さよなら、よりも

SN

小説

9,418文字

――喉が潰れる位に、何度も何度もさよならを叫ぶ。ようやく、あの人の元へ行こうと決意した時、すでに一年という時間が経っていた。雨の降りしきる中で、主人公は一人の女の子に出会う。純文学、短編。

喉が潰れる位に、何度も何度もさよならを叫ぶ。

しかし、いくら別れの言葉を口にしても、自分の中からあの人の思い出が消えることはなかった。むしろ、月日を重ねるごとに、あの人の記憶が自分の中で、色合いを増していく気さえしていた。

三六五日を繰り返して、身体だけが年をとる。そうして、二十四歳の身体をした僕が、今現在を歩んでいる。しかし、僕の中身は一年前の六月のあの日に、置き去りになったままだ。だから、僕にとっての時間というものは、身体を素通りしていく空気の流れだ。

あの人の墓に行かなくてはならない、と思っていた。しかし、どうしても行くことが出来なかった。あの人の死を認めたくない、という僕自身のエゴが行くことを押しとどめていた。

しかし、時間は無情にも過ぎて行った。傷をいやすには時の経過を待つしかない、というのは本当のことだった。

彼女の死から一年、僕はようやくあの人の眠る場所へと行く決心を固めていた。

 

 

目覚まし時計のベルの音とともにベッドから起きて、歯を磨く。スーツに着替えて、「いってきます」と声をかける。しかし、返事はなく、僕の挨拶は誰もいない部屋に消えていくのだ。それが、毎朝の日課だった。

仕事を午前中で切り上げて、目的地へ向かう電車に乗り込んだ。車内には僕の他に数えるくらいしか人が居なかった。僕は真向かいに誰も居ない席の真中に、体の横へ荷物を置いて座った。黒い傘の柄をいじりながら、目的の駅までの時間をつぶす。指紋跡の残った窓ガラスを通して、遠くの景色に目を凝らした。薄灰色の雲の上にある太陽は、地上を白い光で照らしている。三角四角の屋根が立ち並ぶ家屋の中を、電車は走る。やがて、家々の数は少なくなり、平野に森や畑が広がる様になる。

途中の駅でも人はあまり乗って来なかった。乗ってきたとしても、僕が降りる前に、皆降りて行ってしまった。目的の駅まで、まだ距離があったので、僕は眠ろうと思って眼をつむった。

あの人の居なくなった当時、毎日十分に眠れない日が続いていた。布団に入ると、彼女の気配が近くにある気がして、うっすらと目を開き、それから朝までその状態が続くのだ。友人に薦められて、カウンセリングを受けたり、睡眠薬を飲んだりもした。一時的に眠れるようにはなるが、長くは続かない。眠れないのが辛くなって、酒を口に含む。すると酒がないと、朝も夜も来なくなってしまう。そうして短い眠気を拾い集めながら、僕は朝までの時間を過ごすようになっていた。

子供のころは電車に乗って座ればすぐに寝ってしまったのに、と思う。結局、眠ることが出来なかった僕は、電車を降りた。

 

駅から歩いて目的地へと向かう。都心から離れたこのあたりは、昔の小説でもよく描かれる位に緑が豊かだ。描かれた当時ほど自然は残っていないが、所々に林がある所に、昔の面影を感じる。彼女の墓は、深い森の近くの霊園にあった。

 

霊園に行く途中で花屋に立ち寄った。

「そこにある菊の花を、包んでください」

愛想のよいおばあさんが、黄色い菊の花を丁寧に包んでくれた。僕は礼を言って出ようとした。ふいに視界の隅に映るものがあった。黄色い薔薇の花だった。

しばらく薔薇の前で立ち止まっていると、「包みましょうか?」とおばあさんが僕に声をかけた。僕は一瞬ためらったのだけれど、「はい」と返事をして、代金を払おうと、財布に手をかけた。

「いいのよ、お金は要らないわ」

「でも……」と言って、僕は財布を開き、千円札を取り出した。

おばあさんは僕の千円札を持った片手を、そっと両手で包んだ。皺が沢山刻まれた、小さくて薄い手だった。僕は久しぶりに他人の手に触れたような気がした。それは、温かく、心地のよいものだった。僕は、おばあさんの顔を見た。

「ここの花屋に立ち寄る人たちは、大抵の人が霊園に行くのに菊の花を買うわ。でも、あなたが渡したい花は、たぶん、菊の花ではないのでしょう?」

おばあさんはそう言うと、眼尻に皺を寄せて微笑んだ。そして、僕の手を放して、黄色い薔薇の花を何本か手に取った。

「どうしてわかるんですか」

「午前中にも、あなたよりひとまわり位年上の男の人が、白い菊の花と黄色い薔薇の花を買っていったの。その人も、しばらく薔薇の花の前で立ち止まっていたわ、今のあなたと同じように」

僕の脳裏に、喪服を着た細い背中が蘇った。彼女の名前を呼びながら、その背中が小刻みに震えていた事を、今も僕は覚えている。

おばあさんは僕に薔薇の花束を手渡すと、「私も、一人になってから随分たつからねえ」と言って、壁際にかけられた額縁をみた。そこには、夫婦とみられる二人の若い男女が、幸せそうに微笑んでいる白黒写真が収まっていた。

僕は気の利いた言葉を言うことも出来ずに、ただ「ありがとうございます」と言った。そうして菊の花と薔薇の花を小脇に抱えて、店を出た。

 

湿気が多いせいか、霊園にある樹には、所々に苔が生えていた。一本一本の木が都心にあるものよりも、ふたまわりくらい大きくて、幹がしっかりとしている。下から見上げると、無数の枝が上に伸びていて、木の葉が空を覆い隠すくらいに、暗く広がっていた。生温かい風が僕の頬を撫でる。葉の一枚一枚がお互いにぶつかりあって、木々全体に音を鳴らした。

静かだ、と思った。この場所には、生きているものよりも何ものでもなくなったもののほうが多いのだ。

ふいに冷たいものが鼻先にあたった。ぽつぽつと、雨が降ってきていた。僕は片手で傘のボタンを押して広げた。傘は音を立てて開き、黒い布で僕の頭上を雨から守った。次第に雨は勢いを増していった。

 

ぬかるんだ土に、足を滑らせそうになりながら、ようやくあの人の墓の前にたどり着いた。そこには、すでに先客が来ていた。

その先客とは、一人の少女だった。

少女は頭から足の先まで、全身を雨に晒していた。雨は僕の傘を貫くように、その勢いを増してゆく。しかし、僕はすぐに少女の元へと駆け寄って傘をかざしてやることが出来なかった。

少女は、降り注ぐ雨に服の色を一層濃くしながら、空を見上げていた。歯を食いしばり、ぎゅっと目を閉じて、手に握りこぶしを作ったまま。肩で切りそろえた黒髪は、髪の先に水玉を垂らす位に濡れていた。小学校からの帰りなのだろうか、赤いランドセルを背中に背負ったまま、彼女はその場にしっかりと立っていた。

僕は、急に自分の立って居る場所が急に歪んだ気がした。そして、その場に立ちつくしたまま、少女の姿に目が釘付けになっていた。普通だったらすぐに駆け寄って声をかけ、風邪をひくから傘に入りなさい、という所だろう。

僕には、それができなかった。少女の姿に、ただ圧倒されていた。

 

身体が思う通りに動いたのは、雨が小ぶりになり始めてからだった。少女がこちらをじっと見ているのに気がついた。僕はようやく少女のもとに駆け寄って、傘をかざした。

「大丈夫?」と、お決まりの台詞しか言うことの出来ない僕に、少女は「すみません」とかすれた声で答えた。肩が小刻みに震えていた。髪からは水が滴り、服は全身ぐっしょりと雨に濡れていた。

見ると、少女は片手に黄色い傘を持っていた。

「どうして傘をささなかったの」と僕は尋ねた。もっと聞くべきことは他にもあったはずなのに、なぜかそんなことしか僕には尋ねることが出来なかった。

少女は俯いたまま答えなかった。

雨は降り続けた。

 

あの人の墓の両脇には、立派な白い菊の花が一輪ずつ供えてあった。僕はその横に、自分が持ってきた菊の花を、控えめに差した。まさか自分が生きているうちに、「あの人」の元に菊の花を贈るなんて思ってもみなかった。僕は、そんな心の内を少女に見透かされている気がして、花をそえる一挙一動に平静を装うことに精いっぱいになっていた。

「そっちの花はどうするの?」と、急に少女が僕を見上げて尋ねた。僕は驚いて、返事をするどころか、少女の顔をじっとみつめてしまった。

小動物の様な黒目がちの目が、僕の姿を映していた。その目は、昔の記憶を揺さぶり、僕を混乱させた。

「これはね……これは」

僕は、花屋のおばあさんから貰った黄色い薔薇の花をどうしたらいいのか分からなくなってしまった。僕は一体何のために、この花を脇に抱えて花屋を出てきたのだろうか。脳裏に、おばあさんの午前中にも男の人が花を買っていった、という台詞が蘇る。この花は、僕があげていいものだろうか。僕には、その資格さえ、持っていないはずじゃないのだろうか。

僕は少女の目から顔を逸らし、薔薇の花の黄色を見た。

「これは、僕が大事にしていた人の好きな花だったんだ」

少女の目線が、僕の顔を見続けているのが分かる。少女の目は、僕のそのままの姿を映し続けていた。

「その人は、今どこにいるの?」

「どこに居るのだろうね、……本当に」

すると少女は、僕のスーツの裾をぎゅっと掴んで言った。

「このお墓の下に眠っているのは、私のお母さんなの」

語尾を震わせて、少女は続ける。

「去年、突然小さな箱になって帰って来た私の……」

少女はそこから先の言葉を言うことができなかった。

そうだ、一年前のあの日に彼女は箱に収まる位、小さくなってしまった。人間が死んだら、これだけしかこの世には残らないのだな、と思ったとき、僕は自分の体の真ん中に、大きな穴が空いてしまったような虚無感を感じた。

一目見て、憧れて、追いかけて、そして恋をした。そんな彼女の末路がこんなに小さな箱だなんて。

僕の目には、小さくなって今にも泣きだしそうな少女の姿と、先ほどまで雨に打たれ、空を仰いでいた少女の姿が、まるで一致しなかった。雨に打たれた少女の姿は、あんなにも美しく、そして強さを感じたのに。今、僕の視界の隅で震えている少女は、儚くて、今にもぼろりと砕けてしまいそうな位弱々しかった。

「あの人」の子供の見せる、その表情や感情の激しさに、僕は再び混乱した。なぜなら、少女のそういった面が、あの人にあまりにも似ていたからだ。

「君は……その、君のお母さんによく似ているね」と、僕は慎重に言葉を選んで言った。しかし、どんな言葉も、泣いている少女の慰めにはならないと思った。

聞こえるか聞こえないかの声で「おかあさん」と呟くと、少女は抑えていたものが溢れ出したかのように、わっと泣き出した。

雨は再び勢いを増した。少女の泣き声が聞こえなくなる位の激しい雨の音だけが、僕の耳の奥に響いていた。

 

少女が泣き止むと、雨も不思議なことに小雨になった。

少女は目をこすりながら、「花」とつぶやいた。

「花、お母さんにあげて。私はお母さんがこの花が好きなこと、知らなかったの」

「僕があげていいの?」

少女はこくりと頷いた。

僕は少女に傘を預けると、灰色の石の前にそっと薔薇の花束を置いた。次第に小降りになりつつある雨は、僕の頬を静かに濡らした。

僕は「あの人」の墓前で、手を合わせた。灰色の石は雨に濡れ、てかてかと光っていた。残骸だけが残った線香。花びらの間に雨水を弾かせた白と黄色の菊の花。それから、四角く削られた石の真ん中に彫られた、「あの人」の名前。

僕は、瞼の裏の闇を見ながら、様々なあの人にまつわる記憶を思い出していた。

 

あの人、は当時僕が付き合っていた女性だ。彼女とは、大学のインターンシップで行った会社で出会った。「恋愛は障害があるほど盛り上がる」という定説がある、そして僕はその説へ、見事に一致してしまう男だった。インターンシップでは、僕の大学を出た優秀な社員として僕の目には映っていた。しかし、日が経つにつれて、僕の中で彼女は社員ではなく、一人の女性として映っていた。「彼女には相手がいる」と、何度も自分に言い聞かせた。しかし「それでもいい」という結論が、僕を生温かい温度で覆った。

そして、インターンシップの最終日に告白したその日、僕には新しく「愛人」という名称がつき、僕達の交際は「不倫」という名称が、世間から名づけられた。

彼女には、夫と一人の娘がいた。

何年もの間、彼女の夫は具合が悪かった。仕事による過労が原因だった。病名は重度の潰瘍性大腸炎、原因は明らかになっていない病気で、国から難病指定を受けているものだった。一度、写真で彼の姿を見た時は、筋肉質で肩幅が広く、おおらかそうな印象を受けた。しかし、彼女の話によると、今はその面影は残っていないという。

あの人の子供は、小学校に入ったばかりだと聞いていた。ランドセルはどうしても新品がいいと言われ、節約のため近所の中学生からのおさがりを断念し、誕生日に買ってあげたこと、家の中でも子供がそのランドセルを背負っていたことを、嬉しそうに話した。そして、病室で誕生日会を開いたことも。

彼女があまりにも、自分から家族の話をするものだから、僕は、終始複雑な心境でいた。

しかし、僕は彼女に一度だけ、子供はさびしい思いをしているのではないか、と尋ねたことがあった。すると、彼女は「でも、私が働かないとだめになるから」とだけ言った。それきり、僕は自分から、彼女の家庭の事情を聞くことをやめた。

その日、僕達は、都内のあるビジネスホテルに二人で泊っていた。

「僕と、今こんなところにいてもいいんですか」

「それは、あなたには家族がいるのに、どうして自分なんかと居るのかってこと? それも、遠いところに行く前に」

「はい」

翌日、彼女は、会社の都合で翌日の飛行機便で二ヶ月間の間アメリカに飛び立つことになっていた。子供は、自分の妹に預けるらしかった。

「私ね、彼に、あなたのこと話したのよ」

彼女はそう言って、僕の手の甲を人差し指でなでた。僕はそれを見ていた。

「あの人も、もう長くないから」

あの人、と僕はその言葉を頭の中で反復させた。その言葉が、僕の前では色彩を欠いた希薄なものに聞こえた。それは、死を間近にした人間に対して使う呼称だと思った。彼女は続けた。

「元気だったころのあの人に、会いたいな」

そう言った彼女の目が、僕の知らない遠くの場所を見つめている気がした。

今、僕と彼女はベッドの端に座り、鏡の前で寄り添っているのに、彼女はどこを見ているのだろう。目の前には、鏡しかないのに。彼女は鏡の中の、自分のとなりに座る男に、誰を投影しているのだろうか。

僕は「そうですか」と言って、彼女の手の上から、自分の手を重ねて、彼女の横顔を見つめた。彼女は正面を見たまま言った。僕も再び正面を見た。

「私の今の発言を聞いて、さびしいとかは思わないの?」

「僕のことはどうだっていい」

「本当にそう思える? 馨君」

そう言って、彼女の顔が、素早く僕の方を向いた。その時の彼女の目は、確実に僕を映していた。

あの人、ではなく馨という名前を呼ぶ。その言葉の先にあるのは、まぎれもない僕自身だった。

「無理を、しなくていい」

「無理をしているのは、あなたのほうじゃないんですか」

彼女の長いまつ毛に縁取られた、さびしげな瞳が近づく。

「私達、お互いにさびしがり屋なのよ」

そう言うと、鏡の中で、彼女は一人の男に口づけをした。舌が、何かを貪り、そして探すように僕の口内へ割って入ってきた。舌先で貪り、何かを貪欲に求めるように、僕の奥歯を舐め、歯茎をなぞる。舌は、彼女を離れた一つの意志だった。僕は薄眼を開けて、そんな彼女の様子を眺めていた。

彼女の目蓋が、朝日を浴びた花の様に、ゆっくりと開き、僕と目が合った。すると、大粒の涙が一筋零れ落ちた。滴は次々とシーツに落ちた。彼女は項垂れて、聞こえるか聞こえないかの音量で「うう」と唸った。

その声が、いつまでも僕の耳にこびり付いて離れなかった。

そして、翌日、彼女は突然居なくなった。

テレビに、彼女の名前がテロップで表示される。その四文字の名前が、無表情に彼女の呼称を表していたものだから、僕は一瞬、自分の付き合っている人間の名前を忘れてしまった。脳内で、もう一度彼女の名前を確認する。それから、筆をとって紙に彼女の名前を書き記そうとする。しかし、手が震えてどうにも上手くペンが持てない。携帯を手に取り、電話をかける。携帯の画面には、彼女の名前が表示されている。指先で、通話ボタンを押す。携帯番号が表示され、僕は耳に携帯を押しあてる。どうしてだろう、受話器からは彼女の声は聞こえず僕の心臓の音ばかりが聴こえてくる。あっけにとられていると、固定電話の電子音が鳴り響いた。お願いだ、嘘だと言ってくれ。そう願いながら、恐る恐る受話器を手に取った。

「もしもし」

男性の低い声。僕はその応答を確かめる声が、僕に向けられたものではない気がして、何も言わないでいた。その声は、どこか遠くの方から聞こえて来ていた。そして、この電話が繋がっているところは、どこか別の場所にある気がした。

「もしもし、江澤馨さんでしょうか」

その名前が、僕という人間を表す呼称であることに、疑問を感じた。僕は、江澤馨という人間であるのか、でもそれは事実なのだろうか。僕は訳が分からなくなって「はい」と答えた。自分の発したその声があまりにも擦れているのに驚いた。

「妻が、死にました」

それだけ言うと、男性は受話器の向こうで嗚咽を漏らした。僕は受話器を床に落とし、その場に立ち尽くしていた。受話器からは昨晩聴いた唸り声よりも、幾分、夕空に吠える犬の遠吠えに似ていた。

それ以来、僕は涙を流す場所を失った。感情を身体に露呈するという行為が出来なくなった。もし、揺れ動かされそうになっても何かが僕をそうさせなかった。あの人の死は、確実に僕に影響した。そして、一年間、僕の中の時間を止め続けた。

 

 

「お母さん、喜んでいるかな」

その言葉に僕は目を開いた。少女は僕の隣で、合掌し目を瞑っていた。その横顔は、あの日の彼女を彷彿させるものだった。ふいに脳裏に彼女の体温、匂い、息遣いなど、あらゆる記憶が過った。一瞬、体がそのまま前へ倒れそうになる。それを堪えて、僕は目を固く閉じて、少女の隣で再び合掌した。

それはただ、僕自身が落ち付きたくて手を合わせた、自分のためだけの合掌だった。

その日、家に帰ってから電話をかけた。

何度かの呼び出し音の後に、「もしもし」と相手が出た。僕が名乗ると、彼は「ああ、君か」と、声のトーンを少し下げて言った。

「今日、娘さんに会いました」

僕は緊張して、そう切り出した。彼は「ああ」と、ため息に近い声で呟いた。

「あの子は、家内に似ているだろう、」

「そうですね」

沈黙が流れた。とても、重く静かな時間だった。僕は目を閉じて、受話器を耳に強く押しあてた。

「……家内が、死ぬ前に僕に持ってきてくれた花があるんだ」

沈黙を破ったのは、受話器の向こう側だった。僕はそれを聞いて再び緊張した。彼は続けた。

「家内は、今まで私の病室に何度も足を運んでは、様々な花を持ってきてくれた。でも、その日は妙に嬉しそうにして来た。そして、薔薇の花を花瓶にさしていった。どうして、薔薇の花なんだ、と思うだろ? 女が男にやる花じゃない。私はその花は貰いものじゃないのか? と聞いた。そうしたら、私は遠くに行ってしまうから、私の大事なこの花を枯れるまであなたが見守っていて、と言うんだ」

それから彼は、あの花は君があげたものなんだろう、と言った。

僕は何も言わなかった。彼は続けた。

「私は今日、その花を買っていった。逆かもしれないけれど、最後に、私が家内に貰った花だからね。でも、墓の前に来た瞬間、これは私があげるべきじゃないと思った」

「でも、僕は迷いました。今日あの人に、またあの花を渡していいものかと。その権利は、僕にはないと思った」

僕は、言ってはいけないことを言ったと思って、口をつぐんだ。でも、この人の前でないと、言えない気がした。言葉が溢れだしていた。どうやらそれは、止められそうになかった。

「誠二さん、僕は、一年間ずっと考え続けてきた。何をしていても、あの人の影が頭のどこかにこびりついていて離れないんです。そしてその影が、僕にどうして生きているんだって問うんですよ。

そうすると、僕はその場で叫びだしたくなる。でも、叫べないじゃないですか、そんな仕事場で。道端で。駅の中で。電車の中で。でも、僕はいつだって彼女のことが離れない。だから、いつも叫びたくなる衝動をおさえる。そのたびに、僕は自分の一部が死んでいく気がする。そうすると、また一つ彼女に近づいた、そう思ってしまう。

僕は、幸せそうに笑っている人間が怖い。どうして彼女が死んで、僕がこんな状態なのに、彼らは平気で笑っていられるんだろうって。僕は自分が笑っているのに、ちっとも嬉しくない。だって、僕が笑わせたい人は遠くにいて、別の場所で冷たくなってしまっているのに。

だから、僕は彼女のことを忘れようと思って、いつも別れの挨拶をするんです」

僕は一気に自分の奥に溜まっていた事をはきだした。それは、思っていたよりも自分勝手で、都合のいい言葉ばかりだった。僕は、もうこれ以上は話せないと思った。すると、彼はこう言った。

「家内がね、自分には年下の愛人がいるんだ、と僕に告白した時、すごく悲しかった。自分なんか、居ても居なくても彼女にとっては変わらないのだと思ったよ。それでも、彼女は毎日のように僕の所へ来てくれたんだ。お人よしな考えかもしれないけれど、彼女が沢山の人に愛されたということを、今では、とても幸せに思っているんだ。

私は、家内が亡くなってから、不思議と気持ちがしゃんとした。それから、自分が子供を守っていかなくては、と強く心に決めたんだ。病は気から、というだろう。僕は、病気の間、どこかで家内に甘えていたのだと思う。僕も、自分を責めた。のうのうと自分が病室で眠っている間に、家内は、飛行機事故で死んでしまったのだから。……馨君、君はまだ若い。そして、その年で背負うにはあまりにも重いものを背負ってしまった。でも、君はまだ、自分のために生きていいんだ。

君は、何も悪くない。そして、誰が悪いというわけじゃないんだ」

 

受話器を置いた後、僕は自分の頬が涙で濡れているのに気がついた。喉が猛烈に乾いていた。そのまま彼女の名前を呟いてみる。からからに乾いた喉は、その声を音にすることはなかった。

僕は、何度も何度も「あの人」の名前を呼ぼうとする。しかし、喉まで出かかったその名前は消えてしまう。そして「もう彼女は存在しないのだから」と、僕は自分に言い聞かせるのだ。それでもいつかは名前を呼ぶことが出来るのだろうか、と思いながら、僕は何度も「さようなら」を叫ぶ。

目蓋の裏にあの黄色を描きながら、僕は記憶の彼方へ遠ざかりつつある「あの人」の影を追いかけ続ける。そして最後に、あの人のことを、どうか忘れないでやってくれ、と言った男の声が、これからの僕を生かし続けるに違いない。

2010年6月23日公開

© 2010 SN

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