藍山絶人

小説

2,945文字

眠れぬ夜を過ごす善良なる紳士淑女賢童犬猫その他哺乳類の為の暗黒童話。高校生の頃の習作です。

泥。それは土よりも色褪せて砂よりも濃く。沼よりも心強くだが煉瓦よりも頼りなく。

 

その上を僕は歩く。ただ歩く。ぎゅっと踏み締めるには柔らか過ぎて、そのまま埋もれていくには粘り過ぎる。僕はサンダルすらも履いてはいないが、粒子の細かな粘土質の土壌には小石どころか雲母の欠片一つ無く、だから裸足でも怪我はしなかった。

豊饒の太陽は薄墨色の膜に包まれて、腐りかけた卵の橙色。地を這って吹く風は蜥蜴の吐く息みたいにねっとりと生暖かい。といってその僅かな湿り気で喉の渇きを癒そうとしても無駄な事だ。ひび割れた唇は血も滲まぬ程に、二つの眼は一筋の涙も零れぬ程に、ひりつく咽喉は喘ぎ声も出ぬ程に涸れ果てた。

無情にも拍動を続ける心臓と、それに少し遅れて僕の足音が物悲しい行進曲(マーチ)を奏でる。見渡す限りの泥の海は凪の浜辺の様に真っ平ら。辞書で引いた荒涼よりも、もっとずっと不毛だ。どれだけ目を凝らしてみても、泥の上には拳大の岩どころか一匹の糸蚯蚓すら在りはしない。四方に広がる地平は僕を閉じ込める壮大な丸い檻だ。振り返れば赤茶けた泥から滲み出た濁った水の溜まった足跡だけが、過ぎ去った時間を濘るんだ大地に刻んでいる。

果たして此は地獄だろうか。厳めしき神が定めし物ならば、この罰に相応しい罪が在ると云うのだろうか。

人が背負うには重すぎる絶望に僕の足が萎えないのは、微かな〝希望〟があるからだ。いや、希望と呼ぶには残酷過ぎる。遥か地平の彼方、遠く南の果てに見えるそれは、眼の焦点をしっかりと合わせなければ霞んでしまう程なのだから。泥の海に浮かぶ何か。ただの土の塊かもしれないし、もっと意味のある物かもしれない。今は何も判らない。それはだが確かに僕と泥以外の何物か、僕が徒に歩を進めている訳では無い確かな証なのだ。僕の眼は〝希望〟を向く以外の一切を拒否してしまった。もしかしたら地面を平らに(なら)したのはこの厄介な風ではないのかもしれない。〝希望〟を追い求めた先人達の、幾重にもなった足跡なのかもしれない。そんな空想が靄の掛かった頭の中に浮かび上がる程に、僕は焦がれた。

そして贋物(まがいもの)の太陽すらもやがては沈んでしまう。すぐ右手の地平へと呑み込まれるその間際、毒々しい赤が地面を染め上げたかと思えばすぐさま左手から現れた黒へと差し替わる。風は酷薄さを一層増して、肌を裂く冷たさで僕を責め苛む。寒さから僕を守るはずの服は繿褸(ぼろ)(ぬの)同然で、何の役にも立ちはしない。空気が下ろし金の様な質感を伴って、僕の横をすり抜ける度に皮膚を細かに削ってゆく。唸りを上げる風音に心臓の行進曲は掻き消される。まるで老婆の金切り声だ。ラスコーリニコフはこの声を聞いたのだろうか。この大地に接吻(キス)をする気にはどうやらなれそうもない。

一日の半分の闇の中を、不愉快な陽の下と変わらずに僕は歩く。最後に眠ったのはいつの事だったろう。澄み切ってそれでいて星一つ無い空に浮かぶ月は死んだ魚の瞳みたいに白く濁って、僕を睨みつける。だから〝希望〟さえも夜の闇に塗り潰されてしまう。だが僕の眼は見えないはずのそれをしっかりと捉えているのだ。乾いてかさついた網膜をフィルムの代わりに、ネガと焼き付いているのだから。咽喉の渇きよりも強い渇望を糧に、僕の足は泥を蹴る。

幾つもの昼とそれと同じ数の夜とが過ぎて、何一つ変わる事無く僕は〝希望〟へと歩き続ける。足の感覚はもはや消え失せた。泥に爪先がめり込み、前に倒れる躯を支える様に一歩一歩を繋いでいる。それでもまだ地平との距離は一向に縮まらない。始まりは何だったのか。僕が踏み出した最初の一歩は、何処からだったのか。記憶はこの忌ま忌ましい太陽の輪郭の様に曖昧だ。そもそも始まりなど在ったのだろうか。終わり無い歩みの中ではそれすらも疑わしかった。

そしてまた陽が昇り月が昇った。陽が沈み月が昇るのか月が沈み陽が昇るのか。もはや忘れてしまった。生きる為にも僕は歩いた。腰を一旦降ろしてしまえば、そこが僕の乾いた墓標となるのだろう。

在る夜明け。風は前の夜よりも厳しく吹き荒れて僕の枯れ枝になった躯を打った。その場に崩れ落ちない様に、肉の落ちた背中を丸めた。浮き出た肋骨は薄い皮膚を突き破らんばかりだ。沈み行く月が憎らしげに僕を一瞥する。

すると僕は、アッと驚きと感嘆の声を上げた。大きく膨らんだ風船が割れた様な、潰れたはずの咽喉からはびっくりするぐらい大きな声だった。濁った太陽が照らし出す〝希望〟。夜通し脳裏に描いた姿よりも、ほんの僅かに、大きかった。

遂に時が訪れたのだ。いつの間にか駆け出していた。何度も泥に足を取られて、前のめりに僕は走った。心臓の強拍と地を蹴る弱拍は狂喜の円舞曲(ワルツ)だ。追い求めた地平が今は僕へと迫ってくる。

そして辿り着いた僕は初めてその足を止めた。僕の目にした〝希望〟は、僕の背丈と同じくらいこんもりとした泥の塊だった。小さな丘の様にも見えるが、ただそれだけだった。引き摺る様な足取りで裏へと回れば、その先には今までと同じ地平が広がるばかりだ。胸中の期待が僕の唇に「嘘だ」と呟かせた。

萎びた目を凝らすと、塊から何かが飛び出しはためいている。その何かに僕は息を呑んだ。ぴらぴらと風に揺れる布の端は、僕の躯に引っ掛かっているものにそっくりだったから。そして恐る恐る近寄ると、震える手で泥の表面を払った。

地面から離れて少しばかり乾いた泥は、メレンゲみたいにザラザラと崩れ落ちた。ああ、やはり。中から現れたのは一人の男の顔。髑髏に皮を貼付けたみたいに痩せた顔は蝋燭みたいになって半分方溶けている。この丘の何処の泥を拭っても、きっと同じ顔をした男が眠っているのだろう。そして僕もきっと同じ顔をしているのだろう。彼等はみんな、明日の僕だ。僕はやれやれと膝をついて丘にもたれ掛かった。詰まりは此が墓標と云う事だ。

静かになった丘には、時折昨日の僕が訪れる。一人、また一人と。不思議と誰もその行く道が交わる事無く、誰もが神聖な孤独を保ったままだった。もっと遠くからでも誰かが見つけられる様に、もたれ掛かる僕達は〝希望〟の糧となって丘の裾野を広げていく。陽の光は干涸らびた遺骸を焦がさぬ様に、夜風は僕達が埋もれ切らぬように泥を掃ってくれる。どんよりとした月の瞳も今はどこか優しげに見える。

孤独を両肩に乗せて歩いた日々を忘れ去る程の歳月。上に積もる泥が、僕達の重みがその永さを教えてくれる。泥の上に広がる肉の丘。その裾野と裾野が出会う日はいつか必ず訪れるだろう。その時、きっとその時だ。幾千幾万幾億の孤独を慈しんで、月は涙を流すだろう。太陽は罪深さを省みて、その曇りを拭い去るだろう。慈悲の雨と救いの陽と、地に横たわる孤独を糧に、新たな命が芽吹くのだろう。

そしてそして、不毛である事を止めたかつての荒野を歩く孤独である事を止めた一人の僕は、この丘の頂に辿り着く。彼が、いや僕が、いや僕達が、丘の上に突き立てる十字架は、幾千幾万幾億もの罪人達の墓標の在りかを示すのだ。

 

何の事は無い。

 

此は果たして天国だった。

2010年8月8日公開

© 2010 藍山絶人

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