メニュー

旅順 五

旅順(第5話)

鷹埜狩月

一人の兵卒を取り巻く玉砕と名誉、戦友の死。戦争という獰悪な存在に漬け込んだ帝国主義に抗い続ける一人の兵卒を取り巻く苦悩と葛藤を描いた大作。

※第五十八回新潮新人賞

小説

2,609文字

     五

 

一人の支那人しなじんを囚とらえた、という報告を享うけた織辺上等兵と石見上等兵は馬に跨またがって秋山支隊の幕営を訪とうた。天幕を潜って這入はいってみれば、慥たしかに一人の支那人が胡坐あぐらをして几帳面きちょうめんに地面に坐すわっていた。その支那人を、支隊長したいちょうの秋山好古少将が細い鉄棒で組まれた椅子の上に坐っていた。体格たいかくの好い所為か、その椅子が小さく見えた。隣には一人の、面長な通訳が立っていた。腕を組んで俯瞰ふかんしている少将の表情は、正に将軍らしき面持おももちであった。寡黙かもくで軍一の厳格げんかくさを誇るという風説うわさは本統ほんとうだったと織辺上等兵は驚いた。彼の口髯くちひげは、屹度きっと堅く鋭いのだろうというのが、織辺上等兵が秋山少将を見たときの第一印象である。

この支那人は、幕営の前をのこのこと歩行あるき過ぎようとしていたらしい。織辺上等兵は、日本軍の幕営を平然と通り過ぎたというこの支那人の度胸を認めた。秋山少将は淡々たんたんと訊たずねた。

「方向を考察するに露軍の方なのだが、頑かたくなに喋舌しゃべろうとしないし何か携帯している訣わけでもなさそうなのだがな……」

織辺上等兵は、沓くつを毀こわしてみればと思ったが、支那人は草鞋わらじを履いていた。

「露探ろたん*ではないのですか」

「そうでなければ囚えなどしないさ」少将は急に愛想あいそを好くした。

すると、今まで剛情ごうじょうに口を開かなかった支那人が、織辺上等兵の顔をよく見てから忽然こつぜんと言葉を発した。

「貴男は──慥たしかスゴロクと云う人でしたか……」

織辺上等兵は背筋せすじの酷ひどく凍りつくのを感じた。彼は支那語しなごを知らなかったが、「スゴロク」という言葉だけは彼らの言語であった。顔も名も知らぬ支那人に己の名をボソリと呟つぶやかれることが、彼にとってどんなに怖おそろしいものだったか──彼は一歩退たじろいだ。

「貴男あなたは今、大いに気になったでしょう。そうでしょう。屹度きとそう思った筈です、──いえ私には解るのです。何故、見ず知らずの支那人に己の名を知られているのか──」

支那人は、異様に達者たっしゃな日本語を連々つらつらと述べた。その光景は恐怖そのものだった。薄うすら笑いを添えた乱雑な顔──辮髪べんぱつだけがせめてもの済すくいだった──を見た織辺上等兵は、今すぐにでも腰の軍刀を抜いて頸くびを刎はねたかった。その強烈きょうれつな思いが抑えられたのは、今から支那人が語るであろう、先刻の発言についての真実を知りたいという、子共こどものような漠然ばくぜんとした欲求が、湧いて出てきたからであった。少将は通訳を下がらせた。

秋山少将は、この支那人を椅子に坐らせた。織辺上等兵と石見上等兵にも同じように着席を催促うながした。支那人は椅子に腰掛けてもまだ、その気色きしょくの悪い笑みを浮かべたままだった。少将は厳かに、徐おもむろに口を開いた。

「この歩兵の名を、見ず知らずのお前がどうして知っている? この軍の中にお前の知人しりびとが居るのか? お前は──」少将は途端に口を閉じた。そして、質問を変えた。

「否いや、先ずは名を訊きこうか。どうにも、狭苦しいだろうしな」

支那人はその不敵ふてきな笑みを消さずに、ただ、「李り」と呟いた。

「──李、お前は何故この歩兵の名を知っている?」少将は、この李という男に厭きたようだった。

「この陣中じんちゅうに知人が居るのは慥かです。さあ、解りますでしょうかなァ?」

織辺上等兵はこの気楽そうな支那人を前にして、どこか山田一等兵のような俤おもかげを捉えた。そうして不快こころわろき感情を得た。

「その者の名は──それで云わないのだろう」秋山少将はちょっと咾こえを低くした。

「ええ云いません」李は即答した。そうして下を向いて冷笑したかと思うと、「小日本シャオリーベン*」とだけ呟いた。

織辺上等兵はカッとなって勢いよく軍刀を抜いた。彼は刃先を李の頤下あごしたに近付けながら怒りに撼ふるえていた。石見上等兵が慌てて彼を抑おさえようとしたが、それよりも早く、秋山少将が左手で柔やさしく刃を降ろさせた。李は始終しじゅう笑っていた。

「貴男はやっぱり倭人わじんだ。倭の者共はこうでなくっちゃ不可いけませんね」彼は乾いた嘲笑ちょうしょうを挙げて、両掌りょうてを上げて、頸を秋山少将の方へ向けていた。少将も、さすがに顔を顰しかめた容子だった。

「黙れ! 支那の農夫のうふ風情ふぜいが! さっきから静かに聞いていれば、少将への発言さえ痴おこがましい。日帝にってい*を舐めるなよ、この身程不知みのほどしらずめ!」

織辺上等兵はまた刃を、今度は眼に向けて突きつけた。

「刀をお仕舞しまいなさい。どうせ私を殺す心算つもりなどないのでしょうから」

「そんな筈はないぞ。己おれは今にもお前の眼球を穿こうとしている」そうは云ったものの、しかし織辺上等兵も自らの言動に半信半疑であった。本統に、この男を殺せるのか? ──殺して了っては少将もお怒りになるだろう。兎に角、何かしら有益な情報を吐かせるまでは、殺しては不可いけない、──そう決心して、彼は緩っくりと軍刀を降ろした。

「そうです、そうです」李は眼で刀を逐おわずに、凝視じっと織辺上等兵の顔を見ていた。咾は宥なだめるようだったが、眼が蔑さげすんだ感じであったのには間違いはなかった。

「そう焦るな。此奴こいつの無礼などはどうでも好いいから、ほら、黙って聞き給えよ」秋山少将は織辺上等兵の肩を叩いた。織辺上等兵は口惜くやしそうに、乱暴らんぼうに椅子に坐り込んだ。

秋山少将と李は暫しばらく問答を続けた。少将が幾ら「お前と協力している背信者はいしんしゃは誰だ」と訊ねても、李は話を逸そらそうと孜めるだけで一向に応えようとしなかった。問答が駄目なら着包きぐるみ全部剥ぐだけだと、少将は織辺上等兵と石見上等兵に李の衣服を全て剥ぎ取るように命じた。だがすぐに、彼の着ていた外套がいとうから、一枚の紙が落っこちた。それを開いてみると、ここの幕営に来る時刻と内通者の名前がくっきりと記されていた。──

「奉天、日帝ノ幟のぼり掲ゲシ東端とうたんニアル幕営、三月朔日さくじつノ暮レ六ツ、劉季昌りゅうきしょう、宋伯瑜そうはくゆ、会ッタラスグニ帰レ」

秋山少将はこれを見て、ニヤリと笑うと二人を見た。

「これを、どう思うかね」

二人は何も解らなかった。少将は、

「先ず文が日本語だ。つまるところ、劉季昌と宋伯瑜は邦人ほうじんだろう。三月朔日、これは明日さ。──李が、一体何のために予定時刻外にここに来た理由は存じ上げないが、明日の暮れ六つに──日帝ノ幟掲ゲシ東端ニアル幕営──ここだ。ここに背信者が来るだろう。己おれは総参謀長と一緒にここに駐とどまっているから、お前たちは李を──そうだな、軍曹の元へ連れて行け。拷問ごうもんでも何でもするがいい。だが出来る限り吐かせてやって呉くれ給たまえよ」

織辺上等兵たちは李を連れて幕営を出た。先刻の通訳が、少将から云われていたのか、金沢軍曹を連れてきた。織辺上等兵は李を軍曹に預けた。石見上等兵は、馬の手入れをしてくると云って、厩うまやの方へ馳はしっていった。

© 2026 鷹埜狩月 ( 2026年10月2日公開 )

作品集『旅順』第5話 (全6話)

読み終えたらレビューしてください

みんなの評価

0.0点(0件の評価)

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

  0
  0
  0
  0
  0
ログインするとレビュー感想をつけられるようになります。 ログインする

著者

この作者の他の作品

この作者の人気作

「旅順 五」をリストに追加

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 あなたのアンソロジーとして共有したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

"旅順 五"へのコメント 0件

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る