弟に。
――
細身の女性的な優美なフォルムの拳銃は重く冷たく、鉄の臭いが漂う。手に馴染まない妙な握り心地の銃把は左右非対称の木でできていて、握ると微かに手の中で軋んだ。撃鉄には指を掛けられる構造が無く、この銃が片手で扱う騎兵隊の要望で開発された事実を思い出させる。装弾数は六発。六発撃ち尽くしたら、後は剣を抜いて突撃するしかない。
陸軍制式の国産中折れ式リボルバー、二十六年式拳銃。数年前にヤフオクで三百ドル程で手に入れ、机の引出しに弾丸と共に常備している。浅羽はメンテのために用心金を外し、照門の後方にある留め具を上げて銃身を半回転させた。サイドプレートを開けてバネの錆び具合を確認しながら、細かい埃を爪楊枝で取り除く。油で固まった埃は、指にベタついて黒く滲む。内部機構に薄く油を差し、引き金を軽く引きながらサイドプレートを閉じた。弾が装填されていないことを確かめ、作動を確認する。ダブルアクションオンリーの引き金は重く、手がブレる。
カチリ。メカの動きには問題なさそうだ。
(これでは二、三メートル先の標的に当てる自信は無いな……)数回引き金を引いて感触を確かめた後、弾を籠めて机の引出しに戻す。
浅羽は若い頃に無外流を学んでいたため、剣と居合は素人よりは使えた。一撃で確実に敵の急所を狙って倒すのには、こんな命中精度も悪く弾数も少なく殺傷能力の低い拳銃よりも、日本刀の方が遥かに信頼できる。浅羽は上座の刀掛けに置いてある刀に視線を向けた。昨年古道具屋で偶々見付けて買ったそれは、刀身にいくつかの凡字が彫られた無銘である。凡字の意味するところは浅羽には分からないが、持ち主を呪う類のものではなさそうだ。と、思いたい。浅羽は刀を両手で取ると、捧げて一礼し、目釘をあらためて鞘を払った。
(こいつにも油を塗っておかないと、……)傍らの『御刀油』と筆で書かれた箱を探って瓶を出すが、中身は空だった。(いけね、買い忘れてる)
浅羽は時々世話になっている、水道橋の武具用品店の定休日を思い出そうとした。思い出せない。九段三丁目のここから、歩いて一時間は掛からないのは確かだ。これから数日は戻ってこれそうにないし、手入れは丁寧にしておいてあげたいが……。
浅羽は暫く考えた後、トランペットケースからバルブオイルを出して刀身に塗った。
――
『親父が倒れて、意識がないんだって』
泣いている弟から電話を受けた時、浅羽は病院に向かいはしたものの、特に深い感慨を抱いていなかった。父とは色々なことで折り合いが付かず、長く疎遠にしていた。若い頃は父の人格を激しく嫌っていたが、一人で過ごす時間が長くなるにつれて次第にどうでも良くなった。しかし好んで話す気にもなれず、たまに会う時にも、当たり障りの無い会話に終始するだけだった。
千葉の山奥の病院に着くと、父は死にかけていた。
医師の説明では原因不明で殆ど死に近い状況とのことだったが、身体から放っている気にはまだ生命力は尽きていなかった。後遺症などはともかく、暫く生き延びそうではあるが、――
(何が楽しくて今まで生きてきたんだ?こいつは)
それが浅羽の率直な感想だった。老舗家具メーカーをリストラされて、ドイツ資本の自動車部品工場で雇われ工場長を務めていた父は、仕事だけで人生の殆どの時間を無駄に浪費していた。浅羽のように剣術や音楽に心を入れる訳でもなく、母親のように薙刀術やお茶を嗜む訳でもなく、ただ仕事と安酒と煙草に生きてきた。母親を亡くし、工場を定年退職し、再就職した観光施設職員を二ヶ月前に病気退職し、それでこの有様である。
浅羽は若い頃に医学論文の要約や校正を生業にしていたため、父の病状から死亡率や内蔵のダメージや脳機能への影響などを含めて、冷静に今後のことを考えることができた。だが、銀行員の弟は医師の言葉や血圧などの数値に一喜一憂し、浅羽には気の毒で見ていられなかった。
「意識が戻ったとしても、このまま病院から出られないなんてことあるのかな……」家族を大切に思っている弟は、深い悲しみとどうしていいか判らない混乱に落ち込んでいた。
「その可能性は高い。内臓へのダメージも厳しい筈だ。だが、私はもう少し酷い状態を想像していた。腎機能が正常なだけまだマシだよ。肝臓も弱っているが、アンモニア濃度もすぐに危険なほどではない。脳機能はどうだか判らないが」
「そうなのかな……」弟は父の手や肩をさすってあげたり、布団をかけ直したりしてあげていた。浅羽は自身が細菌の感染源になることを恐れ、父には近付かなかった。弟も浅羽も、お互いが今までに身に付けた知識と心で事に臨んでいるのだ。何が最善か判らない状況の場合、取り得る選択肢は全てが正しいことが多い。そして、お互いの考えを押し付け合うほど、彼等はもう若くはない。
十日後、父は意識を取り戻した。病院から連絡を受けた浅羽は、再び仕事を休み、半日掛けて千葉の山奥へ向かう。弟は既に病室に来ていた。父は、もう椅子に自分で座っている。
「元気そうでなによりだ。よく生き延びたね。本来ならば死んでいた。内臓のダメージは大きい筈だ。暫くはゆっくり療養しているんだね」浅羽は飾らない言葉で言った。
「……そうか、そう言ってくれるのはヒデカズ君だけだ。彼は怒ってばかりだよ」笑いながら父は弟を見た。弟は少し辛そうな顔をして目を反らす。
(見た目は正常に見えるが、そんなに甘いものではない)浅羽は敗血症性ショックの病理と治療法、死亡率、予後と代表的な後遺症などを頭の中で反芻した。「近くのお店にお弁当を買いに行って倒れたらしいじゃない。買ったまま回収されて冷えていたエビグラタンは、私がありがたく頂いたよ」浅羽は笑って言った。
「……そうか」父は応えたが、不思議そうな顔をしている。
(やはり記憶は無いか。どの位まで記憶が残っているのか、……数週間前か、果たして数十年前か)
「しかし、ヒデカズ君と会うなんて珍しいね。本当に滅多に無いことじゃないか。三人揃って会うなんて、何年振りだろう?」
「二ヶ月前に三人で会ったでしょ、あなたが仕事やめたから」弟が言った。「憶えてない?」
「そうか、そうだったか?」父には思い出すことは出来なかった。「そう言えば、この間お兄さんが会いに来てくれたんだよ」弟に言う。
「お兄さんはここにいるよ」弟は私を指差す。
「ああ、そうだな」父は浅羽を見て、苦悩を浮かべながら、目を閉じて頭を抱える。「そうだな……。どうもダメだ……」
(瞬間的な認識や判断力は問題なさそうだ)浅羽は考える。(記憶障害、見当識障害、作話、……だが、眼には理性が宿っている。判断力には問題ない。気にも澱みはない。自身の記憶に信頼が置けないことにも気付いているな、これは。であれば、概ね問題ないだろう)
「ここに来る前、家の近くの病院にいただろう?」父が言う。
「いつの話?」弟が応える。
「いつだったかな、……母さんの病院に入院費を支払いに行ったことは憶えているのだが」
(父さん、母さんは五年も前に死んだよ、……癌が全身に転移して、骨の奥からの痛みに最期まで苦しみ抜いて……)浅羽は何も言えず、無表情でバッグからケースを取り出し、フルートを組み立てた。
「……」弟は浅羽を見ながら何も言わない。父も、不思議そうな顔で浅羽をぼんやり見ている。
「ま、この年まで生きてると、色々な特技が身に付くものさ。今はこれ」浅羽はフルートに息を入れる。病院なので音は鳴らさない。息の音だけで演奏する。モーツァルトのアイネクライネ・ナハトムジーク第一楽章。メロディが始まると、ハッとしたように二人が浅羽に注目する。
「聞いたことないね……」父が呟く。
「いや、あるだろ」弟が静かに返す。
――
次の週、弟と入れ違いで様子を見ることにした浅羽は、小湊鉄道に乗って病院に向かっていた。千葉の人は未だに汽車を神の乗り物と思い、忌避する者も多い……と、『すすめ!パイレーツ』に書いてあったが、多分ウソだろう。乗客は汚れた運動着の子供と、農村地帯染みた女性。半濁音の目立つ方言で、浅羽には翻訳不能な会話が成立している。窓の外には農民達が、農作業の手を止めてこちらを見ている。
(文明から置き去りにされた土地か。こんなところでフルートなんか出したら、暴走族かサーファーにリンチされそうだ)
浅羽はキャスケットを目深にかぶり、珍しそうにこちらを見ている子供と目を合わせないようにした。
――
病室のドアをノックし、中に入る。
「はい、どうぞ」応える父は食事中だった。献立は焼きそば、餃子、杏仁豆腐。
(普通だな……)浅羽は驚く。
「おお、今日来る予定だったっけ?」父が問う。「あいつは来週来ると言ってたが」
(どの来週だか……)弟が大まかな予定を話してくれているようだが、どこまで正確に認識しているのかは疑問だ。「しかし、随分普通の食事だね。内臓がかなり弱っていた筈だけど、回復が早いのかい?」
「まあ、人よりは早いようだね。医者の話だと」
「そうか」浅羽は窓際の椅子に座って楽譜を読み始める。(この『a2.』ってたまに見るけど、どういう意味なんだろう?)
父が食事を終えるのを確認し、浅羽は問う。
「記憶はどう?」
「良く憶えていないね……」
「どのくらい前のことまで憶えてる?」
「母さんが亡くなってから、一度、俺が入院したことあっただろ?」
(母さんが亡くなったことは分かるのか?いや、単なる条件反射か……)記憶の齟齬は気にしない。人間の記憶は改竄されるように出来ている。「入院か、そう言えばそんなこともあったかもしれないな」
「ここに来る前に、色々な病院に入ってたって聞いたんだけどさ、そんなこと言われてもこっちは全然憶えてないからさ」父は笑った。
「まあ、そりゃそうだよね」言いながら、そんな事実は無いことを考える。
ふと、父親が立ち上がって、スーっと病室を出た。
(まずい)浅羽も一緒に立ち上がるが、無理に連れ戻す気にはならない。「どうしたの?何か探してるのかい?」
「いや、煙草吸えるところがないかと思ってね」勿論ナースから煙草など持たせられている筈がない。
「煙草はまずいと思うよ」浅羽は言う。「それはまずい。死にかけてたんだからさ、煙草なんか吸ってたら、それこそここから一生出れなくなっちまうぜ」
「そうか?」
「私は元々医療関係の仕事もしてたんだ。たまには人の言うことも聞くんだね」父の肩を抱き、病室に戻る。
「そう言えば、明日って誕生日じゃない?」
「え、俺の?」父は今日の日付を一生懸命思い出そうとする。「そういえば、そうだね」
「おめでとう」浅羽は言った。二十二年ぶりに。
「あはは」父は照れて笑った。「もう何年も一人だったから、誕生日でも何も思わなくなってたからさ」
「そうか」
「じゃあ、ま、元気そうな姿が確認できたから、私は今日は帰るわ」
「おお、そうか」
「また来るし、弟も来るからさ」
「そうだな」父は外まで見送ろうと立ち上がる。
「いや、大丈夫だ。ナースに怒られちゃうからさ」
「そうか」
「じゃあ、また」浅羽は手を差し出す。
「ああ、今日はありがとう。君も元気にな」父が浅羽の手を握る。その力は想像していたよりもずっと強かった。
(この男の、……)浅羽は父の手から、敏感に人生の力を読み取った。(この男も、自分の人生を生きてきたんだ)
浅羽は当たり前の事実を再確認して、――自分との思い出を共有する人間が確実に死に近付いている事実に、打たれた。
(2016.03.01)
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