今の御時世になると、京が朽ち果てて了って、京という存在ですらなくなって了った。それで人が其処ら中で飢えて苦しんでいる。だから、幾らねう、ねうと鳴いたって、人っ子一人来やしない。後から人間の話を盗み聞きしたのだが、痘瘡*とか云っていたのを記憶している。終日鼠の残飯や痩せた畑から痩せた馬鈴薯でも盗って喰う始末だから、頗る今私が半死半生の際にいるのがわかるだろう。同類の屍を見たときは流石に吐き気を堪えることはできなかった。
京の有様と云ったら酷いものである。牛蒡のような腕と、大根よりも細い脚で朱雀大路*の三叉路に拡がって、中央を隔てて横たわっている。蝿が集っているのは云わずもがな。三条大路と、東一坊大路は埋まっていた。多分何人かはもう黄泉に逝って了っている。その内何人かは冥土に堕ちて了っている。その内何人かは未だ三途の川を渡っている最中であろう(尤も、斯様にして斃ばった者共が、たとえたった六文銭だとしても、結局は家を失くした故に路傍で死んでいる訳だから、果たして払えるかどうかの話だが)。もし私が三蔵法師*のような仏僧であったのなら、立ち止まって一人一人浄土へ渡れるよう数珠を擦って経を唱えたかもしれないが、私にはそんな民衆を憫れんでいる暇はないので、ただ平然と前を通り過ぎるだけである。暇がないと云ったが、別段私は猫なので職などいう概念はあいにく持ち合わせていない(斯のように物を書いていることに関しては、私が人に生まれ変わったと、そして前世の記憶を持ち合わせていると、読者は納得すれば好い)。
元は私は、京を練り歩く一介の野良猫だった。行く先行く先で、ひと度ねうと鳴けば、子共、老婆、時に若人が寄って集って餌を与れた。朱雀門*の前まで行ったことがあった。そのときばかりは役人でさえも、厳かな面持ちを廃して槍を地に置き、硬くなった掌を私の頤へ差し伸べたものだ。それが滅切、況してや子共なども寄り付かなくなった。役人は、今頃都を離れて故郷へ戻って、父母同胞と暮らしていることだろう。否、痘瘡とかいう禍が降りかかったのならば、京から一歩外れてみたとて一切の景観の変わりはないだろう。
私が昼の陽光に微睡んでいると、子供等が嗤いながら下のような落書*を書いて唄っていたのを視たことがある。
馬酔木*、梅、藤、八重桜
どれも今では塵芥
花の京は死の京
剥げて丹塗りの鴟尾飾り*
首は垂れて楊柳
息絶え絶えの京人
喰らう砂礫馬尿 ……
──子共とは云え能くできた落書である。何も、間違っちゃいないのだが。
羅城門の屍体も大変な量になってきた*。螽斯が、朱色の剥げた柱に留まっていたのだが、やがて何処かへ飛んでいった。彌々下人が見える次第となった。「へえとうとう主人に捨てられちまったか。ふう可哀想だね」と私は、若干の軽蔑と自身の生きる楽さに悦んだ(果たして迚も好い暮らしを送っている訳じゃないが、あの下人と比べれば多少は楽だろう)。羅城門を凝視めていたら、楼*に潜り込んでいった筈の下人が、行成急な梯子を辷り下りて、夜の底へ疾って行ったのを視た。その後に、一人の老婆が白髪頭を、羅城門の楼から頭ごと振り下ろして、黒洞々たる夜を覗き込んでいた。そのとき、老婆と私と目が合ったのだが、老婆は依然獣のような面構えで、下人と同じく梯子を駆け下りて、四つん這いになって奇声を挙げながら疾って行った(何故か衣を着ていなかった。先刻の下人が抱えていた織物は何であろう)。私は、禍とは此処まで人を自堕落な、薄穢い獣畜にさせるのだと、夜の寒さもあってか黒い毛を震わせた。やがて螽斯は、朱色の、剥げた柱に戻ってきた。
私が羅城門を訪れる前に、同じ屍体の転がっていた五条大路で、いかにも残念至極たる人間共の容を視たことがある。それは昨年の(京に病が流行ってからもう三年が経っている、)冬のことである。
その年紀の冬は──その年紀と云っても、景観は相も変わらぬのだが、特に喰い物の、酷く乏しい冬であった。あらまし想像に難くないのだが、やっぱり盗人共が出入りした。屍体の衣から何でもかんでも盗っていくのである。この時流であるから私は仕方のないことだと思っているのだが、併し、平然として偸盗を行っているのは、元来麻*や芋麻*を纏った民衆である。私は驚愕した。羅城門でも視た人間の堕ちた醜態は幾度となく視てきた。だが仏道の鎮護国家*として成立したこの京の民として、十悪*に混じるような行動を起こすことは、安易に勘案することはできなかったからである。人間の、生きるためならばという行動力は、ときに吾々を驚かす物である。
中でも私が、酷く環境を哀れんだのは、その悪行に子供が含まれざるを得ないことである。その光景は驚愕というよりかは惨憺たる情に近い。あのなんとも、襤褸を纏った傷ましい、それも子共とて感情を失ったような顔を見ると、良い意味で蔑視して了うのである。私は斯のとき、人は自身が生き残るためならば、他者を殺めるような行為に陥って了うのだと云う見解に至った。たとえ子共であろうとも、自らが生きるために、手を汚す。これは一種の傲慢であると、人は自らに降る禍に寄って一変するのだと知った(それとて今の私は人間なのだが)。
右京の八条大路は未だ、若干の活気が残っているようだった(故郷へ戻った人は少なからず居るのだが、斯の頃は賊が出回っているらしいので、帰りたくとも帰れないと云うのが現状である)。屍体の庫となった三条大路や東一坊大路とは違って、私は漸く人の笑った姿というものを視た。もしやと思ってその群衆の中に歩み寄ってみれば、思った通りに、子等は兎も角、その肉親まで私を抱いて持ち上げて来たのである。
人々の暮らしというのはこういったものである──先ず朝になると、親より先んじて子等が襤褸な家を飛び出して、速攻して路を疾り廻っている。誰一人として暗々たる表情を浮かべる者はいない。だが、彼等の生活は困窮そのものである。第一毎日飯は喰わない。どちらかというと、喰えないの方が適っているだろう。早いときで三日に一遍、大体は五日ないし七日に一遍が妥当である。それとて稗や粟でもなく、時折やって来る商人の売る数疋の雑魚くらいであった。その商人から出来るだけ多く買い占めて(商人の性質はそれはそれは悪いもので、平生より高い値段で売るのであるから堪ったものではない。私は一度だけ、商人の売る雑魚を二疋盗ったことがある、)傭えておくのである。親は自分たちよりも子等を優先して喰い物を譲る。後先短い大人よりも、この先を長く生きていく子共に自らの生を削って与れるのである。
嗚、大変悦ばしい。幾ら親が身を削って子に生を与えたとて、それでも大変悦ばしい。私があの三条大路の悲惨を視てきたから云える訳でもない。亦、五条大路の偸盗を視たからでもない。ここに居る者たちは決して金持ちではない(そもそもこの京に金持ちという概念は消え去った)。偸盗に堕ちた者共と完く同じ身分である。のみならず、彼等の方が襤褸の程度が酷い。彼等は状況の捉え方が違うのである。確かに、京が零落れたのは不運なものであるが、併し、それとて彼等の感じないほどに、幸福を見つけることに必死になっているのである。つまりはこの、子共等も親等も、偸盗になることを避けて、亦屍体に成り下がることを避けている──どれだけの苦難があろうとも。
この京の民は皆表べは人である。人であるにも、人であろうとしない五条大路の偸盗と、成る可く人であろうとして生きる八条大路の民。困窮を極めたその先にあるのは、二つの人間の途である。生残のため人でなくなるか、ほんの少しの幸福がために人となって窮苦を堪え新たなる幸福を探しながら生きるか。……
この二つの途とは限らず、別途があることは無論だが、いずれ私がその途を知って、憫然たる情に掩われるか、喜悦たる感が湧くかで分かつことができよう。ただ私が久しく感動に浸ったのは、少なからず子等の笑い声と、近くに侍っている親との和ましい光福の景観が、人間性の善き一面を意味していたからである。尤も、偸盗である彼等が果たして幸福かどうかは知らないが、一度で好いから、八条大路に盗みに行く序でに(夜も更けて了っては誰もいないだろうが、)人様を視てみれば、寸分の幸福がために人として生き続ける悦びというのが解せるようになるのかもしれない。勿論八条大路の民等は幸福人である。五条の盗人も、自らの行為に幸福を感じるのならば私は駐めないが、堕ちた人に二つの途が与えられるのならば、苦難の途を択んで笑いを生じさせた方が、一体幸福だと云えるのではないか。毎晩腐った屍からこの先用いるか如何かも解らぬ物を持ち去って、それにひもじい暮らしをするよりかは、私は八条大路の民等のような生き様を、大いに、激しく尊ぶのだが。……
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