某さえずりクソSNSで色々な話題を見て、自分の過去を多少思い返そうと思った時、急に自分の小学校の時の思い出が蘇って来た。俺はそれを長々とクソSNSに書こうかと一瞬思ったが止めた(少しは書いた)。自分の高校生時代のハーフとしての政治的自覚体験はブログに書いたが、小学生時代の話はただの無謀な話である。それに自分で書いているうちにネット美談みたいな雰囲気になってしまうのも嫌だった。拡散しているうちに「美談」性を帯びるそれもあるが、その文章を書いている者の脳内の時点から「美談」に始まるものもある。しかし一度思い出したことは、高校生時代の事をブログに書いたように、文章に残したい。「自伝を自費出版までして残したがるジジイ・ババア」が嘲笑的に語られる事がたびたびあるが、俺なりにその老人の気持ちが分かる。ただ文章としてでなく直接昔話として聞いてる方が楽しい。でも自分の文章はどうしたものか分からない。しかし日常の「差別」が認めて下さるように明らかにハーフの事例は未だ特殊だし、思い出せる限りの内容は破滅的なので、どこかのハーフの役に立ったり、直接的にでなくても保守派を怒らせられる可能性だけに寄り添って「破滅派」に書くことにした。
俺は書くにあたって、小学校時代の連絡帳を探そうとしたのだが、見つからなかった。あれを見ると、一番最悪だった時期の様子が教師や親の目から分かるのだが。仮に見つけて読み出せば、恥ずかしさだのあるいは虚無感だのに襲われて頭を抱え悶える様な事になると分かってはいるが、どうしても見たかった。しかし見つからないので仕方ない。記憶だけで書くことにした。
発端 精子と卵子がゴッツンコしてから
俺は関東某県で死に掛けているハーフ、混血である。母親は南米出身で、多分経済的思惑だけで親父と悲惨な結婚をし、日本にやってきて、今もって非常に理由が分からないのだが俺を生んだ。生まれた場所は、外国人でも安心して出産出来るようなサービスの整った高級な病院だった。それで、俺が通った幼稚園も、当時としては非常に多文化的教育方針で、分かる限り争いの芽が詰まれた様な幼稚園だった。俺は幼稚園を卒園するまではこの様に清潔な環境で育った。ただし経済的には全く見合っていなかった。外国人と結婚し子供を生めばこう言う問題も起きうるのだと知っておいて貰いたい。
外見が廃墟みたいな賃貸マンションと精密機器工場みたいな幼稚園を往復していたのが、小学校に入学すると、外見が廃墟みたいな賃貸マンションと廃墟に一応電気がついてるようなだけの公立小学校の往復になった。一気に周囲の環境は“平常”になった。それが俺に本来見合っていた環境だった。それでも小学校一二年は平和に過ごせる。俺は子供にしては体格が大きかったし、地元の幼稚園だの保育園だのの繋がりと全く外れていたので、「こいつは目下に見ていい奴だ」と言う判断が子供心に働かなかったのだろう。俺はこの時何をしていたのか良く覚えていない。
Juan.Bはクソガキである
しかし、小学校三年になると、社交的な生徒ならみんな身の回りの全てが分かり始める。Juan.Bは図体がでかいがまったくのウスノロで、それにハーフと言うのが「バカにされるべき」属性、と言う事が、小学校三年のクラス中に広まったのだろう。小学生のやる事だから、予想が付かない。発端なんか良く分からないが、ある日、急に、スクールカーストとでも言うべき基準の中で俺の地位が暗黙の内に引き下げられて、俺への嫌がらせやちょっかいが始まった。急に後から紙球を投げられたり、「Juan菌が付いたー、うぇ~」とか言う擦り付け合いが始まったり、子供が良くやる一通りの遊びで俺にばかり“鬼”の役割が任されるようになったことを覚えている。それで、捕まえると「バリア」とか言い出すのだ。
これをイジメと書かないのは、俺もクソガキだったからである。それまで純粋培養状態だったのが、急にこんな初歩的な嫌がらせに合う様になり、俺は素直にキレはじめた。自分では殆ど喧嘩と言う喧嘩をした事が無いのに、両親は常に喧嘩をしているから、歪な教育効果を受けたのだと思う。もう顔を真っ赤にして泣き喚きながら相手を追いかけた。それで捕まえられて一対一なら、確実に俺の方が体格は上なのだから勝てる。しかし、俺に味方はいない。こう言うときに味方になってくれる友人など居なかったので、常に俺は五対一とかで虐められ、敗北し続けた。
詳しい年代など書かないが、今から見れば当時はようやく「虐め」が学校問題以上に社会的問題とされ、またついでに言えば「発達障害、ADHD」と言ったワードも保護者レベルに浸透し始めていた時代だったと思う。俺はクソガキだったので素直に親に泣きついた。だが俺の父親は「やられたらやり返せ」「多少やんちゃな方が良い」論者だった。一方母親は、日本語が喋れない故に実害がないモンスターペアレントの様なもので、「ウチの息子のクラスを変えさせる様に教師に言え」「学校にもう金を払う必要はない」とスペイン語でまくしたて、両親間でまた喧嘩が起きた。書いておくが、母親の態度は、息子を第一に思っての言動ではなく、「イエ」の面子を第一にしての言動である。息子が虐められて、それで普段地域社会にあまり関ってもいない我が家の面子がどうなるとは思わないのだが。この事だけは両親が前に話を掘り返した事があるので覚えている。
参考にしたかった連絡帳についても触れておこう。前述したとおり連絡帳は残っていないが、多分小三と小四のときの教師からの記述欄には、「今日も○○君と喧嘩した」「今日は四時間目から保健室に居た」みたいな記述が多くあり、また小三の時には教師から幾分同情的な評価が寄せられていた。放課後に担任とあと一人別の教師と三人きりにさせられて「とにかく怪我させちゃいけない」「先生も注意するが我慢も大事」みたいなことを言われた覚えがある。しかしそれは子供にとってどうにもならない。だが、また小学校として「喧嘩両成敗」と言う教育をせざるを得ない雰囲気もあるのだろうなと今は感じる。勿論この学校内での嫌がらせが社会の差別に明確に繋がっている点もある。非常に複雑な気分である。
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