07 あなたのことが嫌いだ
動物園で蝶々を見た後、私と私はだんだんお互いを別の人格を持った友達であるかのごとく接するようになっていった。
もともと、遠くの親友とやり取りしているような感覚はあったのだけど、どうしたって私自身だ。友だちみたいに対象化なんてできない。SNSに書き込んでいるのはあくまで日々の記録であって、今週を忘れてしまう私のための備忘録なのだ。気合いの入った独り言、みたいなものだ。むしろ私と私がちゃんとひとつであるように、離ればなれにならないように、メッセージは極力事務的に済ませていた。
だが、その冷静さこそが無意識のうちに作り上げていたオブラートだったのかもしれない。私と私を一緒に包み込み、私たちはひとつだよと、分裂しかねないアイデンティティを護るオブラート。
私が来週の私を「あの子」と何気なく呼んでいたことは、自分でもしばらく気がつかないほど自然で、私の感覚にしっくりと馴染んでいた。私は薄っぺらなオブラートに包んで守っていた私と私の同一性の無意味さを感じたのかもしれない。だからそんなものは溶かしてしまい、それぞれのアイデンティティを受け入れようとしていた。だからといって、私はひとりなのだ。私は私、あなたはあなた、と突き放したところで結局私でしかない。記憶が半分しかなくても私は同じ私なのだ。二重人格のように別のキャラクターが登場するわけではない。トーセーやアキちゃんの証言もある。まわりのみんなだって、私の異常な事態にまるで気づいていない。半分の私が私を主張したところで別人になってしまうわけではない。わかっていたはずなのに自信がなかったのだ。
半分の私がそれぞれ私であることを主張し、記憶にない私を対象化することでむしろ私たちの同一性が保たれるような気がした。なんだか矛盾するようだけれど、私は感覚的にそれを理解した。だから、半分だけの私を敢えて意識し、あと半分の私を擬似的に切り離す。
それこそ解離性障害じゃないの? と言われそうだけど、基本的な人格はやっぱり同じで、ただ、記憶だけが共有ができない。所詮、それだけのことだ。だから、仮想的な別人格として相手をとらえてみようとしているだけなのだ。脳内会議のグレードアップバージョン、みたいなものかな。
それからは報告一辺倒だったSNSに、お互いのコメントなり何かしらのリアクションが自然に入るようになった。ひとりSNSが、疑似ふたりSNSになる。
『起床、七時。普段通り。
二時間目から登校。朝ご飯をゆっくり食べる(朝ご飯の写真)。
時間があったのでお弁当をつくる(お弁当の写真)』
――前々から思ってたんだけど、私の朝ご飯もお弁当も、こんなふうに毎回写真を撮ってみると、平凡で代わり映えしないよね……もっと工夫、必要?
――うん。でも、どうせ自分で食べちゃうんだし……て、そう思わない?
――(-_-)
『九時半出発』
『十時十五分登校。学バスで』
『お昼はカフェテリアでマユコとミサちゃんと。
マユコが彼氏と喧嘩したらしい。愚痴を聞く。原因はいまひとつよくわからない。
ミサちゃんは卒業後の留学を真剣に考えているらしい。話しをよく聞いているとそろそろ始まる就活が面倒、ということらしい。なにそれ、だよね。
ヨシエは? ときかれて言葉につまる。未定、ということで誤魔化した』
――追記/マユコは私とトーセーがまだ続いていることに感心していた。一年くらい続けばいいかなと思ってたら、一年半も経っていて別れる気配もない、と。トーセーを紹介してくれたのはマユコの元カレだからね。どれくらいの頻度で会ってるの、とか、ふたりで何して遊んでるの、とか、いろいろ聞れたんだけど、適当にぼかしておいた。顔を合わせたら、しばらく追求されそうな気配なので、善処を。
――マユコにトーセーのこと聞かれた。トーセーは実際のところどんな奴なのかと聞くので、ムシオタクでアリの観察をする大学院生と答えておいたから。デートの場所は動物園、ということで。もっとも一回(ずつ)しか行ってないけど。また、トーセーと動物園行きたいよね。今度誘おうか。
――うん。誘おう。今週もマユコは私たちのこと聞きたがっていたけど、詳しいことは今週のスレッドで。
『三時間目終了後、ヒカルちゃんに誘われてT博物館の「ジャポニスム展」(この前の比較文化論で紹介された)に行く』
――追記/閉館時間の遅い日だったから余裕で見られた。ヒカルちゃん真面目だから、行きの電車の中でずっと授業の内容について話してた。復習になった。展覧会は見応えがあった。図録買ってきたから見てね。いくつかの作品や展示物には付箋でコメしておいた。私たち、こんな状態だから、いろいろ無駄なことをしちゃうんだけど、まだ会期は長いから、できればリョーシーも見た方がいいんじゃないかと、ヨシエは思う。
――図録、見た。そうだね、実際に見ないとね。でも、同じ展覧会とかイベントとが、私たちたびたび二回行ったりするじゃない。それぞれに、だけど。傍から見たら、すごく熱心だよね。でも、お金がかかって仕方ないな……。
こんな具合だ。
文字で並んでいると、レスポンスの短いメッセージのやり取りに見えるけど、実際には一週間のタイムラグでコメントを書き、さらに翌週、二週間前の自分の書き込みについたレスを確認する。悠長といえば悠長な対話だ。
私たちのやりとりは、去年の九月にSNSを使い始めて以来八ヶ月も続けているんだからそれなりに洗練される。当初は授業のことなんかも書き込んでいたのだけど、今は各授業のノートに書くことになっている。トーセーとのやりとりも、電話で話したときは記録するけど、メッセージは文字データでスマホに残るのだから、それを見ればいい。私がどんな返信をしたかもわかる。
それから、年度がかわった頃からお互いを名前で呼び合うことも始まった。最初はちょっとしたおふざけだったけれど、リョーシー、ヨシエと呼び合うのだ。ただし、どっちがどっちと固定するのではなく、メッセージを書く方の私がヨシエを名乗り、その間の記憶を持たないリョーシーへメッセージを送る。自然にできた流れだった。なんとなくだけど、メッセージの背景にずっと漂っていた微妙なぎこちなさが消えて、コミュニケーションがいっそうスムースになった気がする。
その一方で秘密の日記も継続していた。
ただし、こちらにはいくらか変化が起こっていた。
最初に隠してから一週間経ち――といっても私にとっては昨日、一昨日みたいな感覚なのだけど――隠した場所を確認した。ノートが見つかった気配はなかった。ハンカチにきちんとくるまっていて、誰かが触った様子はない。
ほっとした。
悪戯がバレずに安心している子供のような気持ちだった。
そして、不思議と解放された気分だった。
何から解放されたのか?
私から?
私の半分が小さなノートで補われた?
まるで生まれ変わったような?
大袈裟だけど、それくらい気分の違いがあった。
ウキウキしながら新しいページを開いて、新生「私」を獲得した思いの丈を言葉にしようと思ったけれど、支離滅裂でまとまらなかった。だから、ただ落書きをするばかりだった。渦巻きだとか、ハートだとか意味のない形や自分の名前を漢字やかなやアルファベットで書いたり、そんなものばかりでページが埋め尽くされた。私自身、何が嬉しいのか、喜ばしいのか理解できていなかったのだと思う。別にもう一方の私を嫌っていたわけではないし、彼女から逃げたいと願っていたわけでもない。でも、安心した。私が私でいられることに喜びを感じていた。
そして、翌日。
私は一体何を書けばいいのかな……と、白いページに戸惑った。
一週目は、これから秘密を持とうとする気持ちの昂ぶりだけで、言葉を連ねることができた。自分自身に対して秘密を持とうしている捻れたアイディアに、不安や戸惑いやアイデンティティの揺らぎを感じていた。半分の記憶しかない私自身の言葉を連ねた秘密の日記をつくること、そして、それをもうひとりの私に一切気取られぬように隠すこと。私自身をちょっとだけ裏切る行為を恐る恐る実行すること。私の綴った言葉には、気負った想いばかりが溢れていた。
そして、秘密が秘密として守られたとがわかり、その喜びが落ち着くと、昂ぶっていたはずの気持ちがすっかりどこかへいってしまった。
『きっとつまらないことしか書けないだろう。
忘れてもいいような些細な出来事ばかりしか残せない』
それは予め分かっていたことだ。まさにその通り……どころか、つまらない出来事、取るに足りない出来事なんて、夜にはほとんど忘れかけていた。
とりあえず、今日食べたお菓子でも記録しておこうか……こんなくだらないことしか思いつけない……えっと。
女子大だから、なのか、それとも私の周りの友達がたまたまそうなのかわからないけれど、みんな何かしらお菓子をバッグに忍ばせていて、授業の合間だとか、カフェテリアでのんびりお茶をしているときに、よく分け合ったり交換したりしている。今まで気にもしていなかったけれど、学校でお菓子を口にしない日はほとんどない。私自身も小さな袋入りのチョコレートやスナックを必ず携帯している。
えっと……朝から食事以外に口にしたものをひとつひとつ思い出して、ノートに書き出した――自分で買ったアーモンドチョコ、それから誰に貰ったんだっけ、クッキー、塩味のおせんべい……
並んだお菓子の名前を見て可笑しくなった。
私が私に対して持つことのできる秘密なんて、やっぱりこれくらいのものなのだ。それでも、これは、ここに書き出されたお菓子のことは、絶対にあの子の知らない私だけの記憶でもあるのだ。きっと、どんなくだらないことであっても、私の体験や感情を文字にしておくことに意味があるんだ。
おせんべいを食べてるとき、さっちゃん、部活で試合がどうのこうの話してたな。覚えてないけど。そういえばマユコはちょっとテンション高かったかな? 何かあったのかな……箇条書きされたお菓子の横に、ふと思い出した忘れたって全く差し支えない友達とのお喋りや彼女たちの様子を書き添えた。こんなふうに書き始めると、それが誘い水になり、小さなことを少しだけ思い出す。学食の自販機でお気に入りの水のペットボトルが売り切れになっていてちょっと悔しかったこと、チィちゃんの穿いていた新しい靴がカワイかったこと、いつもマッチョなスポーツカーを運転してることで有名なお爺ちゃん先生が珍しく学バスに乗っていたこと、電車から見た夕焼けがキレイだったこと。
半分の私が隠蔽できる秘密なんて、こんなものかな。
きっと、小さなノートを一冊隠すだけでじゅうぶんだった。あの子と共有しない何かを持つことそれ自体が必要で、その中身なんてなんでもいい。子供が拾った小石だとか、小さくなった消しゴムだとか、ガラクタを詰め込んだ空き箱を宝箱よろしく押し入れの奥に隠すようなものだ。見つかるかな、見つからないかな、と、ドキドキしながら、隠し場所を考えることが結局は秘密日記にまつわるメインイベントだったのだ。
――なんだ、本当に、つまんないね。
私は可笑しくなった。声を出して笑ってしまった。
でも、つまんないことだからこそ、続ける気になった。
三週目ともなると、すっかり砕けてしまう。
お菓子の記録は続けていたけど、もう一方の私に対する秘密などという意識も失せてしまい、その日の小さな出来事ばかりじゃなく、ノートを開いたそのときに思いついたことを何でも自由に書き連ねた。例えば友達や先生に対するちょっとした意見や不満や悪態を書き散らす――マユコ、また、彼氏が変わったみたいだけど、あの子の貞操観念どうなってるのかしら、とか、A先生の資料、相変わらずわかりにくい、とか。
リョーシーに対する文句も同じレベルで書き連ねる――トイレットペーパーの買い置きがなくなってた。どうでもいいことだけど、一言申し送りしてくれるといいんだけどな。私って、こういうとこ気が利かないのよね、プンプン。トーセーに先週の私の様子を聞いたんだけど、最近トーセーに甘えすぎてない? まあ、気持ちはわかるけど――と、こんな可愛らしい愚痴で。それが結局巡り巡って自分自身への不満になるってわかってたけど、リョーシーという対象があると、他人事のように自己批判(?)できる。
そのとき感じたことや、自分に対する複雑な気持ちも、思いつくまま書き綴る。もちろん、トーセーに対しての不満も、トーセーと過ごした夜の甘々な気持ちも書いた。後で読み返して赤面するようなことも書いたけど。
それは、いつの間にかただ鬱憤晴らしのための(?)秘密ノートになっていた。
秘密日記を書き始めてから二ヶ月余。
私の感覚では一月少々、だね。
私は、ノートの隠し場所を変えようと思い、部屋のあちこちを探っていたら、机の引き出しの裏側になにか貼り付けてあるのに気がついた。引き出しを引っぱり出してみると、小ぶりの封筒が粘着テープでくっつけられていた。ポケットのようになっていて、封はされていない。
もしやと、中身をそっと取り出してみた。
私は目を疑った。
なぜなら、私が誂えたものと全く同じノートだった。色も、大きさも。
それがリョーシーの秘密日記であることは間違いなかった。
手にしていた私のノートと何度も見比べてしまった。
――私、ブレなさすぎ、じゃない?
きっと買ったお店も一緒に違いない。
さて。
私はテーブルにその小さなノートを置いた。
どうしよう。
中を見るのを躊躇った……できれば見つけたくなかったな。
見つけたことだけでも罪悪感があった。でも、どうだろう。あっちの私も見つけたら読んでしまうだろうな。私もそれくらいの覚悟はしながら書いている。あっちだって、きっと同じだ……私はドキドキしながら表紙を開く。
見慣れた自分の文字が目に映る。
最初の日付は私が日記を始めた前の週だった――先を越されてたか……ちょっと悔しかった。
読みながら可笑しくなった。私の一ページ目とほとんど同じだ。多少単語や語尾が違う程度でまるで私の日記の複製だった。この場合私の方が後になるから、私の方のが複製なのか。二日目、三日目となると少しずつ違ってはいたけれど、それでも内容は似たりよったりだった。
二週目からは、私と同じように私の知らない私の小さな出来事が書き連ねてあった。
『ゴーフル、ピリ辛のおかき、いちごのポッキー』
やっぱり、とりあえずお菓子。
『バス停でつまずいて転んだ。しかも平たいところで……笑われた』
『マユコの化粧が妙に濃かった。どうも朝帰りらしい』
『電車の中で聞いていた女子高生の会話がさっぱり理解できなかった。三年前は私だって女子高生で、自分で使うかはさておき当時のJKスラングは理解していたのに、たった数年で様変わりだ。ネットで人気の誰かの話をしているみたいには思ったけれど、接続詞以外未知の外国語のようだ』
『臨時で入ったバイト先で貰ったクッキーがとっても美味しかった』
あ、バイトのことは知ってるけど……そんなことがあったんだ。
ふうん、そうなんだ、と、他人の日記を読む私がいた。
私に対する文句も私と同じように現れる。まあ、でも、それはお互い様。思いがけないことは何も書かれていなかった。
やっぱり私は私だ。
『トーセーが電話で愛しているよと二回言ってくれた。
きっとそれは本当だ。
そして、その言葉に私は悦びを感じている。
でも、私はどうなんだろう。好きには違いないけれど、慕っているのは間違いないし、そして頼っているのも事実。でも、私に愛はあるのだろうか。彼と一緒にいたいと思うこともあるけれど、ひとりになりたいときも同じくらいにある。彼に抱かれると安心するけれど、二十歳の恋愛なんていつまで続くのか疑っている自分もいる』
つまらない出来事の羅列に時折挟まって、私の……他人に聞かれたらちょっと恥ずかしい……秘めた気持ちが綴られている。
それは、今の私を見透かされたような錯覚を引き起こす。
そして彼女に、ささやかな羨望や嫉妬を感じ、真面目な顔で甘ったるい気持ちを書き綴る自分の姿を思い浮かべて苦笑いをし、そうそう、そうだよねと共感する。
こんなのもきっとお互い様なんだけど。
そうか。
これが秘密だ。
私の知らない私が書いた秘密の日記をこっそり読むことが、まさに大きな秘密なのだ。
私はノートを丁寧に元の場所に戻しておいた。
もちろん、私がそれを見つけたことなんてあっちの私はまだ知らない。
でも、私たちはシンメトリーだ。
いつか見つかることはきっと想定内だ。
私の日記も読まれてしまうだろう。既に読まれているかもしれない。
だから私は隠し場所を変えないことにした。
表のSNSでリョーシー、ヨシエとゆらゆら揺れる固有名を使うようになり、裏の日記でも私は彼女をリョーシーと記す。
時に幼馴染みの友達のように呼びかける。
『ねえ、リョーシー。
私はあなたのことが嫌いだ。
もし、これをあなたが読んでも吃驚しないでしょう。うん、そうだね、あなたも私が嫌いだって思うはず。
何処が嫌いだって、何が厭だって、まさにこういう所だよね。
見透かされているようで厭。
見透かしているようで厭。
きっと直接顔を合わせたら、理由もなく大喧嘩じゃないかな。どんなに話し合ったって仲良くなれない。最初っから仲良くなんてなれないんだよ。理解し合うためのコミュニケーションが成立しない。だって考えることなんてわかってしまう。厭なところもダメなところも知っている。
今まで自分自身のことを好きだとか嫌いだとか、そんな風には考えたこともなかったけれど、リョーシーのことを思うと否が応でも考えてしまう。
私は私のことが好き。
でも、同じくらい嫌いなんだ。
どうかな。
リョーシーはそう思わない?』
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