穴倉

仲江瑠璃

小説

25,757文字

不良少年が罪を犯し、逃亡した先には、暴力以外の何物でもないセックスが続く世界。搾取するものが、さらに大きな力によって搾取される。彼らは狂気の中で、この不条理の暗黒ループから逃れられるのか?

(「ノワール」という言葉に刺激されて、書いてみました。暴力描写が延々と続きます。後味がかなり悪いと友人からは酷評判でした。しかし、胸やけした方には一読の価値あり!よろしくお願いします)

穴 倉

 

ヤンキーが好きそうな雑誌の中から手ごろな絵柄を選んで、コンビニのカラーコピーでプリントする。それを100円ライターに貼り付けて一つ1,000円で売る。胴元の俺には500円入り、売った奴には300円、売った奴を紹介した奴には100円入るというシステム、要するにネズミ講だ。それを俺の所属しているチームでやると、いろんなのがいるもんだかから、儲けてやろうとカツアゲしたり、押し売りしたりする奴が出てくる。そうして1カ月月後には500万の金が俺の懐に入り込んで来たのだから、搾取される末端のヒガイシャの数はおのずと知れてくるものだ。

 

新宿での500万って金は二日で消える。酒飲んで、ちょっといい女抱いて、ダチを連れ廻したらそんなもんだ。

 

俺もまだまだ子供だったんだよな。ガキが金を集めるヤバさってのを知らなかった。あっという間に警察から手配が掛かって、俺は当然逃げることにした。もっとも、この時とっとと捕まっていたら良かったって、今になって心の底から思ってる。

 

昔所属していたチームの笹川先輩が店をやっていて、俺を探してるってダチから聞いたから、取り合えず携帯で電話してみた。先輩はすぐに出て「おう、真司、なんだか色々やってるらしいな。やばくなってんじゃないのか?」と言うので、かいつまんで話すと、匿ってくれるというので、俺は先輩の店に行くことにした。

 

先輩は、新宿の中心地で30坪ぐらいのショットバーを経営していた。薄暗い店内にはカウンターがあり、その前には高級そうな洋酒がずらりと並んでいる。

笹川先輩は俺をカウンター席に座らせると、洋酒の中から鳥の絵柄が書いてあるウイスキーをグラスに注いでくれた。英語なんて読めないけど、辛うじてワイルドターキーと読めた。

「俺、まだ未成年なんすけどね」と軽口を叩いてみたが、先輩は口の端を少し上げただけで、フンと鼻を鳴らした。

「金はどうした」とか、「身内はどうしてる」とか、かなりしつこく聞かれたけれど、金はもうないことや身内とはとっくに縁が切れている事を話すと、先輩は感情の読み取れない目で俺を見据えた。

前のチームでも、笹川先輩はいつも何かやばいことを考えているような雰囲気があった。寡黙で、ときどき捕食者の獲物を狙うような眼光の強さに、そのころチームのパシリ的な役割だった俺は、男惚れするように憧れもしたが、目の前にいる先輩はさらに凄みを増していて、ひどく落ち着けない緊張感を感じた。できるならすぐにでも逃げ出したい気分になる。そうだった笹川先輩はこんな感じの人だっけ。癖の強いワイルドターキーを舐めながらぼんやりと当時の感覚を思い出していた。

「いいよ、匿ってやるよ。頭のいい奴は好きだ。だけどな、お前を匿えば多少なりとも俺もやばいわけよ。だからさ、ちゃんと働いてもわないとな。わかるよな真司君、等価交換ってやつだよ」

切れ長の目で俺を見据える。俺は本能でやばいと分かってはいたけれど、酒の中に何か入っていたのか、先輩の独特の雰囲気にやられたのか抗う術など無く、ただ頷いていた。

 

住み込みという軟禁状態の中で、どうして30坪もある店なのにカウンターしかないのか、開店休業のような経営状態なのかを俺はすぐに知ることになった。そしてそれを知ることによって、俺は逃げられない状況に置かれたことをすぐに理解した。先輩の本業は地下にあった。

やばい筋の金持ち相手の「強姦ショー」俺はそこでホール担当の手伝いをすることになった。

どこからか連れて来られた男や女、時には外人もいた。それがステージに引きずり出されて、衣服をひんむかれ縛られたり道具を使ったりして、ただただ強姦されるのだ。おおよそ、穴が開いてりゃなんでもありのような、暴力以外の何物でもないセックスが毎夜のように繰り広げられる。そして、客はそれをポールダンスでも見るように歓談しながら楽しむ。俺だって若い男の子なもんで、初めの内はうっかり勃起しそうになったこともあったが、人の泣き叫ぶ声とセックスが俺の中で関連付けられて1ヶ月後には立派なインポになっていた。

 

そんなある日先輩が

「今日からこいつを匿うから、真司がいろいろ教えてやってくれ」と一人の若い女を連れて来た。

女は麻耶と名乗った。見るからに頭は悪そうだが、体はいい具合に育っている。22歳と言っていたが、もっと幼く見えた。それでも、肌はおばはんかと思うほどカサカサ、ベタベタで吐き気のするような、安化粧品の甘ったるい匂いがした。

 

麻耶はチンピラの彼氏にDVを受けていた。ある日キャンプと称して連れ出された山の中で、行き過ぎたSMの青姦を強要されて、手元にあった丸太を握って思わず彼氏の頭を殴ったら動かなくなったと悪びれることもなく言った。彼女は彼氏をそのままにして逃げて来たそうだ。それからどこの伝をどう巡って来たのか、先輩に繋がり、こうして匿われることになったのだ。

「ほんと、あたしラッキーだったわ! 持つべきものはトモダチだよね」と言って、何かクスリもやっていたのか、焦点の定まらない目線で、ヒステリックに笑った。しかし俺は彼女が酷くアンラッキーだった事をすぐに身に染みることになるんだろうなと、ぼんやりと考えていた。

麻耶も俺と同じ地下ホールで働くようになった。先輩に命令された通り、俺は彼女にホールでの手順を教えた。麻耶は意外にも物覚えが良く、すぐに二人だけでホールを回せるようになった。二日もすると麻耶の顔色は良くなっていた。クスリが抜けたのか、目の焦点がしっかりしてくると彼女の印象は別人のようになった。はじめに感じたヒステリックな印象は薬のせいだったのか、本来の彼女はどこか不安気ではあるが、人のよさを感じさせる穏やかなイメージに変っていった。

 

彼女が仕事を初めて三日目にショーが開かれた。

その日のギセイシャは麻耶より少し若い女だった。

女は初めから服を剥かれてステージに放り出され、それでも抗おうとステージの上を逃げまどう。その日のショーは女を男二人で強姦するというものだ。

狭いステージで、女はすぐに捕まった。捕まった時に客席から小さな笑いと拍手が起こった。女は叫び声を上げたが、すぐに猿轡を噛まされて叫び声がくぐもる。それでも女は叫ぶことをやめなかった。首と手足に皮の枷を付けられて、そのままステージ上に設置された大きめの台にM字開脚の状態で縛りつけられた。スポットライトが降り注ぐ中で、お決まりの強姦がひたすら続く。うめき声を上げる女の声が段々と小さくなり、最後はぐったりと弛緩したようにされるがままになった。拘束を解かれて尻を大きく持ち上げられ、後ろから犯され、口に男をねじ込まれても、人形のように意思が感じられない。そうなると客からブーイングが起るが、こうなってしまった女はもうどうにもならない。ステージの真ん中に転がされて、スポットライトが唐突に消える。店の中が一瞬真っ暗になると、ぽっと蝋燭が付いたようにダウンライトが付く。ショーの終わりだ。まばらな拍手とブーイング。そしてざわざわと歓談が始まる。

麻耶は銀のトレーを持ったまた固まったように動かなくなったが、客から「注文!」と怒鳴りつけられると、我に返ったように動き出した。俺はそれを横目で見ながら、麻耶が何を感じたのかを想像した。表面上では平静を装っていた麻耶だが、皿をテーブルに置く手が微かに震えているのを見逃さなかった。

 

俺たちに与えられる食事は日に2回。

地下ホールにキッチンがあるが、ホール担当の俺たちが入ることは許されていない。ホールとキッチンの間に小窓があって、そこから料理を受け取り配膳をする。同じように別に雇われているらしいシェフの親父もホールには入れない。だから親父はホールで何が行われているかは知らないのだろう。それでも親父らしいと分かるのは、配膳を受け取るときに「はいよ!」と野太い声が聞こえるからだ。その親父から、賄食として店が始まる30分前に出される食事を、麻耶と俺は立ったままかき込んで夜通しの仕事に入る。朝方、仕事が終わると朝食と昼食の兼用のような食事が用意されていて、それを持って自分に当てわがれたホール隅の2帖ほどの部屋へ行くのだ。

さすがの麻耶もその日は食事が喉を通らないのか、ラップされた食事の皿を俺に押し付けてきた。

「食べて」と見るのも嫌そうな表情をしてる。

「食わないと持たないよ」

俺がそう言うと、麻耶は俺の顔を見て、

「うん、ありがとう。でも大丈夫」と力なく笑う。

食事の量は多くない。だから出された時にちゃんと食べておかなければ体力が持たない。麻耶の体を心配しているわけではないが、働く人間が減れば俺の負担が増える。だから俺は「一緒に食う?」と提案した。麻耶は少し驚いた様子で俺の顔を見た。そして予想もしなかった無防備な笑顔を俺に向けた。

「うん」

俺は少し戸惑って、

「じゃあ、とっとと掃除して食おうぜ」と言った。

俺はすっかり慣れたステージの汚物処理を済ませる。麻耶はまだ青い顔をしていたが、テキパキとテーブルを拭いたり、床にモップをかけたりしている。働くの馴れてんだな・・・。俺は麻耶のその姿を盗み見ながら彼女を少し見直していた。

ホール横の事務所で先輩はなにか書類を見ている。俺が「ここで飯食っていいっすか?」と聞くと、面白そうな物を見る目つきで俺たちを見た。

「なんだ、二人仲良しじゃないか」ニヤニヤとしている。

「いえ、そういう訳じゃないですけど」麻耶は笹川先輩が怖いのか、怯えた目で彼を見ていた。先輩はそんな彼女を面白そうに見据えると「いいよ。俺は一階に上がるから、汚すんじゃねえぞ」と言って、事務所を出て行った。

先輩はそう言いながら、一階に続くドアの扉の鍵を開けて出て行った。そして外から施錠する音がする。こうやって俺たちは監禁されているのだ。

1度ホールの酒の調達に手違いがあって、昼間に1階のバーの酒を地下のホールに下す手伝いをさせられたとき、1階のカウンターには「強姦ショー」の加害者役が、動物のような臭い匂いを漂わせながら、エロ雑誌を食い入るように見入っていた。どうやら、俺たちの見張をしているらしかった。

 

俺は冷蔵庫からミネラルウォーターを持って来ると、麻耶の分もコップに注いでやってから黒い合皮の長ソファーに座って割り箸を割った。麻耶は俺の目の前の一人掛けのソファーに座り、俺を動きを真似るようにしながら、俺の顔を盗み見ている。

麻耶にいろいろと質問されることを覚悟していたが、彼女はショーの事について何の質問もしてこない。きっと麻耶の中でいろんな混乱があって、まだ口に出せるまでには消化しきれていないのだろう。ここに辿り着いて三日目、それまで想像もしたことのない暴力的な世界を見せられたのだから、それも無理のないことだと思った。だから俺は何も言わずいた。俺だって良く分かっていないことの質問責めには合いたくない。しばらくの沈黙が続くと、麻耶は唐突に

「真司君っていくつ?」と聞いてきた。核心を避けて俺にそう聞く麻耶に意外さを感じ、本当はそんなに頭は悪くないのかもと思った。

「17」

「ええっ! 私より5個も年下なんだね!」麻耶はそういうと、自分の皿からウインナーや卵焼きを箸でつまんで俺の皿に乗せた。

「おい、自分で食えよ」驚いてそう言うと麻耶は

「だって育ち盛りじゃん。ちゃんと食べないとだめだよ。そんなんじゃ足りないよね」と言う。

「お母さんかよ。」俺は麻耶が皿に乗せたおかずを戻そうとした。麻耶はそれを遮って、

「ほんと、今日はこれだけ食べるのが精一杯」と言って、焼いていない食パンを手に取って見せる。ああそうか、食いたくても食えないのか・・・。

「うん、じゃあ遠慮なく」俺はウインナーを頬張って、大袈裟に咀嚼して見せと、麻耶は笑いながら食パンをちぎって口の中に入れた。

麻耶の目から突然大粒の涙が出た。俺は驚いて「お、おい」と声を掛けると

「あれ、なんでだろう、涙が出る。変だよね」泣いてるのか笑っているのか判断のできない顔で麻耶は溢れ出る涙を懸命に拭いていた。それでもパンをちぎって口に入れ、最後には涙を拭くことも諦めたらしく、しゃくり上げながら食パンを咀嚼する。

「なんだよ、すっげえブスになってんぞ」

「うっさいなぁ。女の子にブスって言ったらいけないんだよ」と文句を言いながらも麻耶は泣き続けた。ちきしょう。思わず心の中で悪態をつく。彼女につられて目の奥が熱くなって来たからだ。

「明日からさ、一緒に飯食おうか・・・」そんなつもりはなかったのに俺はそう提案していた。麻耶は泣き笑いのまま「うん」と力強くうなずいた。

麻耶はしばらくのあいだショーの後で泣いていた。俺はそれを見守るだけで、好きなように泣かせておいた。感情に流されていてはこっちの神経が参ってしまう。ましてや麻耶のように、ヒガイシャへの同情や、何も出来ない自分への罪悪感などを持っていたら、この先ここで生きてはいけない。神経の方が焼き切れてしまう。麻耶の感情と迎合してはいけない。それは俺の本能がそう警告しているのだ。だから俺は意識して麻耶に構わないようにしていた。

食事を終えると俺はすぐに部屋に帰って、あまり麻耶との会話を長引かせないよう心掛けた。それでも食事を一緒にすることだけは止めなかったのは、麻耶が「真司ごはん足りないよね。これ食べなね」と、自分の食事を俺に分けようとするからだ。一応「いいよ。麻耶だって足りないはずだろ」と断るが、麻耶はまるで俺を飢えさせないのが自分の義務でもあるかのように、わずかな食事を俺に分け与えようとする。確かにありがたかった。これでも育ち盛りなのだ。

しかし妙は話ではあるが、外にいた時よりもずっと栄養は保たれている。食べたいときに好きなものを食べる生活から、量は少なくとも定期的に取れる食事はありがたかった。麻耶はただ俺が年下だから、自分が守らなければいけないと思ったのだろう。外にいた頃の俺ならともかく、麻耶の思い込みは俺にとっては居心地のよいものになり始めていた。

 

ある日のステージで男の子が強姦された。と言ってもたぶん俺と同じぐらいの年だと思う。線が細く色も白く眼鼻立ちも整っていて、下手な女よりも綺麗に見えた。男と呼ぶには抵抗がある。彼はヒロと紹介された。

いつもはヒガイシャの名前なんて紹介されないのだが、今日の趣向はどうやら物語仕立てらしく、ナレーションが流れショーが進められて行く。もちろん加虐趣味に芽生えたわけではないし、男の体に欲情する趣向など初めからない。同じ男として彼に対して多少の同情は感じるが馴れと言うのは恐ろしいもので、俺は配膳をしながらもそのショーを冷静に見物していた。

俺が違和感を感じたのは彼が衣服を剥かれてステージに転がされたときに、自分の股間と同時に胸を隠そうとしたことだ。股間は分かるが、普通の男は胸を隠そうとはしない。青白く凹凸のない肌がスポットライトに照らされて、蝋のようにも大理石のようにも見える。

「ロシア人の祖父、政財界の大物の父、銀座の人気ホステスの母を持つ、美少年ヒロ!。不遇な彼の人生は、妾の子と指をさされ、父の本妻の息子、血を分けた兄に犯されたときから始まったのです」などという、下手なシナリオのナレーションが流れる。ヒロは大きな目を一杯に見開き、誰もが試みるようにステージから逃げ出そうとする。彼の仕草の違和感の正体に合点がいった。

そのシナリオを信じるわけではないが、ヒロが誰かに犯されていたと言うのは本当の事なのだろう。そうでなければこの状況で過剰に体を隠して逃げ惑うような仕草はしない。自分の体が男の慰み者としての需要があることを知ってるのだ。それがまた酷く残酷に思えた。

妙に冷静な分析をしている自分に苦笑する。

潤滑剤のローションを肛門から注入されても、彼を襲った苦痛は想像を絶するものなのだろう。彼は声帯が壊れるんじゃないかと思うほど甲高い悲鳴を上げ続けた。

彼の肛門から流れる血とローションが混ざり合って、抜き差しが続けられる。それはもう拷問の何物でもなかった。一体どの客の趣向なのか・・・。

この様子を目を輝かせて、食いつくように見ている客を見つける。

高級そうなスーツを着て、外で見たら優しそうで知的な紳士に見えるだろう。もしかしたら妻も子供もいるのかもしれない。なんともいえない嫌悪感に襲われて、口癖のようになってきた言葉を小さく吐き棄てる。「下衆が!」

麻耶の姿が見えた。彼女は蒼白な顔をして、必死で彼を見ないようにしているようだ。そうして今日も彼女は自分を責めるのだろうか。俺はステージに視線を戻す。ステージ上で悲鳴を上げ続ける彼のペニスは小さく縮こまったままだ。強姦する側の男は彼の細い腰を掴んだまま彼の中に射精した。

俺は喉から酸っぱいものが上がってくるのを必死で押さえた。

 

ここは穴倉だ。小さな日の光さえ差すことのない穴倉。いるのは蛆やらナメクジやら、おおよそ人間では無いものばかりだ。

 

先ほど客席で目を輝かせていた男が、佐川先輩を呼んで何やら話している。ヒロを買う商談でもしているのかもしれない。先輩は壁際に背を預けたまま煙草をくゆらせ、その男に向かって1本2本と指を立てている。彼の値段を決めているようだ。

ステージでは、すでに意識のない彼の体が2度目の強姦に耐えていた。

 

このヒガイシャたちの行く末がどうなったのか、先輩に話を聞くまで知らなかった。どうせ俺たちのようにやばい事情で匿われ、先輩の言う等価交換での支払いのためにこのショーに出て、支払いが終われば解放されているのだと思っていた。警察には駆け込めない事情の連中ばかりなのだ。しかし現実はもっと絶望的なものだった。

対価交換ではなくて、ただ搾取されていく。見栄えのいい奴は、その後も別の店にあるらしい、もっとえげつないショーに引きずり出されることもあるし、レンタル品のように変態の客に貸し出されることもある。もちろん逃がそうものなら客の立場もかなりヤバくなるので、これまで一度も逃がした奴はいないという。ソープあたりに沈められる奴もいるが、それは読み書きができず、声も潰されているような外国人に限られる。

 

人が消える・・・。

警察は自分の意思で姿を消した者を探したりはしない。先輩に匿われる人間は、捜索願など出してくれるような人間関係を持たないものばかりだ。自分から逃げ出そうにも精神的に去勢され、恐怖を植えつけられ、ただ生きた屍のようになる。

「なんでそんなこと俺に話すんですか・・・」

先輩は事務所の一角に置いてあるスチールデスクの上に腰を掛け、つまらなそうに爪用のやすりで自分の爪を手入れしながら淡々と俺に話して聞かせたのだ。そしてそう質問した俺に、

「なんだよ。せっかく教えてやったのに、その言いぐさはないだろう?」と不満気に言う。切れ長の目が、ガラス玉のように光る。この人に一切の感情が無いのは分かっていたが、

「いやさ、お前は変に頭がいいからな。俺はお前を買ってるんだよ。もっといろいろ仕事もしてもらおうとか思ってるしな。だからさ、お前は特別扱いなんだよ。分かるよな? 俺はさ、お前が俺から逃げられるなんて思ってんじゃないかと、心配しちゃって夜も眠れなくなっちゃってさ」先輩の、女のような桜色の爪から目が離せない。

「・・・」

「そうそう、さっきの話さ、まだ続きがあってさ。生きてまだ金になる部分がある奴はいいんだよ。だけど、ほんと、飯食ってクソするしか出来なくなった奴はどうなると思う?」

「・・・。」

悪寒が走り、冷汗が出た。先輩はそんな俺の様子を横目で観察している。

「殺すんですか?」先輩はプッと噴き出すと、火が付いたように笑い出した。

「そんな野蛮なこと俺がするかよ。やだなぁ、お前は俺を誤解してるよ。まぁ、お前はさ、可愛い後輩だからさ、目をかけてやってるって言ったろ。だからさ、お前に今話したみたいなことはしないさ。まぁ、お前が俺を裏切るような馬鹿じゃなけりゃだけど。」癇に障るイントネーションで笹川先輩は言った。そして急激に何もかもから興味を失ったように、持っていた爪やすりを机に投げ出して、俺の肩を叩いた。

「さて、お仕事お仕事」

俺は、全身の震えを止めることが出来なかった。

 

その日、麻耶がステージに引きずり出された。

 

メイド姿で給仕をしていた麻耶に、突然スポットライトが当たった。彼女は突然の出来事にあっけに取られてポカンと口を開けている。そして見る間に顔が恐怖で歪んだ。俺の体も凍り付く。まさか・・・。

麻耶は持っていた銀のトレーを床に投げ出した。トレーがけたたましい音を立てる。麻耶はすぐに踵を返して逃げようとしたが、あっという間に取り押さえられた。その中に醜く太った客の親父もいた。屈強な男に担ぎ上げられながら、麻耶は必死で抵抗をするが、ビームのようなスポットライトを当てられて、あっという間に4人の男から衣服を引き剥がされる。

俺は必死で彼女の後を追い、ステージに駆け寄ろうとした。すると、後ろから「おい!」と笹川先輩の声が飛ん来た。振り返ると、彼はニヤニヤと、さも面白そうに笑みを浮かべながら、

「真司、なにしてくれようとしてんだよ」と圧倒的な力で、俺を背中から羽交い絞めにする。そうだ、なぜ彼女がヒガイシャにされないと思い込んでいたのか・・・。俺は必死で先輩の腕から逃れようとしたが、後ろから蹴り上げられ、強烈な痛みでうずくまった。髪を引っ張られてステージに顔を向けられる。涙が溢れて止まらない。奥歯が折れるんじゃないかというほど歯を食いしばった。目を反らせたくても、それすら許されない。麻耶と目が合った。麻耶は俺を見つけると絶望の色を浮かべて俺を見た。

彼女は泣き叫ぶことはしなかったが、抵抗をやめない彼女は数度頬を張られ、口の端から血を滲ませた。男たちは、なんの容赦も躊躇もなく、麻耶を麻縄のようなもので縛り上げていく。彼女の白い肌が縄で擦れて赤い後を残した。ギリギリと音を立てて、麻耶の体は宙づりにされた。あらゆる角度からあらゆる部分をさらされて、麻耶は目に涙を滲ませているが歯を食いしばり、それでもまだ抵抗の意思は消していなかった。

客の一人が手を挙げた。先ほど麻耶をホールで押さえたデブの親父だ。ホスト役の男たちはその客に手を差し伸べてステージに上げ、この猛者を讃えるように客席に促すと、客席から拍手と嘲笑が上がる。それに答えるように、デブの客は拳を上げて見せた。

客は麻耶の乳房を後ろから鷲掴みにして、乱暴に揉みしだく。麻耶は猿轡をされていたが、くぐもった声を上げ続けた。動けば動くほど麻縄が麻耶の白い肌に食い込み、ひどい苦痛を与えるのだろう。客は麻耶の抵抗に少し臆したようで、ステージ上のホスト役の男に不安げな顔を向けると、男はにこにこと笑い麻耶の頬をもう一度張った。

客はそれに励まされたのか、自分のズボンのジッパーを下げ、醜く大きくなったペニスをスポットライトの上に晒した。あちこちからヒステリックな笑い声があがる。

「下衆が!」心でそう悪態をつきながら、俺は先輩に抑えつけられたまま、辛うじて自由になる左手でズボンの上から、自分のペニスと睾丸を強く握った。当然それは何の反応をしなかったが、麻耶のこの姿を見て少しでも反応したら俺はを自分で自分をぶち殺してしまいそうな、強烈な嫌悪感と劣等感に襲われていた。こうすることでしかその劣情に抗えない気がしたのだ。歯を食いしばっても、涙が溢れてくる。

客は挿入しやすいように麻耶の体の位置を男たちに変えさせると、麻耶の白い尻を持って自分のペニスを麻耶の陰部に挿入した。麻耶の目は大きく見開かれ、大粒の涙がこぼれた。ギリギリと音がしそうなほどに歯を食いしばっている。

客は呆けたように口を開けて、快楽に目の周りを赤くしている。何度も抜き差しされて、麻耶の体はブランコのように揺れた。ひどく長い時間のように感じる。

ペニスと睾丸を握る手に、更に力がこもった。

「お前、なにやってんの? 」先輩は俺の髪を鷲掴みにして俺の顔を覗き見た。

「なに、男の子だなぁ、あれ見ておっ勃ててんのか」ニヤニヤしながら嘲笑った。

俺は抑制のきかない、獣のような怒りが体中を巡るの感じ、衝動的に先輩に殴りかろうとした。しかし、先輩は「汚ったねえもの触った手で俺に触るんじゃねえよ!」と怒鳴りつけると、俺の顔面を拳で殴った。そして、スイッチが入ったように俺を殴り続ける。胸のあたりを蹴られ、ゴキッっと嫌な音がした。俺は激痛で床にのたうちまわる。息ができず口の中に鉄の匂いと粘つく液体が充満する。ステージの麻耶も見世物なら、一方的に暴行されている俺もまた見世物だ。俺は尽きることのない先輩の暴力から必死に逃げ出そうと床を転がり回ったが、先輩はまるで半殺しにしたゴキブリを踏み潰すように、俺を追い詰め蹴り続けた。そうだ。この人にとって自分以外の人間は害虫なのだ。殺される・・・。本気でそう思った。胃に先輩の靴の先がのめり込む。ゴボッと何かが口の中にせり上がってくる。吐瀉物を床にぶちまけると、それは真っ赤に染まっていた。

「汚ったねえな!!」この人は本気で怒っている。虫を踏み潰して体液が床にこびりついた事を怒っているのだ。

「ひぃ・・・」とにかく俺は店の中を逃げ回った。そして、立ち上がろうとしてテーブルに頭をぶつけ意識が飛んだ。

 

轟轟とバイク音がする。

これは一体なんだ・・・。

目の前を女が逃げている。ああそうだ。俺はこいつを犯そうと追い廻しているんだ。

俺は笑いながら、「マナブそっち行ったぞ!」と女を捕まえるように後輩のマナブを怒鳴りつけている。

「お願いやめて! 怖いよ。真司、お願いやめて」

「やめてって言って、やめる奴がいるかよぉ」脱法ハーブでラリっている時の俺の甲高い声だ。

「なんだよ。お前がいけないんじゃないか、生意気なんだよ。沙希ちゃんよ。あはははは」

「捕まえた!」

「おうマナブ!今そっち行くから、ちゃんと捕まえておけな」

「ひひひ」マナブが前歯のない口でだらしなく笑う。バイクから降りて、ゆっくりと女に近づいていくと、なんとも言えない恍惚感があった。

「怖いよ、お願いだよ。なんでもいうこと聞くからさ。生意気なことなんてもう言わないから、お願い怖いことしないでよ」女は泣き叫んだ。女が泣けば泣くほど、俺の快感はどんどんと高まっていく。

「なにも怖いことなんてないよぉ。気持ちよくしてやるだけだって」

俺は女に飛びかかった。擦れた草の匂いがする。

「おい、マナブ抑えてろよ。」

俺は自分のズボンのジッパーを急いで下すと、女の衣服を乱暴に引き剥がす。マナブはバカだが力が強い。女は必死の形相で抵抗するが、マナブの馬鹿力からは逃げられない。「痛いよぉ。やめてよぉ」こいつの間延びした声がいつも勘に触っていたんだ。

「次、犯らせてくれるんすよね?」マナブが餌のおこぼれをもらうハイエナのように鼻を鳴らすと、俺は「犯らせるから、ちゃんと抑えておけ!」と一喝した。俺は女に挿入した。女は濡れていなかったから、ひどくきつくて痛い。

「おい、力入れんじゃねえよ!」

「・・・」女は顔を背けて、歯を食いしばっている。

いつも中途半端にチームにまとわりついて来ていた女だった。本人はチームのマスコット的な存在だと勘違いしていたようだが、俺たちからすれば、都合のいい時に犯れる公衆便所のような存在だと思ってた。その女がまるで俺の女みたいな顔をして、チームの後輩を顎で使おうとしているのを見て腹が立ったのだ。

俺は女の中で果てると、急激に興味を失い、さらには酷く自分が汚されたような気がした。そして女の頬を理由もなく二度ほど打つと、女は「ううっ」と涙を流してうめき声をあげた。

「次いいっすか?」

「勝手にしろよ」俺は今まさに犯したばかりの女を見下ろして、よくこんな女を犯す気になるなと、今まさに女にのしかかろうとするマナブを冷ややかな目で見降ろした。女はもう抵抗を諦めて人形のようになっている。俺はもう一度女の顔を見て愕然とする。その顔は麻耶だった。

 

「!!!」

気が付くと俺は事務所のソファーで寝かされていた。立ち上がろうとしても激痛が走って動けない。腫れているであろう瞼をゆっくり開けると、目の前に麻耶がいた。ひどく心配そうに俺を覗いていたが、俺と目が合うと、嬉しそうに微笑んだ。

「よかった。死んじゃったかと思った。丸一日目を覚まさなかったんだよ。どこか痛い? ああ、全部痛いよね」

酷く体が熱い。息も苦しく目が回っている。

「熱があるんだよ。薬、バファリンしかないけど。飲んだほうがいいよ」麻耶は俺の口元に薬を持ってきた。俺は口を開けることも苦痛だったが、なんとか口を開けて薬を口に含んだ。しかし入って来た薬を飲み込むことが出来ない。唾液で溶けだした薬が酷く苦くて、顔をしかめた。

「お水飲めないよね?」麻耶は自分の口に水を含むと、俺の口にあてがって、俺の口の中に注ぎ入れた。麻耶の唾液と混ざり合った生ぬるい水が口の中に充満する。その水が薬を喉の奥へ押しやった。苦みと痛さで胃液がせりあがってきそうだったが、何とか飲み下した。

「お医者さん呼んでくださいって頼んだんだけど、全然聞いてもらえなくて・・・」麻耶は今にも泣きそうな顔で悔しそうに言う。

そんなことわかっている。暴行されている時、俺は思った。先輩は人を殺してもそれを闇に葬る手段を持っていると。だから容赦などしないのだ。そして、今ここで使いものにならなくなったと判断したら俺を殺す事など造作もないんだと。ふと、このまま死んでもいいかなと思った。できればあまり長引かないで欲しいとすら思う。

そんな事を考えていると、力の入らなない手にぬくもりを感じた。

「お願い一人にしないで・・・。」麻耶が俺の手を取って声を殺して泣いていた。それはどこからか血でも流れるんじゃないかと思うような泣き方だった。

そっか、俺が死んだら、麻耶は一人になっちゃうんだ。それはかわいそうだな。熱で浮かされている頭で考える。

突然、マナブに抑えつけられている麻耶の姿がフラッシュバックした。俺は思わず声を上げそうになる。

「どうしたの? 痛い? ああ、どうしよう」

オロオロとして俺の手を慌てて離そうとする麻耶の手を俺は握り返した。麻耶は少し驚いて座りなおすと、俺の手を両手で包み込んだ。

「ごめんね。ごめんね」なんで麻耶が謝るのだろう。麻耶はいつだって自分が悪くないのにそうやって謝るんだ。

「一人・・は・・辛いよ・・な。俺、頑張るから、泣くな」麻耶の手を放して俺は麻耶の髪を撫でた。麻耶はまるで縋るように、俺の手に顔を擦りつけた。

意識を失っているのか、ただ眠っているのか判断のつかないような朦朧とした状態が続いた。時間の感覚も消えて、ときどき目を覚ますと麻耶が心配そうに俺を見下ろしていた。そして、口の中に何かどろどろとしたものを流し込んだりする。体を拭いてくれる感覚に意識が朦朧としているのに、心地よいと思ったりもした。

何日経過したのかはわからない。それでも俺は意識を保ち、自分で食事を摂れるまでには回復した。笹川先輩はそれを見て、面白そうに、「おお、よく生き返ったな」と、麻耶の頭を撫でた。飼っていたペットが死にかけて、それを子供が献身的に介護した結果、なんとか一命をとりとめた時にかけるような言葉だった。麻耶は表情のない顔で先輩を見返していた。

一週間が経っていた。その間、麻耶は仕事と俺の看病を続けていた。もちろん俺の看病の優先を許すような先輩ではない。麻耶の目の下にはくっきりと黒い疲労の色が浮かんでいる。彼女はそれでも本当に嬉しそうに微笑えんだ。

完治はしないだろうと思う箇所がいくつもあった。あちこちが痛い。特にあばらは何本かやられている。肺に刺さらなかったのが幸いして、俺はなんとか一命を取り留めたんだろう。それだけ容赦のない暴行だったのだ。

 

そしてとうとう、麻耶が倒れた。

 

俺の回復で張っていた気が抜けたんだろうか?

麻耶は酷い熱を出した。当然俺は彼女の看病を買って出た。先輩は不機嫌そうに「使えねえ奴等だな」と吐き捨てる。俺たちにとって先輩は生殺与奪の立場にいる。それを身に叩き込まれている俺たちは、彼に逆らうことなど考えることもできない。

与えられたものは市販の鎮痛剤しかない。俺は麻耶にそれを飲ませて、与えられた食事を自分なりに食べやすいように刻んだりして、麻耶に食べさせた。

麻耶は熱で潤んだ目を俺に向けると、「ありがとう」と掠れた声で言った。汗でべたついた髪、目の下のクマ。俺はこの頃から発作的に切なくなったり、靄がかかったようにぼんやりとする感覚に悩まされるようになった。自分でありながら、どこか他人事のようなのだ。

夜になると衣服や下着を脱がせて着替えを手伝ってやった。汚れた体も拭いてやった。形の良い乳房を目の前に見ても性的な感覚はまったく感じない。それよりもその体には麻縄で吊るされた時の痣がくっきりと残っていて、胸が詰まるような痛みを感じた。

忘れていた記憶が鮮やかに蘇り、俺は狼狽えた。そうだ・・・。この体を俺は傷つけられたんだ。俺は・・・。そう思って首を振る。麻耶の体は麻耶の体なのに、どうして俺は、俺の体を傷つけられたように思うのか。いや、俺の体なんてどうでもいい。麻耶の体を傷つけられたことが耐えられないほどに悔しい。そして死にたくなるほどの無力感で押し潰されそうになる。

まて、この傷をつけたのは俺なのか? そうだ。マナブのやつが俺の麻耶にのしかかってた。麻耶に何をしやがった!

「真司、どうしたの?」

俺はぶつぶつと独り言を言っていたのだろう。麻耶は熱っぽい声で心配そうに俺の名を呼んだ。そして俺の袖を引くと、「怖い顔をしていたよ。真司。」とほほ笑んで見せる。俺はその笑顔を見て心からほっとした。

 

日々離人感が悪化しているように思われる。日にちの感覚が失われて久しい。ときどき短時間の記憶が飛ぶようになってきた。

麻耶の熱が下がってからも同室で暮らす事になった。やっと二つの布団が敷けるような狭い部屋だ。笹川先輩はどういう訳か俺たち二人を一緒にしておいた方が都合がいいと判断したらしい。夫婦や恋人というのとは違う。あえて言うなら、姉弟のような関係に似ている。

店が休みの日は夜になるとせんべい布団を二つ並べて眠る。麻耶は夜に寝ることが怖いのか、部屋が暗くなると布団の中から俺に話しかけて来た。

「真司、田舎はどこなの?」こんな生活をしていながらも、俺たちはお互いの過去を知らなかったとに苦笑する。むしろ昔から二人の生活が続いていたような錯覚に囚われていたので、この質問を受けても咄嗟には思い出せなかった。

「俺、田舎なんてない」

「そうなの? お父さんとお母さんは?」

「俺の親父もおふくろも、俺を置いてどっか行っちゃったから」

自分の声が酷く子供っぽく聞こえるのが嫌だった。

「どっか行っちゃったって?」

「今でいう、育児放棄ってやつかな・・・。ネグレストっていうの?」

「ふうん。じゃぁ一人で暮らしてきたの?」

「小学校5年の時までは一緒にいたんだよ。親父達は選挙屋で、衆議院やら、参議院に立候補した奴を当選させるような仕事しててさ。」

「へえ、なんだか難しそう」

「羽振りのいい時なんてホテルからタクシーで学校通ったんだぜ」

「すごいね、お坊ちゃんだ」

俺の親父とお袋は、そんな海千山千のような事をしていた。親父はどんな馬鹿で最低の奴でも、2億あれば政治家にしてやれると豪語していた。今じゃどうかは知らないけれど、昔はそんなことも出来たのかもしれない。公職選挙法に触れるギリギリのノウハウを親父は熟知していると自慢していた。お袋はそんな親父の面白おかしく生きている姿に惚れていた。だけど二人が家に帰ってくることが3日に1度になり、1週間に1度になり、そしてある日からまったく帰って来なくなった。

その頃俺は近所の柔道道場へ通っていて、そこへ行けば道場の先生が飯を食わせてくれたので、学校から帰ると柔道着に着替えて道場へ直行した。先生はいつもにこやかに俺を迎えてくれると、みんなと一緒に稽古を付けてくれ、自分の家族と一緒に飯を食わせてくれた。先生の奥さんは弁当を作ってくれて、朝ごはんにしなさいねと持たせてくれた。

今思えば、月謝なんて払えてなかったし、なのに馬鹿みたいに無邪気に道場に通ってくる俺に同情してくれたんだと思う。

先生の奥さんが「真司君、家の子になる?」と言って、俺を抱き締めてくれたことをぼんやりと思い出す。

親がいなくても、俺は普通に暮らしていて、小学校にもちゃんと通っていたので、ネグレクトであることが明るみになることが酷く遅れた。父の兄である伯父が弁護士をしていて、形ばかりの身元引受人となっていたことも原因があるんだろうけど。要するに、一族の口裏があっていたので、ネグレクト自体がなかったことになったのだ。

それでも、大人のいない空間はご多望に漏れず不良の溜まり場になった。

夜の世界は楽しかった。金さえあればいつでもどこでも人と会えた。金はアイデア次第で手に入れることが出来た。人を出し抜くのさえ下手を打たなければさして難しことではない。こんなところが親父に似ているのかもしれない。

しかしそれは下手を打たなければだ・・・。

「すごいね、真司は頭もいいんだ。」暗闇から聞こえてくる麻耶の声がどこか誇らしげに聞こえる。

「頭なんて良くないよ。こんなところにいるんだから・・・」

俺は綱渡りから落ちたピエロだ。下にはセイフティネットなんてない。だけど底もない。真っ暗な奈落が広がっているだけだ。

「麻耶は? 両親とかいるんでしょ?」

麻耶の息遣いから、話すことを躊躇しているのが感じられる。

「話したくないなら、話さなくていいよ」

彼女は少しの沈黙の後

「あたしね、父親に犯されてたの。小学校の6年生の時からかな・・・おかあちゃんも知っててね。おかあちゃんも止めてくれようとしたんだけど、父親が暴れんのよ。犯らせないと・・・。殴る蹴るでさ。私じゃなくて、おかあちゃんを。だからさ、仕方なく犯らせてたんだけど、あたしが中学卒業した時、おかあちゃんが私に通帳と印鑑を渡してきて、「逃げなさい」って言ってくれたの。」

麻耶は泣いているのか、声が震えている。

「お金なかったんだよ。ほんとにおかあちゃん、あれだけ貯めるのどんだけ大変だったんだろうって思う。それに私を逃がしたって知ったら、あいつ、おかあちゃんを殺しちゃうかもって思ったから、行かないって言ったの」鼻をすする音がした。

「でもね、おかあちゃん、「子供を犠牲にして生きてられる母親がどこにいる」って怒るんだ。「お前には本当に悪いことをした」って」

麻耶は声を詰まらせた。

今でなくともDV夫から娘と共に逃げ出せる方法はいくらでもあると思う。そもそも麻耶のされていたことは父親による強姦であり、幼児虐待だ。しかし、麻耶の母親も無知だったのだろうか、麻耶を逃がす事しか考えが及ばなかったのだろう。

「おかあちゃん私に、二度と帰って来るんじゃないよって言ってた。ごめんねって何度も言ってた。」

いつだって世の中は弱者に厳しい。助けを求められる人間はまだいい。助けを求める術の知らないものは、結局放置され淘汰されていくばかりだ。

俺は暗闇の中で、泣いている麻耶の手を握った。ほどなくして、麻耶は小さな寝息を立て始めた。

 

俺たちはいつも通り強姦ショーの後片付けをしていた。

最近ではヒガイシャの数が少なくなっているのか、同じ人間がショーに出されることも多くなっていた。3回目に引きずり出された女は、すでに馴れ始めていて、諦めたように男たちに犯され、そしてヤル気のないよがり声を上げる。もちろん、そんなものでは目の肥えたお客たちが満足するはずもなく、吊るしてみたり、縛ってみたり、えげつない道具を使ってみたりとバリエーションを入れて、ヒガイシャの恐怖を煽ろうとするが、最近ではそれも成功していない。これではヤル気のない、ただの本番ショーだ。

先輩は苛立ちを隠さなくなっていたので、嫌な予感はしていた。

 

「今夜はお前な」

事務所の掃除をしていた俺たちを見ていた先輩は、唐突に麻耶の肩を叩いてそう言った。全身が泡立っように怖気立つ。

「この前さ、なかなか評判良かったんだよ。まぁ、今日は少し手心を加えるようにって言っとくからさ」相変わらず癇に障るイントネーションで言う。

麻耶の顔から血の気が引く。その顔を見て俺はまずいと思った。麻耶はあれに馴れることなどない。ということは、いつまでも新鮮さを客に印象付けられるのだ。俺は慌てて考えもなしに思いついたことを訴える。

「先輩、今日麻耶は生理でステージに立つなんて無理ですよ!」

「へえ、そうなのか? まぁ、でもそんな生臭いのも好きだって変態もいるからな」先輩が何かの意図を含んだように目を細める。しまったと思った。そんな趣向も新鮮と受け取られかねない。それでも俺は必死で食らいついた。

「汚いですよ。そんなの気持ち悪いっていう客だっているでしょ?」

「なんだお前、やけに反対するじゃないか。そんなに麻耶が大事か?」せせら笑いながら俺の襟首を掴み、顔を近ける。

「なんならお前の穴を使うか?」

全身が泡立つ。無理だ。あんなことできない。白い蝋のようになって肛門を血まみれにされていたヒロの姿がフラッシュバックする。本能的に臆した俺を見て、彼女はすかさず口を挟んだ。

「大丈夫ですよ。私やります。生理なんかじゃないです」と言った。

「おお、そうかそうか、お前はいい子だな。まったく真司よ、お前俺に嘘をつくなんて、酷いじゃないか」と言って、俺の胃を目がけて強烈な膝蹴りを入れた。体があの容赦ない暴力を思い出して、瘧のように震えた。

「お前の穴じゃな、それこそ苦情が来るからぁ。ありゃ、ちょっと外国の血が混ざってるぐらいのかわいこちゃんじゃないと、ただのゲテモノになっちゃうからさ」と俺の襟首を離した。俺はせりあがってくる胃液を必死でこらえながら、床に倒れ込む。嫌悪感で涙が出た。麻耶は必死の表情で俺に走り寄り、「真司大丈夫?」と言った。

大丈夫なわけがあるか・・・。コンビニ店員の欠員補充じゃないんだぞ・・・。俺は大の字になったまま、そうつぶやいた。

 

突然襲ってくる恐怖も当然あるが、宣告されて執行される恐怖というのは尋常なものではなかった。俺は無意識に麻耶にこうつぶやいた。

「逃げよう・・・。」言葉にして初めて俺は自分の言葉の意味を理解した。

そうだ、なぜ逃げようと思わなかったのか・・・。あの扉から入って来たのだから、あの扉から出ていけばいいだけじゃないか。数ヶ月前に通った扉を凝視しする。そうするだけで恐怖が襲ってくる。俺は首を振ってその恐怖から逃れようと試みる。

「無理だよ。なんでそんなこと言うの」麻耶は執行の時を待ち、蒼白になりながらも、何もかもを諦めたように呟いた。

「無理なもんか! とにかくここから出て警察に飛び込むんだ。なんだっていい、なんなら二人でやばいことして捕まったっていいじゃないか」言葉に出せば出すほど、俺の体は恐怖で震える。

「でも失敗したらきっと殺されちゃう。そんなの嫌だよ。真司が死んだら私、嫌だよ」

麻耶は俺の手をとって、縋りつくようにその頭を俺の胸に摺りつける。麻耶は自分に言い聞かせるように言う。

「大丈夫だよ。あんなの、少しの間我慢していればいいだけ。もし真司が死んじゃったら、私生きていたって意味が無いし・・・。だから危ない事しないで。お願い」

「麻耶・・・」俺は麻耶の髪を撫で、小刻みに震える肩を抱いた。

「麻耶ごめん、俺」油断すると恐怖に飲み込まれそうになるが、俺が誤ったのは俺が麻耶を犯したことだ。実際、俺は麻耶を犯してはいない。だけど、俺はやはり彼女を犯したのだろうと思う。マナブと犯したあの女も俺にとっては麻耶には違いない気がした。

「麻耶、俺だってお前に死んで欲しくない。あんなことしたら、麻耶は死んじゃうよ」麻耶の心がゆっくりと壊死して行くのを見るくらいなら、俺は自分の命なんて惜しくない。そう思いながらも、もっとも原始的な恐怖はどんどんと降り積もるようにのしかかってくる。それでも俺は嫌なのだ。麻耶の体を、この俺自身の体を汚したくはないのだ。

「死なないよ・・・真司がいてくれれば私死なない」麻耶は涙で鼻声になった声で言う。それは明らかに自分に言い聞かせているようだった。俺は麻耶の細い肩を抱いている手に力を込めた。

麻耶は俺のするがままにしていたが、やがて何かを想像したのか、いやいやをする子供のように抱き着こうとする。俺は麻耶の顔を覗き込んだ。

「麻耶」麻耶は頑固に首を横に振る。

「守るから。俺が麻耶を守るから」この言葉が自分の口から出たことが信じられなかった。だけど、この言葉が一番自然だったのも事実だ。麻耶はそれでも俺から離れようとしない。

「嫌だよ。お願い、怖いことを考えないで」

「ねえ、麻耶ここを出て落ち着いたら一緒に暮らそう」

麻耶の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。綺麗な涙だと思った。

「無理だよ。逃げ切れるわけがない。ここに居ようよ」麻耶は頑なにそう言った。

「もしここを無事に出れて、麻耶と一緒に暮らせたら、俺一生懸命働くよ。始めは小さい部屋しか借りれないかも知れないし、ほんと大変だとは思うけどさ、きっと二人なら出来ると思うんだ。」

麻耶は俺の胸から顔を離し、ゆっくりと顔を上げた。そして俺の目の奥をじっと見つめた。まるで俺の心のすべてを読み取ろうとしているようだった。

「本気なの?」

「本気だよ」麻耶は長い時間沈黙した、何かを言いかけて止めるようなしぐさもしていた。そして、やっと絞り出すように一言だけ、

「分かった・・・」と掠れた声でそうつぶやいた。

俺は嬉しくなって、

「じゃぁ用意をしよう」と麻耶の手を引いて部屋のほうへ向かう。麻耶は不安気な表情のまま、されるがままになっていた。

 

俺たちは部屋に戻った。逃亡資金などあるわけが無い。あるのはここに来た時に来ていた服と、先輩に買い与えられていた少しの衣服、事務所にあるミネラルウォーター。そうだ、あのデスクの鍵を壊せば、先輩が使っていた事務用のハサミやカッターがあるはずだ。

とにかくここを出たらすぐに万引きをする。放火か、暴行だっていい。二人で捕まって、警察にここの事をタレこむのだ。とにかく出てしまえば何とかなる。

地下の店の開店まで9時間ある。

こんなふうに初めからショーに出されることを予告されたことはないので、どのタイミングで麻耶が呼び出されるのかはわからないが、お膳立てられたように見えないようにするには、初めはホールの仕事をさせておくつもりだろうと予測するしかない。俺たちはいつも通り仕事を済ませて朝食を受け取ると、部屋に戻り仮眠をとっているように見せかけた。

麻耶は眉根を寄せて厳しい顔をしていた。何かを一心に考えているようにも見えたし、恐怖で強張っているようにも見えた。

俺は麻耶を部屋に残して、なるべく物音を立てないように事務所に向かった。

事務所の扉には鍵はかかっていない。事務所に入ると、スチールデスクの抽斗を開けようと試みるが、やはり鍵がかかって開かなかった。俺は麻耶が来た時に付けていたヘアピンを鍵穴に差し込む。昔、鍵屋の息子がチームにいて、簡単な鍵を壊すコツを聞いたことがあったのだ。それを思い出しながらヘアピンを鍵穴の中で動かしていると、カチッという音がして、抽斗が開いた。ボールペンなどの筆記用具の他には小ぶりのハサミがあった。それとペーパーナイフは使えそうだ。確かカッターナイフがあったと思ったが、それは見当たらなかったので諦める。奥に尖ったヤスリを見つけた。先輩の桜色の爪を磨いていたやつだ。あの時の先輩の様子を思い出して、身震いする。

「食ってクソするしか出来なくなった奴はどうなると思う?」彼はそう言ったのだ。俺は恐怖で身が竦むのを感じる。それでも、俺は自分に言い聞かせた。

たぶん、先輩は俺らを侮っている。確かに俺は精神的に去勢されている。まるで虐待された犬みたいに、先輩が手を挙げただけで体が委縮して、恐怖で動けなくなるかもしれない。だけど、先輩はまさかその犬が牙を剥くとも思っていない。ささやかな武器を手に、俺は麻耶の待つ部屋へ戻った。麻耶はまだ険しい顔をして、俺を見上げる。俺は麻耶の考えが読めずに少し不安になった。

「どうしたの? 怖いの?」やはり自分の声が幼く聞こえて苛立った。俺はそれを払拭するように、麻耶の体を抱き寄せる。

「少しこのままでいさせて」この体は俺のものだ。性欲とかそういうものではない。むしろ自分の一部であるように感じた。その体を抱いて鼓動を聞いていると、とても安心する。麻耶は俺の頭に手を伸ばして髪を撫でてくれた。それだけで恐怖が氷解していくように思えた。絶対にこの体を二度と穢してはならない。俺は麻耶の体をもう一度強く抱いた。

開店1時間前。強姦役の男が降りてきて、先輩と1回目の打ち合わせをすると、先輩は一階へ上がっていく。この時彼は神経質に一つ一つ扉に施錠をする。

俺たちがステージの準備や、配膳の準備が済んだころ、先輩がまた降りて来る。強姦役が出てきて今度は内容の打ち合わせをする。

そして今度は鍵をかけずに一階に上がっていく。そして階で客を迎える準備をする。この時降りて来た時の服装ではなく、一応オーナーとしてスーツを着るので、この後で着替えるのだと思う。

つまり先輩が一階に上がって着替えをしている間だけが誰もいない時間。すべてのシュミレーションを頭の中で終えて俺は時計を見た。時間は驚くほど速く進んでいた。

 

まんじりともしない時間を麻耶と過ごす。麻耶は俺の肩に頭を預けて、まどろんでいるように眠っている。俺はその寝顔をまじまじと見た。ずっと悩まされ続けていたぼんやりとした離人感はなくなって、嘘のように思考が冴え渡っている。

時計を見ると開店2時間前になっていた。

俺は麻耶を揺り起こすと、彼女は現実と夢の間にいるようにウーンと声を上げると、目を開けて俺を見た。そして目の焦点が合ってくると、急激に絶望的な表情をする。いい夢でも見てたのならかわいそうな事をしたと、少しだけ胸が痛む。

「時間だよ」というと、麻耶は強張った顔でうなづいた。

麻耶と俺はお仕着せの制服を身に着ける。

1時間前。

いつも通り強姦役の男と先輩が降りて来る音がした。俺と麻耶はホールに出る。先輩は俺たちを横目で確認すると、強姦役と男となにやら打ち合わせをして、ステージを指さし指示を与えている。

そうしてからこちらに歩いてくると、俺と麻耶の顔を交互に見た。俺は体が強張るのを必死で堪えた。先輩の直感はまるで獣なみだ。

「なんだよ真司、まだそんな顔してんのかよ」

加虐趣向者特有の笑みを浮かべながら、縮みあがりそうな笑みをこぼす。ここ数カ月で狂気的な雰囲気がより強くなっているように思われた。そして、麻耶に目線をやると、明らかに面白がっている表情で、「じゃ、今日はよろしく頼むな」と麻耶の肩を叩いた。麻耶の体がびくりと震え、血の気が引いていくのがわかった。

先輩は俺たちに背を向けると、一階に上がっていった。鍵を閉める音がする。

強姦役に指示されながら、ステージの準備をする。すると料理の配膳扉が上がっていつもの賄が出て来る。俺たちはそれを食べるのだが、さすがに二人とも食欲はない。

それでも俺は無理やり口に頬張った。麻耶は俺に向かって首を振りながら泣きそうな顔をしてる。俺は自分と麻耶のトレーから銀紙に包まれたチーズを取ってポケットに押し込んだ。逃げ出せたら無理やりにでも麻耶に食べさせるためだ。

先輩が降りて来た。今日はまだ着替えていないのを確認してほっとする。次に上がった時に着替えるのだろう。

開店時間30分前・・・。

先輩は最終確認を済ませると1階に上がって行く。今度は扉に施錠する音はしない。強姦役の男は別室に戻り、いつも通りAV鑑賞を始め、出番まで待機している。今日は一人なのか、他の強姦役は来ないようだ。

先輩が消えていった事務所横にある扉を凝視する。

1階に通じる階段がある。唯一の出口だ。あの扉を開ければと階段が真っすぐ続いている。最上段に店と仕切られているスライド式の扉があり、そこを出てカウンターの前を通ると初めに入って来た外に通じるドアがある。

先輩は客を迎い入れるために着替えを始めているはずだ。そして、いつもは閉められている3枚の扉もこの短い時間は施錠されていない。一気に突っ切って二人で雑踏に紛れ、その後すぐに出来るだけ派手な事件を起こす。警察に捕まるような事件でなければならないのだから、万引き・・・いや、やはり暴行事件を起こすのが手っ取り早い。

行動予定の時間が迫ってくる。麻耶の肩を抱くと、その体は震えていた。

「行くよ」

麻耶は小さくうなずいて見せる。その顔に表情はなかった。

俺は震える麻耶の体を支えながら、1階に通じるドアに手をかけた。パブロフの犬のように、条件づけられた恐怖が俺を襲う。予想通り、鍵は施錠されていない。そうだ先輩は俺たちを侮っている。侮っている相手には隙を見せるはずだ。必死で自分にいい聞かせる。そのまま音を立てないように階段を上がるが緊張で心臓が破裂しそうだ。階段の最上段まで上がると、俺はドアに耳を当てた。なにも聞こえない。スライド式のドアを静かに開ければ、気付かれずに中の様子をある程度は見ることが出来る。恐怖と緊張で吐き気がしそうだ。俺は勇気を振り絞って細く扉を開けてみた。バーカウンターには誰もいなかった。部屋は薄暗く、人の気配が感じられない。麻耶が俺の手を痛いほど握った。俺は震えている麻耶を勇気づけるように、「誰もいない」と声を出さずに唇だけで言葉を形作る。麻耶の強張った顔が少しだけ緩んで、ちいさな笑みを浮かべた。

そっと扉を開いて、俺は中の様子を見る。やはり誰もいない。びくびくしながらも始めに来たバーカウンターの前を通り過ぎようとしたとき、地から湧いて出たような低い声がした。

「おい!」心臓が異常なまでに鼓動する。

先輩はネクタイを締める途中だったのか、射るような目で俺達を見据えた。

「まさか俺から逃げようっていうんじゃないよな?」蛇のような目だった。そして俺はその蛇に睨まれたカエルだ。麻耶を後ろに隠すと、持ってきたハサミを先輩に向けた。震えて取り落としそうになる。そんな俺をあざ笑うかのように、先輩は目を細めて、亀裂のような笑みを浮かべた。すぐにでも土下座して、泣きながら許しを請いたい衝動に駆られたが、後ろにいた麻耶が、「逃げて・・・」とつぶやいたのを聞いた。逃げない・・・。俺は逃げない!すくむ足が酷く悔しい。

「お前。誰にそんなもの向けてるんだ?」顔は微笑んでいても、目が明らかな狂気を浮かべている。絞めかけのネクタイの一方を強く引いて床に投げ捨てると、ワイシャツの第一ボタンを開けながら、俺たちを追い詰めて来る。しかし、一瞬の隙が出来た。

瞬間、後ろのドアが開く。客が入って来たのだ。

「麻耶!逃げろ!」俺は大声で麻耶に怒鳴った。

麻耶は弾けたように入って来た客を突き飛ばすと、店の外へ転がるように出た。

俺は「よし!」と心の中でつぶやくと、激しい鼓動を自分の耳の奥で聞きながら、「逃げろ!、麻耶!逃げてくれ!」と祈りにも似た叫びをあげた。

先輩は麻耶を追おうと俺の持っていたハサミをいともあっさりと叩き落し、俺の顔に拳をめり込ませた。ゴキッという嫌な音がして、口の中に血が溢れる。何かが口の中で転がった。奥歯が折れたのだ。俺はそれでも先輩を行かせまいとその体にしがみつこうとしたとき、「うわぁああああ!」という悲鳴が上がった。それは突き飛ばされた客から発せられていた。先輩の動きが止まる。見上げると彼は呆けたように口を開けて、外を見ていた。何かひどく不吉な事が麻耶の逃げていった方向で起こっている・・・。ゆっくりと外を見た。

 

噴水のように、血しぶきが上がっていた。

麻耶は振り返る。麻耶の手には事務所で見つけられなかったカッターナイフが握られて、その細い首から血が噴き出していた。麻耶はゆっくりと俺たちのほうへ指をさすと、またゆっくりと「あの子を・・・助けて」と言った。そして血だまりの中に倒れていった。俺は獣のような悲鳴を上げて、麻耶に向かって走った。ポケットから銀紙で包まれたチーズが落ちたのにも気が付かなかった。

 

「本日、午後7時頃、新宿区歌舞伎町のショットバー「暁」で、女性が頸動脈を切って自殺をするという、凄惨な事件が起こりました。自殺した鴻上麻耶さんは、先日山梨の山中で発見された木野山洋介さんの撲殺事件で何らかの事情を知っているとして警が捜索していましたが、本日この自殺した女性が鴻上麻耶さんであることが判明しました。

調べによると、鴻上さんは未成年のA少年と共にここ「暁」で匿われていたようです。またA少年にも余罪があったようですが、詳しい情報はまだ入っていません。警察は「暁」の経営者Bさんにも詳しい事情を聞いているようです。事件は大変複雑な事件になりそうだということです。」

 

「怖いですね。A少年の様子はどうなんですかね? 中継の高宮さん、そちらはどんな様子ですか?」

「高宮です、こちらショットバー「暁」前です。現場はまだ血の跡が生々しく残っております。これまでの様子を目撃されていた方からお話を伺いたいと思います。あの、鴻上麻耶さんが頸動脈を自ら切られたところを見られたんですよね?」

「ええ、見たわ!もう噴水みたいに。あっという間よ。あの店から「逃げろ」って声がしたから、あたし振り返ったら、あの亡くなった子が店から飛び出てきて、そしたらすぐよ。首をざっくり。もう何が起こったのかと思ったわ。そしたらさ、すぐにあの男の子が飛び出てきて、凄い悲鳴上げてさ。血まみれになって彼女を抱きしめて絶叫するもんだから、もちろん怖かったんだけど、可愛そうだったわ・・・。」

「それは衝撃的ですね。少年や鴻上さんをはこの辺で見かけられたことはありましたか? もしくは鴻上さんが警察から捜索対象になっていた事はご存知でしたか?」

「そんなこと知らないわよ。あの子たちも見たことなかったわね。そもそもあの店、いつやってんだかもよく知らないわ。えっ?私?私はそこでオカマバーやってんの。「まりん」って店ね。ほらあそこ。そういえば、あそこのオーナさんはよく見かけたわよ。よく外で電話してたから。ほら、なんだかいい男じゃない? 私よく盗み見してたわ。ぐふふふ」

「お話ありがとうございました。スタジオの大橋さん、現場はまだ騒然としています。」

「はい、解りました。ありがとうございます。A少年は現在警察で取り調べを受けていますが、警察の発表では錯乱状態が酷く、話の聞ける精神状態ではないとのことで、医師の診察の結果を待って取り調べの方針を決めるとのことでした。」

 

周りがひどくうるさかった。何故麻耶は逃げなかった? 何故あんなことをした。いつからあんな事をしようと考えていた?

俺を逃がすために、自分の命を差し出したというのか?

酷いよ麻耶、全然俺を信じてくれなかったんだな。

 

「逝くな! 俺を置いて逝くな! 麻耶!逝かないでくれよ。お願いだよ」血だらけの麻耶の顔は小さく微笑んでさえいる。俺は彼女の体を抱き締めたまま揺すったり、擦ったりする。顔から何から真っ赤で、その首からはドクドクと血が溢れて来る。俺は彼女の目から光が消える瞬間を見た。「痛いよな!怖かったよな!」俺はもう何を言っているかもわからなくなっていた。ただこの俺の一部が壊れてもう二度と動かない事だけは分かった。麻耶という別の人間が死んだのではないのだ俺自身が殺されたんだ。俺は麻耶の血で汚れた顔を、真っ赤になっている自分の親指で拭いた。思いがけず穏やかな顔がそこにあった。あどけない顔だった。俺は息もできないほどの胸の痛みを抱えたまま、絶叫する自分の声を遠くに聞いていた。

 

どれくらいたったのだろう。

 

俺は極度のPTSD(外的ストレス障害)と診断され、警察病院に収容された。俺の罪自体は少年院に1年と言う審判が下ったが、顕著な精神不安定によって、少年院へ収監は見送られた。

麻耶の罪は俺の供述によって、被疑者死亡により不起訴となったが、万が一捕まっていたとしても正当防衛で十分無罪を勝ち取れる可能性はあったし、過剰防衛だとしても情状酌量は十分認められただろうと、俺を担当した国選弁護人が言っていた。

先輩は俺の供述はもちろんのこと、他の店で保護された未成年や、その他被害者の供述によって、さまざまな罪が明るみに出ることになったが、強姦罪については数名の告発者しか現れなかったそうだ。そもそも先輩自身は誰かを強姦などしていない。それよりもあの店で行われていた違法なショーが反社会的組織の資金源になっていたことや、臓器売買にも関与の疑いがあり、そちらの立件が急がれているとのことだ。少なくとも佐川先輩は刑務所と言う穴倉へ入れられるのは間違いない。全ての罪が暴かれれば、きっと極刑もありうるのだとぼんやりと考える。

 

「麻耶お前すごいよ。あの穴倉にあった汚いものを全部明るいところに引きずり出しちゃったな。だけどさ、俺だけが置いてけぼりだよ。お前酷いよ。」収監されている鉄格子の付いた病室の中で、俺は目の前にいる麻耶に言った。

「真司が死んだら私嫌だよ・・・。」麻耶はひどく神聖な白さで俺に微笑む。

「こんなになっても生きていなくちゃダメかな。麻耶。お前がそんなこと言うからさ、簡単にはそっちに行けないじゃないか・・・。ほんとキッツいよ・・・お前が一番酷いよ」麻耶はおどける様に窓のほうへ振り返ると、そのまま光に溶けるように消えていった。

 

「なあ、麻耶、俺ってお前に会うまで、どうやって生きてたんだっけ?」

 

鉄格子の窓の外を見ると、ジェット旅客機が空に真っ白な雲を引いていた。

 

 了

 

 

2018年6月14日公開

© 2018 仲江瑠璃

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