アルテミスとアポロン

橋立ちほ

小説

7,015文字

アクタイオンという狩人が、狩猟の処女神アルテミスの沐浴を覗いたことで、鹿に変えられ殺された話は有名で、いくつもの宗教画の材として取り上げられています。ただ、兄弟神アポロンの使いの銀のカラス然り、美しく改ざんされてきた歴史に対する風刺。それと大河ドラマ然り、人間がそこに向ける一種異様な熱望へのあざけり。それらを小さな文章にまとめました。

「こ、ここは。」

ゆったりとした波の上、そこに浮かんだ枯れ枝のよう。彼の身体は、ゆっくりと上下していた。首を上げた彼は、本当に船の中にいるのだということに気付いた。

「あの…ここは、いったい…」

そして、その船頭らしき人間に声を掛けたのであった。

 

返事は無い。

聞こえなかったのか、それとも単に無視したのか。それこそ古木のようなその老人から、回答は得られなかった。

 

船は、ゆっくりと波を分けていく。

 

それでも周囲を見回しているうちに、彼はなんとなく察しがついた。

彼以外にも何人かの人間らしき者たちが、灰色に見える衣をまとい、今にも沈んでしまいそうに頼りなく浮かぶ小船に乗り合わせていた。道端の死人のようにぼろ布を荒く被っている。皆一様に、そこに闇をしまいこんでいる。まるで髑髏の目の奥、何も無いその空洞のように。

 

生気。

彼らにはそれが無かった。

 

彼は思うのであった。

「おそらくこの人たちは…」

と。

そして、

「もしや私も…」

とも。

沈黙が返答だった。

 

ちゃぷりと、水を掻く音がする。

 

この海のように果て無く見えるこの場所は、おそらく彼が小さな頃から話に聞いている川なのだ。

暗い天井と水の先が、暗闇のなかで交わっている。

霧がむやみに深く思える。

 

「やっと、気付いたかね。」

老いた船頭が振り返って、こちらを見ていた。その双眸は火を噴くように爛々と輝き、意外にもたくましい身体が、水の上を走る原動力をこしらえている。まるで脈を打つかのように隆々と動いている、不似合いな筋肉。

 

彼は何か言おうとしたのだが、その前に船頭の口が開いた。

「そう、おまえは死んだんだよ。」

胸中をさくっと射抜くよな、あっさりとした物言い。

「私は…」

彼はすこし考え、思い至った。まるで他人事のようにしか思えない記憶なのだが…・

「なんだ。」

おそらく、自分自身の顛末。

「たしか、猟犬に殺されたのです。」

老人はなぜか苦笑した。

その痛みは無かった。血がだらだらと流れ出ているわけでも、首があさっての方を向いているわけでもなかった。

本当に他人の記憶を見ているようであった。おそらくつい先ほどの出来事であるはずなのに、遠い前世の思い出であるかのよう。

彼は続けた。

「たしか、狩りの途中に。」

徐々に徐々に、彼の記憶が戻ってきていた。

 

船を漕ぐ手を止め、渡し守は腰を下ろした。

右手で櫂を握ったまま、ため息をついた。

 

水の流れは穏やかにも感じられ、それでいて血のめぐりのような、音も無く迅速な流れにも感じられた。

 

ぼろぼろの腰布一枚の姿であぐらをかいている船頭の姿は、子どものころから思い描いていた厳格な死、その渡し守の絵姿とは程遠い気がした。ただ、その不釣合いな豪腕からは逃げられないような気がした。

そして、その老人は言った。

嫌な笑みを浮かべている。

「狩りの最中に、食われる側の鹿がかね?」

彼はハッとして自分の手足を見遣った。

驚いている彼をよそに、その老いた船頭は話を続けた。

「おまえだけは、特別なんだよ。」

老人は含み笑いをした。

「普段は人間しかここを通さんのだが、話は承っておる。」

前のめりになって、彼に顔を近づけてきた。浅黒く、皺だらけの顔。

船頭は言った。

「なんでもおまえ、よりによってアルテミス様の沐浴を覗き見したそうじゃないか。」

思いもよらない言葉に、彼は耳を疑った。

 

船は、櫂を扱かずとも、ゆっくりと流れを横切っていく。

その黒い静けさのなかに、ひひひ、と野卑な笑いが漏れた。その声は響くことなく、進んでいく船の後ろにおいていかれるようにして、消えていった。

 

古い木のうろ、そう思わせる唇。

奇妙に変形した木肌のような顔。

そこからぽつりと口に出された、禁忌のひとこと。

神を冒涜するその話。

たとえ死んだとしても、償いのつかない大罪…

 

 

一瞬、彼の思考は止まった。頭の中に張り巡らされた、逡巡の回路がショートして、全身を伝っている感覚の導線がバッサリと焼ききられてしまった、そんな感覚。

船頭はぎょろりと、好奇の目で彼を覗き込んでいる。

 

老人は言った。

「いくら美しい女だと言ってもだ、オリンポスの処女神様の裸体を拝もうと思うなんてなぁ。過ぎた欲というか、なんというか…」

野卑な笑いは、また闇のなかに消えていく。

彼はだらしなく口を開け、言葉を失っていた。

呆けた鹿の顔を見て、船頭は笑った。

「まあ、程度の差はあれ、他の人間もそう変わらないがなあ。」

頭の整理が追いつかないまま、彼はやっとのことで口を開いた。言葉ともつかない、うめき声が漏れた。

「ん。」

また、老いた下衆な笑い声。

「今更弁解しようってのかね。」

右手の櫂を持ったまま、後ろに寄りかかった。

「だがな、そりゃあ無理って話だ。」

「い、いや…」

私が言葉を挟もうとすると、船頭は空いた左手でそれを制した。

「まあ聞け。」

しわがれた左の手のひら。

「おまえ、もとは人間だったんだろう。そのようにおれはご主人様から聞いている。おまえ自身も、現世の記憶は薄れてるとは言っても、なんとはなしにわかるだろう。」

この男の言うとおりだ。

自分は昔、いや、こうやって船で運ばれてしまうことになる直前まで人間だった。人間の男だった。そう、彼は思ったし、茫漠としてはいるものの、彼の記憶もそう語っていた。

「それが今や毛むくじゃらの牡鹿。ただ食われるために草を食み、殺されるために逃げるような、そんな存在になっちまってるのは事実だな。そんな芸当ができる者は、神以外にありはしない。神の怒りに触れた証拠だ。」

「ち、違う!」

彼は反駁した。

張り上げたその声は響くことなく、闇に吸い込まれていった。

船頭が顔をしかめたが、それは自分の、牡鹿の口から飛んだ唾によるものだった。

そして言った。

「違うはずがない。私はその一部始終をこの暗い地底の王、我らがご主人様から伺ったのだ。“私に”あの方を疑う余地があるかな?まあそれでな、ご主人様にそのお話をしたのが、他でもないアルテミス様の兄君。同じくオリンポス十二神のひとりアポロン様なのだからな。といっても、召使の銀色のカラスが告げ口に来たのだがな。」

 

今まで気にも留めていなかった、サーッという川の流れが彼の耳を横切っていく。

 

彼は、ふたたび記憶を辿った。

確かに、私は人間だった。“あのとき”、突然きらめくような何かを浴びたその直後、自分は連れていた猟犬に噛み殺された。そう彼は思った。おそらく、あの閃光に目を焼かれたとき、彼の身体はこのような姿になってしまったのだろうと。

主人を失いながらも、それを見た犬が襲い掛かるのは畜生の悲しい性だとも。

彼に、その犬を責めるつもりはなかった。

「何が、違うというのだ。」

だが、そのような怒りを買う理由が、あの気高い女神アルテミス様の沐浴を覗いたから、などというものでは決してないのだ。それは単に、理不尽な偶然。偽善者のこころのうちと言動には隔たりがあるように、彼がそのときしたことと、邪心の無かった彼の内奥とは違っていたのだ。

「違うというなら、言ってみろ。」

 

船の底を、小さく波が通り抜ける。

身体が浮かんで、沈む。

 

「違う。違うんだ…」

船が進むにつれ、自分の記憶がぼやけていくのがわかる。

彼は言った。

「話しておきたい…」

老いた船頭は、薄気味悪い笑みを浮かべてうなずいた。

「なら、聞くだけ聞いてやろう。」

 

衣の中に沈んだ他の死人たちは、一様に黙している。

 

「だがな、それが真実だろうとなかろうと、もうどうにもならんぞ。死んでから裁判に勝ったとしても、それでおまえの死が覆るわけではない。」

船頭は言った。

「それに裁きというものはな、一概に真実のみによって決まるというわけでもないんだ。」

彼は慣れない身体を座らせ直し、話し始めた。

 

 

 

***

 

 

 

私はいつものように、ある山へ獣を取りに出掛けていたのです。使い慣らした弓と、猟犬が三、四匹。本当にいつものように、草木を掻き分け進み、獲物を探していました。

確かにその日は森がやけに静かで、少し異様な感じもしました。夏もいい時期だというのに、鳥の囀る声もなく、鹿が草を食んでもいませんでしたし、リスがそこらを歩き回ってもいませんでした。

連れていた猟犬たちも、なぜだか落ち着いた顔つきをしておりました。普段のように爛々と目を光らせ、狙った獲物を震え上がらせて硬直させるような、そんな獰猛な鋭さを欠いていました。まるで揺りかごにすっぽりと収まっている赤子のような、穏やかで無警戒な目をしていました。およそ狩りに向かっているとは思えず、私までなんだか調子が狂ってしまいました。

それでも何か獲物がなければ今日の食い扶持に困ってしまいます。

 

私は猟犬たちを先に歩かせ、その鼻に先導させました。

きっと、そのときからもう、飼い犬たちは何かに引きつけられていたのでしょう。

 

しばらく歩いているうちに、水の跳ねる音が聞こえてきたのです。そのあたりを流れている川のせせらぎとは違う、もっと賑やかな水音の集会でした。

 

いえ、そこで沐浴を見たというのではありません。

確かに、水浴びを見たといえば見たのですが、それをしていたのは森の動物たちだったのです。

 

それは不思議な…いえ。

 

食うものも食われるものも、それぞれがお互いの立場を忘れてでもいるかのように、ただただ涼しげで心地よさそうなそれを楽しんでいるのでした。星が自分の立つ場所を忘れて、自由気ままに飛び交ってしまっているかのような。

鹿は清流に頭を突っ込んでは首を振ってそれを払い、顔を洗っておりました。虎は川原に寝転がって、まるでそこらじゅうで跳ね回る水音の調べを聴いているかのようでした。そしてリスはその腹にもたれかかり、鳥たちは他の動物たちの頭の上にとまって、くちばしでつついて毛繕い、虫を取ったりしていました。

風が吹けば木々がささやきあい、陽光はその合間から、まるで天使が梯子でも下ろしているかのように降り注いでおりました。

 

それは、異様な光景だったのです。

 

楽園というものは、おそらくあのようなことを言うのではないでしょうか。

満ち満ちているのに飽くことなく、お互いの立ち位置、生まれた種としての宿命も問題にならないほどに結ばれ、蔓延しているのは心地よさと笑顔だけ。

冷静に話している今でさえ、あれは蜃気楼か何かではなかったのかと思えるほどです。

 

立ち尽くしていたことに私に気がついたのは、その光景を目にしていったいどれくらいの時間が流れたあとだったでしょうか…

傍目には、私の目には、それは陽気な悲劇に見えて仕方がありませんでした。

 

連れていた犬たちも、ゆるゆると近寄り、川原で水を飲み始めました。

私はそれに付いて行きました。

まるで今の自分の身体、この鹿のように、びくびくとまわりに目を遣りながら。

誰も怯えることはありませんでした。快楽に目の焦点を失ってしまったかのように、動物たちには私を気に留める様子などありませんでした。

 

ふと、目が合いました。

水際で顔を上げた、一匹の雌鹿。

私はすぐさま目をそらしました。

怖ろしかったのです。

まるで、女が男に秋波を送るような、そんな瞳で私を見ていたのです。

 

もう狩りをする気など、とうに失っておりました。

 

 

ただ…ただ、それだけでした。

言えばひとことですが、腰が抜けるのではないかと思うほどの恐怖でした。

 

気がつくと、私は水浴びをしていた猟犬一匹を抱えて走り出していました。獰猛で従順だった飼い犬は、舌をだらしなく垂らし、あさっての方を向いて笑っていました。

笑わないでくださいよ。少なくとも私には、そう見えました。

水の跳ねる音が私の耳に追いついてこなくなるまで、私は必死に森を駆けていきました。もうどこを走っているのかさえ、よくわかりませんでした。

 

道なき道の上に立ちつくしている自分に気が付いたのは、森に暗闇が落ちかけている頃でした。好き放題に、それでおいておそらく見えない秩序はあるのでしょうけれども、草がぼうぼうと生い茂っておりました。

夏ですのでまだ風も生ぬるく、陰っていく陽の光もまだ余力を残していました。朝が夜に支配されようとしていく短い時間。おとなしい不穏、とでも言えばいいのでしょうか。

 

私は、抱えていた猟犬を脇に下ろしました。

正気を取り戻したのか、犬もやっといつもの表情を取り戻していました。

額に浮かんだ汗に気付き、私はそれを拭いました。次第に我に返ってきた証拠でした。

私たちは、道を探して歩き始めました。先ほどと同じように、とがった鼻に先導させながら。

 

不意に、前で鼻を利かせていた犬が顔を上げました。

そして、私は気付くことになったのです。

茂みの奥、そこにある気配に。

時折かさかさと草を揺らす、まるでのたうっている蛇を思わせるようなその気配。鬱蒼と茂る草木の陰に、なまなましい何かが隠れているようでした。

 

そして木々の間を縫ってぬらりと流れる風に乗って、鹿のような匂いがしていました。

麝香。

ぬるい湿気のなかを漂うように、それは鼻にまとわりついてきました。

 

そのとき私は、自分が丸腰でいることに気付きました。携えてきた弓矢を、あの異様な集会のなかに放り出してきたこと。頭に昇ってきたその事実は、おもわぬ早さで膨れ上がって…なまぬるい空気の中にいながら、私は冷たいものを感じました。

どうしてそのとき恐怖を感じたのか。

それは、股のあいだにしっぽを挟んで震えていたその猟犬と、同じことだったのでしょう。

 

私は山菜を取るために腰につけていた小刀を手に取り、犬の尻を軽く蹴りました。

いえいえ、別にどうということはありません。先を歩かせるときの、いつもの合図です。

そうして私は、飼い犬が茂みに分け入るのを待ったのです。

 

思えばあのとき、なぜ私は頼りない小刀一本で危険を冒そうとしたのでしょう。日も暮れかけて、下手をすればこちらが餌食になってしまうというのにも関わらずにです。

それでも私はなぜか、その柔らかな葉が折り重なっている茂みの奥でうごめく何かを、暴き出したくなったのです。きっと、あれだけの怪異を見て、何か恐怖を超えた高揚感に近いものもあったのかもしれません。

まるで、禁忌を犯すときのような。あるいはそれを盗み見るときのような。

 

猟犬は、腰を引いて座り込み、その目も先ほどのような力を失って潤んでおりました。

私は犬の前に出て、音を立てないように細心の注意を払いながら、覗き込みました…

 

そこには、蛇のようにのたうつものが見えました。

白く長い、そしてつややかなもの。

それが二本。

それに覆いかぶさるようにして、木の洞(うろ)のように隆々としたもの。

生い茂るその奥。

そこに、さらに屹立としたものが、まるで鹿の股から子が生まれるときのようなぬめりを持って…

そして、ぬらりと、甘い匂いがしていました。

一緒に漏れている声とも言えない声が、蜜を思わせました。

鹿が汗をかく、そんな匂いが…

 

脈打つようにのたうっていたそれの隣に、弓が落ちているのに気付いたときでした。私は白い光を浴びせかけられました。そして光が止む頃、首筋に赤く激しい痛みが走ったのは・・・

 

 

 

***

 

 

 

渡し守カロンと元人間の牡鹿との会話。銀色のカラスは、その一部始終を遥かな暗闇に紛れて聞いていた。そのときも兄弟神の使いとして、木の上での見張りを任されていたように。

ずば抜けた賢さを買われた伝令として、右手の杖の先を特等席とすることを許された銀色のカラス。

 

彼が不祥事により真っ黒にされて空に銀の釘で磔にされるのは、そして星座として後世に親しまれるようになるのは、もうすこしあとのことであった。そして、この哀れな牡鹿アクタイオンが沐浴を覗いてしまうというモチーフで宗教画が描かれ、大作のひとつとして世に名を残すことになることも…

 

歴史は美しい。

皮肉にも、歴史はこのようにまるでサーカスの美しさを施され、そしてその手段までをも、まるでそこに使われる宝剣のように美しく装飾されていく…

 

 これは、その一部に過ぎない。

2010年2月21日公開

© 2010 橋立ちほ

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