騒音と鼻炎

TRiPRYO

小説

11,478文字

おもてでは戦争がはじまったらしい。激しい機銃掃射の音が聞こえる。

おれはきのう履いていたジーンズを捜索、炬燵の中から引張りだし、両方の裾を掴んで、逆さまにして振った。ぼとっ、と無様に変形した「エコー」がポケットの中から落下した。このあいだ、煙草は胸ポケットに容れるものだろう、と引越し会社の日雇いアルバイトで一緒になった鼻の下に巨大なほくろのある猿顔の男に云われたっけ、その男は、以前は土建会社の社長だったのだが、交通事故で小さな子どもを半身不随にさせてしまい、借金や社会的な制裁のため、会社は倒産、家族は離散、そして前科のせいで正規雇用としてはどこも雇ってくれず、だから毎日こういった仕事をせざるを得ないのだ、と昼休憩中にカップ・ラーメンを喰いながら事も無げにおれに語った。いったい、何の目的と意図があってそんな話をするのかが判らなかったし、また何故おれがそんな話を聞かされなけらばならないのかもさっぱり判らなかった。我々は全くの初対面で、おれはそいつの名前さえ知らなかった。想像したかったわけじゃないが、ある日とつぜん降ってわいたような酷い災厄のために、半身不随にさせられてしまった小さな子どもとその家族、半身不随にさせてしまった目の前のラーメンを啜る男とその家族、彼らの、取り返しのつかない地点で変質してしまった人生のことを考えると気分が悪くて、食事どころではなくなってしまった。おれはカップ・ラーメンを半分以上残して捨てた。安っぽいヒューマニズムなどはおれの与するところではないが、実際に目前に当事者がいるとなると、やはりわけが違った。おれが側溝に食べ残しを流すのを見て、勿体無いな、おれにくれればよかったのに、とその男が云った。りんしょくやろうめ、きさまのせいだぞ、馬鹿者め、おれの胸にいっしゅん鋭い殺意が湧き、収まり、また最悪の気分になった。

午後の業務中、その男が重い搬出物を持ち上げるたびに口から洩らす、ふんっ、とか、おりゃっ、という呻き声が、何かに対する呪詛のように聞こえて不気味だった。男が、えたいの知れない、人間とよく似た別の生き物のように見えて仕方がなかった。

 

昨夜飲み残したビールの缶や、吸殻でいっぱいの灰皿が、痙攣的なダンスを踊りながら、ちゃぶ台の上を徐々に移動している。外のとんでもない騒音のためだ。落っこちてしまう前に、灰皿を畳の上に置き、缶を、内容液をシンクに流してからゴミ箱に突っ込んだ。

いじめられたみたいに惨めに折れ曲がった煙草の形を、指でまっすぐ整え、おれは窓をぐわっと開けてベランダに踏み出した。階下の細い車道を見下ろした。

マシンガンの音ではなかった。

 青色のごつごつした特殊な作業車両が道路に駐車されている。二車線道路の片側の車線を取り囲む、たくさんの赤いカラーコーン。虎のような配色の立て看板が2枚。
「ご迷惑をおかけしています ただいま工事中 ご協力をお願いいいたします」
「工事中につき 徐行 ご協力ください」

 路上に工事人夫が5人いる。ひとりは交通整備の赤い棒を振り、ひとりは箒で路面を履き、ひとりは朦々と湯気を立てるアスファルトを、先端がへら状になった棒で平らに馴らし、そこに、もうひとりが転圧機を使い、馴らされたアスファルトを踏み固めている。ひとりだけ違った作業服を着た男が、他の4人のこなす作業を、順々に、何か大声で話し掛けながら、せわしなく見回りしている。まるでよく訓練された犬のようだ。

 転圧機はがたぴしと、耳を聾すほどの大音量をあたり一帯に鳴り響かせ続けている。間断なく続く稲妻の炸裂のような鋭角的な音響が腹に響く。まるで空間がひとつのゼリー状の物質になってしまい、まるごと振動しているかのようだ。震えているのがまさに目に見えるようだ。築30年、安普請のおれのアパートも、恐怖におののくようにかすかに身震いしている。窓などいつバリンと割れてしまうとも知れないという勢いで揺れている。空気中の分子の組成がばらばらに粉砕され、互いに衝突しあってそこら中に飛び散り、地面にぼとぼと落下する。その残骸があちこちに山積。虚空が口を開けている。空間に裂け目ができてしまった。裂け目はとても強い吸引力を持っている、宇宙的吸引力、おれは時空の狭間へと吸い込まれていく。そこは狂った豚たちの世界だ、よだれとはな水を撒き散らし、わめきたて、貪り喰らい、踊り狂う愉快な豚たちのパーティ、空間を埋め尽くす極彩色、永遠に流動する形態のフラクタル模様、回転し湾曲し蠢く愉快なペイズリー柄、拡大と収縮の究極形がいっしゅんで交替する、無数の点々が破裂し、増殖する点々の明滅、変な豚、二足歩行の豚、豚の最高潮の狂喜の笑顔、裂けんばかりの唇、その歯、ずらっと並ぶ薄汚れた歯、穿たれた虫歯の中の新しい宇宙におれは吸い込まれて・・・・・・。

 おれは正気に戻るために煙草に火を点けた。騒音が頭の中を埋め尽くし、まっとうな思考回路を阻害している。出来損ないの部分のシナプスが電流を受信し、送信する。

 転圧機を任された若い男は、扱いに不慣れと見え、完全にあがって・・・・しまっている。苦渋の表情を浮かべて大量の汗を掻き、その獰猛な古代の獣のような機械を手懐けられずに、右往左往させている。いかにも気が弱く、要領の悪そうな青年だった。かわいそうな仔羊だ。うまく進まない作業に辟易し、目を光らせる現場監督に怯えている。神経は酷い騒音で刺さくれだって。陽光が容赦なく彼の頬を焼く。

 よく見てみると、おれと同じように工事のようすを眺めている人間が、ぼちぼちとベランダや窓際に姿を見せはじめていた。全員が男で、そして全員がどこかしらくたびれていた。缶ビールを片手に見物しているやつさえいる、その汚ならしい下着姿、うすら禿げ頭・・・・・・。おれはうんざりして疲れてきた、がたぴしがたぴし、そしてきょうが日曜日だったことを思い出した。

 

視界が白い。うすぼんやりと白んで霞んでいる。

部屋に戻ったおれは、まあいいさ、とにかく一刻も早く出掛けることに決めた、この宿命的に辛気くさい午さがりから脱出するために。バックス・バニーの顔が右胸に刺繍されたグリーンのポロシャツを頭から被り、ボタンを閉め、昨日履いたジーンズを、まんべんなく衣類用消臭スプレーを噴射してから履き、寝癖を隠すために濃いネイビーのキャップを被った。ニューヨーク・ヤンキース。とくにファンではない。誰かがおれの部屋に忘れて帰ったものだ。そいつとしても、とりたててファンだったというわけではないかもしれない。

それにしても視界がおかしい。もやっとして気持が悪い。おれはがしがしと目を擦り、目を中心にして水道水で顔を洗ってみたが、それでも変化はなく、やはり白くぼやけたままだ。外の騒音のせいで神経が参っているのかもしれない。しかし、そんなことがあるだろうか?

いや、もしかして、とおれは思った。部屋のどこかで何かが燃えているのかもしれない。注意深く空間に目を凝らすと、それは明らかに煙に見えた。

確信を得るために臭いを嗅ごうとしたが、鼻が詰まっていて、吸気がほとんど通らなかった。ずびすびと厭な音が鳴った。

おれは、この音が、何よりも嫌いだった!

鼻炎だ、外で工事をやっているのにもかかわらず、窓を開けっぱなしにしていたから、アレルギー反応が起きてしまった。しばらく停止していた点圧機が、ふたたびすさまじいうなり声をあげて作動しはじめた。地面を、アスファルトを絶え間なくリズミカルに殴りつける。オーバードーズ、心臓麻痺寸前のジャンキーの心臓の死に至る律動のような打撃音、地獄の門を叩きつけるような恐ろしく破壊的な音響が、頭蓋骨に響き、おれの背骨を不安げに揺らす。目眩がしてきた。そう、おれは化学物質の粉塵にきわめて過敏な体質だ。昔からずっとそうだ、ガキの頃からずっと、舞い上がるアスファルトの粉塵が空気に溶けていく、意識すると、目が痒くなってきた、耳の奥も、喉の粘膜も、むずむずしはじめた、頭の中が混線してきた。ティッシュペーパーで激しく鼻をかみ、ああ、くそ、と呟いて、おれは急いで窓を封鎖した。

目が霞んでいるのは、これは、アレルギーのせいだったわけだ。まったくイライラさせられる。どうやら、さっさとこの部屋から退散したほうが身のためらしい。おれは玄関、靴箱の上のタイル皿から、部屋の鍵と原付の鍵、それから財布を取り、靴を爪先に引掻けたまま逃げるように部屋をあとにした。薄いドアが細かく振動していた。

 

モンキーに股がり、全身で、顔面で、気持のいい風を切りながら、解放感の最高潮、騒音とアレルギーとに終止符を打ち、幸福の波打ち際で、黄金色の陶器のような素敵な波が、寄せては返し、少しずつ、しかし確実に、おれは絶頂の大海の洋上へと浚われていく。鼻から、肺いっぱいの新鮮な酸素を取り込む。古い空気を吐き出し、新しい空気と交換する。心臓は悠々と脈を打ち、濃密な赤い血液が、大量の酸素を脳へと運搬する。思考は明晰さを取戻し、きらきらと渦巻く視界、時速50キロメートルで押し拡がる空の青さの尽きない喜びの味わいを口の中で舐め楽しみながらおれは、にやにや笑いが顔に貼り付いて離れず、どこに行こうかな、とぐるぐると思索を転がしながら考えていた。

シーラブジューイェーイェーイェー、シーラブジューイェーイェーイェー、シーラブジューイェーイェーイェー、信号待ち中に歌っていると、隣のパステルカラーの軽自動車の運転席に座っている女と目が合った。墨汁で染めたシルクのような太くまっすぐな黒い髪が、夢のようにゆったりと落ちかかり、鎖骨のあたりで直線的に切り揃えられえている。丸レンズの眼鏡の細い銀色のフレームの曲線、レンズの向こうの瞳はきわめて黒目がちで、きれいなアーモンド型の一対の目が、陽光をきらきらと反射させておれを見ていた。可笑しそうに口許を緩ませて。

優しいきつねの女の子、とおれは思った。

青信号が点灯すると、おれは一気にエンジンを加速させ、女の運転する軽自動車を追い越し、バキュームで吸い込まれるように次々と後方に吹飛んでいく街路樹を横目、するすると滑っていく路面の白線を見据えながら、行き先を決めた、レコード店に寄ってから、連絡してみて、よければアユミの家に行くことに決めた。

日曜日なのでアユミは仕事が休みで、家にいるはずだった。まだ日も高く、本来ならば我々が外に出掛けるような時間はもっと先だ。我々、というのはアユミとおれのことだ。近頃しばしば我々ふたりは徒党を組み、酒を飲んだりダーツをしたり、あるいは何もしないために、街に出掛ける。ほんのひとつき前まで、我々の関係性は、友人の友人、ただの顔見知りにすぎなかったが、ある夜、恋人と別れたアユミが我々の共通の友人にくっついておれのよく行く店に顔を見せ、そこで久しぶりに再会した我々は心底意気投合した。アユミの印象は以前とはまったく違っていた。見た目が変わったというわけじゃない、短いシャギー・カット、小さな口、つんと上を向いた整った鼻、賢そうな瞳、いつもと同じだった。が、その表情はやけににやにやとして締まりがなく、すでにかなり酔払っていることは一目瞭然だった。アユミは行く先々で気が狂ったように鯨飲し、滅茶苦茶に笑いまくり、遮る間もなく延々と喋り続けた。アユミを連れてきた男は途中で疲れ果てて帰ってしまったが、我々は店を5回も変えて正午過ぎまでひたすら飲み続けた。アユミは目をひんむいて笑い、凶悪的に酷薄に顔を歪めて何かを罵倒し、かと思うととつぜん凍りついたような深刻な顔でパセティックに語りはじめ、また痙攣性の笑いが爆発する、天使の大笑い、表情がスロットの出目のようにころころと変わり続ける。まるで季節外れの台風のようだった。さすがに帰る頃には互いにうとうとして会話もそぞろになっていたが、アユミはそれでも決してグラスから手を離そうとはしなかった。

以前のアユミは、どちらかというと静かで、いつも置物のように微笑んでいて、意味のあることばはとくに何も話さなかった。きれいだがつまらない女、とおれは思っていた。アユミとしても、おれの印象は前に会ったときとはずいぶん違っていたかもしれない。アユミと付き合っていた男とおれとのあいだには、女がらみの腐った因縁があり、おれはその男のことが大嫌いだったので、アユミのこともどうしても好きになれず、あんなくそ男と付き合うような見る目のない馬鹿な女、とみなし、何かの場で席をともにしても、ほとんど話し掛けなかった。そんな態度の男に対して良い印象を持つはずがなかった。が、べつにおれとしてはそれでいっこうにかまわなかった。

ただ、たったひとことだけだが、憶えている会話がある。あれはプール、夏だ、暑い夜だ、プールサイドにたくさんの人間、男女、ひしめきあい、跳ね回り、ふざけあい、視界いちめんの騒擾、おれは煙草に火を点けた、おれの気に入っていたビートルズのジッポ、それを使って火を点けた、あれはどこかでなくしてしまったが、それを指さして、
「マジカルミステリーツアー」とアユミが云った。
「そうだよ」と、おれは云った。

そのときのことをさいきんになるまでおれは忘れていた。

すくなくとも、ひとつき前の再会に至るまで、おれのなかでアユミという女の存在の価値は、他の有象無象の人間たちとなんら変わりなかった。ようするに、何を考えているのかがよく判らなかったし、また興味もなかったというわけだ。そのことをアユミに伝えると、ひとしきり笑ったあと、眉を潜め、
「それはわたしも同じだよ」
と云った。「いつも暗くて、なに考えてるのかわからない、ひねくれたかわいそうな男だと思ってた」
そしてまた陽気な黒人のように笑いはじめた。おれとしても笑うしかなかったが、いささか顔がひきつっていたかもしれない。
「でもね、」とアユミは云った。
「わたし思うんだけど、たぶんきみは、自分にはひとに何かを伝えることが、うまくできないと思い込んでしまってるだけなんだよ、で、うまく伝えられない限りは、何も語るべきじゃない、というふうにもね。なるべく誤解されないように、齟齬が生まれないように、色々と考えるからさあ、どうしても難しい顔になってしまうんじゃないの。とかいって、ま、これはあくまでわたしの独断的な勝手な想像だけどね、というか、わたしじしんがそうなんだ、あはは、じっさいにはね、でもきみも同じような気がする、同じにおいがする、うん、きっと同じだよ、その点に関してはね、うん、どう思う? 」
「どうだろうな。・・・・・・おおむね当たっているような気もするし、それだけで片付けられたくないという気もするけど、問題は、なあ、おれたちが乗り越えるべきなのは、いっさいが徹底的に便宜的なこの世界との折り合いの付け方だろ、みんなが何でもいいかげんに話しているせいで、すこしはものを考えて話そうとすると、即、変人扱いだ。でも変人なら、まだいいさ。変人には変人なりのポジションが用意されているからな。でもおれは決して変人なんかじゃない。しごくまっとうさ、そうだろう? だから変人ではないってことを何とかして証明しようとする、するとこんどはおれは狂人ってことにされる。危険な奴とみなされてやんわりと排除される。じっさいに何度もそういう目に遭ってきたんだ。そういうなかでおれだって学んだ。だから何も話せない、というか話さない、極力、話のわかりそうな人間以外には、黙っているのさ。おかしいのはどっちだよ? え? 」
「うーん」アユミは腕組みをほどいてジン・トニックを飲み干す。
「問題は」とグラスをテーブルに置きながらアユミが云った。「次にわたしが何を飲むのかだ。すみませーん! 」

 

ぐんぐん拡がる景色、新しい空、後ろに消えていく古い空、渦を巻くような視界のなか、イエローの背景に、ポップな赤文字の看板が見えてきた。

タワー・レコードの店内BGM、昔よく聴いていた日本のバンドの新曲が流されていて、おれはなんとなく舌打ちをしたいような気分になった。おれはいくつかの自動試聴機のなかのひとつの、いくつかのCDのなかから、レディオ・ヘッドのニュー・アルバムを選んで、聴いてみることにした。俺の記憶が間違っていなければ、これは去年の初頭に発売された、けっこう古いCDのはずだった。それなのにいまだに試聴コーナーの一角に並べられているのが、ほかの真新しい新譜たちのなかで、逆説的におれの目を引いた。店員が熱心なファンなのかもしれない。ヘッドフォンを装着し、選んだCDに対応する番号のボタンを押した。点滅する数字「3」。データの読み込みの数秒の待ち時間、アユミに送るメッセージを作成するためにポケットに手を伸ばしながら、しまったな、と思った。そういえば家を出る際に携帯を持った憶えがない。おれは虚空に目を泳がせながら手探り、やはり、どのポケットにも入っていない。家に忘れてきてしまったようだった。ついでに、煙草とライターも。ばたばたと慌てて無思慮に出掛けると、ちゃんとこういうことが起きる、原因と結果、まったく、じぶんの注意能力のなんとあてにならないこと。鼻の下で小さく溜め息を洩らした、ヘッドフォンから、「バーン・ザ・ウィッチ」という、アルバムのリード・トラックが再生されはじめた。そしておれは息を呑んだ。思わず、ボリューム・ノブを、限界寸前にまで捻った。

乾いたストリングスの痙攣的なリズム、下水道で響く無感情なテューバの音色のような、のっぺりとしたベース、不具者たちの行進の不揃いな足音を思わせるブレイク・ビート、歪んでしまう手前の絶妙な音色のリード・ギターが、宇宙から飛来した未知の昆虫の鳴き声に聴こえる、トム・ヨークの神経の逆立ったような歌声が、曲のラストに向けて分裂症じみた切実な響きに変質しつつ高まっていく、魔女を燃やせ、異端審問、監視、密告、集団ヒステリー、いわれなき虐殺、じめじめした熱狂、暗い炎の中の断末魔。

暗黒の中世の復権・・・・・・そんなものを示唆した音楽のような気がした。それはひどく陰惨で、ざらついて、不吉だった。乾燥した薄闇が、あるいは、かすれたインクが、胸にこべりついたような心地になった。おれはもう、あえて聴くのを止めた。掌がにわかに汗ばみ、口中ではねばねばした唾液が分泌されはじめている。むしょうに次の曲を聴きたかったが、もしそうすれば頭の中が、このアルバムから漂う魔力じみた雰囲気に呑まれてしまって、今日いちにち、この後の思考を、いままでの流れとは明らかに違った方向へと誘導されてしまうような気がしたからだ。どうせなら、もっと違った情況のときに聴きたい。静まり返った真夜中とか、じめじめとした曇り空の、色彩が消失したような午さがりとか。何となく聴き流してそれでおしまいにしていい種類の音楽ではない。そうやって聴き込むタイミングを見失い、放置されたままになったCDが何枚か、おれの家にはあるが、とにかく買うことにした、話はそれからだ。

一万円札と小銭で代金を支払うと、財布のなかにはもう一万円札はいちまいもなくなってしまった。

 

あいかわらず空は端正な青。通りでは歩行者が群を成して、街の中心部へと向かって流れるように進んでいく。様々な顔。無数の顔と、表情、それと同じだけの数の思考が通行している、おれの眼前を通過していく。
さてどうしたものかな、とおれは思った。アユミの家は知っている。ここからバイクで15分とかからない。だけど連絡もなしに押し掛けるような真似はなるべくしたくなかった。いや、正確にいえば、何の気なしに、気軽にそうすることができたのなら、おれとしてはそれ以上にいいことはなかった、だが、もし仮にアユミが家に居たとして、そのとき、アユミは、どんな顔をしてとつぜん表れたおれを迎えることになるのだろう?

見当もつかなかった。そんなこと、アユミに対していままでいちどもしたことがないし、とつぜんおれが家に来たらどう思う? と聞いてみたことも、もちろんない。だからわからない、それだけのこと。何事もないように受け入れてくれるような気もするし、すごく厭な顔をして、どうしてこんなことをしたの? と静かに問い質すような気もする。アユミは、おれの無神経で無遠慮な行動に、ショックを受けるかもしれない、怒るかもしれない、悲しむかもしれない、おれにはわからない。他人の思うことに、確信など持てるはずがない、実際に話をしない限り。

もしおれだったら? とおれは考える。もしおれの家にとつぜんアユミがやって来たら、おれは驚くけど、かなり嬉しい。少しからかって、歓迎するだろう。おれはその素敵な訪問を、おれに感じている親密感の表現のように感じると思う。おれとのあいだの距離を埋めようと歩み寄ってきてくれたのかもしれない、というところに及ぶまで、想像力を稼働させるかもしれない。しかし。

しかし、その訪問者が、アユミ以外の人間だったら? アユミのように、おれが親しみを感じ、なおかつ、より深く親しくなりたいと望んでいる人間ではなかったとしたら?
たぶんおれは最低最悪の気分になり、ことによってはそいつを罵って追い返すかもしれない。プライバシーを蹂躙され、おれの内部に、個人的な人間性に、生活に、土足で侵入されたような気分に陥るはずだ。ある程度親しかったとしても、その「ある程度」以上に距離を縮めたくなければ、よけいなことをしてくれたな、と思わされることになる、その人間との距離感が、今の状態こそベストだ、とおれが考えていればなおさらのこと。

これはあまりに自分本位な感覚なのだろうか?

べつに、しょせんはおれのプライバシーなど、大げさに神聖視して堅守しようとは思わない。しかしあくまで、おれのプライバシーはおれの持ち物なので、おれがどう扱おうとおれの自由だが、もし他人がその境界を飛び越えておれに接近しようとしたならば、おれはやはりそこに何らかの意味を求めてしまう。そのとき、そこにポジティブな意味を見出だすことができるのは、ごく限られた一握りの人間に対してのみだ。仕方がない、好みというのは、本質的に感覚的なものなのだから、こちらが明らかに受け入れる準備ができていることを示していない場合、いくら、相手が好意的に距離を縮めてくれようとしたにせよ、その人じしんとその人のやり方が、おれの感覚に合致しなければそれは、おれの個人性への不法侵入と感じざるを得ない。

アユミが、おれがアユミに感じているのと同じように、おれに対して感じているかどうかがわからない以上、つまり、アユミがいまよりおれとの距離を縮めたいと感じ、とつぜん家に来ることを好意的なアプローチだと感じるかどうかがわからない以上、そんなことは絶対にするべきじゃない、それはやけくその狂人の暴挙だ。ほとんどテロだ。自滅だ。だいいちおれは男でありアユミは女だ、おれが来るのと、アユミが来るのとでは、すくなからず意味が変わってくる・・・・・・。

アユミは、いまよりおれと親密になってもいいと考えているのだろうか? わからない、それは、わかるはずがない、アユミの頭のなかは、アユミのもので、それを推察したりしようとすることじたい、恥ずかしくみっともないことのように思えてきた。

ただ、おれはアユミともっと仲良くなりたい、それは、事実だ、おれの正直な気持だ、それだけははっきりしている。だとしたら、おれから距離を縮めていくしかないのだ、それも、ほんとうに、すこしずつ、すこしずつ。いっけんわからないようで、ちゃんとわかるほどのスピードで。

純粋に大切だという思いを抱きながら、ほんとうの意味で仲良くなっていくことは、じつはすごく難しいことなのかもしれない。

どこかの国の、いつかの時代の無名の画家によって描かれたような、輪郭の強調された不思議な形の雲々が、形をいっさい崩さず、かなりの速さで、次から次へと東の方へ吹き飛んでいく。まるでどこかに空の番人である妖精が隠れていて、秘密のレバーをぐるぐる回し、次の舞台に備えて大急ぎで景色を交換しているかのようだった。おれは歩行者の群と混ざり合う、彼らの一員として躊躇なく群に加わる、そして原付を停めた地点へ向けて黙々と歩を運ぶ。足取りが軽い。家に帰ろう、たぶん、きょうはもう何もしない、おれは何もせずにいちにちを使い果たすだろう、悪くはない日曜になりそうだ。はっきりいって、工事の音など問題ではない、結局のところ、それはただの気分の問題だ。

 

おれは、大型電機量販店の前を通りがかる。最新式の巨大な液晶テレビが、入り口付近を占める携帯電話コーナーの前に、歩行者が観られるようなかたちで設置されている。おれはその前をいちど完全に通過した、二三歩進んだ、そして、心臓の拍動ががいっしゅん停止した、おれは身体じゅうのすべての息を吐き出し、すさまじい断末魔のようなひきつった音を、喉の奥、胸全体で鳴らした、ひーーーっく、その音を聴いて、おれは自分が死んだんだと思ったが、そうではなかった、無意識、すぐに吸える最大限の空気を吸い込んだ、身体じゅうの空気をすべて交換した。その時点からおれの身体はおれじしんのものであることを辞めてしまった。ふたたび動き出した心臓、その心音が、転圧機のリズム、あの破壊的音響、それとまったく同じように聴こえる、耳のなかで鳴っている自分の大音量の心音、どんどんどんどんどんどんどん、それが頭のなかを満たし、辺りの音をすべて掻き消した。雑踏も、ざわめきも、テレビの音声も、おれには聴こえない。おれは肩で大きくはやく呼吸をしている、全速力でとても長い距離を完走したあとのように。しかしその呼吸音さえもがおれの聴こえる世界では消滅している、どんどんどんどん、おれには地獄の門扉を叩く音のようなおれの心音しか聴こえない。おれは、後退する、ある一点に向けて、がたがた震え、しかし確信を込めた足取り。それと反して、脳味噌は理解を、認識を、徹底的に拒絶している、おれは知らないぞ、おれは何も見ていない、おれは何も知らない前に進むんだ、家に帰るんだ、おれはテレビなんかみちゃいない。だが肉体は、脳の指令に逆らって、独立した意思を持ち、電機店の前の巨大な最新型テレビの前に立ち、そこに釘付けになる。足の裏側が地面に縫い付けられたかのようだ、頭蓋骨は、テレビ画面とのあいだで、矢に撃ち抜かれたようだ、運命の矢、恐ろしい現実の矢、判決の矢、無慈悲な矢、いや、そこには感情はない、あくまで無感情だ、世界はおれに対して何の感情も抱かない、感じているのはおれだ、おれはもう立っていられなくなった、テレビの前で膝から崩れ落ちた、両手を地面に着いた、地面は冷たい、冷たく、ざらついている。通行人たちが、かわるがわる、じろじろとおれの顔を覗き、そして去っていく。たくさんの視点が集中する圧力を背中に感じるかのようだ。だがおれの視点は一点だ。永遠にその一点を見つめているようだ、おれは、おれは、生まれたときからこうしていたようだ、炎を見ていたようだ、生まれたときからこの炎を見続けているのかもしれない。

そう、炎。それは、ヘリコプターに乗って上空から撮影されたカメラの写している地上で燃えている、ニュース番組の、現場中継。黒い煙が上がり、画面ぜんたいの写りを不明瞭にしている。煙の向こう側、激しい炎に包まれた、おれのアパートがある! おれのアパートを燃やしている巨大な炎のうねりをおれは見ている!

かわいそうな羊だとおれが思った労働者の青年が、テレビカメラに向けてインタビューに応えている。煙が上がってるなって(気がついた)、そしたら、すぐに炎が強くなって、消防車呼んだんですけど、そのあいだにあっというまに(炎が)燃え広がった、という字幕。その背景で、消防隊が太い管から液体を撒いているのが見える。

こいつらはどうしてかってに消火しようとがんばっているのだろう? おれの家を?

もういいよ、やめてくれよ、頼むからそのままにしておいてくれないか? 炎が焼くままに、燃え尽きるまで。そうやって頼んだら、彼らはその通りにしてくれるだろうか?

 

 

2017年11月6日公開

© 2017 TRiPRYO

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