魂の緒は濡れている

本村真逆頭

小説

8,914文字

形無き者共との邂逅によって、余の懊悩と寂寞は一層深まる。 御相手は、神、概念、資本、LOVE、白痴の男。

或る伝手で、余は神に話を聴く機会を得た。

全く思いも掛けぬ事であった。此の奇運を(もたら)して呉れたのは、余の大学時代の先輩であった。二年間寮で一室を分け合った仲にあり、当時余は彼の賭け麻雀の負け分を幾らかチャラにして遣った事があったので、其の返しの積もりであったのかも知れぬ。

先輩が知らして呉れた場所は、U駅傍の純喫茶であった。

休日のU駅は若者で溢れており、余は其の前後左右から迫り来る(おびただ)しい熱を()なしながら、神の待つ純喫茶を目指した。とは言え、指定の時刻よりも三十分以上早く到着してしまった為か、扉を押し開けた先に、其れらしき姿は見当たらなかった。

神、と言ってはいるものの、其れが一体仏であるのかGODであるのかアッラーであるのか、先輩の話でも判然としないのであった。唯、余は先輩に、明日遭う人物を、神、と呼ぶが良いかと改めて問うと彼は数秒思案した後、良シ、と応えた。又、人物という様な表現の使用の可否についても仔細に問い(ただ)すべきであったろうが、其れは更に先輩を懊悩させる事になろうから、腹に収めた。

ウェイトレスが余の前に水を置き、愛想の好い顔を向けた。

余は連れの有る事を告げ、其の者が来てから注文を取って欲しいと頼んだ。

ウェイトレスが一礼して去って直ぐ、開扉を知らせる鈴の音が響いた。

やって来たのは、正しく神であった。其れは無論、仏やGODやアッラーでも在ったという意味で、(まか)り間違っても犬猫では無かった、という事を意味する。其れ以上に、姿を現わした其れを表現する手立てを、余は持たない。

「早かったですね」

「そうか」

神は余の斜め前に坐するなり、ウェイトレスを呼び付けた。早足で来た彼女の手からメニューを奪い取るや否や碌に見開きもせずカプチーノを注文し終えると、(あたか)も厄介払いでもするかの様にそっぽを向いた。

其の振る舞いに暫し身体を強張らせていたウェイトレスに、余は遠慮がちに小声でアメリカンを頼んだ。其れに応じて我に返ったかの様に、彼女は(かす)れた声で返事をして調理場へと消えた。

其の間神は窓外の人々の流れを、(さなが)ら創造主とでもいう様な眼差しで見遣っていた。

「貴方は神だ、と伺っているのですが」

「そうも呼ばれている事は知っている」

神は信号の明滅から目を離さず、倦んだ様に応えた。

「そう、も、というのは」

「他にも色々の名で呼ばれている事は知っている」

「其の全てが貴方である、という事で宜しいか」

「其れはそう呼ぶ者に問えば良かろう」

余は何となく納得して、話を継げなかった。神に訊きたい事は沢山有った筈であった。昨晩書斎机に向かって質問事項を列挙したのであったが、今となっては一つも思い出せないのであった。

「貴方は男ですか、女ですか」

下らない質問であった。神については如何なる事柄であっても未知であり、神の性についても問う事の正当性は在ったであろうが、其れでも矢張り取るに足らぬ問いであったろうし、下らな過ぎて、神に即座に席を立たれても致し方無い程であった。

神は腕を組んで、自身の前に置かれた水を見詰めていた。其の眉間の皺は怒りではなく、苦悩に因るものであった。水は唯、濁った景色の中から一身に光の粒を吸い寄せていた。

「判らぬ」

一言そう言い、神は再び窓外へと眼を移した。

「貴方は創造する者であり、(あがな)う者であると同時に救済する者でもあり、又悪と永劫の内に闘い続けるであるとも言われる一方で、大樹の下で寝転がって憐れを唱える者であるらしいのですが、本当の貴方はどれなのですか」

余は一息に()くし立てた。其の(まま)の勢いに任せて煽ったコップを置いた手が、小刻みに震える程であった。

「判らぬ」

店の前の信号の辺りで、ティッシュ配りをしている人々を見る腑抜けた神の、其れでも尚圧倒的な威厳を放つ其の横顔は、超絶の一言に尽きた。

「だが此れだけは間違いない。貴方がどの教義に(くみ)しようとも、神である貴方はこうして確かに存在するのだ、という事だけは」

永遠に続くかの様な神の静寂は、ウェイトレスの運んできたカプチーノに依っていとも容易く破られた。

神はカップを右掌で握ると、惑う様に立ち昇る湯気ごと、一気に飲み干した。

そして、すっと余を初めて正面から見据えた神から、濃いカカオの薫りが漂って来た。

「存在するかせぬかは判らぬが、お前の言う様に、確かな事が一つ在る」

「其れは何ですか」

「其れは、私はカプチーノが好きだ、という事だ」

そう囁くと、何も無い中有から五百円硬貨を出現させ、テーブルの上に置くと、余に向かって軽く会釈をして店を出て行った。

扉に取り付けられた鈴の音が、神と遭ったという余の記憶の尻を(くすぐ)った。

それから余はアメリカンをゆっくりと味わって飲んだ。

 

*  *  *

 

余の家に出入りしている書生のT君は、いつも玄関先で「こんにちは」と溌剌(はつらつ)に挨拶し、(あたか)も我が家の如く(あしおと)を響かせて余の書斎まで上がり込んで来るのであるが、其の日は挨拶の声も、廊下の土壁に其の(ほとん)どを吸い取られてしまったかの様であった。

T君の足取りも怖る々々であるのに疑を抱いた余は書斎の襖を自身から開け、T君を迎えた。

T君は何か紙切れを見ながら、夢遊病者の様に此方へ近づいて来ていた。

「どうしたね、T君」

すると彼は大きく見開かれた瞳に余を映し、小刻みに震える手で余の方へ寄越した其の紙切れには、時代錯誤なガリ版刷りの文字で此の様に書かれていた――概念氏、公民館ニ来タル。

その下に小さく記された日時を見ていた余にT君が顔を蒼くして、「先生、まさかいらっしゃるんですか」と問うて来た。

「うむ、行ってみようと思う。概念と遭える事等そうも無いだろうから」

余がそう言い終えるのを()たずして、T君は首を左右に振って後退り、底の減ったスニーカーの右片方を慌てて履き、まどろっこしくなったのか、左片方は掌に持ったまま、軽く頭を下げただけで走り去って行った。

結局、其れ以降T君が余宅に寄り付く事は(つい)ぞ無かった。のみならず、T君が触れ回ったのか、同じ町内の者達が余を白い眼で見る様になった。三軒向こうに住むY老人なぞは、犬の散歩に出た余を見止めるや否や、持っていた杖で殴り掛かる様にして、「この不届きめが」と怒鳴った。

当日公民館に来てみると、案の定誰独り姿は無かった。此の会を主催した公民館の関係者すら影も形も無かった。(もっと)も、其の様な御仁が居ったれば、の話であるが。

公民館の入り口から看板だけは御丁寧に据えられており、其れを辿って三階の小会議室のドアを開けた。

部屋にたった二つだけ置かれたパイプ椅子の一方に、入り口に背を向けて坐していたのは、正しく概念であった。

概念はくるりと此方を見ると、「やあ、来ましたね」と言って、人懐っこそうに余を招いた。

「誰も来ないのかと思いましたよ」

一体何が其れ程迄に可笑しいのか、椅子を仰け反らせて概念は笑った。笑いながら、背広の胸ポケットから板ガムを一枚取り出すと、()()きの様に丸めて口へ放り込んだ。

「此の会の目的は何ですか」

後脚のみでバランスを取りながら、涙を薄っすらと浮かべた眼で、概念は余を見た。

「会、というのは」

相変わらず微笑んではいるが、概念の声はやや沈静の色を帯びた。

「会というのは、本日の此の集まりの事ですよ」

すると概念は眼を(つむ)り、腕組みをして黙考し始めた。三十秒程そうしていたかと思うと、はっと(まぶた)を開き、坐したまま椅子のシートを(つか)んで余に近づき、口腔内をくちゃらくちゃらと鳴らしてこう言った。

「果たして、本日の此れを、会、と呼び得るのでしょうか」

余は、しめた、と思った。概念は、会一般と比して本日の此の集まりを定義づけようとしているのであった。詰まり、概念が概念を生成する瞬間に立ち遭わんとしているのであった。

「其れは、概念としての疑問ですか」

余は概念に、概念としての自身の在り様を再認識させるべく、其の様に問いを重ねた。

が、概念は顔中の皺を一気に床に落としでもしたかの様にのっぺりとした顔つきへ変じた。

「いや、私と貴方の二人しか居ない訳ですからね」

概念は自身の(つまづ)きが単に参加人数に関する事柄でしか無い事を承知していた。が、余は喰い下がった。

「では、集合する存在が幾つ以上の場合、其の集合態及び集合作用を、会と呼び得るのですか。そして其の集合する存在群が或る何がしかの意思を有していたならば、其れは会を形成するに足る数量に影響を及ぼし得るのでしょうか」

概念は自身の指先を両の眼球に触れんばかりに寄せ、最早本日の此れが会であるか否かは如何でも良い様子であった。

「いや、其れは場合に依るでしょう」

余は畏れ多くも概念への挑発を敢行した。

「貴方、本当に概念なんですか。どうもそうは思えないんだけど」

すると概念は椅子から立ち上がり、崇高なる人智の極みから余を見下ろした。余も概念から眼を離さず、其の多少の激昂(げっこう)()った。

しかし矢庭に目尻を下げ、諭す様に余に告げた。

「其れでは、私が一体何なのか、貴方が好きに決めて呉れて宜しいですよ」

そして概念はポケットから出した一枚の名刺を余に差し出し、軽く会釈して部屋を出て行った。

幾許(いくばく)かの沈黙を抜けて、不図(ふと)見遣ると、先程まで概念が坐していた椅子も何処かへ失せていた。

受け取った名刺には、何も記されていなかった。裏に、概念の噛んだガムが張り付いていた。

 

*  *  *

 

K教授と昼食を共にすべく彼宅を訪れると、玄関口で僅かに開いた引き戸から細君が白い顔を覗かせ、「宅の主人はひと月程前から行方知れずなのでございますよ」と早口に呟いたかと思うと、余の応じを()たず戸を閉めてしまった。はて、K教授からは一昨々日に電話を戴いたのだがと頭を捻り、細君にそれを(ただ)そうとしたが最早眼前に戸は無く、彼女の無表情な面相に似た白壁が(そび)えるのみであった。

余は空腹と、K教授と昼食を喰うという事は経験上(すべから)く只飯であったから、一食喰いっ(ぱぐ)れたという絶望感とから、極度に虚脱した両の脚を引き摺り、空であるにも拘らず何かどろりと鈍重なものが詰まった腹を抱えて、もと来た最寄駅へと向かった。

途上、一軒の定食屋が在った。美味そうな匂いは漂っておらず、店先にショーケースも無い。入り口は磨りガラスで中を窺い知る事はできず、おまけに通りに人気も無い。が、唯柱には、安い、との殴り書きが貼られてあった。

懐にちんまりとした財布を握り締めて、余は戸を潜った。

「来たのかいっ。さっさと入んなっ、馬鹿野郎」

藪から棒に怒鳴られ、余は疲弊して(ただ)れた身体を即座に律した。のそりと巨体を揺すって、薄暗い厨房の奥から這い出てくるかの様に姿を現わしたのは、資本であった。

「冷やかしかいっ、帰んなっ、馬鹿野郎」

白い割烹着に茶けた染みを転々と付け、右掌に出刃包丁を握ったまま、資本は一歩々々踏みしめながら余に近づいてきた。余が、何か注文をせねば、と店内を見渡すも、そこにも品書きの様なものは無かった。

「ラ、ラーメン」

苦し紛れに余が叫ぶと、資本は呵々大笑し、がらんとして客の居らぬ店内を揺らした。

「脂っこい物を食べるねっ。脂っこい物を食べると、死ぬよっ」そう言いながら、資本は厨房へと消えた。

最早空腹など脳裡から吹き飛んでいた余は、喰い物にありつかんとする卑しさからではなく、(まった)き怖れから席に着いた。

程無く好い匂いが店内を満たし、資本が豚骨ラーメンを持って来た。とは言っても、資本が運んだのは厨房脇のカウンターまでであって、余の坐すテーブル席に置いてくれる訳ではなかった。余は中腰になって上目遣いで資本を窺いながら、丼鉢を取ってテーブル席へと戻った。

ラーメンは存外美味かった。が、喰っている途中から資本が余を見詰め続けているのに気づくと、舌が痺れた様に味を掴めなくなった。やがて麺と具を平らげて丼鉢の縁に箸を渡し、余は両の掌を合わせて、御馳走様、とやろうとしたが、資本の波打たす圧が、汁も呑み干せ、と言っていた。

両掌で丼鉢を煽ってテーブルに置くと、資本は再び哄笑した。

「次はなんだいっ。お前みたいな奴は炒飯で充分だろっ」

余は席から立ち上がれぬ程の満腹と、その身体状態を遥かに凌ぐ満腹感とに依って食物を受け付けなくなっていたのであるが、余の拝辞(はいじ)()たず、資本は再び厨房へ入って行った。

下げられずに置かれたままの丼鉢から、未だ豚骨スープの匂いが立ち昇り、余の顔を撫でて行く。満腹感が毛穴から滲み出る程であるのにも(かかわ)らず、余は顔を背ける事はしなかった。(もっと)も、椅子に縛り付けられたかの様な身体の重みの所為で、一ミリも動く事叶わなかったからでもあったのだが。

「おいっ、さっさと喰いなっ、馬鹿野郎」

資本の怒鳴り声を聞けば、心身を巣喰っていた鈍臭さが全て吹き飛んだ。余は弾かれた様に立ち上がり、大皿に盛られた炒飯を両掌で拝領した。

テーブル席に下がってみると、不思議と余は率先してレンゲを持ち腕捲りをしながら、其の炒められた飯の山を頬張るのであった。

「食が細いねっ。食が細いと、死ぬよっ」

資本はそう罵りながら、派手に(おとがい)を解いた。釣られて余も飯粒を口腔内に溜め、頬や鼻下に散らしながら、笑った。資本の笑い声が余の耳殻に響き、血脈に流れ込み、心ノ臓を鷲掴みにする。それが怖ろしくてくすぐったくて、余も再び哄笑を重ねる。資本の圧倒的な笑いの中に時折「馬鹿野郎」の声が混じる。

其の(まま)、余は気を失った。

気づくと、余は色濃い夜気に包まれ、店前のアスファルトに突っ伏していた。起き上がって通りに胡坐(あぐら)を組み、懐を弄ると、財布が無い。更に右頬がじわりと痛み、左尻は焼ける様に痛んだ。

どうやら余は、有り金を財布ごと奪われただけでなく、右奥の金歯まで引き抜かれ、尻を蹴り上げられて路上に叩き出されたらしい。

振り返ると磨りガラスの僅かに開いた隙間から資本が軽く会釈したと思うと、通りに響き渡る程に大きな音を立てて戸が閉められた。

余は次第に腫れ行く右頬を擦りながら、仕方無しに歩いて帰途に就いた。

 

*  *  *

 

深夜、宅の戸を激しく叩く音が在った。

仕事が一向に捗らず、不貞寝(ふてね)の様にして床に就いた余は、其の音をすっかり覚醒して聴いていた。

(あしおと)を忍ばせて玄関迄行くと、路地に灯る街灯の薄明かりを背に受けて、磨りガラスの向こうに確かに人影の在るのを見た。余は三間土に置いてあった、樫で出来たサンダルを握り、(しば)し其の(まま)で居た。

「助けて下さい、御願いします」

其の影はガラスを遠慮がちに打ちながら、か細いが真に迫った声でそう訴えるのであった。

其の声に聞き覚えの有った余は玄関戸の鍵に手を掛けながら影に問うた。

「どうしたのですか、貴方は何方ですか」

すると声の主は戸を叩いているにも拘らず、内から返答の在った事に驚き、暫し「あ、う、あ」と言葉に成らぬ呻きを洩らすに終始したが、やがて元の逼迫した調子を取り戻した。

「追われているのです。中に入れて下さい」

余は未だサンダルを手にしながらも、幾分安堵した様な心持に成っていた。矢張り何処かで聞き覚えが有るのであった。

錠を外し引き戸を開けて遣ると、激しく高まる呼吸を抑えながら、紅潮した面を上げたのは、LOVEであった。道理で聞き覚えの有る筈であった。

「有難う御座います」

言うなりLOVEは目配せで、宅内に上げて貰いたいという意思を余に示した。

余としても、相手がLOVEであれば、何も(いぶか)しがる事も無かった。

「有難う御座います」

LOVEはもう一度粛々と礼を示した。余も頭を下げて其れに応じた。

廊下の電気を点け、客間へとLOVEを案内した。

「一体誰に追われているのですか」

余の宛がった座布団を外し、畳に直に正座したLOVEは心底疲れたという風に笑いながら言った。

「誰もがです。誰もが私を追い駆けます」

「確かにそうでしょうね」

余は水屋へ行き、茶葉を探した。

「御構い無く」

LOVEは気を落ち着かせたらしく、明るい声でそう言って、ふうと大きな息をついた。そうして、余の淹れた不味い茶を美味そうに飲み、卓の上に残っていたみなつき四切れを丸呑みする様に平らげた。

其の様な親し気なLOVEの様子に余も甘えが生じ、こうして面と向かって話をする機会も無いのだからと、LOVEに色々訊ねてみる事にした。

「しかし、中には貴方を追わない者だって居るでしょう。貴方に対して優越を感じている者、貴方に疲れた者、貴方を他の誰かと勘違いしている者、貴方を全く知らぬ者等が」

「いいえ」

LOVEは余と自身の湯呑に急須で茶を注ぎ足しながら、穏やかに且つ潔癖にそう否定した。

「私を追わぬ者も、私の姿を其の視界に捉えているのです。追われたい追われたいと(おも)いながら佇んでいるだけなのですから、私を追い付き(まと)っているも同然です。私に疲れた者であれば、倦怠や憎悪を駆動力として私を追っているに過ぎません。私を他の誰かと勘違いしているのであれば、私は其の誰かとして追われているのです。そして私を未だ知らぬ者は、私に一度でも触れたなら、必ず私を追う様に成るのです」

絶対的な自信を顕わにしながら、真摯に余の眼を見詰め、天地の唇をのみ動かして、そう告げた。が、LOVEは何故余の前に居り、余の客間に寛ぐのか。

「今此の瞬間も貴方は新たな追跡者を増やそうとしているのではないですか」

LOVEは自身の茶をとうに飲み干し、臆面も無く余の湯呑に手を掛けながら、胸から腹の辺りを二三度震わせて笑った。

「新たな追跡者、というのは貴方の事ですか」

「そう成る可能性だって有る筈ですが」

「そう成ったなら、私はこうして寛いで居られない訳ですね」

そう言ってごろりと横に成ったLOVEはそのまま腕だけを伸ばしてテレビのスイッチを点けた。次第に暗闇を晴らして行く画面には、何処か外国の漫画が現われて来、擬人化された車が数台、連れ立って街路を走行していた。

「では、逃げるのですか」

LOVEが(ぼうっ)と回していたテレビのチャンネルは、其の殆どが砂嵐であった。其の忙しない明滅の粒が、少し翳りを帯びたLOVEの顔に降っていた。

「其れは逃げるのではなく、逃がすのですよ」

顔を伏せる様にして立ち上がったLOVEは、軽く会釈して余の宅を出て行った。

テレビ画面の砂嵐が時折青や赤に見えるだけで、余の浮いた虚ろな空間を照らしていた。

 

*  *  *

 

晩飯の酢の物にする蛸を買いに、夕刻近くの商店街まで出掛けた。歩いて僅か十四五分といった距離であったし、商店街へも週一度は訪れているにも拘らず、少し脇道へ入ろうと浮気心を起こしただけで、途端道に迷ってしまった。もう此の地に二十年来住んで居るというのに、である。

眼にした事の無い風景が橙に染められて行く様を観ていると、何か自身の慣れ親しんだ風景の方から余は突き放され、唯形有る空白に埋もれて行くかの様な心持に成るのであった。

自然、余は駆け出した。手に持ったビニール袋の中の蛸足が、一歩毎に太腿に当たり、其れが次第疲労の痣と成って行った。

其々を視れば、何も新奇な処の無い家々が続き、地道が延び生垣が植わっているのであるが、其の全体に対して何故か余は圧倒的な疎外感を感ずるのであった。

余は或る小さな公園の前で脚を止めた。其の公園に見憶えが有った為ではない。其処に、見憶えの有る人物を見留めたからであった。

彼は夕陽に依って横殴りに照らされながら、公園内に三つ在るベンチの一つに、だらりとした両の脚を投げ出して坐して居た。

余は安堵からゆったりとした足取りで公園に入り、軽く会釈をして彼の隣に腰掛けた。

彼は、名を悟朗、四十路に届こうかという、近隣に住む白痴の男であった。余は特に彼と親しい訳ではなく、擦れ違えば挨拶する程度であった。(もっと)も、そんな時悟朗は上目遣いに余を一瞥し、怯えた様に早足で去って行くのではあったが。

しかし余が隣に腰掛けても、悟朗は逃げなかった。唯投げ出した右脚先で、地道に延々と描いている弧を、(ぼうっ)と見ているだけであった。

余は唯少しでも自身の見知っているものの傍に添いたいだけであって、悟朗に帰途を尋ねようというのではなかった。

悟朗は規則正しく右脚を左右に振り、緩やかな弧の浅い溝を刻み続けていた。余は其の描線をなぞって、恰も揺り籠に揺られてでもいるかの様な奇妙な心地好さに浸っていた。其れと共にベンチが揺れ、樹々が揺れ、夕陽が揺れて此の見知らぬ世界が揺れた。

船酔いでも患ったかの様に総身の内壁が震えるのを感じた余は、其れが胸許迄集まり渦巻き出したのに耐え兼ねて、一息に吐き出した。

「人生とは、一体如何なるものか」

すると悟朗は脚の律動を止め、両の眼の焦点を正面へと据えると、一定の調子ではあるが良く通る声で応えた。

「肉をくっているときは肉のことをあれこれかんがえるよりただかみちぎってのみこめばよい」

余の身体中の筋が刺激された様に反応し、悟朗を見ると、彼は薄汚れて伸び切ったベージュのTシャツの裾を顔の辺りまで引っ張り上げ、其処に付着した何かの染みを一心不乱に嗅いでいた。

2010年1月13日公開

© 2010 本村真逆頭

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