~1~
北関東某県の警察署の朝会議は、いつもと違う雰囲気で始まった。署長直々に壇の上に立つ。一同が立ち上がり礼をした。
「既に前からの連絡の通りです、明後日開かれる筑波サミットに関する特別警戒について各自計画の通り、出動班は特に職務質問を……」
署長は一息ついてから、言葉を付け加えた。
「そう、辺りのガイジンさん達に特に気を付けて欲しい、特に日本人と日系の違いの見抜き方は……マニュアルに書いてありますね」
警官達の中からわずかに、笑い声の様な何かが聞こえた。署長もにやついている。
「まあ、こう言う時は点数の稼ぎ時ってもんです、ハハハ……ああ、そう、多分新人は今日が始めてのそう言う活動になりますね、先輩の人ちゃんと指導お願いします」
その後、幾つかの事務連絡があり、会議は終わった。そしてぞろぞろと出て行く列の中で、何人かの婦警もいた。
「草薙さん、ここの警邏初めてなんでしょ?誰と?」
「石原巡査部長です」
「へえー、あの人と」
「意外ですか?」
「別にー、でも良く喋る人みたいだから、ついてけないと疲れるよ?ウフフ」
「まあ、コミュニケーションも仕事の内ですから」
別の婦警が笑いながら割り込んだ。
「草薙さんホントに真面目ねー、私より早く出世するわねー」
「アハハ、まさか」
「新米でこれなんだから、地域の治安は大丈夫ね」
「そんな、おだてないでください」
「まあまあ……この辺りはガイジン多いから、草薙さんも気を付けた方が良いわよ」
「あの、さっきマニュアルって言ってたんですけど、その、私、まだそう言うの多分見てないんですけど……」
「そう?あ、草薙さん職質始めてだからよ、今日辺り巡査部長から見せて貰えるんじゃない?あれ、ウチの署の丸秘なの」
「そうなんですか」
「見ればすぐに分かるよ……そろそろ時間ねー」
「あ、もう」
「じゃあね、私は吉田巡査長と行くから」
「はい、また後で」
婦警達は次々分かれていく。
「私はねー、この間起きた自殺の処理しないといけないから」
「あ、はい」
「まったく、自殺するならどっか山の奥で人目に付かずやれってのよ、アハハ、じゃあね」
「……」
草薙は一人になった。そのまま洗面所に向かい、鏡の前に立ち、そして胸に思いをこめた。
「私、日本の治安の為に貢献出来る……」
小学生の時に近所の交番の橋本と言う婦警さんに憧れて以来、ずっと望んできた道。小さい時の夢は変わりやすいものだと言うが、草薙の婦警に対する夢は揺るがなかった。
「あの時の橋本さんみたいに、なれてるかな……」
小学校、中学校、高校と、正義感強く過ごしてきた。どんな授業でも真面目に受けたつもりだが、とくに道徳の授業ではいつも率先して良い答えを導き出すようにした。おかげで通知表にはいつも教師のお褒めの言葉が載っていた。そして警察学校へ入った。想像していたよりもやはり辛い生活であったが、草薙は挫けなかった。
「……いや、考えてばかりじゃダメ、ああ、早く行かなきゃ」
草薙はすぐさま用意を済ませ、制帽をしっかりはめ直し、鏡を一瞥すると、階下へ降りていった。
「草薙知子です!よろしくお願いします!」
「石原だ、さあ乗ってくれ」
~2~
「……」
ある団地の脇の、虎模様のロープで囲まれている小さな区画を、一人の青年が深刻に見つめていた。区画の地面にはわずかに黒っぽいシミの跡が見える。
「嗚呼……」
ロープの前で立ち尽くすしかない。
「死んだのか……もう何も無いのか……」
褐色の両手は、褐色の額を覆った。この場に居られる気がしないのに、居なければならない気がする。その時、自転車のブレーキ音がすぐ近くで聞こえた。
「パウロ!」
「……タキ」
「こ、ここがそうなのか」
「そうだ……」
タキと呼ばれる男は、自転車から急ぎ降りて、パウロに駆け寄った。
「ここで、いつ!?何が……エンリケに!ああ!」
「昨日の昼過ぎらしい……ちくしょう、メールがあって、ああ……クソ、それ以上は分からない」
「エンリケのママは?」
「まだいるはずだ、でも会ってないよ……会えないだろう」
「……」
二人は、地面のシミ跡から、目の前の団地棟を見上げた。
「あいつの家は九階なんだ……だから」
「言うな、言わなくていいよ」
「ああ……畜生……」
「……」
タキは別の視線を感じ、後ろへ振り向いた。後の団地棟三階のベランダから、主婦らしき女性がこちらを怪訝そうに見ている。さらにその上の階から老人がこちらを睨み付けている。
「パウロ……ちょっと、一度他の所行こう」
「何でだよ」
「他のやつ等が見てる」
「見させておけ……日本人め、見たきゃ見るが良いよ、ああ」
「パウロ……」
「エンリケが死んだのも、日本のオマワリに……日本が、日本語が何だってんだ!クソ!」
「とにかく行こう!」
タキはパウロの腕を引いて、更に片手で自転車を掴んでその場を離れようとした。だがパウロは頑として動こうとしなかった。
「畜生……学校でも、バイト先でも、何があっても我慢出来ただろ……Ah!Policía!Merde!Ahhh!」
「……」
タキも言い様のない気持ちに非常に揺り動かされていた。しかし、この団地で泣いて何も出来る事はない。後から自分たちを見ている人間どもの視線が嫌いだし、それに会えそうな状況ではないエンリケの母に聞かれてしまうのも避けたい。
「……パウロ!行くぞ!」
「タキ!お前は……嫌じゃないのか!怖くないのか!」
悲しい、と言う言葉は出なかった。嫌なのだ。怖いのだ。だがタキももう何をすれば良いのか分からない。
「パウロ、ここに居て嫌がっても怖がっても何も出来ねえよ、それにエンリケのママに俺たちの声が聞こえてどうするんだよ」
「……」
パウロはようやく動く気になった。その時、後でまた妙な音がした。
「カアーッ、ペッ」
ベランダから二人を睨み付けていた老人が、痰をこみ上げて吐き出した。
~3~
「どうです、そのマニュアル」
「とても参考になります」
石原が運転する横で、助手席に座った草薙は、初めて職質のマニュアルと言うものを見ていた。草薙の見ている図版には、普通のサラリーマンの様な日本人の男と、薄汚いように誇張されたアジア系とでも言う様な男の図版が対比されるように載っていた。“薄汚い”方が日系人であると言う。
「八十年代の終わりから九十年代にガイジンどもが増えてから先輩達が作ってきたんだよね」
「バブルの頃ですか」
「そう、この辺りの自動車産業とか、何から何まで安い賃金でやれるからって、ブラジルの日系人とかに募集掛けたんだよね」
「はあー」
「それが今じゃ余計な奴らまで来て……大体、一度日本から出たなら素直に向こうで暮らしてりゃ良いのに」
「そんな事があるんですね」
「草薙さん、日系人だからって信用したり情け掛けちゃダメだよ」
「は、はい」
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