少女の肖像 (3/3)

少女の肖像(第3話)

加藤那奈

小説

17,088文字

旧友のメガネの奥の少し爬虫類にも似た眼がじとりと僕を睨んだ。
――だから俺はお前のことが大嫌いなんだよ。
・・
どうですか。そんな女の子があの絵の向こう側にいるような気がしませんか。どこかに居そうな女の子でしょ。
(2018年)

07

 

「で、時間はあるんでしょう」

穏やかだけれど有無を言わせない強さを持った言葉だった。

ええ、まあ、少しくらい……あなたは曖昧に返事をする。確かにこの後は帰宅するだけで特に予定はない。火にかけられたフライパンのような街を彷徨うよりは、多少居心地が悪くても空調の効いたこのギャラリーにもうしばらく留まる方が魅力的ではある。だが、オーナーを名告る得体の知れない男の前で落ち着かない。あなたを騙す意図はないのかもしれないけれど、なんだか油断できない。それに六つの大きな画面に描かれた六人の少女達が、あなたの中でだんだん不気味に存在感を強くする。
「多生の縁、というやつです。せっかくですから少しお話でもしましょう」

彼が脚を組む。

あなたは膝を揃える。

飲みかけのグラスに麦茶が注がれる。
「ここは地下二階でしょう。普段だって人の出入りが多いわけじゃありません。外の世界から隔てられていて、時計をちゃんと見ていないと今が昼なのか夜なのかもわからなくなる。うっかりうたた寝でもしたら、二十四時間式のデジタル時計じゃないと午前か午後かも怪しくなってしまいます。もちろんお天気だってわからない。帰ろうと思って表に出たら台風が来ていたなんてこともありました。もしも世界が終わっていても、ここにいたらしばらく気がつかないかもしれませんね」

シェルターですね。

そうですね。確かにシェルターみたいなものです。

でもね、だからこそ私はこの場所が心地良い。さながら世界から隔絶された小さな宇宙、ですよ。

なるほど、と、あなたは思う。

ならばあなたは、見知らぬ宇宙に迷い込んだ異星人だ。そう考えればいつの間にか自分日常を逸脱してしまったような現状に無理矢理ながら納得できる。未知の宇宙には未知の摂理が働くのだろう。ならば、あなたがここで戸惑うのも必然だ。どんなに理性を働かせても、合理の異なる空間ならば理解に及ばないのも当然なのだ。エアコンから流れ出る空気の冷たさが凍えた真空を思わせる。グラスに透ける麦茶の琥珀が未知の液体めいている。そして、壁の巨大な少女たちは小さな四角い宇宙を覗き込む、さらなる彼方の外宇宙から飛来したエイリアンだ。大きな瞳と小さな鼻が、いつかどこかで見た宇宙人のイラストに似ていなくもない。

どうですか?

白髪混じりの主があなたに問いかける。

どう、とは……?
「絵ですよ、この作品たち。どう思いますか?」

どう、でしょう……。

あなたはなんと答えていいのかわからない。頭の中で言葉を選ぶでもなく、苦し紛れに六枚の絵を眺めてみる。頭を回し、体をひねり、デフォルメされた少女たちを見る。彼女たちと視線が交錯し、あなたはなんだか追い詰められているような気分にさえなる。どうせ素人なんだから、きっと相手もたいした答えなど期待していないのだから、適当に、月並みな言葉を返せばじゅうぶん――と、思いはしても、その適当が、その月並みが拾い出せない。これもこの小宇宙の法則なのかと、己の感受性の乏しさの言い訳ばかりが脳裏を巡り、なんだかとても情け無くなる。そして、あなたの困った表情を白々しく眺める画廊の主は、そんな困惑こそが私の求めていた反応なんですよと言わんが如く満足そうに笑顔をみせる。
「申し訳ない。質問がよくありませんでした。どう思いますかなんて、あまりに漠然としている。ダメですね。私はもうちょっと配慮すべきです。もっと具体的に聞かなければね」

まず、この六点の絵が同じ画家によって描かれたのはわかるでしょう。

それは、わかります。

では、この画家の絵をこれまでに見たことは?

たぶん、ありません……有名な方なのですか?

とても。国際的に名前が知られています。海外にもコレクターがいます。世界各地の美術館にも所蔵もされています。でも、美術に縁のない方たちにとってはきっとそんなものなんでしょうね。

すみません。

謝ることなどありません。そんなもの、なのです。では、もうひとつ。この中に気に入った、これが欲しいと思う絵はありますか?

欲しい、ですか?

維持する義務やそれにかかる費用、飾る場所、その他諸々の心配は一切無視してかまいません。本当にお譲りするわけではありませんから。ただ、純粋に絵画として自分の手元に置いておきたいと思うもの、ありますか?

やっぱり、あなたは困ってしまう。欲しい欲しくない以前に絵画を個人で所有するというイメージが湧かない。この主は、さっき義務とか権利とか、そんな言葉をつかって説明していた。彼の言い分において、美術作品を所有するのが家や自動車を所有するのとは違うことなのだと、あなたは頭で理解はしたが、正直、ピンとこなかった。彼の思惑がどうであろうと、美術作品が財産となることはあなたも知っている。著名な画家の作品が信じられない高額で取引されて、株や不動産と同じように投機の対象になる。だが、それらを同類として扱うことには違和感がある。それは芸術に対する敬意から経済でその価値を計ることに抵抗がある、という高尚な理由などではない。あなたにその価値が全く計れないため、なのだ。例えば目の前の一枚に対してある金額が提示されても、それが適正なのか判断できない。

それに……。

それに?

あなたには、他の場所にこれらの作品が飾られている様子を想像することが出来なかった。それは貧しい想像力の問題だ。

そうですか。想像力、ですか。

主はうんうんと頷く。

いいですね。それはとてもいい。
「でもね、そのせいだけではないかも知れませんよ。いずれにしても、これらの絵を描いた本人はあなたの答えにきっと満足すると思います」
どういうことですか?

素人の目は侮れない、ということです。いや、素人の目こそ、ですか――私たち……何かしらの形で美術に携わるものたち、という意味ですが――私たちは、知識を持ち、経験を重ねている分見なくていいものまで見てしまう。どんな材料を使い、どんな技術で描かれているのか、とか、どんな作品の影響の下にあるのか、とか。美術の歴史の中で、その作品性を計ってしまう。だから、素直に作品そのものを見ることがどうしても出来ません。ここにある絵があなたの想像力を刺激しないのは、あなたの問題ではなく、この絵の方が想像力など求めていないのかもしれないのですよ。彼女たちは彼女たちを見る私たちを逆に睨みつけながら、余計な想像や自分勝手な妄想などするなって訴えているのかもしれません。私たちは描かれたままの私たちで、それ以上に何を付け加えることがあるのか、ってね。あなたが自分でもよくわからないうちに彼女たちの眼差しを素直に受け入れているのだとしたら、それは私にとってとても羨ましいことなんですよ。どんなにね、無心に作品と対峙しようと思っても、かつて美術を志してしまった私は絶対に無心になれない……。

材料だとか技術だとか、作品性だとか、あなたには何のことだが全くわからない。素直に見るとか無心に対峙するとか……たぶん、どんなに説明されたところで自分にはわからないのだろうとあなたは思う。

きっとこの画廊主も、あなたにとっての宇宙人なのだ。
「もう、絵は描いていないのですか?」

ふと思いついたあなたの質問に、主は一瞬、不意を突かれた顔をした。
「……いいえ、描いてますよ。それが私の楽しみ、ですからね」

楽しみ、ですか?

絵を描くのは楽しいですよ――結局、私にとって絵を描くことは楽しみ以上にならなかったということですね。自分の表現を追求するとか、自分にしかつくれない作品を生み出すとか、そういう創造的な意欲に欠けてるんですよ。上手に描ければそれで満足してしまう。だからダメだったんです。

やっぱりあなたはわかからない。

上手に楽しく描けることがどうしてダメなのかわからない。

ああ、そうだ。

主は何かを思いつく。ちょっと待っててくださいと立ち上がる。そしてカーテンの奥に引っ込むとがさごそと捜し物をしているようだった。そして、しばらくして戻るとあなたにスケッチブックを押しつけた。

何ですか、これ?

絵、描いてみましょう。

誰が、ですか?

もちろん、あなたが。
「たぶん、絵を描くなんて中学校や高校の美術の時間以来ではないですか?」

おっしゃる通りです、が……絵なんて、描けませんよ。

だからこそ、ですよ。

意味がわかりません。

だからこそ、ですね。

もちろんあなたは気乗りしない。自分に絵心などないと思っている。絵を描いて楽しいと感じたのはきっと小学校に入った頃までだ。褒められた記憶はない。いつの間にか図画工作や美術の時間が少し面倒になっていた。漫画やイラストが上手な友達を見て、すごいなと思ったけれど羨ましくはなかった。

丸椅子からお茶のペットボトルが床に下ろされ、代わりに金属製の箱が置かれた。もともとクッキーか何かが入っていたのだろう、傷だらけの花柄の青い箱には洋菓子店の名前が読み取れる。ところどころ凹んだ蓋が開かれると何本もの鉛筆が詰め込まれていた。
「この鉛筆箱、私が十代の頃から使ってるんですよ」

鉛筆をナイフで削ったことは?

ありません。

そうですよね。
「鉛筆は、こうやって削ります」

主は、あなたのために、と、新しい鉛筆を何本か裏返した蓋の上に並べて順番に削っていった。

あなたの困った顔を見て、主は面白そうだ。

大丈夫です。上手な絵など期待していません。どんなに下手でも笑いませんよ。でも人は何かしらの感受性をもっているものです。彼女たちに捕まってしまったあなたがどんな絵を描くのか興味がありませす。技術も絵心もないのに――ないからこそ、なのかな――あなたの無意識は彼女たちに魅入っていた。あるいは彼女たちに魅入られていた。あの螺旋階段を降りてきた時点であなたは少し特別です。表向きの動機は、暑気から逃れるためだったのかもしれない。エアコンの冷気に誘惑されただけなのかもしれない。でもね、それはきっと世界の方便なんです。まあ、諦めてしばらく付き合ってください。少しはアドバイスしますよ。私も描きますかすら、出来上がったらお互いの絵を交換しましょう。
落書きみたいなのしか描けません。

じゅうぶんです。

それに……何を描いたらいいんですか?

この子たち。

主は壁に飾られた六人の少女を指した。

この子たちの中からお好きな子、一人選んで描いてみてください。

2025年2月3日公開

作品集『少女の肖像』最終話 (全3話)

© 2025 加藤那奈

読み終えたらレビューしてください

この作品のタグ

著者

この作者の他の作品

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

"少女の肖像 (3/3)"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る