四
明治三十八年二月のことだった。順当に露軍との会戦に勝利を重ねた日本軍は、一挙に奉天*へと集った。
その幕営で、黒い馬に乗った一人の騎兵が、──その騎兵こそ、二〇三高地での軍功が称讃され騎兵科へと転属した織辺上等兵であった。──彼は、これも騎兵へ転属したという、石見上等兵と列んで話し込んでいた。二人は戦場視察のために、奉天の曠野を馬に乗って歩行いていたのである。
「どうだ兄弟。馬には、馴れたか」石見上等兵は鹿毛の馬に乗っていた。
「吁。にしても──騎兵科へ転属だなんて、有り得るものか?」二人は乃木将軍指揮下である第三軍歩兵第二十八聯隊から、騎兵第一旅団*の在る第二軍へと異動していた。そして秋山好古旅団長*指揮下である騎兵第十三聯隊*に入属したである。
「有り得るも何も、一先ずは喜ばないか。先鋒として突撃することは不相変だがな」
「それが不相変だということに抵抗が在るんだが──」
奉天の曠野は、見渡す限り寒々しかった。そして、何もなく暴々しかった。遼か遠くに在る、露軍の準備砲撃の音が、重く響くのが、更に惨烈さを際立たせた。厳寒を冒して曠野を駆ける彼らの両頬を、冬風が強く打った。
二十一日から前哨戦が在った*らしい。それとて右翼軍の、鴨緑江軍*の惨敗だった様だが、黒木為楨大将*の第一軍が奮戦してある程度は戦果を挙げたという。その露軍も日本軍と同様に奉天に集っているようで、第三軍にいる佐藤一等兵と野村一等兵の尺牘*に因れば、乃木将軍の第三軍と織辺上等兵らのいる秋山支隊が露軍右翼を叩いて鴨緑江軍が露軍左翼を討てば、圧迫した包囲線を展開できるらしい。おそらく秋山支隊もすぐに動くだろうから、充分に戦場を見てこいというのが、二人の下司官という訣で恩賞を享け共に異動した金沢軍曹と江積兵長の命であった。
曠野の下は凍っていた。その下に幾本もの枯草が布かれて蹄鉄の音はない。静寂を極めた草原は遠かった。
幕営に戻ると、
「騎兵! ちょっと此方へ来い、──そう、其処の二人だ」
江積兵長の咾が奉天の乾いた空を切った。その容子は何とも虚しかった。
「はい」織辺上等兵は痰を絡ませた咾で応答した。大方曠野の冷気にやられて喉が渇上がって了ったためであろう。
「好いか、今から云うことを、しっかりと聞くんだぞ。つい先刻将軍がな、織辺とか、石見とかいう騎兵がいる筈だろうから、その二人を、臨時的な小旅団長にしろと仰言った。だからお前たちは、これからの会戦で、二人で五百人ほどの騎兵を率いて貰うから、どうか奮って呉れ給え。騎兵ついでだが──あそこに旅団長がいるだろう。その隣に憲兵が見えるだろう。彼奴が旅団長の参謀だ。ほら例の──お前たちは知らないかもな。青木晋作少佐のご令息だ。名は慥か、文三とか云った。彼奴は騎兵小団の篇制を編むのを得意としているから、訊ねてみると好い。──じゃ、宜敷恃んだぞ」
江積兵長は、どこか甲斐々々しい容子を醸し出して去っていった。
「冗談じゃない。己たちが小旅団長だって? 将軍も贔屓が過ぎるんじゃないか。同僚に疎まれるのだけはご免だぜ」織辺上等兵は兵長の去ったのを確認して、呆れたように云った。
「慥かにやり過ぎな気もするが……素直に歓ぶべきだろうな。将軍の恩義に仇を成しては不可ない」
「くそ、将軍は屹度何か企んでいやがる。巧いこと誑かされて堪るものか」織辺上等兵は体躯で示さずとも、心中で強く拳を握り締めた。
青木文三は准尉である。父青木晋作少佐は第一軍にて参謀長を務めている。織辺上等兵は青木が准尉というのと、父の将軍位を聞くと、やはり江積兵長のような(有福とは云わずとも、)どこか親しみ難い感が湧いてきた。青木は士官学校*を卒業してから第二軍に従属したらしいが、就中功を立てたというのは聞いたことがない。それは織辺上等兵が第三軍にいたからやもしれぬが、第二軍にいた彼の戦友は歩兵銃で数十人を射殺したことで恩賞を賜った。それを、織辺上等兵は第三軍にいたときに耳にしている。数十人で恩賞を賜るのなら、青木が順位に至るまでに何かしらの武名が挙がる筈である。ただの歩兵から尉官まで何ら武勲もなしに出世することは可怪しなことである。現に青木の功績を知る者は少ない。彼の戦友だという人に訊けども曖昧な答えしか還ってこなかった。その戦友も、直系尊属が尉官佐官の何連かな者共である。
兵長が云うので仕方なく、織辺上等兵と石見上等兵は青木准尉と話した。
「──それで、騎兵を率いる上での、心得、と云いますか、を訓えて戴きたく──いえ実を云いますとつい最近まで一介の歩兵だったもので、同僚の扱いに馴れておらんのです。同僚らを自らの下として擱くのは些か抵抗が在るのですが、なにぶん上官の下知で御座いますので仕方がありません」
彼らが、兵長の命によって臨時的な小旅団長に任ぜられたことを知ると、青木准尉は思いの外彼らへ気さくに還した。
「そうか。それは無理遣りなものだな。──どれ、己が何を云ってもその下知は変わらなさそうだから、長としての簡単な騎兵の扱いを訓えよう」
青木准尉は騎兵の幕営へ向けて歩行き出した。織辺上等兵は彼の後方を従けながら安堵の表情を見せた。
「お前たちは剰り望んで長になった訣ではなさそうだから簡単なことだけで充分だろう。どうせ兵長殿や軍曹殿が、お前たち旅団の長だろうから」
妙だ、と織辺上等兵は思った。尉官であるこの男が、兵長や軍曹の下で動くというのである。もしやすると、別旅団に遷って戦うやもしれぬので、そう無闇に訊こうとは思わなかった。
「小旅団ということはせいぜい十数人の騎兵だろうから、兵長殿らの云う通りに──」
平然と話し続ける青木准尉を前にして、織辺上等兵は哀しい思いを抱いた。己の見解が正しいという由はないのだが、正しいと仮定してみるにこの男は迚も苦しい境遇に遭っている容子なのである。父が高位に就いていて、その子がただの歩兵という現実は先ずないから、彼が准尉というのは武勲ではなく父の支配によるものであると、織辺上等兵は歎いた。この准尉は陣中で疎まれているのだ。計略的に就かされたこの地位のために。父の保身を守るために。己はつい先刻まで、父の高位さだけで思い違いをして了ったのだ。有福というだけで驕る江積兵長と・兎に角乃木将軍のために奮う帝国軍人の模範生、金沢軍曹の二人に向けて、この准尉は大いに威張れる筈である。兵長と、准尉とで、何かしら差異があるのかと云われれば、それは自身の擱かれた状況をどう扱うかの問題である。誕れながらにして与えられた優位なる地位を存分に駆使して、己が利益のために上品に生きるか・親の支配によって貸与された地位を極力周知させず、また自らを挙げる道具としても扱わず、しかしながら自己より低い位置にいる、それを疎む可成りの愚者共に、文句の一つも垂れずに懸命に生きるか──これは、赤の他人よりも分かたれた差異であった。
「──という訣だ。どうだ、ハッキリとしたか?」青木准尉は息切れしながら騎兵支度の話を終わらせた。二人は丁寧に辞儀をして准尉の前を退がっていった。織辺上等兵は己の見解を、石見上等兵に伝えることはなかった。仮定した場合の見解だったのと、もし広がって了えば、青木准尉の立場が窮屈になるだろうと踏んだからであった。
二人は、幕営にいた五百人の騎兵たちに、兵長を通して伝えられた軍議結果の報告とそれに応ずる自団の策戦を告げた。策戦と云っても特筆すべきことは何もない。この五百人の騎卒を従えて秋山支隊と共に動くだけだと云われたのである(肝心の支隊の動きはまだ知らされていなかった)。だから、騎兵たちもすんなりと了解したのであった。
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