「結局のところ」と男は呟いた。まるで目前に置かれた架空のキャンドルの灯を消すまいとするかのような、微かで、ぼんやりとした、闇の底へと消え入るような声で。
「ちゃんと引掛かっているのかどうかが、判らないんだ」
「不安なの?」と女が訊いた。女は、男が座っている古い木椅子の横、広いベッド、清潔なシーツの上で横たわり、左耳を下にして横を向き、身体にやんわりと毛布を掛け、男の顔、唇と鼻のあたりに落ちた淡い陰影を見ている。女の口許がほころんでいることが、かろうじて確認できる。部屋はとても暗く、冷たい。冬の夜はいま、そのいちばん深い部分を世界に対して剥出しにしている。外気は痛々しく緊張し、ふたりはしっかりとそこに含まれている。部屋の中に灯る照明はひとつもない。蛍光灯も、卓上ライトも、笠の付いた間接照明も、液晶テレビも、携帯電話も、すべての光源は回路を封鎖されて一時的に死んでいる。部屋に入り込む光は、街のネオン、自動車のヘッドライト、街灯、そういった人工的な光線の猥雑な反射光だけだ。冷蔵庫のサーモ・スタットの低音のうなりが、暗渠の呻き声のように空間の低いところで滞留している。ベッドの隣接する壁に、張り出し窓が嵌め込まれている。カーテンと窓は開け放たれていて、純粋な夜の光と、闇と、大気が、部屋に充溢している。男がそうした。照明を消し、テレビを消し、ふたつの携帯電話の電源を落とした。その様子を、女は男から少し離れたところで立ち、黙って見ていた。そして、微笑んだまま、ベッドに入り、毛布で身体を包んだ。ただ、夜気がとても冷たかったので。
男は、俯き、ひどく陰惨だ。黒い下着を履き、あとはヌードで。飲み干したグラスを、ぬらりと、サイド・テーブルに、氷の音さえ鳴らさず、無音で置いた。彼は、影そのもののようだ。男の座っている足許の床へと目を凝らすと、仄かな影が落ちかかっているのが見つけられる。男と、男の座っている椅子とが複合された、まだらでいびつな影だ。その影をじっと見つめていると、ほんとうはこの影こそが男の実体なのではないだろうか? という錯覚に我々は陥るかもしれない。ごく観念的な、およそあり得ない錯覚。それを振り払うため、目を瞑り、何秒か数え、ふたたび開く。すると、もはや男とその影との見分けがつかなくなってしまう、そういうことが起きても不思議ではないと思わせるほど、彼は陰惨で、うらぶれて、影そのもののようだった。そこにある種の幻惑の雰囲気がまったく含まれていないとは言いきれない。
「寒くないの?」とふたたび女が訊いた。男は、いちどめの問いかけを無視したわけではなく、まるで聴こえてなどいなかった。鼓膜を震わせ、電気信号に変換された女の声は、男の認識に届くまでの途上のどこかで、虚無に吸い込まれ、ぱったりと死んでいた。男に含まれた空白、鉛の玉、不在者の沈黙、死の不感症、虚無。それは男の身体の全細胞にもれなくほんの少しずつ含有されている。虚無は男に含まれ、また男は虚無に含まれていた。虚無は故郷を持たず、行き先も持たない。虚無は男とともに産まれ、男が死んだ日、永遠に消え去る。すくなくとも、男じしんはそう信じていた。
「そうかもしれないね」と男はあくまで明瞭な発音で言った。そして語気を最小限に弱め、「すこし寒いかもしれない」。
束ねられたカーテンが、ときどき思い出したように夜風に揺れている。そこから、おとなしい動物が大儀そうに身震いしている光景を男は想起した。やさしい、滑らかな線を持つ、夜の生き物が、月光で身を洗い、ゆっくりと、大きく伸びをする。だが実際には今夜、月は姿を見せない。死人の肌のような雲々が、不分明に、分厚く無感覚に拡がり、月と星々の存在を隠蔽している。いつ雨が降りだしてもおかしくない。月の不在を、男は意識する。重たく湿った雲々が、男の心の裡にも発生する。夜の生き物が生気を失い、徐々に消滅する。男の心象はすべて色を失い、男はじぶんがいっそう鈍く無感覚になっていく心地を覚える。
「引掛かるって、何のこと? 」と女が訊いた。眉間に浅い皺が寄っている。わりと真剣に質問していた。その皺の陰は見るものに、生真面目で、いささか神経質という印象を与える。しかし口許の確信的な微笑は消えていない「一体それは何を象徴しているの?」。
「象徴だって?」男の顔がにわかに気色ばんだ、が、波が引くようにすぐに血の気が失せ、平静の表情に復帰した。ほんとうに短い時間のことだったので、また部屋の薄明のために、女は男の激しい感情の揺れに気がつかなかった。男はときどき、他人が全然検討違いなことを言いはじめると、憤怒の激情に襲われた。彼らじしんに腹が立つというよりは、正確な意味や論旨が伝わらないこと、会話の齟齬じたいにはらわたが煮えくり返りそうになった。自分の伝え方に至らないところがあるのかもしれないという内省的な考え方が男にはどうしてもできなかった。男にとって、正確な理解の責任は必ず相手にあった。男はあくまで、常にじぶんが喋りたいように喋り、それで満足していた。いったいどのよう事象が男のその厄介な傾向を作り上げてしまったのか、いまのところ、我々はそれに判断を下す材料を何ら持ち得ない。「何も象徴してなんかいないよ。ただ、純粋にそのままの意味さ、家の鍵をちゃんと閉めたか不安、とか、きみが他の男に口説かれていないか心配、とか、そういった事柄と同じ意味合いさ。つまり」
男は組んでいた脚をほどいて木椅子から立ち上がり、サイド・テーブルに置かれたグラスに、バーボンを親指ほどの深さまで注ぎ、素早くひとくち舐め、グラスをテーブルに戻し、ベッドの中に潜り込んでから続けた。すべての動作のあいだで、蟻が歩くほどの音も立てなかった。ただ闇より黒い髪が、優雅な獣の体表を覆う豊かな毛のように滑らかに揺れただけだった。
「いろいろなものを、感じるだろう? 日々生きて、眠って起きて働いて、遊んで、生活している以上はさ。目を閉ざし、耳を塞ぎ、すべてシャット・アウトして生きた屍のような奴らは別だけど。くそ下らない社会の高度情報化社会の、犠牲者とも言うべき、垂れ流される濁流のような二次情報三次情報四次情報を取捨選択能力を剥奪されたまま脳味噌にぶちこまれ続け、受動的にそれを甘んじて受け入れ、感受性が磨耗した、性欲食欲物欲顕示欲承認欲求などなどの豚、もはや訳がわからなくなっちゃってる奴らとかさ、そういった人々もさておき。
ぼくたち、ふつうに、まっとうに生きている人間。潰れそうになる悲しみ、痛みとか、純粋な愉悦、陶酔、喜び、愛!
それらを感じるだろう? さまざまな瞬間、記憶、時間、想念、お馴染みの感情から、名状しがたい感情まで、すべての感情。そういうものを感じるだろう?
それがさ。それらはすべて、ぼくにとって、ほんとうに、ごく、一時的なものなんだ。突然やって来て、とんでもなくすさまじい美しさをぼくに示し、複雑な体験を呼び起こす。そして、通過し、決して振り返らずに、固く心を決めたように、去っていくんだ。いなくなっちゃうんだ。
どれほどの痛みを持ってしても、永遠にぼくを貫き続けることってあるのかなって?
やがて消えるんだ。いっさいね。だから、わからなくなるんだ。薄れていくことが、こわいんだ。混じっていくこと、純粋さが保たれないことが、こわい。いま、感じている、この途方もない恐怖も、痛みも、明日の朝には、半分に、あるいはきれいさっぱりってこともある。どうでもいい、取るに足らない感覚と交じりあっちゃって、純粋じゃない、厭な汚れた感覚にみじめにも変質してしまったり。
昔は・・・・・・昔は、もう少しマシだった。ガキの頃はね。一度響いた最高のものはしばらくずっと胸のうちで響いてた。
それが、だんだん、追いついてきてる、虚無が、ぼくにね、ぼくの背中を叩く。さあ、もうお楽しみはおしまいだって、ここから先は、なにもないぞ、って。それがこわい。
だからさ、消えたように見えても、失われたように見えても、どこかに、引っ掛かっていればいいなあ、て思うんだね。どこか、心、のどこかいちばん大切なきれいな純粋な素晴らしい可愛らしい素敵な最高の奇跡みたいな、そんな場所にね、とっかかり、きらきら輝く白銀の釘、のようなものがちゃんとあって。そこにうまーく引っ掛かっていれば、安心なんだけどなって、不安はないんだけどなあ、そしたら、何も怖くないのに、ねえ、どう思う? ちゃんと引っ掛かってるのかな? 」
途中から、頭蓋の芯が熱を帯びたように感じ、ぼうっとして、じぶんが話していることがよくわからなくなってきたが、口はぜんまい仕掛けのように動き続けた。何かに憑かれたように、男は喋り続けた。何か? それは観念の亡霊、幻想の怪物、非実在の発狂者、あるいはドン・キホーテ。男の苦悩は、男の内部で醸成されたが、そもそも誰かが持ち込んで植え付けたものではない。腐った苦悩の芳香、その酒精。悲嘆の酔いどれ。
「大丈夫」と女が言った「ちゃんと引掛かってるよ。きみも、わたしも、ここに」
女の白い手が、男の薄い胸に触れた。
女は、男の胸を、冷たい、と感じた。
男は、女の微笑む唇を見ていた。唇だけを、見ていた。三日月のようだ、と思った。
「何故判る? 」と男が訊いた。
三日月が、唇が、開いた。「わたしには、わかるの。ただ、わかるの」
そしてふたたび閉じたきり、もう何も語らなかった。
女は男の胸から手を離し、横になって目を閉じると、すぐに静かなすきま風のような寝息をたてて眠りはじめた。
男は枕の上で腕を交差させ、その上に頭を載せた。うろんな目付き、青白い顔色、固く縛られた口許。そして天井に小さな染みを発見し、空が白みはじめるまでそこから目を離さなかった。部屋の中では、すべてがインクのように濃密な闇の底にあって、すべての色彩は影によって剥奪されていたが、男の見つめているその染みがいちばん黒かった。
この夜において、世界じゅうでいちばん黒い黒だ、と男は思った。
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