片羽を落とす (5/6)

片羽を落とす(第5話)

加藤那奈

小説

13,029文字

そして。
私にはもうひとつ考えていることがあった。
私は私の秘密の日記に、彼女への提案を書く。
今後の提案だ。

09 このままでいいの?

 

アキちゃんが看病に来てくれた翌々日の日曜日。

私たちは買い物に出かけた。夕方、その足でトーセーが通う大学の最寄り駅に向かった。彼とはそこで待ち合わせていた。アキちゃんは私をトーセーに引き渡すと、入れ替わりで帰って行った。

別れ際、アキちゃんが「ヨシエのこと、よろしくお願いします」って頭を下げていた……やっぱりお母さんみたいだった。

トーセーは、大学に荷物を置いてその脚でやって来た。山登りのような格好をしていた。実際に山へ行っていたらしい。詳しいことはよくわからないけれど、昆虫の生態調査、観察と採集、だったそうだ。ふだんはTシャツに綿シャツを羽織って、ジーンズにスニーカーでどこにでもいるお兄ちゃんなのだけど、長袖シャツに化繊のアウター、ポケットのついたワークパンツにトレッキング用の靴、おまけにリュックを背負って重装備だ。私でさえ見るのはレアないでたちに、アキちゃんは大笑いしていた。似合っていないわけじゃないけど、アウトドアなトーセーはあんまり想像できず、意外すぎたらしい。トーセーもそのあたりは自覚があるようで、しきりに恥ずかしがっていた。

アキちゃんを見送った後、私たちは近くのカフェに入った。

私は、アキちゃんが来てからの様子を報告した。トーセーにはもうメッセージを送っていて、あらましは報告してあったけれど、やっぱり直接話す方がいい。

「とにかく元気になって何より。たいした熱だったからね。僕もつきっきりでいたかったんだけど、ごめん」

「そんなのいいよ。それより、アキちゃん呼んでくれてありがとう」

「うん、ミドウさんがすぐ来てくれてよかったよ。ぶっちゃけ、ゆっくり寝ていれば熱は下がりそうだったんだ。リョーシー自身もそう言ってた。でも、いつ交代が起こるかわからなかったからね。変わった後の君を一番心配してたのは君自身だよ。それに、ミドウさんを呼べって指示したのもリョーシーだ」

そう……そうだったんだ。

私は私自身にお礼を言わなければいけない。

「目覚めたら、いきなり病気って辛かったんじゃない?」

「ああ……それはそうでもない、かな」

そういうこともあるだろうなって少しは予想していたし。熱を出して寝込んだことはなくても、それにちょっと近いことは経験があった。女の子、だからね。

「それで、金曜日にチェンジしたんだね」

「うん。私が目を覚ましたのは金曜の夜。それからもう一回寝て、土曜日の朝だった。その後もお昼くらいまで横にはなっていたけど、ちょっとうとうとしたくらいだから、経験上、それはカウントされないと思う」

「つまり、二晩ズレたことになるのかな?」

「たぶん、それで間違いない」

「で、ズレちゃった二晩はどうする? このままだと木曜と金曜の間に交代になるよね」

「そうだね。早く修正した方がいいと私は思ってるし、あっちの私も同じ意見だと思う」

「やっぱりどうしたって同一人物だよ、君たちは。もし、日にちがズレたらなるべくはやく直したいって。で、どうやって修正する?」

「そうね、今週のどこかで私一回眠らないことにする。それで交代は金曜と土曜の間になるから、交代しやすい。今年は土曜日の講義とってないからね。日常生活はむしろその方が便利かもしれないんだけど、ただ、トーセーと会うの土曜が多いからなあ」

「デートがすっ飛ばされた気分になりそう?」

うん、それもあるけど、チェンジしたときトーセーが傍にいる機会が少しでも多いとちょっと安心、っていうのもある……本当はどこでチェンジしたって同じなんだけど、これはほとんど気分の問題。

「だから、あっちの私に来週一回頑張って徹夜してもらう。それで修正完了」

もしかしてあっちの君から何か書き置きでもあった?

ううん、何にも。

やっぱり同じだ。

何が?

修正する理由も、方法も、スケジュールも。

スケジュール?

「熱を出したリョーシーは、私が熱出して寝込んだんだから私が修正すべきなんだけど、って断ったあとね、もしずれが一日だったら、次の時、私が修正するつもり。でも、もう一方の私――つまり、今の君ね――は、体の調子が悪くなければすぐに一回徹夜しちゃうんだろうなって。で、二日ズレていたら一回ずつ分担で徹夜。そう君に提案しておいてって言づかってた。三日以上ずれていたら、一週ずつ交代で、ともね」

その日、私はトーセーの部屋に泊まった。

えっと、アキちゃんには断っておくけど……あんまりイチャイチャしてないから……あんまり。

トーセーも山から帰ったばかりで疲れてたし、翌日は月曜で、私も二時間目の講義をとっていたから朝早く出て、一度自分の部屋に戻らなきゃいけない。だから、帰った方が良かったんだけど、ひとりになりたくなかった。ひとりになるといろんなことを考え込んでしまいそうで不安だった。いずれ考えないといけないのだけど、今回不測の事態が起こってこれまで適当に誤魔化してきた問題が突きつけられてしまったような気がした。

これから私はどうやって生きてゆくのか。

リョーシー/ヨシエの他人からは全くわからない二重生活がいつまで続きいつ終わるのかはっきりしない限り、半分コの人生を一個につなぎ合わせてやっていかなければいけない。しかも、片側の感覚では倍速の人生なのだ。それぞれが十年の体感時間で二十年が過ぎる。私の時間は何がそんなに嬉しいのか知らないけどスキップしながらルンルン駆け抜けてしまう。なんとなく、私同士のやりとりに意識を膨らませて、欠落した時間をそれなりに埋め合わせていたような気分になっていたけど、やっぱり季節はものすごく早く過ぎてゆく。

お互いがスキップした時間を補填しているのは、結局文字や写真でしかない。

わかっていたけど、深く考えないようにしていた。

お互いの時間を共有できない私たちの持ち時間はみんなの半分しかない。

アキちゃんに無理してるんじゃないかって言われたけど、確かにそうかもしれない。オーバーヒートとか熱暴走とか、今回の発熱はそんな類いのことなのかも。

でもね。

解決方法がわからない。

そもそも、どうなれば解決したといえるのか。

記憶のスキップが終われば間違いなく解決だけど、それは私の意志でどうにかできるんだろうか。これって医者の見立てたように、私の単純な妄想なのかな。お父さんや母さんにも打ち明けて、ちゃんと治療した方がいいのかな。治療、なんてできるのかな。お父さんやお母さんはちゃんと理解してくれるかな。心配するだろうし、きっと困るだろうな。

考えはじめると、頭の中が空回りしてしまう。また、熱が出てしまいそうだ。

だから、とにかく今はひとりになりたくなかった。

トーセーの虫の話を聞きたかった。

トーセーの心臓の音を聞きたかった。

私はアキちゃんがいうところの普通の人生が俄然羨ましくなった。

「リョーシー、君が熱を出して眠っている時ね、ずいぶんうなされていたんだよ。君は夢を見ていたんだって。たぶん悪夢、だって」

トーセーの体温に私の心は穏やかだった。

「どんな夢だか聞いた?」

「うん。リョーシーと僕が寄り添って歩いてるんだって。それをもう片方のリョーシー、夢を見ている方のリョーシーが後から追いかけてるんだけど、追いつけないし気がついてもらえない。たしか、そんな夢だったって」

たぶん、それは私が見た夢と同じだ。

同じ脳みそがつくり出す夢なのだからそういうものなのだうろか。夢の材料はすべてこの頭の中にあるのだ。アキちゃんの話に、私たちがほとんど同じ反応をしていたみたいに、夢まで同じようにできてしまうのかな。

「トーセー、正直に言っていいよ。こんな私でいいの?」

彼はベッドに寝そべりながら私の目をじっと見た。

「よくはない」

だよね……。

「何がよくないって、そんな質問することがよくない」

煙に巻くようなことを言う。

「リョーシー、僕に気を遣わせてるって思ってるでしょう」

うん。

「まあ、間違ってないけどね。確かに気を遣ってる。ちょっと困ってもいた。でも、慣れた。だからね、宣言しておくよ。もう気遣いしないことにする。これまではね、ふたりのリョーシーと付き合っている気分だったし、なるべくどちらも公平になるよう予定を組むようにしていたんだ。気づいてた? 最初はね、ほんの僅かな違いでしかないけどそれぞれに個性らしきものがあるように感じてたんだよ。それに僕としてもね、別人だって考えた方がわかりやすかったからね。だから気遣いといっても、二股かけてる男がどっちにも気に入られようとしているような気遣いだったんだよ、考えてみれば。イヤな男だよね。でもさ、結局それは君に対して失礼だったんじゃないかって。君は君で僕に二度手間にならないようにしようと気を遣うし、なんだか逆ベクトルの気遣い合いみたいになってなかったかな。それって無駄なエネルギーの消費じゃないかな。だから、僕が君に気遣うの止めるから、リョーシーも僕に気遣うのを止めなさいってこと。ついでに、君同士の間にも奇妙な思いやりや遠慮みたいなのを感じたよ。それも、止めていいんじゃないかな。僕に不満があればねちねち言えばいい。あっちの私ばっかりとデートして不公平だ~とか言っちゃえばいいよ。あっちの私をどこそこに連れて行ったなら、私も連れて行け、とか。面倒臭いなぁ、とか僕は言うから。それから、君と君も喧嘩すればいい。それは自分で自分を非難するようなものだけど、ちゃんと言葉にした方がいいんじゃないかな。その上でタッグを組まれた日には僕も思いきり君を相手にできると思う――なんてことを虫を追いかけながら考えてた」

山で?

山で虫を捕まえていて、ね。

「捕虫網でさ、茂みを何度かがさがさ掬うとさ、小っちゃな虫が何匹も入ってるんだ。昨日今日は、そうやって調査地域に生息する虫の種類やらおおよそその数やらを調べてたんだけどさ、奴らを見てたらいろんなことがバカバカしくなるんだよ。リョーシーのことばっかりじゃなくてね、自分のことも、社会だとか世界だとかも。なんかこうさ、普通に、当たり前に生きて死んじゃえばいいじゃない。前にも話したことあると思うけど、生命体の目的は結局生命を継続させることなんだ。それ以外の目的はないんだよ。これは人も同じでしょ。昆虫もね、たったそれだけのことに複雑な仕組みを作ってるけど、人はもっとややこしいよね。個人と個人の関係を構築するのに後付けのアレンジが多すぎるんだよ。こんなに複雑な言葉喋ってコミュニケーションとか、面倒臭いよね。人間なんて面倒きわまりないって思いながら奴らを眺めていたら、ヘンな気遣いがリョーシーと僕やリョーシーとリョーシーの関係をよけいややこしくしているような気がした。それでも僕らは人だし、君は日常生活をつつがなく送る上で他の人とは違う苦労をしなきゃいけないかもしれないけどさ、僕の前ではもういいよ。普通にいこう、普通に」

「でも、私、普通じゃない」

「リョーシーはリョーシーの普通でいいんじゃない。誰かの普通は別の誰かの普通じゃない。それが普通だから」

何言ってるのかわからないよ。

「私、いつまでこんなことが続くのか全然わからないんだよ。直らないかもしれないんだよ。ずっとこのままだったいくらトーセーだって付き合いきれなくなるかもだよ」

そうだね。

だから、無理に付き合わなくていいから。

「それじゃあさ、僕が今、もう付き合いきれないよ、って言ったらどうするつもりなの、リョーシーは」

「……わ、別れる」

そう。

トーセーと別れて、もう男の人とは付き合わない……付き合えない、だね。

「そう」

「だって、そうでしょ。記憶のスキップが続く限り、私は誰とも付き合えないよ。好きとか嫌いとか、愛してるとか愛してないとか、そういう以前の問題だもの。私のことなんて誰も理解できないよ。トーセーは最初から、私が戸惑ってあたふたしている様子を目の当たりにしているから受け入れてくれたんだと思うの。それでも、気を遣って、困って、いろいろ考えたんでしょ。たぶんトーセー以上に、私のことを理解できる人はいない。私だってうまく説明できないだもん」

みんなとの日常生活はなんとか対処できそうだけど、個人的に誰かと親密な関係になったら隠せなくなる。告白してもトーセー以上には理解してもらえないし、隠そうとすればきっと私はそれをすごく負担に感じる。

「リョーシー、あんまり余計なこと考えない方がいいって言ったばっかりじゃないか。もし、リョーシーが、僕と付き合ってゆくことただ辛く感じるだけなら仕方ないけど、そうじゃなければもう少しこのままでいいんじゃない。僕と別れて、他の男と付き合った方がいいっていうなら別だけど、もう男とは付き合えないならさ、今別れても、もうしばらくこのままでいて、それでお互いやりきれなくなって別れても同じでしょ」

うん。

ねえ、リョーシー。今夜の君はとても不安定だ。嬉しそうな顔をしたり、悲しそうな顔をしたり、楽しそうに話していたかと思うと、苦しそうになる。楽観的にも悲観的にも見える。もしかするとずっとそうだったのかもしれないね。それに僕が気がついてなかっただけかもしれない。でも、今夜のリョーシーはいろんな感情に振り回されていて、それを素直に僕に見せている。今夜は僕が横にいるから、ゆっくり眠るといいよ。また、明日から一緒に考えよう。

うん。

そうか、私の弱みを見せられるのはトーセーだけだったんだってあらためて思いながら私は眠った。

夢の話をしたせいなのか、夢を見た。

ふたりの私が向き合って話をしていた。前にもちょっと似たシチュエーションがあったけど、今度はふたりきり。会話もゃんと成立してた。

「このままでいいの?」

「よくない」

周りは雲の中みたいにもやもやしていて、どこにいるんだか見当もつかないけど、私の顔はよく見える。左右逆で鏡を見ているみたいだった。本当は鏡じゃないから反転してるのはおかしいんだけど、きっと私の記憶の中にある私の顔は鏡を覗き込んだときの顔が一番多いんだろうな。あんまり写真に写るの好きじゃないし。

私たちは黙ってお互いの顔を見つめ合っていた。

ずいぶん長い間、私は私の顔を見ていたけど、夢の中の時間って長いとか短いとかあるんだろうか。

「もとに戻したい、よ」

「戻せるのかな」

同じ声で同じ意識から紡ぎ出される言葉だ。それがどちらの口から出てきた言葉なのかわからない。どっちがリョーシーで、ヨシエなのか、こんなふうに対面すると、そんな区別もできなくなる。きっとそんな必要ないんだよね。

「去年の誕生日まで、リセット、したいね」

「リセットボタン、どこかにないの?」

わかんない。

「ねえ、このままお婆ちゃんになっちゃったら、どうする?」

「どうしよう……」

「一層、お医者さんが言ってたみたいに、全部私自身の妄想だってことにして、社会的に不適格の烙印押されちゃった方が楽じゃない? お父さんやお母さんはきっと悲しむと思うけど……」

「友達もいなくなっちゃうね」

「それになんのために生きているのかわかんなくなっちゃいそうだよ」

「だいたい、なんのために生きてるのかなんて考えはじめたら、もう何かが間違ってるんだよ。自然に生きていたら、なんのためかなんてきっとどうでもいいんだよ。トーセーじゃないけど、虫と同じだと思う。生まれて、育って、子供をつくって、死んじゃう。そこに疑問を持ったりしたらやりきれなくなっちゃう」

「そうだね、やりきれなくなっちゃうね」

私たちはどちらからともなく口にされる声に包まれる。

ああ、私の声って温かい……。

「そうだ……」

「うん、そう、だね……」

私は何かに納得しながら深く眠り込んだ。

2025年4月13日公開

作品集『片羽を落とす』第5話 (全6話)

© 2025 加藤那奈

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