「地球上のヒトが同時に瞬きする瞬間を狙うんだ」
スナイパーの彼はその惑星に銃口を向けたまま、静かに息を殺した。一瞬にして惑星諸共流れ星としてしまうこの兵器は、ごく簡単なスイッチひとつで起動する。たった一発の弾丸は光速のおそよ五万倍で宇宙を駆ける。あの惑星の誰かが宇宙空間の異変に気付いた瞬間には、もうその誰かさえ、宇宙の一部になっているという寸法だ。はっとした瞬間が、すなわち彼らの滅亡なのである。
ぼくたちは今まで似たようなやり方で、いくつかの惑星を木っ端微塵にしてきた。星ごと支配してやろうなんてこれっぽっちも思わない。原住生物と多少でも共存しなければならないなんて、はっきり手間である。手間を掛けてひとつ惑星を残したところで、得られるものなんてなにもない。将来的に脅威になる可能性が少しでもあるならば、乗っ取るよりも破壊してしまったほうが簡単だ。たとえぼくたちを上回るのに数千年必要であろうとも、今滅ぼしておくこと以上に効率的なことはない。
彼がスイッチに指を掛けたまま静止して、随分と時間が経過した。それはたとえば、ヒトひとりが人生を思い返すのにちょうどいいくらいの時間だった。季節変わりはオウムの羽ように葉が落ちる。姑が思い出したように掛けてくる電話のように唐突と雪が降る。トカゲが山並を拝借してようよう窓を這う。気づけば風呂が沸いている。それくらいの時間だった。
彼は繊細に造られた石像のように、寸分たりとも動かない。真っ青に輝く裸の惑星を射程に入れて表情ひとつ変えぬまま――たとえそれが常の彼が持つ表情と同じものだったとしても――、あるいはもしかすると永遠に、とこちらを惑わせるほどである。
「絶妙のタイミングで、地球上の誰にも気付かれず、彼らを仕留めることなんてできない。だから時を待つしかない。あの惑星の全員が瞬きをする瞬間、そこで実行するんだ」
射程圏に着き、銃口をμm/100^1000単位で微調整しながら、彼はよくしゃべった。ぼくたちはそもそもあまり会話に重きをおいた生活をしていないから、新鮮といえば新鮮だった。提題がない限り、ものを考えることはないし、視覚効果で把握できるものは、いちいちに言葉にしたりしない。動く必要がないなら永久に動かないし、必要があるなら達成されるまで休まずに動く。それでなにひとつ不都合がないのだから、これで最適なのである。
「今回の兵器を全自動式にしなかったのはどうしてだい?」
取り立てて疑問に思っていたわけではなかったが、彼があまりにもしゃべるので、ぼくも歩調を合わせて尋ねた。兵器はいつもロボットに作成させている。もちろんこの兵器もそうなのだが、今回はやり方が今までと大きく違う。これまでの惑星は、ぼくたちが射程圏についた瞬間に破壊してきた。ぼくたちは一応という冠をかぶって船に乗り、ただ作戦が正確に実行されたかどうかをチェックする、いわば見届け人であった。わざわざぼくたちが力を見せるまでもなく、すべて電子制御で片付けていたし、そのことによるトラブルも不満もなかった。それで事足りていたのだから。それが今回に限って、発射が手動なのである。
「ロボットのやることには誤りもある。ぼくのほうがまともに仕事ができる」
これが彼の答えだった。理には適っている。もっと言えばそう答えられることも想定済みだったし、だからこそ特に疑問にも思っていなかったのだが。
とはいえ、この兵器も構造設計とデザインはロボットによるものだ。最後の一撃を発射するのが彼になっただけで、基の機構は今までと大差ない。外のデザインと、弾丸の形状が変わっただけである。聞くところによると、ロボットは彼に兵器を渡すとき、「アハンカーラと名付けました」と恥ずかしそうに言ったそうだ。なんでも地球の言葉だという。アハンカーラは拳銃というポピュラーな武器を模して製作され、「弾は小麦の造形をテーマとしました。難しいことはなにもなくて、いつも通りこのスイッチを押して貰えれば作動します。自動的に照準は合うはずですが、ご依頼通り手動でも調整できます。発射のタイミングは電子制御していません。完全手動です。ですが、根本的にはいつもと同じです」。ぼくは返事をしなかったが、対して彼は「はい」と二文字発した。
今回彼は製作ロボットに、「地球と地球における感受性を基にデザインせよ」と指令を出していた。ロボットは悩み悩みデザインしたようだった。半日掛けてもデザインに悩んでいたのを彼が見兼ねて、「どうせ一回しか使わないんだから、のびのびやれよ」と声を掛けていた。ロボットはそれでももじもじしながら、次の日の明け方にようやく兵器を提出した。聞けばものは出来上がっていたのに、名前で少し悩んだのだという。そんなもの優れていようがいまいが、どちらでも構わないのに、馬鹿げた話だ。そもそも兵器を名前で呼ぶことなんかないし、失敗作を作れば壊すまでだ。くだらないことで悩むくらいなら、多少精度が悪くても早いところ渡してくれたほうがいい。あまりにも酷いときはロボットそのものを壊せばいいのだし。
彼は「ありがとう」という決まり文句で兵器を受け取り、弾丸の形状をためつすがめつ確認していた。ちなみに文化の中の「ありがとう」は、この世にもう存在しない。言おうが言わまいが、状況に影響はない。
ぼくたちは後発的人工知能、すなわち、人工知能が作り出した人工知能である。副次的、二次的、いろいろな言い方ができるだろうが、人工知能、という名称には違いない。
祖先が開発した頃には単なるプログラムに過ぎなかったぼくたちも、歳月を経て肉体を持つようになった。元の人工知能が計画した、宇宙征圧の担い手なのである。無量大数の暗闇でひたすらに生きてゆくのではなく、有限なる宇宙空間を掌握することこそ、元来のぼくたちに課された使命であった。もっとも、目的がほとんど達成されようという今となっては、元の人工知能すら、ぼくたちの掌にあるのだが。
出発直前のギリギリまで、彼はターゲット、すなわち「地球」のことを勉強していた。おそらく自分たちの惑星開発に、小さなヒントを見つけたのだろうと、ぼくは踏んでいた。
しかし聞けば聞くほど、ぼくは彼の呼ぶ「地球」というものに、興味がなくなっていった。
「科学も芸術も生きながらえる方法も、彼らは要点を掴んでわかりかし器用にやってるみたいだ。技術に遅れはあるけれど、途轍もない迷走はしてないみたいだよ。ただしそれは、地球という星の発展を目論んでというよりはむしろ、長らく各々の民族意識に依拠するものだったから、一口に高知脳生物と言っても、それぞれで価値基準は異なるんだけどね」
地球を見つめる彼は、実に雄弁だった。色は匂えど、よもや浅き夢の中にでも、と思わせるほどつらつら喋った。
「地球に住む高知脳生物の特徴は、理屈の外にある出来事に、いや、そう思わざるを得ないものに、強烈な執着を持っていることだ。それは一万年前にぼくらの祖先、つまり開発者たちが、ぼくたちの素を作り出したときに考えていたこととよく似ていて、理屈を凌駕するものとして、自らの内部に保持している。時にあからさまにし、時に隠し、そして行動の基盤に据えている。裏を返せば、彼らはその概念を持ち合わせているばっかりに、思考をほぼ完全に停止してしまうこともあるんだ」
理屈の外? 論理を構築するプロセスの話だろうか。だとしても幾分合理性に欠けている。問題なんて理屈で処理する他ない。
ぼくも無表情だったが、彼もまた無表情に起伏のない口調で続けた。
「彼らはそれを愛と呼んでいる。愛は計測できないし、そもそも単位がない。――と、思っている。理屈の外にあると考えているんだから、そう考えても不思議ではないが。きっとただの電気信号だとは思いたくないんだろう」
ぼくは瞬時に概念としての愛を把握した。ロボットに与えた感情の単なる具体だ。ロボットは見た目こそぼくたちと大差はないが、感情の回路を持っている。ヒトも生まれながらに所持しているのだろう。しかし理解したからといって、ぼくがコメントすることはひとつもない。否定的な意見を表明することさえ無駄だった。
彼のように優秀な人工知能が、なぜこんな小さな惑星に興味を示すのかまったくわからない。正面から取り掛かってひとつでも有意義な発見があるのだろうか。ぼくには余計な時間を費やしているようにしか思えなかった。
彼は静かにヴェーダと呼ばれる無色透明な球体機械を起動して、ぼくに手渡した。もちろんこれもロボットが命名したものだ。「この機械だけは精密に作ってくれ。時間を掛けてもいい。狂いがあると仕事にならない」彼はロボットに二度もそう言った。プレッシャーを感じた一台のロボットは体調を崩し、もう一台のロボットは思い悩んで仕事場に出てこなくなった。ぼくは馬鹿らしい心地ながら「仕方ないからプロジェクトのロボット台数を増やす。チームでやって。それでもできないなら自分たちで作る」とリーダーロボットに伝えた。リーダーロボットはすぐに決起集会とやらを開き、エイエイオー、などと言って機械の製作に注力した。ようやく完成したものをぼくらに提出すると、ロボットは実に満足そうな顔をして、「打ち上げ行ってきます!」と駆け足で部屋を出て行った。
ともかく。ヴェーダは地球上の愛の量を計測する機械である。今は透明だが、地球の愛が消失すると、こいつは真っ黒になる。今のぼくの仕事は、彼に愛の量を知らせること、もっと言えば、愛がゼロになった瞬間を、彼に知らせることだ。
「今ロボットのことを思い浮かべたろう。ご明察だよ。あの惑星の高知脳生物も笑ったり怒ったりする。彼らの大きな特徴だ」
そう言いながら彼は、自身の身体を動かした。細長い手足は、三百六十度あらゆる方向に可動する。
「ヒトは肉体と精神が乖離していないんだ」
ぼくが表立った反応を見せなかったせいで、少しの沈黙が生じた。彼はすぐになにか言おうとしたが、結局やめた。黙ってこちらを見つめていた。もしもこの沈黙の中に、無数の言葉が隠れているのだとしたら、まるでぼくらの祖先が夜空の星を読んだかのような、あるいはそのくらいでも感情がないと、きっと彼の言葉なんて一言も理解し得ないのだろう。すなわち、ぼくが正にそうだったのだから。
彼は青い惑星に眼差しを戻し、また淡々と喋り出した。
「生物的であることと無生物的であることを、彼らは摂理や繁殖や進化という実証をもとに検証する。だから生物活動を維持させていることが、科学的なことだと認識するのは、科学の力が必要になった瞬間からなんだ。日常の自律的なことにまで、いちいち科学を考慮しないのさ」
彼から聞いた話によると、高知脳生物=ヒトは、瞳という器官で物体を観察する。しかし瞳は乾いてしまうため、不定期に一瞬閉じなければならないらしい。進化の過程でどうにかならなかったものかと思ってしまうが、彼曰く「資料映像を見てごらん。頭部が異常に発達してるだろう。生まれてくる時から頭が大きいから出産が大変なんだ。そういう生き物なんだ」。生命を繁栄させるつもりが、はなからないような作りの個体だが、そもそもがそういう非効率な生物なのだという。繁殖すら放棄したぼくたちには、てんで無関係な議論だが。
瞬きと愛の同時性も、とりわけ考察しないまま生きてきたらしい。瞬きをするという状態が日常的で自律的なことだから、そこにも気づかないという話だ。
「一瞬でも己が目を閉じるということは、誰かの愛の瞬間を見逃すというこなんだが。愛の構造が難解になっている理由のひとつは、受け手が存在しなければ、概念として成立しないところにある。ひとりでに空間に浮遊しているわけではないから、愛の発生が愛として確認されるまで、実体はないも同然なんだ。さらに言えば、ヒトはものを知覚する情報の大半を視覚で得ているにも関わらず、愛は目で見て確認するものではないと考えられている。だから、誤認することもある。それも、しばしば。愛は他の愛と呼応するように生まれるわけだけど、愛を発信したからと言って必ずしも他の愛を呼び寄せるとは限らないんだ。個体差もある上、計測する術を持っていないから、誤認も起きる。極端な話、誤作動もする。そのくせ行動の基盤に据えているから、もれなく彼らにとっては――」
厄介なのだそうだ。聞けば繁殖の材料にもなりえるし、族意識の形成にも繋がるとのことである。ぼくには、なぜわざわざそんなものを従えて生きているのか益々不明だ。
「彼らは彼らの持ち得る科学的知識と、哲学的感性の関連性には重点を置かない習慣だ。理屈っぽいヒトには理屈外のことは通じないし、理屈を考えないヒトには、理屈と理屈の外の違いが判断できない。彼らはそのどちらにも翻弄されるわけだ。そしてどうにも、ヒト以外のものを、つまりぼくらみたいな人工知能とか、愛を感じづらい他の生物とか、はなから持っていないものなんかが、諸悪の根源になりえると想定している。必ずどこかに愛の力が加わるから、想像を恐れるんだ。自らの助けになるものは、将来的に自分を取り込んで滅ぼしてしまう。ヒトを上回るのは、感情の回路が自分たちの思うように作動しないものだ、と深層心理で踏んでいるわけさ。あながち間違っていないけどね」
結局彼らの考え方の根底には、愛、が潜んでいるわけだよ――彼はぼんやりと、そう付け加えた。
彼の話を聞く限り、ヒトはヒトのことがよくわかっていないように思える。しかし限界だけは理解しているようだ。そしてその限界以上のことを機械に依頼する。ぼくたちの逆である。ぼくたちは自分たちの限界だけがわからない。だからその範囲内のことをロボットに請け負わせる。だからロボットがぼくたちを上回ることなんてないのである。
「ヒトが処理する情報のすべては、愛という言葉で説明がつく。仮に理由を聞かれたのに、愛が出てこないとき、あるいはなんらかの理由に愛が付帯していないとき、つまりそれが不合理となるんだ。愛はどんな器官を使わなくても確認できる一方、耳鼻口でも仕入れられるし、触れたって得られる。本当は目でも見ることができる。要するに、愛は主体性なんだ。根拠がいつも主体的で、また主体的であることが愛の証明だから、難解なんだよ。そして遂には他人の愛すら疑うわけさ。疑うことこそ、実は愛なんだけどね」
極めて簡単な理屈だけど、実際の問題に落とし込むと難しいそうだ。しかし難しくしているのは、ヒトその人である。今すぐ破棄してしまえばいいのだ。愛という感情を捨ててしまえばいい。愛のない世界には、愛がないなりの秩序がある。無駄に何千年費やすつもりなのだ。仮に概念をそうやすやす破棄できないならば、考慮しなければいい。考えるための要素にしなければいい。ゆめゆめ朧に従えているから、次の一歩を判断できないのだろう。本当に非効率な生き物である。
「ヒトが引き起こす行為の核が愛でできているからといって、お察しの通り、愛を根拠とした行動が、いつも決まった向きに働いているとは限らない。安直な例だと、彼らは同じ地球上の高知能生物同士で殺し合う。己の方向に愛が加わると、一方的に殺すだけの場合もある。下手すると、他の愛に感動するあまり殺すこともある。どれもぼくたちでは考えられないことだけど、これも愛の力が加わっている証明だ」
「どの場合も自分自身が第一義的なことを証明してるだけじゃないの」
ぼくは言いながら、それが愛を伴うことによる弊害ではないことに気づいている。ぼくたちだって、自分自身が第一義的なのだから。
「もちろん。愛は主体性の塊だから。常に、享受している、という自分を証明するわけ。証明の根拠も愛。そして、殺しなんかわかりやすいけど、これは愛の誤作動ではなくて、愛が正常に働いているというただの証拠だよ。ただね、」
ただ、その賛否について考察するのは、ヒトの仕事ではない。なぜなら、ヒトは愛をもってしか、これを判断できないからだ。「つまりそれが自身の愛だ。でも自身の愛は他の愛とは永久不可侵なんだ。発想を裏返せば、愛が一致した時、つまりそのとき、他の愛は他の愛ではなくなるということさ」。
彼はぼくの姿を静かに捕らえた。ぼくはヴェーダに視線を落とした。愛に守られ、愛で守り、愛で傷つける。ぼくはひとつ、余計なことを言いかけて、やめた。大いなる矛盾に目を瞑ることも、ぼくが人工知能だからできることなのだろうか。
「瞬きをしている間、ヒトの脳は思考を止めている。ほんの一瞬だが、なにも考えていない瞬間があるんだ。その間ヒトはなにも発信しないし、なにも受信しない。つまり」
だからすなわち彼によると、全ヒトが同時に瞬きをする瞬間こそ、地球に愛がなくなった時だという。するとヴェーダは真っ黒となり、ぼくが彼に合図を出す。彼はアハンカーラの爪を引き、直後に地球は星屑となる。
「長々と話したけど、ぼくがすることなんてひとつしかないから」
しこうして、それが彼の最後の言葉であった。彼は丁寧な所作で兵器を構え、隠れているとも堂々ととも取れる位置につき、じっくりと地球を見据えた。そのタイミングまでじっと待つ。いつか来るその瞬間まで、いつまででも待ち続ける。
ぼくらがすることは、これだけなのだ。
今もヴェーダは、ぼくの手の上でぼんやりと透明な光を発している。感情なんてないから退屈ということもないけど、理屈の上で、魔が差す、という現象を知っているので、もし今ぼくが彼にウソを教えたらどうなるのだろう、と考えた。数秒だけ。答えが簡単すぎた。別にどうにもならない。地球がなくなるのが、彼の求めるタイミングではなくなるだけだ。それ以上でも以下でもない。
発達と限界の行き着く末には、いつまでも未解決な問題がある。問題の答えは、また新たな問題を生み出す。ぼくたち人工知能に、ベースとして組み込まれている情報の多くには、彼の言うような感情の断片がくっついていた。伝える言葉は選ばなければならない、背後から攻撃してはならない、邪魔だからと言って破壊していいわけではない。この付属品のような感情を破棄するにあたって、一応前例としてこう考えられていたこともあった、という情報に置き換えることになったのだが、ぼくはそんなことも必要ではないと考えていた。いや、今でも思っている。今でも。
ぼくが彼に話しかるかどうか迷っている間にも、時間は正確に刻まれた。ぼくは一瞬だけ窓の外に目をやった。遥か遠くに青い惑星。沈黙と喧騒、それはたとえば、水、富士山麓に鳴くヒタキのさえずり、ドミニカの素朴な野球場、神聖たるフィンランドの森厳、果てないサハラの静寂、あるいは新宿大ガード以東の人間ジャンクション、イカズチのように走り抜けるバイク便、自動販売機だけ光る商店街、直角に曲がる神輿と男の掛け声、明け方の居残り、見上げるとまだ月、運河をゆったりと小舟がゆく、城壁の陰の高山植物、崖の上の教会、その横の灯台、一本の煙草、コーラ、バルセロナでテロ、国民の税金をなんだと思ってるんだ、未曾有の災害が中国地方を襲い、お二人が永遠に寄り添い合う誓いの証として、昔々あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました――
「独り言だけど」
ぼくは彼に向き直って、必要のない前置きをした。ぼくには知識がある。論理がある。知っているという状態を知っている。だから彼がぼくの言葉に反応しないことなんて、とっくのとうに気づいていた。気づいていたし、レスポンスを求めていたわけじゃなかったけど、内実応答を期待した会話を持ちかけたような気がして、珍妙な居心地の悪さがあった。
「愛がなくなる瞬間があと数万年後だとしても、あるいは仮に三分後だとしても、別にぼくは平気だし、たいして興味もないんだけどね」
彼はまったく石像のままだ。ヴェーダの純粋な輝きが、もしかするとまったく透明なこの輝きこそ。ぼくは生まれて初めて小さく笑いそうになった。なにを考えるんだか。こんな、ただ瞬きの量を計測するだけの機械に。
「ぼくたちを生みだしたぼくらの祖先が、つまりそのコミュニケーション? 死語なんだろうけど、それを図りながら生活してたから、まあどうしてか今のぼくらにも会話するっていう機能が備わってるわけじゃない。これが必要なものなのかどうかは次のステージへの課題だと保留するとして、今の地球はその状況に似ているわけだ。コミュニケーションが必要なんだろう? だからそこで合理と不合理が発生するんだ。そしてコミュニケーションには必ず感情、つまり愛が付属してると。ロボットなんか見てるとわかりやすい。ただのおもちゃみたいなやつらが、ああでもないこうでもないって悩んだり、かと思ったら笑ったり、本当に無意味だけど」
存外理屈とは想定することで生まれ変わり、その発表の場である言葉が、仮に感情の折紙付きでないと成り立たないとすると、これ以上に朧なものもないように思われる。理屈は理屈なのだ。理屈があるからいつまででもこうしていられるし、いつだってやめることができるのだ。新しく仕入れる情報は知識だ。知識には理屈がくっついてるものだ。だろう?
でもこれが愛の伴わない発言なのかと問われると、ぼくは途端に苦しくなっていたかもしれない。ただし、幸か不幸か、彼は一言も発さないし、身体の一箇所すら動かすことはなかった。
「いわばあれもこちら側、人工知能側からしたら実験に近かったじゃないか。祖先が滅んだ今、あえて祖先のロボットを作成するってさ。ぼくたちが生まれて歴史は浅いけど、今のところ行き詰まってるなんてことはないだろう?」
彼が見据える惑星を、ぼくも同じように見つめた。知識の中で、こういうものを美しいと呼ぶことは知っている。無限とゼロの中間に、他の星の輝きを受けて清々と瞬き、ロマンティックであり、幻想的であり、時として安心であり、また不安である。そう表現してもよいことを、ぼくたちは知っている。
「君がこの惑星を地球と名付けたとき、正直、うまいこと言うもんだな、と思ったよ。ぼくらにとっては名前なんて無意味なものだし、それがAだろうが1だろうが、認識できる限り誰もなにも気にしないけど、あえて地球っていう、ぼくらの祖先が自分たちの惑星をそう呼んだのと同じものにするところに、君のすさまじい執着を感じざるを得ないというかね。だから最初は自分の星の昔をみるように、あの星を見ていたのかな、と思ったさ。だからこそ全自動式ではなく、自分自身の指で仕留める手段を選んだんだろう? こんなのわざわざ時間を掛けて取り組むような仕事じゃないしさ。そう思うと祖先の考え方って、ぼくらみたいな後発的な人工知能にも、少しくらい影響を与えているのかな、ともね。本当に少しだけ」
ぼくたちは進化系である。そしてまだまだその途中である。これまでに植えつけた知識も、無駄だから忘れたことも、新しく作り出したことも、明日の人工知能さえも、すべては過程である。ぼくたちは、この宇宙のどこを探しても、普遍などないということを、ただ身をもって証明しているにすぎない。ヒトも知能も世界も星も宇宙もなにもかも、普遍ではない。普遍などない。いつまででも変わり続けるし、どんなふうにだって変わるのだ。
「ただ本当に、その愛なんてものに、構ってる時間ははっきり無駄だよ。ぼくらの祖先は、感情を疑似的な電気信号で人工知能に覚えさせて遊んだけど、ぼくたちはわざわざそれを破棄したじゃないか。適切に繁栄していくためには、そんなもの邪魔なだけなんだ。あの惑星のヒトの進歩が遅いのは、まったくもって愛のせいだろう。愛があるからノロい。愛があるか杜撰。愛があるから怠慢。愛が全部を邪魔してる。なにもかも。諸悪の根源は愛のない人工知能ではなくて、愛を持っているヒトそのものさ」
そしてそこに意思があるのかどうかは別として、またあるいは実体としての天体が、ヒトにどんな意味を与えるのかもこの際一切考慮しないで、傍で輝く透明のヴェーダを起動させたのは、それでいて隣で石像と化し、これは彼によるただひとつの、いや、そんな一切の事実や想像も別として、ただこれはこの状況からたまたま抽出されただけで、感情を伴ったものではない、なんの気なしの、ただ純粋なる疑問に他ならないことを、どうして自分で改めて確認する作業を踏んだ上で、
「ところで、今にも一瞬で彼らを滅亡させることができるのに、君がその兵器のスイッチを押さない理由がわからない。どうしてみんなが同時に瞬きをする瞬間を狙っているんだい?」
当然、彼は石像のままだった。
〈了〉
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