五
一人の支那人を囚えた、という報告を享けた織辺上等兵と石見上等兵は馬に跨って秋山支隊の幕営を訪うた。天幕を潜って這入ってみれば、慥かに一人の支那人が胡坐をして几帳面に地面に坐っていた。その支那人を、支隊長の秋山好古少将が細い鉄棒で組まれた椅子の上に坐っていた。体格の好い所為か、その椅子が小さく見えた。隣には一人の、面長な通訳が立っていた。腕を組んで俯瞰している少将の表情は、正に将軍らしき面持であった。寡黙で軍一の厳格さを誇るという風説は本統だったと織辺上等兵は驚いた。彼の口髯は、屹度堅く鋭いのだろうというのが、織辺上等兵が秋山少将を見たときの第一印象である。
この支那人は、幕営の前をのこのこと歩行き過ぎようとしていたらしい。織辺上等兵は、日本軍の幕営を平然と通り過ぎたというこの支那人の度胸を認めた。秋山少将は淡々と訊ねた。
「方向を考察するに露軍の方なのだが、頑なに喋舌ろうとしないし何か携帯している訣でもなさそうなのだがな……」
織辺上等兵は、沓を毀してみればと思ったが、支那人は草鞋を履いていた。
「露探*ではないのですか」
「そうでなければ囚えなどしないさ」少将は急に愛想を好くした。
すると、今まで剛情に口を開かなかった支那人が、織辺上等兵の顔をよく見てから忽然と言葉を発した。
「貴男は──慥かスゴロクと云う人でしたか……」
織辺上等兵は背筋の酷く凍りつくのを感じた。彼は支那語を知らなかったが、「スゴロク」という言葉だけは彼らの言語であった。顔も名も知らぬ支那人に己の名をボソリと呟かれることが、彼にとってどんなに怖ろしいものだったか──彼は一歩退いだ。
「貴男は今、大いに気になったでしょう。そうでしょう。屹度そう思った筈です、──いえ私には解るのです。何故、見ず知らずの支那人に己の名を知られているのか──」
支那人は、異様に達者な日本語を連々と述べた。その光景は恐怖そのものだった。薄ら笑いを添えた乱雑な顔──辮髪だけがせめてもの済いだった──を見た織辺上等兵は、今すぐにでも腰の軍刀を抜いて頸を刎ねたかった。その強烈な思いが抑えられたのは、今から支那人が語るであろう、先刻の発言についての真実を知りたいという、子共のような漠然とした欲求が、湧いて出てきたからであった。少将は通訳を下がらせた。
秋山少将は、この支那人を椅子に坐らせた。織辺上等兵と石見上等兵にも同じように着席を催促した。支那人は椅子に腰掛けてもまだ、その気色の悪い笑みを浮かべたままだった。少将は厳かに、徐ろに口を開いた。
「この歩兵の名を、見ず知らずのお前がどうして知っている? この軍の中にお前の知人が居るのか? お前は──」少将は途端に口を閉じた。そして、質問を変えた。
「否、先ずは名を訊こうか。どうにも、狭苦しいだろうしな」
支那人はその不敵な笑みを消さずに、ただ、「李」と呟いた。
「──李、お前は何故この歩兵の名を知っている?」少将は、この李という男に厭きたようだった。
「この陣中に知人が居るのは慥かです。さあ、解りますでしょうかなァ?」
織辺上等兵はこの気楽そうな支那人を前にして、どこか山田一等兵のような俤を捉えた。そうして不快き感情を得た。
「その者の名は──それで云わないのだろう」秋山少将はちょっと咾を低くした。
「ええ云いません」李は即答した。そうして下を向いて冷笑したかと思うと、「小日本*」とだけ呟いた。
織辺上等兵はカッとなって勢いよく軍刀を抜いた。彼は刃先を李の頤下に近付けながら怒りに撼えていた。石見上等兵が慌てて彼を抑えようとしたが、それよりも早く、秋山少将が左手で柔しく刃を降ろさせた。李は始終笑っていた。
「貴男はやっぱり倭人だ。倭の者共はこうでなくっちゃ不可ませんね」彼は乾いた嘲笑を挙げて、両掌を上げて、頸を秋山少将の方へ向けていた。少将も、さすがに顔を顰めた容子だった。
「黙れ! 支那の農夫風情が! さっきから静かに聞いていれば、少将への発言さえ痴がましい。日帝*を舐めるなよ、この身程不知め!」
織辺上等兵はまた刃を、今度は眼に向けて突きつけた。
「刀をお仕舞いなさい。どうせ私を殺す心算などないのでしょうから」
「そんな筈はないぞ。己は今にもお前の眼球を穿こうとしている」そうは云ったものの、しかし織辺上等兵も自らの言動に半信半疑であった。本統に、この男を殺せるのか? ──殺して了っては少将もお怒りになるだろう。兎に角、何かしら有益な情報を吐かせるまでは、殺しては不可ない、──そう決心して、彼は緩っくりと軍刀を降ろした。
「そうです、そうです」李は眼で刀を逐わずに、凝視っと織辺上等兵の顔を見ていた。咾は宥めるようだったが、眼が蔑んだ感じであったのには間違いはなかった。
「そう焦るな。此奴の無礼などはどうでも好いから、ほら、黙って聞き給えよ」秋山少将は織辺上等兵の肩を叩いた。織辺上等兵は口惜しそうに、乱暴に椅子に坐り込んだ。
秋山少将と李は暫く問答を続けた。少将が幾ら「お前と協力している背信者は誰だ」と訊ねても、李は話を逸らそうと孜めるだけで一向に応えようとしなかった。問答が駄目なら着包み全部剥ぐだけだと、少将は織辺上等兵と石見上等兵に李の衣服を全て剥ぎ取るように命じた。だがすぐに、彼の着ていた外套から、一枚の紙が落っこちた。それを開いてみると、ここの幕営に来る時刻と内通者の名前がくっきりと記されていた。──
「奉天、日帝ノ幟掲ゲシ東端ニアル幕営、三月朔日ノ暮レ六ツ、劉季昌、宋伯瑜、会ッタラスグニ帰レ」
秋山少将はこれを見て、ニヤリと笑うと二人を見た。
「これを、どう思うかね」
二人は何も解らなかった。少将は、
「先ず文が日本語だ。つまるところ、劉季昌と宋伯瑜は邦人だろう。三月朔日、これは明日さ。──李が、一体何のために予定時刻外にここに来た理由は存じ上げないが、明日の暮れ六つに──日帝ノ幟掲ゲシ東端ニアル幕営──ここだ。ここに背信者が来るだろう。己は総参謀長と一緒にここに駐まっているから、お前たちは李を──そうだな、軍曹の元へ連れて行け。拷問でも何でもするがいい。だが出来る限り吐かせてやって呉れ給えよ」
織辺上等兵たちは李を連れて幕営を出た。先刻の通訳が、少将から云われていたのか、金沢軍曹を連れてきた。織辺上等兵は李を軍曹に預けた。石見上等兵は、馬の手入れをしてくると云って、厩の方へ馳しっていった。
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