ビールをもう一本

掌編競作「実際にかかったことのある病気」応募作品

ヤマダヒフミ

小説

2,036文字

人類=病気、というような話です。

 

 病気というのはある一点から始まり、周辺に広がっていき、やがて全体を支配する。そのように考えると、人類は既にその病巣が広がり、摘出手術しても無駄な状態に到達しているのかもしれない。俺はそんな事を考えた。
 安藤昌益という思想家がいる。この反逆児は、自然を重視した。孔子、キリスト、ブッダなどの聖人君子は所詮、自然の理法から外れた存在に他ならない。自然に善悪の区別なく、それはそれだけで全体として成り立っている。だが、聖人君子達が語る所はみな、善であり、正義であるに過ぎない。おそらく、病はここから始まった。俺はそんな風に思う。
 俺ーー今、「俺」という一人称で呼んでいるこの存在は、夕暮れ時に東京の街をドライブしていた。一人で車に乗り、行き交う人にも目をくれずに目的地に向かう。何故、目的地に向かうのか。それは俺の功利性と関わっている。
 俺は安藤昌益の事を考えていた。あの反逆児の言った事は本当だろうか? ……残念ながら、嘘だな。なぜなら、反逆児もまた反逆の過程において自己の正当性を示さざるを得ない。仮にブッダが間違っていて安藤昌益が正しいにしても、それが一つの言説を成す限り、安藤昌益は新しいブッダに成り代わろうとしているにすぎない。
 街に目を通すと、様々な人が行き交っていた。ヤクザ、チンピラ、若い女、ふらふらしている男、中年のいかり肩、悲愴な表情の中年女。
 それぞれに人生があった。だが、どれにも病気が浸透している。人類始まって以来の、善とか悪とかいう病。
 仏教は言語が生み出す概念そのものが虚妄だと、言語という概念を用いて語った。では、そのような言説それ自体が間違いではないか。…間違いない。その通りだ。だから「維摩経」の最後では、主人公は「沈黙」する。言葉で語れないものは語れないのだ。
 俺は思う。この広い東京で、安藤昌益と「維摩経」と人類の行く末について考えているのは俺ぐらいではないのか、と。
 もし俺以外にそういう事を考えている奴がいたら気味悪いと思うし、もし俺しかいないとしたら、それはそれで嫌だと思う。つまり、どっちつかずの人間だという事だ、俺は。
 今、俺は会社の命令である場所に書類を届けようとしていた。なんでも緊急の用事とかで、郵便じゃ駄目らしい。メールでも駄目らしい。そこで下っ端の俺に仕事が回ってきたという事だ。
 わざと遠回りしてやろうか、と思う。そこらのバーで一杯ひっかけていこうかと思う。俺に指示した上司は、必死な顔をしていた。まるで、この書類が時間内に届かなかったら、地球が滅亡するかのような、そんな悲愴感だった。
 彼らは規範を守る事に必死なのだ。俺は思った。彼らは何かを守る事に必死なのだ。俺は考える。そして俺も、彼らに合わせる限り、やっぱり何かを守ろうとしているのだ。 
 おそらく、人類の原初に埋め込まれた微小なウイルスは、千年、二千年の時をかけてゆっくりと広がっていった。俺はそんなイメージを持つ。宇宙から地球を千年単位で見てみよう。人類が増殖するウイルスの如く広がっているのが目に見える。地球に広がるウイルスはやがて、夜をも明るく照らし出した。まるで地球は我々のものと言わんばかり、夜にも自分達の明かりを煌々と照らした。明かりは宇宙からも見えるだろう。
 今頃、神は激怒しているだろうか? 俺は考える。あるいは、ウイルスを散布したのは神かもしれないな。だったら、神は怒る事はできないだろう。責任はやつにあるのだから。
 信号待ちをしている時、スマートフォンにメッセージが届いた。手に取り上げなくてもメッセージは目に入った。上司からで「順調か?」。無視しようかと思ったが、信号が赤なのを確認して素早く「順調です」と返信した。
 部長、順調ですよ。俺は呟いた。部長、何もかも順調ですよ。人類始まってから、何もかも順調です。大丈夫です、部長。安藤昌益なんて馬鹿野郎が茶々入れたくらいでは人類は止まりません。人類は順調です。大丈夫ですよ。書類だって届きます。大丈夫っす、部長。
 俺はそんな事を呟いた。呟き終わると、妙に空虚な気持ちになった。顔を上げると、信号は青になっている。俺は慌てて、アクセルを踏んだ。車は発進した。前方に。車は前に進んだ。現代の方向感覚からすると「前へ進む事」は「良い事」らしい。俺としては寝転んでビールでも飲んでいたいのだが。
 さて、俺は車を発進させた。時間通りに、向こうにはつくだろう。それまでには、人類始まって以来の病気の事は綺麗さっぱり忘れているだろう。
 スマートフォンをいじって、車のスピーカーから音楽を流した。イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」。懐かしい曲だ。そんなに大した曲じゃないかもしれない。でも、俺は好きな曲だ。俺は口ずさみ始めた。
 「ホテル・カリフォルニア」が終わる頃には、人類の病については、すっかり忘れていた。「ホテル・カリフォルニア」が鳴り終わった時に俺が考えていたのは、今日の帰りにはビールをいつもより一本多く買っていこうという事だった。
 

2017年8月26日公開

© 2017 ヤマダヒフミ

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