾されるわけでもないのです。それが、学校という魔術的装置の、魔術的たる所以なのでした。

そして、彼らは――いいえ、私たちは、この学校というシステムに耐えられなくなった、少年少女なのでした。だからこそ私たちは、他者からの観察を拒み、誰の目にも映らない亡霊として、また一人の自殺志願者として、この校舎をさまよい歩くのです。

私は、去勢された自己であるよりは、排除されるべき狂人であることを選びます。こんな物言いは、落伍者としての、とるに足らない矜持であるかもしれません。ああ、そうです。しょせん私たちは、正しく大人になることの叶わなかった、出来損ないにすぎません。しかし私の胸には、ある予感が宿っています。これから私のとる行動は、他者の手から私を奪い返したという、確かな証明となるでしょう。そして私という存在に相応しい、完璧なフィナーレとなるはずです。

だから、貴方が――親愛なる貴方が、私の残した足跡を見つけ、その行く末を目にしたなら、どうか惜しみない拍手を送ってください。その喝采を墓標として、私は飛ぼうと思うのです。

――窓の外に、と。

最後の一息を吐きだして、独白劇に似た、その朗読は終わりを告げた。たちまち沈黙が、声の残滓を飲みこみ、室内は雨音に充たされる。その時、椅子の軋む音がして、不意に教師は立ち上がった。窓ガラスに向き合った背中が、左右の腕を伸ばし、閉ざされたカーテンを引き開ける。

途端、壁一面に広がった雨空は、まるで古い映画のスクリーンのようだった。モノクロームに沈んだ校庭。その果てに広がる、ジオラマめいた灰色の街並み。そんな無彩色の背景の前に、異様な光景が広がっていた。ストップモーションフィルムめいた、数秒の映像。最初それは、屋上から落下する、マネキン人形の群れに見えた。または、雨空から落下する鴉の死骸にも。

風をはらんで、花弁のように揺らめく、黒一色の制服。

曇天の空に投げ出された、無数の手足。

それは、まるで繰り糸を断たれたマリオネットのように、次から次へと、屋上から飛び降りる、少年少女たちの姿だった。

上から下へと。

上から下へと。

上から下へと。

永遠にも思えたその一瞬、彼らの口元には、確かに微笑の影が見えた。その肢体は、まっすぐ窓ガラスの向こうを通過し、重力に従って降下する。まるで空から廃棄される人形のように。

直後、鼓膜を震わせる音があった。重い泥袋を落としたような、濡れた音。卵の殻を潰した時にも似て、しかし、幸いにも悲鳴は起こらない。

そして無人の空には、雨音だけが残された。

一体、どれほどの沈黙が流れたろうか。

不意に、少女の指先が、ぱたん、と音をたてて日記帳を閉じた。その残響が消えぬ間に、少女の背中が、椅子から立ち上がる。鈍色のスクリーンを前に、まるで彫像のように佇む、その後ろ姿。

肩越しに振り向いた顔が、微笑を浮かべた。

背後に佇む、『僕』に向かって。

充ち足りたような、しかし、どこか悲しげにも映る、そんな表情で。

そして少女は、窓の桟に腰かけると、躊躇することなく身を投げた。艶やかな黒髪が、落下の軌跡をえがいて、やがて消える。窓ガラスには、雨のカーテン越しに広がる、曇天の街並みだけが残された。

僕は、惜しみない拍手を送った。灰色の空に向かって、痛いほど手の平を打ち合わせる。少女が、僕に向かって朗読した、あの遺言の通りに。死の間際にいるかもしれない少女の耳に、この音が届くように。

やがて僕の指先から音は消え、再び教室は、雨音に充たされた。

雨は、一向に降り止む気配がない。

僕の傍らには、ぼんやりと佇む、老いた教師の姿があった。

彼にとっては、鳥の影一つない空を見上げると、絶え間ない雨に、ひっそりと溜息を吐く。その側に立った僕は、背筋を伸ばし、深呼吸をした。鼻孔に、濃密な雨の匂いを感じる。

元通りカーテンを閉ざした教師は、背後の机の列を見やって、おや、と眉をひそめた。先ほどまで彼女が座っていた机――彼にとっては、無人だった空間だ。いつの間に、こんな本が。そう呟く声に答える者はいない。苦しげな咳をすると、教師は、その痩せた胸にテスト用紙の束を抱え直した。どこか逃げるような足取りで、彼にとっては、無人の教室を後にする。

ぱちん、と照明が落とされると、室内には、再び暗闇が訪れた。

落伍者の一人である、僕だけを残して。

窓ガラスの向こうでは、壊れた蓄音器のように、雨音が鳴り続けている。日記帳を拾い上げ、僕は、廊下へと足を向けた。目指す先は、図書室だ。本棚の片隅に、この日記帳を差しこめば、それで僕の役目はおしまいとなる。きっと僕とは別の誰かが、この日記帳を手にした少女、もしくは少年に、僕らのことを、正しく伝えてくれるはずだ。

さて、僕は、どうしようか。

独白に応える声はない。天井を仰ぐと、まるで拍手でもするように、蛍光灯が明滅した。

誰にも知られないまま、瞬いて、そして、消える。

2012年3月10日公開

© 2012 延島迦十

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